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 ふと夜中に目を覚ますと、一郎が夏樹のすぐ横で眠っていた。きっと夜遅くまで看病していたのだろう。整髪料で立たせたわけではないのに、全体的に少し上のほうへ立ち上がった髪が目に付いた。
 夏樹は、彼が本当に最後まで看病してくれたことに感謝し、同時に少しだけ安心した。さすがに、昨日の朝のような憔悴した彼はもう見たくない。本人は何もない風を装っていたが、夏樹はその青白く変色した肌と流れ落ちる汗をしっかりと見ていた。次郎も多分気付いていただろう。警察からの事情聴取でもそうだったが、過去のこと――特に親に関係すること――に触れられると、決まってあの顔になる。分かりやすいぶんまだ救いがあるが、本人はまだそのことを克服できていない。吹っ切るには何かきっかけが必要な気がする。
 安心したと同時に、昼間ずっと眠っていたために体を動かしたくなった夏樹は、起き上がってスリッパを履き、点滴とともに雨音のする中庭のあるほうへと歩き始めた。
 
 点滴を引きずりながら中庭の見えるガラス窓に着いた夏樹は、静かな雨音に耳を傾け、地面にしとしとと零れ落ちる雨粒を見つめていた。
 だが、夏樹はその後、すぐにある異変に気がついた。
「……黒い?」
 一瞬自分の目を疑ったが、それは紛れもなく黒かった。
 正確には灰と黒との中間色のような濃度だが、雨がさほど降ってもいないのにも関わらず視認できるのだから、ある程度の濃さであるということは想像に難くない。
「きれい……」
 夏樹は思わず外に出て直接触れようとしたが、いきなり後方で発した怒声を耳にして、ドアノブにかけようとしていた手を思わず引っ込めた。六十一にしてはしわの少ない顔をこわばらせ、勢い良く走ってくる小野を確認した夏樹は、動揺し、体を小野へと向けた。
「あの。私……何かしましたか」
 彼は、不安な面持ちで突っ立っている自分を見て、息が整うまでの間どこか罰の悪そうな表情を浮かべていた。
 呼び止めてからしばらくして、なんとか呼吸の整った小野はようやく話し始めた。
「……ごめんな、あんな大声を出して」
「……大丈夫です。でも、どうしてあんな声を?」 
 先生は中腰の状態から何とか立ち上がり、中庭のすぐ上にある院長室に向かって歩き出す。
「見せたいものがある」
 


          ◆
 

 
 一郎は夜中たまたま目が覚めたベッドの中で小野の怒鳴り声を聞いた。何事だろうと思いスリッパを履き、少し急いで院長室へと向かった。

 入ってすぐ右手にある唯一のガラス窓からは雨が降っている様子が鮮明に見て取れるが、それ以外はどこを見ても本しかない。
 仕方がないので、「どうやってこどもはうまれるの」という、比較的幼稚な内容の本を読んで時間を潰すことにした。子供の視点に立った疑問の数々に、有名な医学博士が生真面目に答えている。その対比が面白くもあり、十分程度読み込んでしまった。
 いよいよこどもがうまれる方法の本題に入ったところで、一郎は今頃になって病院の床の冷たさを感じ始めた。夏といってもさすがに真夜中の病院の床は裸足では冷たい。その足の冷たさを補うため、丁度部屋の中央に位置する書き物机の下に潜り込んでいる、院長の椅子を拝借した。どこかの大病院にありそうな椅子とは違って簡素なつくりだったが、入院棟の椅子と比べると十二分な座り心地だった。
 そして、意味もなくくるくると椅子を回していた一郎は机の上に置いてある古い書物を見つけた。
「ヒ……ロ…ノ………マ」
 表紙はすっかり塗料落ちし、かすれて見えない部分も多々あったが、"1945"という背表紙の数字だけはしっかりと読み取ることが出来た。
 本をめくってみると、元あるべき位置から飛び出て、眼球が胸のところまで垂れてきている写真や、子供をかばって子供ともども黒い肉塊と化した親子の写真などが、一ページごとに印刷されていた。
 
『これが…人間?』
 
 さまざまな感情が心の奥深くにまで入り混じり、核という言葉の重みが、自分の中でみるみるうちに膨れ上がっていく。そして同時に、その"親子"の写真が、一郎の脳裏に焼きついたある記憶を急激に展開させる。
「何を見てる?」
 本を見ることに集中していた一郎が驚いて顔を上げると、いつの間にか小野と夏樹が自分のことを見つめていた。表情を取り繕う時間も無く、二人を見返す。
「先生……。この写真は」
「……この写真は、百年前の第二次大戦時の戦争の被害者たちだ」
 小野が冷静に言う。その様子に反発心が沸いた一郎は、声を荒げた。
「戦争? 百年も前の戦争でこんな……こんな状態になるわけないじゃないですか! 父さんが見せてくれた戦争の映像記録にだって、皮膚がこんなになって、遺体すら残らない人間なんていなかった。なんで生きている人間がこんな目に……。生きたまま焼かれるって事が、どれだけ辛いことなのか……そんなことすら分からない人間が作った兵器だ、これは……」
 当たりようのない怒りに振り回された自分への驚きかもしれないが、先の言葉が見当たらず、一郎は小野の視線から逃れるように顔を伏せた。
 
 
 しばらくして一郎は、ゆっくりと歩き出すと、部屋の外へ出た。一郎の中には、両親が、燃え尽きようとする瞬間の記憶が、生々しく甦ってきていた。




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