22

「ロープウェイ乗り場?」
「そうだ。さっき帰ってくるとき、標識を見つけたんだ」
 千絵を追って飛び出していった武田は、数分後に戻ってきた。千絵が突発的な行動に走った理由を説明してから、彼がまず提案したのは一郎を確保することだった。だが、この雨の中、一郎の疲弊具合を考えればどこか休める場所に立ち寄るのは当然の事だとしても、そこである確証はどこにも無い。
「そこにいなかったらどうする」
 安藤は、千絵を深追いしなかった武田の判断力に感心しながらも、訊いた。
「一郎が先に山に入ったとしても、遅れはせいぜい三時間。昨日の一郎が疲れて眠るほどの疲労を抱えていたなら、充分差は縮まったはずだ。どっちにしたってこの付近にいる」
「……ここで、ただ待っているわけにもいかないからな。武田の案を使うか」
「よし。決まりだな。とりあえずそこに着くまで、歩くか」
「歩けるか?」
 安藤の言葉に夏樹は黙って頷き、ストーブの火が尽きたのを見てから、ゆっくりと立ち上がった。
「兄さん、何で一人で助けに行ったんだと思う……?」
 武田が小銃と背嚢を担ぐ背中を見ながら問いかけた夏樹に、さあな、と返して、一番最初に扉を開いた。外は相変わらずの豪雨だったが、そこに目も開いていられないような風、月の光すらない漆黒の闇が加わり、さらに悪化しているように思えた。
「千絵は夜目が利くって、昔言ってたな……」
 小屋の中に響いた武田の言葉。安藤は"昔"という言葉に引っかかり、口を開こうとしたが、そんなことをしている場合じゃないと思い直し、前に進み始めた。
 
 
 
 
 一歩踏み出すと、途端に体中に雨が打ち付けられた。
 服が欲しいと切実に思いながら、夏樹は前を歩く安藤を必死に追いかけていた。この暗闇の中では、少しでも距離が開けば見失ってしまうだろう。道を知っている武田は先に歩こうとする安藤を制し、このような配置になった。そして安藤は、先程から一度も後ろを振り向かない。自分を対等に扱ってくれているのか、それともただ単に気を配るのが面倒なだけか。面倒なだけだろうな、と思いながら、小走りにその後に続く。
 
 どれだけ歩いたのか感覚が薄れ、視界がかすんできていた。この山に入って一度倒れたことを思い出し、まだ無理だったかなと考えると、何かが足に当たり、躓く。それは人のような柔らかい感触のするものだった。
 そしてもう立ち上がる気力もなくなってきたとき、その銃声は響き渡った。雨に紛れてかすかに漏れたその音は、確かに、ここ最近何度も聞いていた銃声だった。
 安藤はその音の直後、右に飛んだ。
 視界を遮っていた安藤が消え、緑色の目がこちらを向いていた。
 直後、世界が反転した。
 
 
 
 
 安藤は接近戦を挑んだ武田が投げられ、木の幹に叩きつけられたのを見た。
 武田に向けられるかと思った小銃の銃口は、こちらを向く。
 そして敵の攻撃を避けグロックを素早く構えるまで、後ろに夏樹がいることを完全に忘れてしまっていた安藤は、緑の目が夏樹の方を見たのを確認し、とっさに左手を使って夏樹の右腕を引く。夏樹は何故か地面に倒れていたので、引きずってなるべく自分に寄せる。そのまま右腕だけでグロックを連射すると、敵はその場に卒倒した。倒れた敵が腰に手を伸ばそうとしているのを見て、無理な体勢から夏樹を抱き起こそうとするが、同時にもう一度鳴った銃声は、夏樹の足に当たってしまう。狙いを外したその銃口が再び夏樹の心臓に向かおうとしたとき、背後に回りこんだ武田がその手を踏み砕いた。安藤は夏樹をその場にゆっくり倒すと立ち上がり、グロックを敵の頭部に向け放つ。
 
 
「また撃たれたのか……」
「……安藤くんが避けたせいだよね、当たったのは」
 夏樹は足を伸ばしてスカートを手で押さえながら哀しそうに言うと、すぐさま手当てを始めた安藤を見た。
「それは……ごめん」
 意外な返答に夏樹は安藤の表情を読み取ろうとしたが、その前に彼は立ち上がり、体中の包帯を巻きなおしている武田の方へ近寄って行った。
 夏樹は雨に打たれると傷の痛みが増幅してしまいそうな気がしたので、立ち上がろうとした。しかし想像以上にその傷口が痛んだので、曲げかけた膝はそのままに、ゆっくりと足を引いた。大きな生命の下では、雨もそう簡単に自分の身体を害せないようだ。すぐ目の前にあるロープウェイ乗り場への階段――この足では到底登れないし、この角度では他人を背負って登ることなどできるはずも無い――を見つめ、小さくため息をついてから、その場に寝転んだ。
 明日から、また足手まといになる……。そう思いながらも、視界は徐々に狭まっていった。
 
 
 
 
 どこか暖かい感触が腕に伝わり、そこで夏樹は目を覚ました。
 その目の前には一郎の横顔があり、夢か何かかと思ってもう一度視界を閉ざすが、やはりそれは確かに現実だった。眠り足りないと訴える瞳を擦りながら顔を上げると、立ち上がろうとした一郎の後頭部に額が当たり、その痛みで完全に目が覚める。
「おはよう」
 こともなげに言った彼を見た夏樹も、手を挙げて額を触りながら、おはようと返した。
「寒くない?」
 そう言われてみると、寒くない。良く見ると、自分の袖が、手元にしっかりとあることに気付いた。それは、青の迷彩服だった。
「うん……でも、私、何でもう着替えて……?」
「俺がやった。それは慣れていないと着込むのが難しい、から」
「私……一応、女で、高校生なんだけど……」
「着替えをやってもらおうとしたら、千絵が寝ちゃって……。夏樹まで体調崩したら、まずいかと思って……それで」
 口調を強めて言った夏樹は、言葉の後半に勢いをなくした一郎を見て、薄く笑いながら、続けた。
「大丈夫、気にしてないから」
 動揺している一郎が面白く、兄さんはこういうのに弱いのか、と考え、もう少しからかおうかとも思ったが、周りを見渡して、誰も起きていないことを確認してから、聞きたいことを聞いておこう、と思い直した。雨は、昨日の勢いからはとても信じがたいが、弱まってきていた。
「……そんなことより、どうして一人で次郎を助けに行ったの?」
 一郎は、平静を取り戻した表情で、しばらく夏樹の目を見つめていた。夏樹はその瞳の奥に息づくあの時の"狂気"を感じ取りながらも、目を逸らさなかった。
 ……実際は、逸らさなかったのではなく、身体が、動かなかっただけだった。
「自分の中にある"狂気"……。それを、制御しながら戦っていく自信が無かった。またあの時みたいに出てくるんじゃないかと思うと、それが、怖い……」
「それなら、この前みたいに安藤くんが……」
「この前の安藤は、不意打ちで、たまたま狙えただけだ。狂気のスピードには、誰も追いつけない……と思う。それに、その場には、押し込まれた俺を引き上げてくれる精神的な支えも必要……。その前に、その二人を殺してしまっている可能性もある」
「……でもそうだとしたら、私が兄さんの支えってことにならない? この前戻ったのは私が話していたときだったから……」
「たぶん夏樹が思っている以上に、俺は夏樹のことを必要としていると思う。夏樹は、どう思ってるか分からないけど……」
「……それほど必要とされてるなんて、知らなかったな。だって、いつも、全部一人でやろうとするし、話をしていても、いつもどこか冷めたような感覚があって……嫌われているのかと思ってた」
「……俺にはあの形でしか表現できないんだ」
「私も……兄さんが、必要だよ。次郎のことを大切にしてくれていれば、もっと……」
 少し視線を外し、夏樹は一呼吸置いてから、あえてその言葉を口にした。
「……知ってるよ、兄さんが次郎のこと嫌ってること。今は自分の体裁のために、戦ってることも。……そうでしょ?」
「………そうかもしれない」
「兄さん、狂気が出たときから、少しおかしいよ……。自分で、自分の理由のために……ただ自分の理由のためだけに、人を殺すの?」
「………」
「……兄さんには、何も考えないで人を殺すような、そんな人になって欲しくない」
 機嫌を損ねただろうな、と思いながら一郎を一瞥すると、彼は、わずかに俯きながら、言葉を返した。
「……夏樹は厳しいな」
「黙って聞いてるだけなら安藤くんにだって出来るから……」
「安藤を引き合いに出すなよ。……元々ああいうやつなんだから」
 視線を安藤に移した一郎を見て、夏樹もそちらへ視線を動かす。今にも起きてきそうな、その油断の無い体勢を見ながら、夏樹は言った。
「……そういえば今日、安藤くんが謝ってきたんだよ。あの安藤くんが……」
「何か安藤に聞こえてそうだな……その足の傷?」
 一郎が夏樹の足に視線を移そうとしたとき、少しくぐもった安藤の咳払いが聞こえた。彼はすぐに安藤へと視線を戻すが、まだ安藤は眠っていた。夏樹は一郎に視線を合わせると笑い、しばらくぶりの安堵感を得ていることを自覚した。
 
 次郎の可愛げのある気遣いも好きだけど、どこか冷めた心中にある、兄さんだけの優しさが、一番好き……。
 これを言葉にする勇気は無かった。どうしても、同世代の異性という考えが頭を過ぎる。
 ……義理の妹って、本当、何なんだろう。
 
 
 
 
 一郎は階段を下りながら、段々と雨の勢いが弱まってきている事を感じた。
 この空には振り回されることになりそうだ、と考えながら、地面へと足を付けた。どこに行く当てもないが、とりあえず木陰で千絵を休ませようと考えた。
 千絵に歩けるか、と声をかけたが、返事が無いので背嚢と銃は右手で引き摺り、そこかしこに出来た泥の水たまりの中を歩いた。目の前には、生まれて数十年は経っているであろう、大木がある。この場所なら雨もそう入ってこれないと思った一郎は、背嚢を置き、もう一度千絵に呼びかける。
 返事が無い。
 心配して背中から降ろしてみると、初めて会ったときと同じような格好で、彼女は睡眠に入ってしまっていた。
 とりあえず千絵はその場に眠ってもらい、改めて周りを見渡す。
 そこには、武田に安藤、夏樹が、それぞれ眠っていた。なぜだかは分からないが、大して驚かなかった。随分前から彼らが来る事が決まっていたような、そんな感覚がした。
 安藤は木の幹に寄りかかり、思わず眠った、というような体勢で、武田は右腕を顔の上に乗せ、片膝を立てて仰向けに、夏樹は横向きに眠っていた。夏樹は自分の寝方と似ているらしいから、自分もあんな格好で眠っているのかもしれない。
 周囲の異常なほどの低気温を、自身の濡れた軍服から感じ取った一郎は、腕に掛けていた敵軍の軍服を夏樹に着せようと思い立つ。防弾ベストのボタンを外し、軍服と組み合わせて、サイズが合うかどうか確かめる。朝鮮軍の物と日本軍のものは、どこか装備が似ている。
 洞窟での治療の時のように、なるべく胸元に視線を移さないようにして――こういうことをしていると、夏樹が弟だったらな、と思う時がある――その装備を着せ終わった一郎は、自分の後頭部に何かが当たった感触を覚えた。
 
 
 しばらく夏樹と話してから、急に黙り込んだ彼女を見て、一郎は立ち上がり、間を取った。考え込む所はそっくりだと養父に言われた事を思い出しながら、夏樹に言う。
「足手まといになるとか考えてるなら……心配しなくていいから」
「……う、ううん。考えてないよ、別に」
「ならいいけど……」
 そう言った一郎は安藤を起こしに行こうとするが、直後に呼び止められ、再び夏樹を見た。
「私が……私が兄さんのことを好きだって言ったら、兄さんはどう思う?」
 よく分からない質問に返答に窮していると、夏樹が言葉を重ねる。
「義理の妹ってことを考えると、妹としての好きにしても、異性としての好きにしても、中途半端でよく分からなくなる。それが自分でも上手く区別できなくて……。
 実験から生まれたとしても兄は兄、なんて格好つけて言った時から随分、いろんなことがあったから……」
「……だから、兄さんはそう言われたらどう捉えるのかなって」
 好き、と言われて嫌な気分がした事はないが、これは始めてのパターンだった。
 自分でも説明のつかない感情が渦を巻き、胸を締め付けてくるような……そんな感覚。
「一人の人間として、その"好き"は捉える。俺は夏樹を"義理の"妹だと思ったことはないし、ただの気の合う妹だとも思ったことは無いよ。一人の人間として好きだし、尊敬している。夏樹が自分のことを義理の妹だって思って、そんなことを考えていることが、俺は……嫌だ」
「一人の……人間として。確かに言ってる事は分かるよ。でも、その"好き"は、男女間では恋愛感情って言うんだよ」
「そう……なるのか。確かに難しいな……」
「だから悩んでるの」
 一瞬、優越を感じさせる笑みを浮かべたが、すぐにいつもの笑みに戻る。そこが夏樹のいい所でもあった。
「それを踏まえて、もう一度聞くから。私に好きと言われたら、どう思う?」
「……困る」
「どうして?」
「……一人の人間として好きだから」
「……また戻ってるよ」
「うーん……恋愛とか、家族愛とか、そういうものを超越した"好き"。こう言えばいいか」
「……兄さんっていつも不思議なことを言うね」
「そうでもないと思うけど」
「でも、私はそんな兄さんが好き」
「それは異性として? 妹として?」
「そこでそう言われると……一人の人間として、になるのかな」
 小さな声で言った夏樹を見て、すぐに考え詰める兄と姉を持つ次郎の大変さが、今更になって分かった気がした。
「でも、一人の人間として好き……そう考えると、どの感情も恋愛に結びつかなくならない?」
「……付き合いきれないな……」
 心底疲れきった声を出した一郎だったが、それが恋愛感情であれ家族愛であれ、彼女が脆く崩れかけている自分を支えてくれていることは、確かだった。
 
 
 
 
 目の前にいる女を殺せば、この身体が手に入る。
 目の前にいる女が死ねば、この身体が手に入る。
 今ここでオマエが女を殺せば、この身体が手に入る。
 この女を殺すことが愉しみで仕方がない。
 
 本当はオマエも、殺したいんじゃないか?
 オレとオマエが一つになれば、もう悩む事なんてない。苦しむ事だってない。ただ快楽だけがある。
 いい世界じゃねェか、何故拒む?
 
 
 一郎は夏樹に対しながら、常に耳元で鳴るその音を、努めて聞き流そうとしていた。
 しかし"狂気"は確実に、一郎を蝕んでいた。"支え"がなければ、自我が、一瞬で崩壊するほどに。
 
 
 
 
 並んで座る夏樹と一郎は、ただ黙って夜明けを迎えた。といっても、それは鳥達が活発に活動を始めたのを確認したからであって、雨は相変わらず振り続けているため、正確な夜明けではなかった。
 その間にも、一郎の精神状態は刻々と悪化の一途を辿っていた。
 幻聴ではない、だが他人からすればただの幻聴でしかない、狂気の囁き。
 昨日の熟睡が嘘のような、急激な侵食。一郎は、まともに会話を出来る状態ではなくなっていた。ただ、千絵に聞いた方法を、試してみるしか無かった。
 
「夏樹、手……貸して」
「ん、いいけど」
 いいけど、に重なり、再び狂気の声が発せられる。
 夏樹の手に、自分の手を重ねる。そして、自分にとって一番大切なもの、を思い浮かべる。一番大切なもの、として浮かんできたそれは、遠き日に失った、暖かな家庭だった。"廃棄"された自分を拾い、育ててくれた宗一、由美。あの頃はまだ明るかった次郎に、辛苦を味わう前の無垢な夏樹。
 家族の手と言う媒体を通し、それらがもたらしてくれた幸福を思い浮かべ、狂気が伸ばしてきた手を振り払う。狂気の声は徐々に薄まり、開いていたのにまったく機能していなかった瞳が、徐々に周囲の視界を鮮明にしていく。だが、これが一時的な抑制だと言うことは、自分が一番分かっている。
「もう、いい?」
 照れくさそうに言った夏樹の表情も、声も、自分に届いた。
 
 夏樹を、次郎を、家族を、一緒に戦ってくれる仲間を……失いたくない。
 生気あふれる大木を見上げる。
 ……俺はどうすればいい?
 一郎は、夏樹にみんなを起こすように言って、みんなが起きるまでの間、ずっとその大木に問い続けていた。
 
 
 
 
「山頂にいるとは限らない。でも、とりあえず山頂を目指してみようと思う」
「そうだな。この広い山の中を闇雲に探したって見つかるはずが無い」
 一郎は武田にここまでのいきさつを聞き、そう提案した。起きてからすぐ普段の調子に戻っている武田とは違い、安藤は少し俯き加減で、千絵に至っては目を閉じ、木の幹に寄りかかりながら、かろうじてその場にいるだけだった。
「今まで来た道が一本道で左から通っているから、山頂はあっちだ」
 そう言った武田の声を聞いて、一郎が頷き、出発しよう、と言った。
「そういえば一郎、今まで、どこにいた?」
「ロープウェイ乗り場。そこに千絵が倒れてて、背負って、上って、また下りた」
「……あの階段を、千絵を背負って上り下りしたのか?」
「そうだけど……?」
「…………まあいいか。安藤、小山田、さっさと起きろ」
 背嚢を背負った武田の声に反応して安藤が顔を上げ、とっくに起きてる、と言ったが、その声にはいつものような覇気は無く、千絵はまだ目を閉じたままだった。
 
「千絵さん。千絵さん!」
 他の三人が出立の準備を進める中、夏樹が千絵を揺すり起こした。
 何度目かで千絵はようやく目を開き、軽く伸びをした。
「あ、髪切ってもらったんですね、兄さんに」
「長い髪は戦闘中鬱陶しいから、この方が楽。……そういえば夏樹、どうしてここに?」
「さっき説明したじゃないですか……武田さんの予測が当たったんです」
「予測……。よく分からないけど……体調は大丈夫?」
 座ったままの夏樹を見て、千絵が心配そうにしゃがみこんだ。徐々に意識がはっきりしてきているのか、夏樹の泥まみれの頬を軽く拭ったその目は、いつの間にかしっかりと夏樹を捉えていた。
「足は、昨日、敵に撃たれて……」
「……私がしてあげられることがあれば、言って。着替えとか……」
「あ、じゃあ、着替えるの手伝ってもらえますか? 上は兄さんがやってくれたけど、下はまだなんです」
「……上、か。一郎って、その……。胸とか、そういうの見ても、なんとも思わないのかな?」
「……どうでもいいみたいです、そういうのは。私が弟だったらよかったのにな、とか思ってそうですから」
 その言葉を聞きながら、千絵は夏樹の靴を脱がせ、受け取った朝鮮軍のズボンを穿かせていった。サイズは夏樹にぴったりで、特に短くも、長くも無かった。スカートは夏樹が自分で脱ぎ、その場に置く。
 平穏な生活を感じさせる最後の欠片は、その役目を終えた。
 
 
 用意の終わった一郎は、立ち上がる。その時に肩が武田の身体に当たってしまい、ごめん、と声をかけようと振り返ると、武田が木の幹に腕をつき、よろめきながら立ち上がるところだった。
「……どこの馬鹿だ、昨日夏樹を武田に背負わせたのは」
 一郎はそう言うと、安藤に視線を合わせ、目で促す。安藤は面倒そうにゆっくりと歩き、夏樹の前でかがんだ。彼女に自分の拳銃を持たせた安藤が、こちらへ近付いてきたのを確認すると、千絵は歩き始める。武田はその後に続き、一郎は安藤を挟んで最後尾に回った。
 出て行く直前、ロープウェイ乗り場に設置された標識を確認すると、七百メートル地点だった。まだ半分も進んでいない。
 
 人に忘れ去られた山の生命力は、先程まで一時的に力を貸してくれてはいたが、半歩先より、"生きた道"を用意してくれてはいなかった。銃剣などでは手に負えない太いツタや、鬱蒼と生い茂る木々、足場の安定を困難にする雑草だらけの泥道。
 そんな中、武田が千絵と協力して道を拓くところを見据えながら、一郎はただ、心の奥底から立ち上る殺気、グロックで夏樹を撃ち抜こうとする右手の衝動を押さえるのに必死だった。そのことに集中していた一郎は、夏樹が心配そうにその様子を見ていることも、安藤が殺気を背後に感じながらも振り返らない気遣いも、知り得ることはなかった。
 
 数分前に夏樹と話したこと、数時間前に千絵に励まされたこと、暴走を止めてくれた安藤や武田のこと。
 全てが失われる。
 今、狂気に蝕まれつつある自分の心底。その心底は確かに、もうすぐ全てが失われると伝えている。
 
 でも、失いたくない。あの日に失った家庭のような、この暖かい人たちを。
 もう何も、失いたくないのに……。
 
 何度も、何度も、昨日よりも大きな声で、声が嗄れるまで、喉が潰れるまで……空に向かって、叫びたかった。




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