24

 口の中で何かが張り付いているような感覚と共に、千絵は意識を取り戻した。唾を飲み込む度、喉の奥でやはり何かに邪魔をされ、その行為すら辛い。
 目を開けると、最初に映ったのは白いドア。だがそれは反転して見える。おかしいなと思って立ち上がろうとするが、足は何かに固定されたままだった。足が駄目なら上半身、と思い首を起こすと、一郎と目が合った。哀しげな目で微笑まれると、どこからか顔が赤みを帯びてくる。
「もう大丈夫だから……」
 自分の体勢に気付いた千絵は、なるべく一郎と目を合わせないように言った。
「そう? ならいいけど……」
 静かに下ろされ、千絵がここがどこかの建物の中で、自分がいるのは最後尾だということに気付く。
「もしかして……ここが?」
「そうだと思う」
 息を潜めて訊いた千絵は、歩き始めながら自分のナイフの位置を確かめる。しかし、そこにあるべきはずのものは存在してはいなかった。そういえば、結局掴めないままだったな……と思うと、一郎が落としたはずのナイフを千絵の手に乗せた。落ちてたから、と言ってまた歩き始めた彼を見て、千絵は感謝がまた一つ積み重なっていくのを感じた。
「それにしても、どうやって入ったの? 警備とかは……?」
「それが、誰もいないんだ。これは完全に罠……だろう」
 罠、と聞いて、思い出したのは自分の推察。
「何があっても、狂気は出したら駄目。ジュンナンの狙いはたぶん一郎が狂気を引き出すことだと思うから……」
「……よく分からないけど、それだけは気をつけておく」
「それに、私が……そうなって欲しくない」
 
 
 
 
 安藤は夏樹を武田に支えさせて扉の脇に寄らせ、学校の体育館のような構造をした部屋へと入った。今まで誰もいなかったとはいえ、ここからもそうだとは言い切れない。そう思ったとき、光に反射して何かが光ったような気がした。その光に危機感を感じた安藤は素早く扉の向こうへと戻る。次の瞬間、扉と廊下の間に綺麗に着弾したのは大型の口径をしたライフルの弾。
 狙撃か……? 壁から少し鼻先が出る程度にもう一度その部屋の中を覗き込んだ。すると微かな、本当に微かな音が部屋の中に響き、安藤が先程までいたところをかすめ、廊下の反対側に弾が打ち込まれる。
「相当な腕だな……」
 そして安藤が諦めの混じる声を出したとき、四人の敵兵が二人ずつ、自分達を囲うように姿を現した。相変わらず装備はナイフだけだ。この状況で手榴弾でも使われていたらそれこそお終いだった。
 敵は何を考えている……? 安藤は見え透いた軌道で振りかぶった敵の腕を掴み、流れるような動作で正常とは反対側の方へと骨を曲げる。男が呻いた隙にその男が持つナイフを使って首筋を切り裂いた。もう一人は自分の仲間が死んだか死んでいないかすら判断しかねているようで、安藤が死体と化した兵士を盾にじりじりと近寄ると、あっけなく急所を晒して逃げ始めた。安藤は敵兵を逃さず後頭部に思い切りナイフを突き立てた。奇声が廊下に響き渡るものの、その奇声が消えると、敵兵はそのまま倒れこんだ。
 もう一度考える。自分が戦力だという頭がないにしても、千絵や一郎のことは伝わっているはずだ。こんなろくに訓練もしていないストレイジを当てて、どうするつもりなんだ?
「安藤、そっちは?」
 一郎の声で引き戻され、思考を止める。
「たいした奴じゃない」
 そう言った安藤は自分が開け放たれた扉の目の前に立っている事に気付く。
 だが、銃撃が来る様子はない。試しに空の弾倉を投げてみても、何の音沙汰もない。今の騒ぎのうちに逃げたのか? と一歩中へと踏み出す。やはり何も起こらない。
「ここにいつまでもいても埒があかない。武田、進んでも大丈夫だと思うか?」
 安藤は武田の判断を仰ぐ。
「そうだな。進もう」
 何故だか武田の判断は信用できる。そう感じている自分がいることに、まだ人間味も残っている、とどこか安心した。今の自分は、感情を支えるどこかのネジが外れてしまっているような気がする。
 そう考えながら、安藤は一郎たちに先を譲り、夏樹を支えて最後まで扉の所に張り付いていた。彼らが無事に反対側の扉に辿り着いたのを見届け、安藤は歩き出す。一歩、また一歩。自分のせいで足を怪我した夏樹を気遣いながら進む。
 その時だった。もう一度、光に反射して何かが光ったのは。
 
 
 
 
 相当追い込まれていると小野先生に聞いたため、仕事を早退した安藤は、夏樹の下校に付き添った。安藤は夏樹が楽しそうに話すことを面倒ながらもしっかりと受け答えしていた。どこも変わった様子はないじゃないか……と安心していると、ふと立ち話をしている四人の女子生徒と目が合った。
 
「お前の兄貴、人殺しなんだってね」
 開口して出たのは、中傷の言葉。
 建前上は強盗殺人だが、その実態は原因不明の焼死。そして直後に犯人が殺されたと言う怪異。ただでさえ奇異の目で見られていた一郎たちは、その噂で完全に街での居場所を失くした。だがそれは噂でも何でもなく、ただの事実だった。職務上の、正当防衛。その時初めて現れた"狂気"を押さえ込んだのは自分だが、一郎は完全に参っていた。
 そこではっきりと分かった。家族たちが置かれた立場などには気を配れないほどに、一郎は消耗している。
「それでお前の馬鹿親。得体も知れない男に殺されて、その犯人も得体の知れない男に殺されて。どうせろくな事やってなかったんだよね。まあ、お前の親だし」
 隣にいる夏樹は俯いたまま、何も言わない。
「大体お前の弟も気にいらねえんだよ。聖人気取り? 何されても怒らない。知ってる? うちの弟の学年であいつが虐められてるの」
 その女の取り巻きが蔑むように言うが、夏樹は、まだ顔を上げない。
「何とか言えよ。……その様子じゃあ、お前が援交で稼いでるって噂、あながち嘘でもなさそうだな。そこの男とこれからラブホテルにでも行くつもり? この淫乱女!」
 安藤はその女の鼻を叩き割る。本人が我慢している間は手出しをしたくなかったが、仕方がない。何で言い返さないんだと不思議に思って夏樹を見ると、彼女は泣いていた。宗一さんが殺される前だったら言い返していただろうな……と意味のない事を思い、目の前に倒れた図体だけの女に視線を戻す。
「ははっ、クズみてえなてめえには、そのひん曲がったかわいいお鼻がお似合いだ。殺されたくなかったらとっとと失せろ……!」
 女たちは精一杯の虚栄で安藤を睨み、潰れた鼻を押さえて鼻血を垂らしながら、居住地であるらしい団地の方向へと戻っていく。
 親に守られてるお前らなんかに、家族を守る夏樹の気持ちが分かるはずがないだろう?
 
 そして夏樹は自分が泣いているのに気付いていない。
「あーあ、あんなにしちゃって。短気だなあ、安藤くんは。あいつらすぐ親に言うから、警察沙汰にされちゃうかもよ?」
 と極めて明るく振舞い、安藤に対する。
 安藤はその痛々しい夏樹を、何も言わずに抱き寄せた。
「本当に、短気なんだよ、安藤くんは……」
 震える肩をきつく抱き、せめて一郎が立ち直るまでの間、この子を守ろうと思った。
 
 
 
 
 安藤は、夏樹を引き倒し、そのきらりと光った方へとグロックを放つ。   
 だが敵のほうが一弾目は早く、それは安藤の肩――本来なら夏樹の頭があった場所――を正確に射抜いた。次は脛、もう一度肩、最後にグロックを握った右手……全てを被弾したが、それはその下にいる夏樹の急所を、すべて安藤が守ったからだった。一郎が応射する様子を視界に入れながら、安藤は倒れこんだ。
 
 
 
 
「安藤! お前なら簡単に打ち返せただろ! 何で応射しなかった……!」
 一郎の応射で負傷した狙撃手は窓を破って外へと逃げた。一郎は千絵の背嚢をひったくるようにして安藤に駆け寄り、防弾ベストを突き破ってあふれ出す血をひとつひとつ止血しながら、今にも泣き出しそうな声で言った。
「……うるせぇ」
「一郎! 安藤君に話をさせないで! 治療する方が取り乱してどうするの……?」
 千絵は落ち着いた様子で脈を測り、傷口を確実に潰していく。一郎から自分の背嚢を引き戻し、糸やハサミを取り出し、何かの作業を始めた。止血しか出来ない自分に出る幕はないな、と思い、立ち上がる。
 夏樹は、黙って安藤の近くに座り、髪を撫でている。
 
「安藤くんは私が看ます。千絵さんたちは先に行ってください」
「……安藤君、死ぬかもしれないよ?」
「……分かってます。でも私、安藤くんはこのくらいじゃ死なないってことも、分かってるんです」
「……じゃあ、お願いね」
 所在無く視線を泳がせていた武田が、その言葉を聞いて次の部屋への扉を開いた。一郎と千絵も、身を挺して夏樹を守った安藤を一瞥し、先へ進む扉をくぐった。
 
 安藤が死ぬかもしれない。
 そう聞いて、また一つ、何かが崩れた音がした。
 
 
 
 
「安藤くん、もう少し頑張れば、岩波さんが北海道から朝鮮軍を追い出してくれるんだよ」
 ぽつんと二人残された体育館のような部屋で、夏樹は精一杯明るい声を出して言った。安藤は何も言わない。気絶しているのか、眠っているのか、死んでいるのか。そんなことは確かめたくない。
「ねえ、安藤くん、私さっきさ、中学二年の頃のこと思い出してたんだ。あの頃は中傷が酷くて……」
 部屋の中で、やけに大きく声が反響する。
「兄さんも、次郎も、先生も……みんな信用できなくなっていたときに、安藤くんは助けてくれた。兄さんにとっては私が支え。でもそんな私を支えてくれたのは安藤くん……。いつも自信過剰で、口悪くて、普段から私なんかどうにでもなればいいとか思ってて。それでもこういうときだけはちゃんと守ってくれる……」
 自分の声だけが、部屋に響いている。
「お願いだから返事して! 安藤くんが死んだら、私、壊れちゃうよ……」
 また、自分の声だけ。
 
 
 しばらく黙っていた夏樹は、覗き込むようにして、安藤の唇に自分の唇を重ねた。
 涙が、安藤の頬に落ちた。




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