27

「何だよ」
 千絵はグロックを手に取った安藤と視線を合わせた。午前二時二十三分、彼は窓際から差し込む光に照らされたその身を千絵に向け直す。武田はうつ伏せになって寝ていて、相変わらず起きる気配はない。
「……やると思った。まだ動いていい傷じゃないのは安藤君なら分かってるはずだよね?」
「お前には関係ない」
 そう言ってベッドの間を抜け、部屋を出ようとする彼の腕に、思い切り左手の爪を食い込ませる。反射的に動いたその腕を右腕で掴み、千絵は体を彼の背後に滑らせる。今にも腕を折られそうな体勢、完全に動きを封じられた安藤は、離せ、と短く言う。
「病み上がりの私にすら勝てないなんて……。無駄死にする気なの?」
 千絵は頭を冷やして欲しいという意味合いで言ったつもりだったが、その声は酷く冷淡に部屋へ響いてしまっていた。いつもの悪い癖が出た、と内心に思った千絵は、瞬間的に動いた安藤に突き倒された。元々骨を折る気がなかったというのもあるが、あまりに感情に任せた打撃に先読みすることが出来なかったということが何より大きい。
 
 何故自分はこうも人と接するのが下手なんだろう。
 部屋を出て行く安藤をひやりとした床から見上げながら、千絵はそう思った。
 
 
 
 
 包帯を解きながら、武田はその患部に手を触れてみた。そこには抜糸がようやく済んだ縫い後がある。その縫い後の長さに呆れながら、武田は白で無地のTシャツを頭から被り、着た。
 何らかの作戦の為の後方支援のために、室蘭へと向かう。それが武田の役割だった。具体的に何をするのかは聞かされていない。ただ誰にも話すなという上からのお達しがあっただけだ。
 確かに、宣戦布告無しの奇襲で自国民の気が昂ぶっている今は、反撃に移る絶好の機会なのかもしれない。
 第二師団、第五旅団、第七師団……そして前面に立たされほとんどの人員が死亡した第十一師団。それらを一つに統合し、もう一度組み替えなおした国営軍が企図した朝鮮出兵。兵卒の士気を利用するのは戦術としては最も基本的な部分だから、その実力がいかなるものなのかは、まだ断言できない。
「武田君も行かないと駄目なの?」
 部屋の入り口に立ち、物憂げな表情を浮かべる千絵と視線を合わせながら、軽く頷く。
「……本当は戦いたくなんかないけどな。でも、それが俺の仕事なんだよ」
 自分に言い聞かせるように武田は言うと、少し髪が伸び、すっきりとした短髪を携える頭を掻いた。
「日本を守る。栄誉なことだろう。たとえそれで死んだって、みんな賞賛してくれる。温かく迎えてくれる。俺に出来るのは、ただ敵を殺すことだけだ。そして敵を殺した数だけ褒め称えられればいい。……何も怖がる事なんてないじゃないか」
 まるで何かにうなされるような声音で発せられた言葉の羅列は、千絵の沈痛な表情となってその場に留まる。
「そう。それが軍人の仕事。……でも、武田君はそう割り切れるの?」
「……割り切るしかないだろう」
「……武田君は、いつもそれ」
 これ見よがしにため息をついた千絵は、急に照り始めた朝陽に目を細めながら言葉を続けた。
「戦場では、それが命取りになるかもしれない」
「……でも俺は、こうするしか生きる術を知らない。お前の事だって、仕方がないと割り切らなければ……絶対に殺してる」
 国営軍支給の拳銃を背嚢にしまう所だった武田は、誤射防止の詰め物を外し、ゆっくりと千絵に向ける。
「この引き金を引けば終わりだ。……この割り切りは、自己犠牲じゃない。周りの人間のため、ひいては自分が生きるためにしていることだ。日本での常識や処世術が分かってない小山田に、注意される筋合いはない」
 語尾に苛立ちを滲ませ、武田は銃を降ろし、再び背嚢に詰め込んだ。
 
 
「待って……!」
 千絵は背嚢を背負い、黙って出て行こうとする武田の腕を軽く取った。
「私……心配だから、気をつけて欲しいって言おうとしただけで……。その、武田君には、何度も、救われているのに、何もして、あげられて、いないから。何かしようと、思って……」
 徐々に小さくなっていく言葉と対照的に強まる彼女の手の感触に、武田は足を止めた。
「……それなら、最初から、そう言えば良いだろう」
「私なんかがそんなことを言っても何も変わらない、と思って……そう思ったら、言葉が出なくなって」
「……分かったから、もういい。別にそれほど怒ったわけじゃない。……緊張して、苛々してるんだ、俺も」
「………」
 千絵は武田の腕から手を離し、伏せていた顔を上げた。
「もう一度言っておくけど、お前のこと、もう、恨んでないから」
 それどころか、守りたいとさえ思えたんだ。
 言葉を飲み込み、目を逸らしてから、武田は言葉を繋いだ。
「……一郎、助けてやれよ」
「……うん」
「お前を一番信頼して頼んでるんだからな。それに……」
「……それに?」
「……いや、いい」
「……そう」
 視線を合わせてから、少しの間沈黙が辺りを包んだ。
 
「……そろそろ行かないと」
 時計に目を遣り、この場に留まろうとする願望を意識の外に追い払った武田は、小さく、そう呟いた。
 その様子を見た千絵は、武田の目をまっすぐ見つめて、言った。
「……絶対に、生きて帰ってくるって、約束して」
「当たり前だ……死なないって言っただろう。……絶対にお前を寮長の墓に連れて行く。それも……約束だから」
「……감사합니다」
 武田が発するひとつひとつの優しさを感じる言葉。そして、約束というどこか懐かしい響きに揺れる自分がいる。
 約束を守った後、母に幾度となく囁かれた、囁かれる事を望んでいた言葉……しかし朝鮮では一度も聞いた憶えのないその言葉を、思わず零した千絵は、微笑を浮かべると、訝しげな表情を浮かべる武田に向かい、言い直した。
「……ありがとう」
「……それは、帰ってきたときに言ってくれ。今から行くって言うのに、それじゃあなんだか……死ぬ事が前提みたいだろう」
「それもそう……だね、じゃあ、頑張って」
「ああ……」
 武田は病室のスライドドアを開き、部屋を後にした。




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