25

 扉を開くと、そこには黒髪の女が立っていた。
 一郎は瞬時に駆け出していた。
 あの女が次郎を……!
 考える間もなく、飛び掛っていた。武田と千絵が何か言ったようだったが、そんなものはどうでもよかった。
 だが、一郎は狂気に呑まれたのではなく、我を忘れただけだった。千絵から見た彼の攻撃は、先程の兵士達よりも完全に見え透いていた。
 一瞬。その突きを避け、華麗に宙を舞った女が、着地と同時に一郎のナイフを弾く。同時に彼の腕を取り、地面に組み伏せる。
 こちらに向けられた、女のどこか寒気のする微笑みは、武田と千絵の動きを牽制するものだった。動いたらこいつを殺す。口で言わずとも、残忍な瞳から見て取れた。
「よくやりました、カナ。一郎君は離さず、こちらに連れて来なさい」
 "カナ"と呼ばれた女は千絵から目線を外し、一郎を引き摺るようにして部屋の中央へと進んでいく。飛び掛ろうとする武田を押さえ、千絵は承晩(スンマン)と目を合わせる。
「無駄です。一郎はそんなに容易くは"壊れ"ません」
「裏切り者に忠告されずとも、そんなことは知っていますよ。貴女がもっと早くに彼を殺していれば、ジュンナン様もこのようなやり方で彼を苦しめずに済んだのに」
「……何のことですか?」
「見ていれば分かります。彼の中から狂気を引き摺り出して差し上げましょう」
 奥の扉が開き、兵士が二名、部屋の中央へと進む。その間には、次郎がいた。
 だがその次郎から、千絵は視線を外す。彼は全裸だった。
「千絵様、武田君。あなた方のどちらかが目を離したら、その瞬間一郎を殺します」
 その言葉に顔を上げた千絵は、憮然とした表情で次郎の顔を見つめた。彼の顔からは、焦燥のようなものが感じられる。
 だがそのような表情など表情のうちに入らないくらい、その後の彼は凄惨な姿を晒していく。
 
「一郎君、朝鮮に来ませんか?」
「……何?」
 少しの沈黙の後に発せられた承晩の声は、部屋の中央で低く響いた。
「君の力は上手く引き出せれば強大な戦力になる。今やジュンナン様は、殺すどころか、貴方のその能力を欲していらっしゃるのです」
「……戦争の道具に成り下がりたくはない」
「もう一度聞きます、来るつもりはありませんか?」
「何があっても……絶対に嫌だ」
「そうですか……。では、実験の材料になってもらいましょう」
 そう承晩が言うと、それが合図になっていたかのように、部下の一人が、嫌がる次郎に猿轡をかませ、その身体を、中央に鎮座する椅子に巻きつけ始めた。
 
「承晩、やめてぇっ……!」
 敵捕虜に対する承晩の性質を知っていた千絵は、自分に出せる精一杯の声で絶叫したが、その時にはもう、次郎の右手親指は削ぎ落とされていた。
 
 
 
 
「もう、やめてよ……」
 千絵は、その言葉を繰り返していた。目の前に広がるのは、両手両足二十本の爪と指を削ぎ落とされ、今まさに陰部が削ぎ落とされようとしている次郎。彼の叫びたくても叫べない口元や苦悶の表情から視線を外せず、頬から零れ落ちる涙をも拭けず、千絵は、その様子を見ていることしか出来なかった。
 
 べちゃ……。
 それは、陰部が銀のトレイに落ちた音。 
「頼むから! もうやめてくれ……!」
「やめる? 最初から"貴方が応じていれば"このようなことにはならなかったんですよ? 全て"貴方が悪いんです"」
「俺が悪い……? 俺が………」
「そうです、貴方が悪いんです。大体、妹は手元に置いて、この弟を小野とやらに預ける事自体がおかしいとは思わなかったのですか?」
「俺が……?」
「兄としても、人間としても中途半端の出来損ない。息子たちに危害が及ぶなど考えもしなかった貴方の親も、そうでした。その中途半端な行動が、次郎君を死に追いやった。貴方が次郎君を殺したんです」
「……そうか、俺が次郎を殺したのか。ははっ。……そうだ、俺が殺したんだ。俺が、オレが……!」
 腕の皮を剥ぎ出された次郎を見つめながら、一郎は言う。
 残虐な瞳で一郎を見下ろしていた女の瞳に、怯えが映る。
「一郎! お願いだから壊れないで……! お願いだから……」
 千絵はかすれた声を振り絞り、精一杯の声で叫ぶ。
「黙れぇっ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ……!」
 
 僅かな沈黙の後、一郎は奇声をあげ、押さえつけられた状態のまま、瞼を閉じた。
 
 
 
 
 一郎を押さえつけていた女は、軽々と後方に吹き飛ばされた。
「ハハッ! まさかこんなに早く出られるたァ思わなかった。結局は殺されるのにご苦労なこった。どいつだかしらねえが、感謝しねェとな!」
 千絵はその男を視線の先に捕らえ、震える手でナイフを取る。
「お! コイツは確か一郎の弟じゃねえか。……惨めな姿だぜ。息してねェよ」
 そして、陰湿な笑みは、承晩に向けられた。
 承晩は部下を扉から先に出させ、身構える。
 
 確かに承晩の動揺した声が漏れた。鉄鋼で固められた承晩の胴を悠々と蹴り上げ、巨体の彼が宙に浮く。狂気は落ちてくる承晩の胴に、ナイフを突き立てた。鮮血があたりに散る。女が承晩の名を叫びながら蹴りを繰り出すが、女の蹴りを軽々と掴んだ狂気は、その足を捻り折る。
 
 そして、女の絶叫が辺りに木霊すると同時に、爆音が轟く。
 承晩はその揺れを待っていたかのように、千絵と視線を合わせると微笑を浮かべ、ゆらと立ち上がり、ひれ伏した女を抱えて扉の奥へと消えた。狂気は、そんなことはどうでもいい、と言うようにこちらを向いていた。
「……夏樹はどこだ」
 止む事のない爆音。そんな音も狂気は意に介さず、と言った様子だった。
「知らない」
 ようやく搾り出した声は、承晩をも軽く一蹴した狂気に対する、恐怖で満たされていた。千絵が感じていたのは、その後ろに映る、絶対の死――。
「じゃあそこの男はどうだ?」
「……知らない」
「……まァいい。下っ端のお前はそこでじっとしてやがれ。殺す価値もねえ」
 武田は投げられたナイフを腹部に受けた。傷を抉られた激痛に武田は絶叫し、床に倒れこんだ。千絵は無防備になった狂気にコンバット・ナイフの横薙ぎをお見舞いするが、寸でのところでかわされ、簡単に腕を掴まれる。
「何でこんなに強いの……?」
 思わず、狂気に問う。
「オレがこの体の本当の持ち主だからじゃねェのか? だがこの場には、夏樹も安藤もいないから一郎に主導権が戻る事はない。安心しなァ!」
 右腕があっさりと折られる。痛みに喘いだ千絵は抵抗する間もなく、壁に叩きつけられた。
「お前は殺し甲斐がありそうだなァ……」
 襟首の辺りを舌で舐められ、千絵は泣き出しそうになるのを堪えながら、頑強に抵抗する。またあの兵士の時のようになるような気がして、身体をどうにか動かそうとする。
 
 その背後で、声がした。
「どこ見てんだよ、糞が……!」
 振り返った狂気に渾身の拳を叩き込んだ武田は、そのまま千絵の腕を引っ張り、少し離れた所で倒れこんだ。
 狂気に自分の拳が効くはずはない。だが武田は、狂気の頭上を見上げて、笑った。
 直後、狂気が天井から落ちてきたた岩に押しつぶされる。
 
「……逃げるぞ」
「でも……一郎がっ!」
「俺らがやっても、殺されるだけだろう……! 何で分からない! まだ俺らは……一郎の支えでもなんでもないんだ!」
 武田は千絵を引き摺り、承晩が外へ出た扉を目指す。
 夏樹と安藤君がまだ中に……。それは急速に崩れ始めた天井が発する轟音に掻き消され、声にならずに、宙を漂った。
 
 
 
 
 意識が深いまどろみに入り込みかけたとき、どこかから入り込む、力強い生気を感じた。
 それに、頬が、冷たい。なんでもうすぐ眠れるのに、邪魔をするんだ。
 そう思って目を開けると、そこには涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになった夏樹がいた。
 そうだ。この子を守る……そう決めたんだろ、二年前のお前は。
 
「何て顔してやがる……」
 思わずそう呟いていた安藤は、目の前に在る夏樹の目元を撫でながら、言った。夏樹の目は大きく見開かれ、次の瞬間には笑みに変わる。
「心配したんだよ? 本当に、死んじゃうのかと思って……」
「柄にもないこと言うな、気色悪い……」
「安藤くん」
 夏樹の顔が自分の鼻先まで近付き、安藤は少し動揺しながらも、不機嫌を装って返事をする。
「……あ? 何だよ」
「二年前から、ずっと……ずっと、好きだった……」
 不意に唇を重ねた夏樹。
 
 お前を守る……そんなの、僕が、自分から言えるわけがない。
 そうして、今まで気付かれないようにしていた想い。
 それは戦争中にせよ、確かに想いが結実した瞬間だった。
 
 唇の間から、夏樹の呼気が感じられる。
 力強い生気……か。
 安藤の舌に軽く自分の舌を絡ませたあと、夏樹はゆっくりと首を引いた。
「……先に進もう。安藤くん、立てる?」
「……当たり前だ」
 互いに赤い顔を確かめながら、夏樹に支えられてゆっくりと立ち上がる。
 
 爆音と共に先へ進む通路が遮断されたのは、その直後だった。
 
 
 
 
 扉を開き、千絵を無理矢理引っ張り、外へ出る。
 傷口が開き、そこから流れ出す血を感じながら、武田はそこに承晩らがいないことを確かめ、軽く息を吐いた。
「結局次郎は死んで……一郎も……。俺らがやってきた事って、何か意味があるのか……?」
「少なくとも、次郎君の最後を見届ける事はできた」
 武田の諦めの混じった声に、千絵が返す。
「あんな最後見たって……」 
 千絵は、左手を使って黙々と武田の止血をする。
 それが終わると、武田は、「最初の入り口に安藤たちが来ているかもしれない」としわがれた声で言って、歩き始めた。千絵は添え木で自分の腕を固定しながら、彼の後に続いた。
 千絵は次郎の最後を思い出し、肩を震わせ、しゃくり上げていた。
 
 
 
 
「塞がれた……」
 安藤は夏樹に支えられながらそう呟くと、首を巡らせて他の道を探し始める。
「……なんだか、口の中が、変な感じ」
「馬鹿なこと言ってないで、お前も真面目に探……せ」
 いつも通りに声を発した後で、先程よりも強く、夏樹に体重を預けていた。声を発しただけでこれか……と思いながら、安藤は今にも崩れそうな天井を見上げた。安藤と同じ方向を向いた夏樹は、安藤を気遣いながら、壁が崩れかかって出られそうな場所に行っては戻り、行っては戻りを繰り返した。
「ないね……」
 体育館のような構造をした場所に、夏樹の声が虚しく反響する。
 ……体育館のような?
 どこかで引っかかっていた言葉と共に学生時代の記憶が蘇り、安藤は見上げていた顔を咄嗟に正面に戻した。もし、ここが、脱北者を受け入れた専衛軍への宛てつけとして、岩見沢の体育館を模したものだとしたら……。ステージに視線を留めた安藤は、まだステージへの階段が崩れていないことを確認すると、声を絞り出した。
「ステージ……の上に」
「ステージの上、ね。分かったから、それ以上喋らないで」
 近いんだよ、と心中に零した安藤は、夏樹から半ば顔を逸らしながら、負担にならないよう、気をつけて歩く。
 ステージの階段を上るのに少し手間取ったが、そこの裏手には、予想通り、天井へと通じる梯子があった。
 よく勝手に登って、怒られたな。思い返しながら、安藤は、夏樹の手を振り解いた。その勢いで力なく壁に寄りかかると、言った。
「お前だけなら、逃げられるだろ」
 虚を突かれたのだろう。その言葉を反芻するように、目を閉じた夏樹は、目をゆっくりと開くと、体のいたるところから血が滴る安藤を見つめた。
「……勝手に生き返っておいて、ここで諦めるの?」
 怒ったように言った夏樹に、言葉を繰り返す。
「お前、だけなら……上れる、はずだ」
「そうじゃない……! そういうことを言ってるんじゃない。ここで諦めるのかって訊いてるの!」
「ああ。諦める。だからお前は早く上れ」
 諭す口調で言った安藤は、次の瞬間、安藤の顔から僅かにずれた所にある壁を、思い切り殴った夏樹と、目を合わせた。
「今度は、私が助ける。諦めるなんて言ったら、望みどおり、その場で殺してあげるから!」
 夏樹はそう言った後、無理矢理安藤の腕を引っ張り、歩き始めた。そうだ、お前は、そんなところもあったんだな。両親を失って以降の長い年月の間に、いつの間にか隠れてしまっていた夏樹の良くも悪くもあるところを、新たに発見した性格のように感じながら、安藤はこんな状況にもかかわらず、少し嬉しくなった。
「何にやけてるの?」
 苛立ちげにそう言った夏樹と視線を合わせた。
「足が死んでも、いいのか……? お前だけなら、確実に逃げられるのに?」
「……安藤くんは、自分の心配だけしててよ」
 自分を背負った夏樹は、ゆっくりと一段目に手をかけた。
 
 
 一段一段慎重に上る夏樹――その足は、開いた傷口から溢れる血で覆われていた――に支えられ、屋上に出た。
 隣の部屋で叫び声が聞こえたのが気がかりだったが、爆発によって炎上した内部の熱風が背中に吹きかけられれば、もう前に進むしか道は残っていなかった。
「飛び降りる、しかないね」
 三階ほどの高さのある場所の鉄格子に跨ぎ、外枠に乗り出した夏樹は眼下の草交じりの土壌を見下ろした。
 そして、それを見た安藤が何かを言うより早く、夏樹は飛び降りていた。
 思わず隣の鉄格子から身を乗り出して下の様子を見ていたが、夏樹は足を引き摺りながら立ち上がり、大丈夫、と叫んでいた。
 受身くらいなら取れる。
 安藤も鉄格子をどうにかこうにか跨ぎ、飛び降りた。
 体全体を使って受身を取り、直後全身に激痛が走るのを感じていると、同時に先程まで安藤たちが居た場所は、崩落を始めていた。
「傷、開いた?」
 真面目な顔で訊く夏樹に大丈夫だ、と返すと、安藤はよろめき、その場に肩から崩れ落ちた。いや、落ちそうになったところを、夏樹に受け止められて、夏樹ごと、崩れ落ちた。
「……くっつくな」
「……ごめん」
 安藤がどうにか体勢を立て直し立ち上がると、なぜか正面にいる武田と目が合った。何故ここに……? 夏樹と安藤は状況を把握できないでいたが、後ろに続いた千絵の表情を見て、一郎に何かあったと想像することは容易だった。




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