23

「データだよ、データ。ストレイジが確実に兵器と成り得るかの演習データが欲しい」
「データ……ですか」
「この実験で、本土決戦に備える、そのためのデータを取りたい。内情を知るものが少し考えれば分かる事だが、今の朝鮮が北海道を領有し続ける事なんて出来ると思うか? 奴に処刑されることを極度に恐れる、二流三流の糞どもが今の朝鮮には溢れすぎた。私は今まで、あの小僧の感情を利用して、ずっと裏でこのデータを取り、軍備を整える事に専念してきた」
「……本土決戦、ですか」
「ああ。国連軍は北海道の戦闘に勝利すれば、近いうちにこちらへ攻め込んでくる。……そう簡単に潰させはしないさ。……ま、そこに選んだ十人には、せいぜい頑張ってもらわないとな。残りの奴らはうまくやっているのか?」
「はい。……では、あと二つの疑問を。命令通り、カナは次郎の拉致に成功しましたが、この処遇はどうなされるおつもりです?」
「上手く利用して、"狂気"を引き出せ。失敗は許さない」
「……了解いたしました。 最後に。千絵様がここへ来た場合はどうすればよろしいのですか?」
 
「殺せ。奴にもう利用価値は無い」
 
 
 
 
 その岩場は、苔が張り付き、さらには高さがあるため、容易に先へ進ませてはくれない。それでも千絵は、しっかりと一段一段登って、後ろから付いて来るみんなの様子を確認しながら、先へ進んでいった。
 短くなった前髪により、幾分か開けた視界を携え、ぬめり気のある苔のついた頬を軍服の袖で拭き、頭上の岩に手をかけ、また一段登る。肘を使ってよじ登ると、その先には再び死んだ道が広がっていた。両手から間断なく滴る血を隠しながら、千絵は再び道を拓き始める。
 千絵は、九十人が自分達に殺到する、という考えは既に意識の外へ追いやっていた。今までに戦ったのは三人。二人は死亡し、一人は逃亡した。殺すつもりなら、最初から全てをぶつけてしまえば終わりのはずだ。この深い自然が育まれた大きな山、地の利があちら側にあることは明白。ジュンナンは、自らの所有するストレイジたちにも伝えることの出来ない、何かをやろうとしている。
 自分が関わった作戦の標的は一郎。そして、次郎が消えて急速に不安定になった彼の精神状態。もう千絵は答えを出していた。一郎の狂気を留めることが、ジュンナンの計画通りにさせないために何よりも重要だと言うこと。一郎の精神には、家族と言う安定剤が必要不可欠だということ。
 千絵は、まずは次郎の確保が優先、それが出来なければ全てが終わる。そう結論付けた。一郎は次郎が嫌いだとか言ってはいたが、彼にとって夏樹と次郎は、欠けてはいけない存在なはずだ。
 さらに思考を深めようとしたとき、木の一部が指に刺さり、そこで正気に戻る。考え始めると思考の逡巡が止まらなくなるのはいつもの事だったが、今度のものは酷かった。いつの間にか最後尾になっていた自分に、全ての視線が注がれていた。
「ごめん……ちょっと、考え事してて……」
 そう言いながら先頭に戻ろうとする千絵の右手首を、一郎の右手が掴んだ。
「この手で、先導するつもり?」
 返答に窮した千絵を見て、武田は配置転換を提案した。
「丁度いい、夏樹が重くて参ってたんだ。誰か交代してくれ」
「何、その言い……」
「多々良、お前は俺が背負う。……安藤は俺の代わりに道を拓いてくれ。いざと言うとき俺よりも対応できるし、一郎と千絵は体調が思わしくないみたいだ」
 同意を求める視線を受け、千絵は言う。
「……武田君は、大丈夫なの?」
「……いつまでも痛がってるわけにはいかないだろう」
 
 
 
 
 それは、突然現れた。
 山に入って始めての、集団的な攻撃。
 安藤は夏樹を背負う武田を背に回し、すでに引き抜いていたシース・ナイフでその衝撃を受け止めた。千絵は敵の軌道を読み寸前で避け、一郎は小銃で弾き返す。
 その中で完全に三人の連携は遮断され、一対一の接近戦に持ち込まれた。
 
 最初の攻撃を避けた千絵はすぐさまホルスターに手を伸ばしたが、右手ではナイフをまともに握る事すら出来ず、取り落としてしまう。敵がその隙を見逃すはずも無く、それはもう一度振り下ろされた。頭を切り裂かれる、そう思った千絵は、右腕でそのナイフを受け止める。
 嫌な音を立てる腕の感触を制し、敵に足払いをかけ、重心をずらす。敵はよろめき、千絵はナイフを取ろうとするが、何度やっても掴めない。
「っ……」
 足払いを掛けた敵は千絵の顔面に強烈な膝蹴りを叩き込み、千絵の体は背の低い雑草の中を転がった。口からあふれ出した血を感じながら立ち上がり、千絵はナイフを持つ事を諦め、男に素手で戦いを挑んだ。
 そうだ、任務中、これより過酷な状況なんて何度でもあった。
 余計な力が肩から抜け、目は、力に頼りきった敵のナイフの軌道を教えてくれる。耳は敵が次の動作に移るまでの時間を教えてくれる。身体は教え込まれた動作で敵の攻撃をかわしてくれる。
 もう、ストレイジが何人来ても怖くない……千絵は、確実な手ごたえを感じていた。
 
 
 
 
 殺せ殺せ殺せ殺せ――。
 
 一郎は、無意識のうちに敵のナイフを素手でつかみ取り、逆の手で敵の喉元を完全に捕らえていた。
 どこからそんな力が沸いて来るのかはわからない。だが、やはり怯えきった敵の表情を見るのは愉しい。
「そんなに弱いのに、何で生きているんだ?」
 男は必死の形相で、同じ朝鮮語を繰り返していたが、一郎は構わず、額にナイフを叩き込んだ。
 
 ふと脇に視線を移すと、誰か二人が戦っているのが目に入った。男の方はこちらに背を向け、全く気付いていない。能力を使って素早く駆け寄り、後ろから思い切りナイフを突き刺すと、男が何かの音のように、短く鳴いた。
 残った銀髪の女……誰だ、こいつは。見覚えがある。だけど知らない。
 女、か。
 次郎を攫って行ったのは誰だった?
 そうだ、女だ。
 じゃあこいつが次郎を?
 
 ……何でもいいや、とにかく殺そう。
 
 
「何やってやがる!」
 安藤の銃撃が振り上げたナイフに当たり、そこで一郎は自分を取り戻した。
 振り上げた右手は動作が止まらず、ナイフは千絵の肩に少しだけ食い込んだところでようやく止まった。
「……本当にごめん」
 一郎は千絵に背を向けてナイフをしまい、小さな声で言った。
「大丈夫」
 男の返り血で髪から肩までが真っ赤に染まった千絵も、小さな声で言った。
 ナイフから視線を外し顔を上げたとき、こちらを見ている夏樹と目が合い、逃げるように視線を外した。
 これで、三十七人……三十七人も殺した。
 ……こんな能力なんかいらない。あの遊園地で死んでいればよかった。眼下の兵士も、自分がいなければ死ななかったかもしれない。数多くの人を、死に巻き込んだ。三十七人。なんて馬鹿げた数字だ。
 このまま狂気に呑まれるのも一興かも知れないな……そこまで考えた所で、今度は千絵と目が合う。千絵は何かに堪えるように顔をしかめていたが、一郎と視線を合わせると、微笑んだ。直後起こった千絵の発作の様子は、自分が記憶していたものとは違っていた。
 彼女の苦しそうな声を聞いているだけで、その辛さは想像するに難くなかった。
 
 
 
 
 敵のナイフを弾き飛ばし、次の攻撃に備えようとしていたとき、突然視界が塞がった。目に何か液体のようなものが入ったようだった。すぐに目を拭き、見上げると、そこに立っていたのは敵ではなく、一郎だった。血に気をとられてしまったため、そのナイフを避ける事はできない。
 銃声が轟いた。一郎はナイフが自分の肩に少し食い込んだところで、動作を止める。
 
 壊れていく彼を知っても、何をする事も出来ない。自分はただの部外者で、まだ会って何日も経っていない。月日以上に長く一郎といる気がするが、結局は八日間。ついこの間まで敵だった、そんな人間を、自分は信用し切ることはできないだろう。
 だから、そこに寂しさを感じる事も、筋違いなこと……。
 その狂気を孕んだ目と視線を合わせた千絵は、自分の心中とは裏腹に、微笑んでしまっていた。本当は、寂しさを伝えたい。でも、伝えたとして、それは彼を錯乱させる結果には成り得ても、好転する事はない。
 そして、人の心配をしている場合ではないということを、直後の発作で千絵は知った。
 先程のように短時間動いただけで発作が襲ってくるとは、思ってもみなかった。器官に何かが詰まるような感触を振り払おうとするかのように、何度も何度も咳をした。その度に喉が焼け付くような痛みが走る。それでも、風邪にかかっていたときよりは随分楽だった。
 だが、その思考は間違いだったと悟った。
 いつもなら反吐であるはずのものは、雨に打たれ紅く波紋を広げる。それは倒れた敵の残した血などではなく、紛れもなく自身の口から吐き出されたものだと知ったとき、どうにもできない虚無に、全身が包み込まれていった。
 
 
「小山田っ!」
 一郎と千絵の雰囲気に呑まれて声をかけあぐねているうち、倒れてしまった千絵を見た武田は、思わず大きな声を出していた。安藤が一蹴した敵兵を足元に確認してから、歩くたびに痛む脇腹に力を入れて、千絵にゆっくりと近付く。一郎はただ突っ立ってその様子を眺めているだけだった。
 夏樹を背中から降ろし、彼女が片足でふらつく様子を見て手を貸した安藤を視界に入れながら、うつ伏せになっている千絵を慎重に起こす。紅く染まった髪、かすかに聞こえる呼気、少し開いた唇にまとわり付く血液。それらは、凄惨な状況にもかかわらず、どこか艶かしい印象を武田に抱かせた。
「一郎、こういう時はどうすれば……」
「落ち着け。この薬を使えば大丈夫だ」
 武田の言葉を遮り、安藤が投げたのは、小さな錠剤。
 それを受け取り、安藤を睨む。
「薬があるなら、何故今まで出さなかった……!」
「それは何度も飲んでいいものじゃない。本当に危なくなったときに使えと言われている。現にそこにいる馬鹿は使いどころを間違って、もう薬が効かなくなってる。進行を完全に止める、そんな夢のような薬は、研究不足の日本で出来るはずが無いだろう。遠山や須能の持ってる情報を総動員しても、その程度が限界だったらしい。……朝鮮の幹部なら知っているのかもしれないけどな」
「遠山……さん?」
「俺も詳しくは知らない」
 武田は軽く頷き、千絵に視線を戻す。
「飲めるか?」
 ペットボトルを取り出し、少し開いた口から、水と錠剤を流し込んだ。僅かに喉が動き、千絵はしっかりと薬を飲み込む。本当はこの水を使って顔や髪を染める血を流してやりたい所だったが、生憎それほどの水量はペットボトルには残されていなかった。
「本当に効くのか、これ?」
 相変わらず突っ立っているだけの一郎に視線を向け、武田は訊いた。
「……効く。俺は安藤の言う通りもう効かなくなったけど」
 語尾を投げやりにして、一郎は額の汗を拭う。
 お前の方が小山田より、症状が酷いんじゃないのか? その言葉が喉をついて出るより、夏樹が声を上げたほうが早かった。
 
「あ……あれ!」
「声が大きいんだよ馬鹿」
 夏樹の手が肩に置かれた安藤は、振り向いた彼女の額を指で弾くと、面倒そうに指差す方に目を遣る。一郎と武田もそれにつられて彼女の指差す方へと視線を移す。
 風に揺れる木々の間、建物のようなものを遠くに見た気がした。
「夏樹、残りたいんなら残ってもいいけど、どうする?」
「何でそういうことばっかり言うのかな……ここはもう敵地ってことくらい、私でも分かる」
「それにしても、手負いが三人に精神病が一人か……不安だな」
「……まだ精神病じゃない。安藤こそ、油断して自慢の腕をへし折られないように気をつけろよ」
 軽く握った拳と拳を一郎と合わせ、安藤は夏樹に肩を貸しながら、平坦な"生きた道"を歩き始める。
 一郎は背嚢を背負った千絵を抱き上げ、そのまま歩き出した。
 武田は一郎が千絵を軽々と抱き上げたのを見て、あの小さい体のどこからそんな力が出てくるのだろう、と半ば呆然としながら、その後に続いた。




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