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「――ですから、アメリカの傘下に入るような形で」
「もはや世界警察的な存在のアメリカはいないんですよ、今更そんなアメリカを頼ったって……」
「暫定内閣は国連と共同で朝鮮へ進軍することへの検討段階に入ったと発表しました。まだ復興の始まったばかりの只中でそのようなことを発表した内閣の意図はどこにあるのか――」
「本州で救援活動を行う際の障壁となるのが核爆発による大規模な大気汚染で――」
「今月に入って既に三十七件の猟奇殺人が発生しており――」
 
 テレビを消し、ベッドに深く沈みこむ。今の日本で日本語に慣れるのは辛いな……と、意味もなく思った千絵は、軽く咳き込んだ。あれ以来、一度も血は吐いていない。
 千絵はようやく直った右腕を動かし、かさぶたになった目元の傷を軽く掻くと、目を閉じた。一ヶ月と二週間……どうにも、そんなに時間が経ったような気がしない。今でも次郎が最後に見せた表情の隅々まで思い起こせるし、戦いの後の発作の痛みも忘れてはいない。
 
「おい、最後にやってたニュース……」
 向かいの安藤が発した声で、千絵は眠りかけた身体をゆっくりと起こし、正面に身体を向けた。安藤は手を伸ばして直接テレビの電源を入れているところだった。
「……ったのはこちらのフリップにまとめてある場所です。被害者はいずれも朝鮮軍の兵士と思われることから、警……国営軍は本格的な調査に乗り出す方針はないとのコメントを発表しました。周辺住民の不安な日々は続きそうです。……では、次のニュー……」
 電源を消した安藤は、少し戸惑った表情で千絵を窺うと、口を開いた。
「傍ヶ岳、白石陣跡、江別駅、三井グリーンランド……"狂気"が誘っているようにしか思えない……。お前はどう思う?」
「……現状だとなんとも言えない気がする。それに、もし狂気だったとしても……」
 そこまで言って、千絵は安藤から視線を外す。
 ――俺らは……一郎の支えでもなんでもないんだ!
 武田の声が、脳内で反響した。
 
 
 
 
「暑いなあ……」
 Tシャツにジーンズという身軽な格好で、夏樹は華やかなイルミネーションの消え失せた夜の岩見沢市街を歩いていた。思わず呟いてしまったひとり言は気にせず、彼女は街の裏手のほうへと歩いていく。その手には顔見知りのおばさん――その目には明らかな同情が感じ取れた――に譲ってもらった花束に、マッチと線香が抱えられていた。ゆるやかな坂道を登っていき、ところどころにある立入禁止の表示を横目に見ながら、龍禅寺という寺の手前にある、墓地へ入る。コオロギの鳴き声がやけに大きく感じる薄闇の中、記憶を頼りに歩みを進めていった。
 
 多々良家と早瀬家の墓が併設されている場所に辿り着くと、そこには真新しいヤマジノホトトギスが飾られていた。墓の周りにゴミなどは落ちていない。父さんは母方の多々良家とは疎遠だったはずだから、彼の両親辺りがお参りに来てくれたんだろうな、と考え、所在のなくなった花束を墓の砂利の上に置き、線香を供え、両手を合わせた。
 そして少しの間目を瞑っていると、墓地に反響するような足音が聴こえ始めた。こんな時間になんだろうと自分のことを差し置いて思った夏樹は、その足音が段々と近付いてくるのを感じた。心持ち身構えてその様子を窺うと、その足音の主と目が合った。
 
「父さん……?」
 薄闇と視覚の初動、さらに場所が墓地であることで、一瞬そう呟いてしまっていたが、よく見るとそれは二十歳になったばかりの青年のように感じられた。その青年は、写真で見た宗一の若い頃そっくりだった。
「ん……。あんた……誰?」
 そして煙草を手に持ち、問いかけた彼は、小野の言っていた特徴としっかり合致していた。
「松木一郎さん……ですよね」
「……ああ。そうだけど」
「……煙草消してもらえますか? 父さんも私も、煙草は大嫌いなんです」
「は? 何で死んでる奴が嫌いだからって消さなきゃ……。あ、いや、なんでもない。ほらほら、消しましたよ、っと」
 夏樹に睨まれ言葉に勢いをなくした松木は、携帯用灰皿を取り出し、渋々その中に煙草を入れた。
「大体、煙草嫌いなのは勝手だけどな、こっちだって六百円も出して買って……」
「で、この場所に何の用ですか?」
 途中で松木の言葉を遮り立ち上がった夏樹は、墓石を背にしてその青年を正面から見据えた。
 
「……あんた、もしかして多々良宗一の娘か?」
 苛立ちを隠そうともしない夏樹だったが、唐突に問う目を向けられ、少し顔をしかめた。
「……いや、うちの母親と本当にそっくりだったから、つい。違かったらごめんな」
「いえ……私、宗一の娘の多々良夏樹ですけど……」
「あ、やっぱり! それなら挨拶しっかりしたほうが話が早かったな、俺、宗一の弟の松木一郎。歳は二十五で……。要するに、あんたの叔父だ」
「父さんの弟……?」
「そ、俺とは十七歳も離れてるし、苗字も違うんだけどな」
 そう早口に言った松木は、夏樹の隣に腰を降ろし、墓前に両手を合わせて、しばらくの間目を閉じていた。
 
「……もしかして、お参りの邪魔だった?」
 夏樹は出し抜けにこちらを見上げた松木に気付くと、線香から立ち上る煙から視線を外し、彼に焦点を戻した。
「大丈夫です。一人だとどうしても暗くなりがちで……。何より、弟が来たなら父さんも喜ぶと思うし……」
「ならいいんだけど。……じゃあ、俺はこの辺で帰るとするよ」
「え、あ……待って!」
 またもや唐突に行動を起こした松木に戸惑った夏樹は、思わず大きな声を出してしまっていた。夜の墓地にその声は異様に大きく響いた。松木は立ち止まり、こちらを振り向いた。
「あ、あの、迷惑じゃなければ、なんですけど……。父さんの昔の話、聞かせてもらってもいいですか? 折角来たんだし、その位の話をしていってくれても……」
「別にいいけど」と松木は返した。「その代わり、どこかに座らせてくれ。立ってると本当に足が痛くて……」
 
 
 墓石の前にある段差に二人並んで座り、夏樹は松木の話を聞いた。
「まあ、一言で言えば俺にとって兄さんは父親みたいな存在だった」
 そう言って煙草を取り出した松木は、口にくわえた煙草と、もう少しでその先端に着火しそうになったライターを夏樹に取り上げられ、情けない顔で正面に視線を戻して、言葉を繋げた。
「両親が共働きで、ろくに帰って来やしない。そんな子供時代の俺を、いつも世話してくれていたのが兄さんだった。普通、十七歳にもなって弟が出来ても、戸惑って放って置くか、嫌って無下(むげ)にするか……になるよな。そういう意味で兄さんは少数派だった」
「へえ……いつも無愛想な顔してるけど、やることはやってたんだ」
「……あの図体で言う事が小さくてさ。今日は勉強したのか、ご飯の茶碗は左手で持って食べろ、テーブルに肘を着くな、テレビ見終わったら電源は切っておけ……。今では懐かしいけどな」
「あ、私もよく注意されました」
 言葉を繋げた松木に合わせて、夏樹は笑った。
「……あんた、笑ってるほうが可愛いな」
「う……何ですか、いきなり」
 近距離で面と向かって言われ、少し顔を赤くして視線を逸らした夏樹を見て、松木は意地悪そうに笑った。
「いや、怒ってるより笑ってるほうが可愛いなって」
「だ、だから……何ですか」
「……冗談だよ。俺、高校生なんかに興味ないし。それにしても、本当、うちの母親そっくりだ。隔世遺伝って奴かな」
 松木は夏樹をからかうのを止め、正面に視線を戻した。その正面にはひびの入ったコンクリートの壁があるだけで、これから行われることへの気休めになるものなどは何も見受けられなかった。
「……松木さんは、何でここに? 今まで来た事ありませんよね……」
 まだ顔の赤い夏樹は、どうにか話題を変えようとしたのか、少しぎこちない言い方でそう呟いた。
 
「……明後日、朝鮮に行くことになったんだ」
 松木は、心底疲れた様子でそう言った。
「え……! もう朝鮮出兵が決まったんですか?」
「まだマスコミの口は塞いである。上陸作戦を事前に騒がれたりしたら堪らないしな」
「そう……なんですか。頑張ってくださいね」
「っと……あんたも民間人だったな、頼むから誰にも言わないでくれよ」
「……言いませんよ。でも松木さんと会ったことは話してもいいですよね?」
 微笑を零した夏樹を見て、松木は視線を正面に戻す。
「ああ。どうせ小野さんは俺と会うことを期待してあんたをここへよこしたんだろうからな」
「……期待して?」
「……いずれ分かる事だ。まあ、外在的なことにしろ、内在的なことにしろ、あんたも戦わなきゃいけないときが来る。そのときは、兄さんを……絶対に死なせるなよ。兄を失った俺からのささやかな警告だ」
 後半こそ冗談めかして言っていたが、眼は真剣そのものだった。
 その目に気圧され、意味もなくどきりとしてから、夏樹は立ち上がった松木を見上げた。
「……分かりました」
「いい返事だ。……あまり兄さんの事は話せなかったけど、今度こそ失礼するよ」
 夏樹も立ち上がり、松木の背後に立った。
「あ、ありがとうございました。はい、煙草」
「ん……。じゃあ、また」
 煙草とライターを受け取り歩き出した松木の背中を見送った後、夏樹は花束を手に持ち、家路についた。
 月は妖しく、幻想的な光を伴って、以前のような華やかさを失った地上の街路たちを見下ろしていた。




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