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 ……みんな。どうかこの子を、守ってやってください。
 仏壇に合わせていた手を解き、ゆっくりと目を開く。
 部屋には線香の独特な香りが広がる。
 立ち上がって後ろを振り向くと、そこには不安げな瞳を寄越す子供の姿があった。
「ごめんな……。そろそろ、遠くに行かないといけないんだ」
 まだ六歳に満たない彼女に、戦争の意味を教えることは難しい。
 宮沢は、彼女の頭をひと撫ですると、見上げるその目に対して、笑顔を作った。
「心配しなくても、大丈夫。絶対に、帰ってくるから」
 身寄りのない子供を集め、養子として育てていた両親。事故で死んでしまった彼らの後に残されたのは、宮沢とこの少女……雪(ゆき)だけだった。
 
「絶対に、帰ってくる……?」
「そうだ。絶対に……帰る」
「じゃあ、あたし、我慢して待ってるから!」
 無邪気な笑顔に扉を開くことを躊躇ったが、死んでいった仲間達の顔が脳内でちらつけば、それすらも自分を止める要因には成り得なかった。
 俺には、あいつらの死を、無下にするような事は出来ない。
 分かってくれ、と、仏壇に向けて語りかける。
「溝口さんの言う事、良く聞くんだからな」
 宮沢はそう言うと玄関の扉を開き、部屋を出た。
 
 
 九月三十日。
 極東での混乱に端を発した暴威は、世界に広がろうとしていた。
 
 
 
 
「国営軍第一方面軍、第二方面軍は、国連軍と連携して、協力要請を承諾したロシアのウラジオストク港から上陸後、国境付近に陣を構築、朝鮮本土に攻撃を仕掛ける。志願兵などが多数混在する我ら第三、第四方面軍は大回りでアメリカ軍支配下の大連港を目指し、対朝鮮の主要都市、瀋陽に本拠を構築、第一第二方面軍の別働隊として進軍。敵戦力の分散を図る。その間、台湾・オーストラリア軍の後詰が沖縄・大島半島を制圧後、鹿児島より上陸し、九州を制圧する。
 最新鋭のイージス艦と海軍要員を多数失った今、我国は海戦を積極的に行うつもりはないが、その全てを、不測の事態に備えて本土守備に充てる。この輸送艦の護衛にはオーストラリア軍があたる。さらに空挺師団の建て直しは現段階では不可能という判断により、空からの援護は、実績のある台湾軍に任せる予定になっている」
 自分でも何を言っているのか分からない文字の羅列を並べながら、集まった兵卒たちの不安げな表情を、改めて見渡した。
 ロシアは信用できるのか? それに、オーストラリアの海軍なんかじゃ……。
 見通しの甘い国営軍の幹部たちに対する不安は、精鋭である第一、第二方面軍では募りつつあるようだったが、ここに集まった志願兵たちの目に映るのは、そのことに対する不安ではなかった。それは初めて体験する、戦争と言う緊張感のもたらす不安。
「危険が少ないルートとはいえ、いつ朝鮮軍の襲撃があるかは分からない。各自、気を引き締めておけ」
 輸送艦に乗って護衛されるだけの身が気を引き締めても、どれだけの効果があるのかは甚だ疑問だったが、軍の気風を強調しなければ、ここに揃った兵たちは、いつ崩れるか分からない。中隊長という立場に潰されそうになっている自分は脇に押しやり、とりあえずの体面を整えた松木は、副官に詳しい行動の説明を任せ、その場を後にした。
 
 
 自室に戻り、名簿で各人員の専衛軍での階級をもう一度確認すると、やはり不安が先行してしまう。自分と同じく、上等兵から少尉・中尉に無理矢理格上げされたものや、つい先日まで新兵だったと言う小隊長。前回の戦争で多少なりとも洗練されてはいるだろうが、隊を率いるとなると経験不足という感が否めない。
 支援を受けなければ、電力や食糧も賄えないような典型的後進国。だが、その苛酷な環境と度重なる内乱で鍛え抜かれた屈強な兵士達、そしてロシアとの技術交流で発展した軍事技術は、決して後進ではない。
 机に広げられた地図と目を合わせ、賭けだな、と松木は思った。
 ウラジオストク……東方を征服せよ、という意味あいを持つ港が、地図上で一点の赤みを帯びていくような錯覚に囚われた松木は、逡巡する思考に頭を抱えながら、出航の時を待った。
 
 
 
 
 千絵は武田が部屋から出た後、しばらくテレビと向き合っていた。
 だからと言ってテレビに見入っていると言うわけではなく、掛け布団の上からベッドに横になって、真っ黒なディスプレイを眺めているだけだった。
 いつまでもこうしてる訳にはいかない。そう思い、ゆっくりと体を起こす。
 その際に少しTシャツがずれ、右肩の傷がちらついた。この前の戦闘とは別の傷と目を合わせた千絵は、シャツを脱ぎ、左手でその傷をなぞってみた。0356−U。そこには相変わらずそう刻まれているんだろう。
 心に憤りが沸いてくるのをどうにか留めながら、千絵は目を閉じ、少しの間朝鮮時代の事を思い出していた。
 すると、突然扉が開いたので、慌ててシャツに手を伸ばすが、入ってきたのが夏樹だと分かると、その手が、緩んだ。
「あ……着替えてたんですか、ごめんなさい」
「……ううん、ちょっと、傷の具合を確かめてただけ」
「その傷……。実験の、ですか」
 肩に視線を留めた夏樹を見て、千絵はTシャツを着ながら、頷いた。
「……勘、いいね」
「いえ……兄さんにも、同じ傷がありますから」
 兄さんにも、と言ったときの千絵の表情の動きを、夏樹は見逃さなかった。その寂しそうな顔を捉えた夏樹は、思い切って、声をかけてみた。
「千絵さん」
「ん……」
「……探しに、行きませんか?」
「……何を」
「……兄さんの、こと」
「……でも、仕事は?」
「小野さんが軍医として召集されたって言うのは聞いてますよね。小野医院が一時的に閉鎖するってことも」
「………」
「……どうしたんですか?」
「……怖く、ない?」
 武田が言っていたことを言おうかどうか迷って、口から出たのは、その言葉を受けて感じていた事だった。
「……一郎は、待っていると……望んでいると思う? 私たちが、助けることを。
 私は、拒否されることが、怖い。独りの時は、こんな感情、沸いたことすらないのに……。だから、どうしていいか、分からない。感情に流されたら、いけない……とか、軍で教え込まれたこととか、いろいろなことが……浮かんで、きて」
「……おもしろいなあ、千絵さんを見てるの」
 微笑を浮かべた夏樹に、何が、と言うと、分からないならいいんです、という一層笑みの深くなった夏樹が答えた。軽くため息をついた千絵は、続けた彼女の言葉に、安堵したように頷いた。
「待ってなくたって、行ってやろうじゃないですか。あの馬鹿兄を放って置いたら、普通の人まで巻き込んじゃいますから。それが理由です。拒否されようが何されようが、兄さんを引っ張り出す。それでいいじゃないですか。後先考えないことも、場合によっては大切だと思います」
 この子と一緒に居ると、どうして悩みが薄らいでいくんだろう。
 ……朝鮮にいたときに、そばに居て、欲しかった。
 そうすれば、何人の人を殺さずに済んだだろうか。
 どれだけ、他人の人生を潰さずに済んだだろうか。
「……千絵さん?」
「行こう……か」
 千絵は、ゆっくりと夏樹に近付き、正面から彼女を捉えて、言った。
 笑った夏樹の、切り傷が目立つ頬を手の甲で触り、千絵は少し元気を取り戻した自分から、自然に笑みが零れていくのを感じた。同時に、自然に笑えることがどんなに幸せな事か、彼女に説明するのは、とても難しい事だとも、感じた。
「戦うことになったら……お願いしますね」
 夏樹は伏目がちにそう言うと、一瞬寂寥の表情を見せ、部屋を出て行った。
 
 
 
 
 戦う事になるかもしれない。
 そう考えたとき、自分の奥底で何者かの蠢く声が聞こえたような感覚に囚われた。0356−Uという傷跡が、熱を帯びていく。どくん、どくんと大きく脈打つ心臓は、芽生えつつある感情を否定するかのように、殺戮の快楽を求めていた。
 どうしよう、母さん。
 自分が本当に考えている事が、分からないよ。自分が優先したいのは、快楽、感情、それとも軍の戒律?
 武田君の言葉も、夏樹の言葉も……本当に優しい。優しくて、確実に心に響いているはずなのに……。戦うことになる。その一言で、すぐにどこかへ流れていってしまう。
 さっきの感傷は、どこへ消えた?
 さっきの笑みは、どうやって零れた?
 
 何かが足りない。
 これからの戦いの中で理性を繋ぎとめていくには、どれも、これも、何かが足りない――。




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