3章終幕

「ジュンナン様。何ですかあの化物は……聞いてませんよ」
「はは、悪かった。だが、その様子なら、データは取れたようだな」
「ええ。これで精神病の後継型ストレイジたちに適用できる薬が作れそうです」
 
 
 
 
 九月十五日、月曜日。
 あの日から、一ヶ月が経った。今日は敬老の日で、学校は休みだ。
 だが夏樹にはそんなことは関係なく、いつものように小野医院へと向かうため、寝癖の酷い髪を梳かしていた。
 北海道から朝鮮軍は駆逐され、北海道は復興の途上にあった。未だ山岳地帯ではゲリラ戦が展開されているものの、補給も何もない状態では、いずれその動きも沈静化するだろう。
 
 そして今夏樹がいるのは……誰もいない部屋。
 慌しくバイクのキーを捜す兄もいないし、直前になって授業参観の紙を渡す弟もいない。毎朝目玉焼きとトーストを作ってくれていた兄も、寝起きの悪い自分を起こしてくれていた弟も……。
 ふと鏡に映る自分と目が合い、涙が溜まりつつあることに気付く。
 寝癖なんかのためにこんなに時間を食うのが悪いんだ、と熱風の送り込まれないドライヤーを放り出して立ち上がった夏樹は、バイクのキーとヘルメットを取り、必要なものだけを突っ込んだ鞄を抱え、部屋の戸締りを確認してから、東山コーポの一画を後にした。自分の靴だけが存在する共同玄関で靴を履き外に出ると、残暑冷めやらぬ太陽が照りつけ、その眩しさに思わず眼を細める。
 小野医院に行く為に、兄のバイクが、灯油を消費する古風なタイプではなく、電気化学反応によって電力を取り出す、燃料電池を搭載しているタイプだったのも助かった。原油の価格は高騰して、庶民には全く手の出せないものになっていたからだ。
 免許を取ったばかりの夏樹は、まだ完治しない右足を庇うようにしてバイクに跨り、キーを差し込んでゆっくりと方向転換した。
 激戦地になり大量の兵士が死んだことや、毎晩得体の知れない呻き声がするなどのバカらしい噂が影響して、ここには居住者が一人もいなくなった。今日の午後には取り壊され、兵士達の慰霊碑が建つことになる東山コーポから、一台の青いバイクが出た。
 
 夏樹の服装は、解体された専衛軍のもの。
 壊滅的打撃を被った専衛軍の後釜として、急遽設立された国営軍に配属されることになった宮沢に、是非、と志願して、三着あるうちの一着を譲ってもらったものだった。あの戦争で、日本を守って、訳も分からず散っていった専守自衛軍の兵士達に対する、夏樹なりの精一杯の敬意。
 いつものように、大破した信号機の代わりに大通りで旗を振る警備員に止められると、顔なじみの警備員以外、歩道を渡るほとんど全員が、何であんな服装をしているんだろうと、自分を凝視する。夏樹は、なるべく視線を合わせないように、道を左に折れたすぐ先に見える、小野医院を見つめる。
 
 そんなの、あのとき戦っていた人にしか、分かるわけがないんだ。自分を見つめる群集に対する、自分勝手な怒りが堆積していく。
 後ろの車が鳴らしたクラクションで我に返った夏樹は、小野医院の駐輪場に入り、バイクを停めた。
 
 
 
 
 小野は、岩波と一緒に、松木一郎という青年に助けられた。
 朝鮮軍の撤退後はすぐさま病院に戻って診察を再開した後、戦時の外傷に関する知識が豊富な小野靖虎の名は、復興中の岩見沢では知られたものとなった。
 
 今日は休日なので、同年代の子供が目立つ。
 不衛生だと注意されない限り専衛軍の軍服のままで治療をする夏樹は、程度の軽い患者を担当していた。
「私なんかを雇うなら、正規の看護学校を出た人を雇えばいいじゃないですか」
 相変わらず奥さんと二人で切り盛りしている小野さんは、その言葉に苦笑した。
「物資ばかりで、人員に回す金がないんだよ」
 その言葉を聞いた夏樹は、衣食住を小野医院が負担する、という条件を呑んだ。その言葉は、先生なりの気遣いなのだろう。図々しいとは思いつつも、居住地を失くし、高校にすら行けない今の自分に生活していく力はないと考え、その厚意をありがたく受けた。
 
 午前中の診察が一段落すると、夏樹は決まってある部屋へと昼食を運ぶ。
 そこは、まだ兄がいた頃、朝まで看病してくれた病室。
 
「またそれか……お前も大概悪趣味だよな」
 部屋に入ると同時に、安藤の声が病室に響く。
「だから、これは……!」
「痴話喧嘩はやめろ。傷に響く」
 反論の口を開いた夏樹を、武田の声が制す。
「へえ、武田さんも言うようになりましたね……点滴、付け替えてあげましょうか?」
 注射は苦手だ、と自負する武田は、あれだけの銃創や裂傷よりも、点滴の方が痛いと語った。それは怪我の痛みが引きつつあるからなのだろうが、まだ動いていいほどの怪我ではない。
 黙りこんだ武田を背に、夏樹は食事の盆を抱えながら、千絵が眠るベッドの近くにある椅子に腰を下ろした。
「千絵さん、ご飯です」
「……ん」
 目を開き、まどろんだ表情で夏樹を見つめた千絵は、左手をついてゆっくりと起き上がる。夏樹は、小さく開く口に少しずつ昼食を運ぶ。安藤と武田は雑に置かれたせいで味噌汁が零れた昼食を黙って食べる。
 千絵が咀嚼(そしゃく)する様子を見ていると、幾分か元気を取り戻しているな、と感じる。それに、ここ一ヶ月は戦闘がなかったからか、発作で血を吐いたときよりも随分体力は回復したようだ。ただ、完全に折られた右腕は、ストレイジの力を持ってしても完治に時間がかかるようで、整骨・接骨が最も得意な小野の見積もりでは、あと二週間はかかるそうだ。
 
「ありがとう」
「どういたしまして」
 いつものように微笑んだ千絵に意味もなくどきりとしてから、言葉を返す。
 彼女らの食べた食器を回収し、夏樹は部屋の入り口に立つ。
「夏樹。お前、汗かきすぎだ。今日は暑いから脱いでおけ。お前の気持ちは分かるけど、それで体調崩したらただの馬鹿だろ」
「……分かったよ」
 素直に言えばいいのに、と不器用な子供をあやす母のような心境で、夏樹は扉を開いた。
 
 
 
 
 夜十時。
 午後の診察も終了し、最後の重傷患者の入院手続きを整えた小野は、仮眠に入った。
 夏樹はかりかりと音を立てながら事務の仕事を処理していき、最後の一枚を終え、仕事のときだけ付ける眼鏡を外した。
 小さい頃母に抱かれて過ごしたこともある病院の夜は、底冷えのするような恐怖がある。非常ベルの赤いランプが、闇夜に薄く照らされ、その感傷に拍車をかけた。
 
 その時、いつもの頭痛が始まった。
 頭痛の最中は決まって、戦いの中で刻んだ兄の姿が、一巡り再生される。
 
「兄さんは……私に救って欲しかったの……?」
 誰もいない事務室で、夏樹は泣いた。
 
 事務処理の紙に、何度も、何度も涙が零れた。




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