21

 助けるなんて言っておきながら、また……助けられた。
 どうにか動けるようになった千絵は、一郎の頬に手を伸ばす。何故かは分からない。直感的に、そうして何かを伝えなければいけない、と思った、とでも言えばいいのか……それとも、ただ一郎に触れてたいと思っただけなのか。
 一郎は、目を開いて自分を見た後、すぐにまた目を閉じた。その体勢は徐々に崩れていき、結局ロープウェイ本体に向けてその顔を横たえた。
 弛緩しきっていた筋肉が少しずつ戻っていく感覚を味わいながら、千絵もその場に横になった。一メートルほど離れた場所にある一郎の寝顔を、じっと見つめる。
 そうしているうちに風邪のものとは別の熱が顔を覆い始め、千絵は床との間に自分の腕を挟み、そこへ顔を埋めた。
 ……何をやってるんだろう。
 
 筋肉の弛緩が戻りつつあっても、体を動かすたびに全身に走る強烈な痛みが消えたわけではない。だが、自分が下着姿だった事を思い出した千絵はゆっくりと立ち上がり、足元に転がるズボンを手に取って穿いた。立ったついでにロープウェイ入り口のシャッターを下ろして、どことなく閉塞感の漂う闇夜の空間に、身を任せる。
 一郎は見つかった。後は武田君たちにどうやって連絡するか……。
 この空間に身を任せて眠る前に、その程度は考えておかないと、と思った千絵だったが、激しい頭痛の中でその先の考えを紡ぐ事は出来ず、結局は眠りに落ちた。
 
 
 
 
 どこと無く感じた息苦しさで目を覚ましたとき、視界は暗闇に覆われていた。
 意識の奥に引き込まれたのかと思い、動揺しかけたが、手の感覚はあった。
 右手で自分の視界を遮るものを引っ張る。それは自分の上着で、生乾きではあるが着れる程度の乾き加減だった。恐らく千絵がかけてくれたのだろう。
 睡眠をとっても狂気が出てこなかったことに安堵した一郎は、ふと左手に違和感を感じた。視線を移すと、染み出した血の跡が色濃く残っていたはずの包帯が、新しくなっていた。違和感はそれが直接の原因ではなく、包帯をめくって中を見てみると、膿が零れ、皮膚がただれていた傷口が、綺麗になっていた。さすがに砕けた骨までは治ってはいなかったが、固定の仕方が上手く、指は使えるような状態だ。
「気に入った? その固定の仕方」
 まだ降り続く豪雨に視線を合わせて、今日の進軍の過酷さを予想した一郎は、背後でしたその声を聞いた。
「お陰で指が動かせるよ。ありがとう」
 軽く指を曲げながら、千絵を見る。
「膿とか、しっかり取らないと駄目だよ。そこから壊死するかもしれないし……」
「……そうだ。左の指もどうにか動くようになった事だし、普通のハサミでよければ、その髪を整えさせてもらいますけど」
 急に話題を変えた一郎を見て、呆れながらも軽く笑った千絵は、お願い、と言って背嚢からハサミを取り出すところを見ていた。一郎はハサミを右手に持ち直すと、彼女の後ろでかがんだ。
「どのくらいがいい?」
「うーん……肩にかからないくらい、かな」
「最初に会ったときくらい、ってこと?」
「そう」
 その言葉の後は、普通のハサミの鈍い音が場を支配した。
 軽快に、とはいかなかったが、ある程度慣れていたので、比較的短い時間で髪を切り終えることが出来た。
「後ろはこんな感じかな……。千絵、こっち向いて」
 振り向いた彼女に、次は前髪切るから、と言った一郎は、鏡が無いため正面を向かせたまま切り始めた。
「……顔赤いけど、発作のせい?」
「ううん。風邪……引いたみたい」
「風邪? 確かに熱っぽいかもしれない……」
 前髪を切るときに少し触れる、千絵の額。一郎は条件反射で彼女の額に手を当ててみた。
「……熱はたいしたこと無いみたいだけど。熱以外の症状は?」
 手を離して、また前髪を切り始めながら、訊く。
「……え? あ……えっと、熱以外? ……頭痛、かな」
 動揺した素振りを見せた彼女に少し違和感を感じつつも、一郎は言葉を返した。
「今日も歩かなきゃいけないけど……あんまり酷くなるようだったら、言ってくれ」
「……うん」
「前髪も終わり、と。中々上手く切れた」
 ハサミを降ろし、少しずつ上がりつつある自分の技術に満足して、千絵をもう一度見た。
「確認してもらえないのが残念だけど……俺は千絵によく似合ってると思う」
「あ……ありがとう」
 真っ赤な顔をした千絵が、少し一郎から顔を背けて言った。
 道中で倒れなければいいけど、と思いながら、一郎は緩んだ顔を引き締め、状況把握を開始した。
 
 
 
 
 風邪はもう治ったことを、一郎には言わないようにしておこう。
 まだ上気した顔の赤みが引かない千絵は、額に残る一郎の手の感覚を思い出し、また赤くなっていく顔を感じながら、彼に状況を説明していった。
 
「それであんな所に倒れてたのか」
「……発作が、酷くて」
「俺が見つけたのが敵に連れて行かれる前でよかった。何もされてない?」
「………うん」
 見ていなかったのか?
 千絵はその様子に安堵しながらも、視線を少しずらし、あの目と、一郎が呟いていた言葉の意味を考える。一郎も視線を遠くに移し、少しの間、場を沈黙が包んだが、胡坐をかいた足を軽く組みなおし、視線をこちらに戻した彼は言った。
「……次郎を追う、戻って武田たちと合流する……の二択、か」
「うん」
「戻って武田たちと合流した方が生き残る可能性は高まる……だけど次郎を助ける機会を失うかもしれない。ここから奥へと進んでいけば、次郎を助け出せるかもしれない……だけど俺ら二人が死ぬ可能性もあるし、武田たち三人が死ぬ可能性もある」
「難しい……ね」
「おれは二つめの案で行こうと思う。武田たちは安藤が付いているなら、心配ない。……千絵は、自分で決めてくれ。できれば巻き込みたくない」
「……私も、二つめで行く」
「……どうして?」
「次郎を助けたい、から」
「そういう意味じゃなくて……どうして次郎に命を懸けられるのか、ってこと」
「……一郎は、どうして?」
「……兄としてまだ何もしてやれていないから、そんな自分に責任を感じたくないから……かな」
「へえ……次郎のため、じゃないの?」
「……俺は次郎のこと、それほど好きじゃないから」
「嫌いなの?」
 思わず訊き返した千絵に対し、一郎は言う。
「自分を見ているみたいで……嫌なんだ」
 自分を見ているようで次郎のことは嫌い。だけど、まだ兄として何もできてないから、責任を感じたくないから、そのために助ける……。
「随分歪んだ理由……」
 思わず口にしてしまった千絵の声を聞いても、彼は表情を崩さなかった。
「……俺は、歪んでるんだ。……千絵の理由は?」
「恩返し……じゃ、駄目かな」
 
 
 
 
 立ち上がり、上着とズボンの間に隙間が出来ないようベルトで固定し、小銃の位置を確認する。背嚢は濡れてしまうと困るものから、奥へと詰め込んでいく。その際に、カルテが千絵の目に止まったらしかった。
「敵兵士が持ってた。先生に渡すつもりだけど……それ、千絵だよね?」
「うん……。十三歳のころだと思う。発作が始まる前だから」
 哀しげに言った千絵からカルテを受け取り、写真を巻き込まないよう四つに折り、上着の内ポケットにしまう。
 千絵が少々時間をかけてシャッターを開け始めると、勢いよく雨が吹き込んできた。
 小銃を手に取り、出ようとすると、千絵はシャッターを下ろしかけたままその場に留っていた。
「千絵」
 言葉をかけても反応しないので、軽く肩を叩くと、本当に驚いたらしく、上げかけたシャッターに、千絵は思い切り頭をぶつけていた。
 一郎が後ろから手をかけてシャッターを上げきると、彼女はこちらを向いた。
「先、降りて」
「別にいいけど……」
 よく千絵を背負ったまま登れたな、というほど、距離の長い階段。普通に落ちては大怪我をする可能性もある。階段自体も急になっているので、梯子と同じような要領で階段を伝い、足を滑らせないよう、ゆっくりと降りていく。
 ようやく最後まで辿り着いたとき、千絵はまだ降りてきていなかった。
「大丈夫だよ、ゆっくり降りれば!」
 雨音に負けないよう頭上の千絵に叫びながら、背嚢と小銃を置いた。
 やはり降りてくる気配は、ない。
 一郎はもう一度階段を登り、最初の位置まで戻る。
 何の囲いも無い、落ちれば真下の森に突っ込むような、ロープウェイ乗り場の端に横向きに倒れている千絵がいた。急いで近寄ると、その音に気付いたのか、ゆっくりと体を起こし、千絵は壁に寄りかかった。
「……急にめまいがして、発作が」
「……そういうことは、その場で言ってくれ」
「吐いてるところなんて……見られたくない」
「……周りがどう思うかは知らないけど、そんなの、俺は気にしないから」
 
 千絵を背負い、まず階段の一段目に足をかけると、首を圧迫する力が強まった。
 気にせず、乾いた音の鳴る階段のみに意識を集中し、一段一段降りていく。
 
「死ぬのかなぁ、私……」
 降り始めてようやく五分ほど経ったころ、途中で少し痛めてしまった足首を休ませながら、後ろにいる千絵が呟いた言葉を聞いた。いくら細身な千絵でも、四十キロ以上はあるだろう。加えて、彼女の背嚢。それを背負いながらこの急な階段を下りるのは、やはり結構な負担になるようだ。雨が体に打ちつける痛みは、止まっていると余計に体へと染みていった。
 そしてその呟きを聞き、突然なんだろうと背後に気をとられ、足を踏み外しそうになったので、意識は階段に集中させたまま、千絵の言葉の続きを待った。
「……私、昨日の発作で……死んだと思ったんだよね。息、できなくて、体に、力入らなくて」
「………」
「それに、自分で、弱っていくのが分かるの。力は変わらない、スピードも変わらない、回復速度も変わらない。だけど……体が、どんどん脆くなっていく……」
「……千絵も同じ、か」
「……同じ?」
「昨日の夜に頬を触られたとき、良く分からないけど、同じ……ような感覚が伝わってきたんだ。……俺も、限界が近付いてきているように感じてる」
 そう言って片手で千絵を背負いなおした後、言葉を繋げた。
「能力を抑えるのって、どうすればいいかな?」
「……私は、声を出すのがいいと思う」
「声?」
「カラテ……とか、そういう競技の最中みたいに。とにかく大きい声。昨日やってみたけど、能力を奥に押し込めるような感覚があった」
「空手……ね。でも千絵、昨日は特に大きな声を出してる様子は無かったけど」
「……あれが、私の精一杯」
「……今度は、注意して聞いておくよ」
「でも一郎、能力の抑制には本当に注意して。昨日の一郎は……"狂気"の目をしていたから」
「"狂気"の目?」
「……覚えてないよね。敵が私に何をしようとしていたのかも」
 念を押すような言い方にどことなく気圧されながら、記憶を辿っていく。
 しかし、助けた後のことは思い出せるが、敵の姿を見つけた後から、それまでの記憶が上手く辿れなかった。
「千絵を助けた時、か。確かに記憶が曖昧な気がする……」
「"狂気"に支配されそうになったら、自分にとって一番大切なことを考えて。……あるいは、強く念じて。そうすれば、正気を保てるはず……」
「やってみるよ」
「……どうしても駄目だったら、私が助けるから」
「……ありがとう」
 最後の言葉は、どこか消え入りそうな声だった。
 
 その後、二人ともしばらく黙り込む。
 その沈黙の間、一郎は"どうしても駄目なとき"のことを考えてしまった。
 ……三年ぶりに現れた狂気は、夏樹が分からず手間取った。だが今度は違う。
 夏樹は完全に顔が割れ、安藤に至っては以前から憎悪の対象だ。また安藤に押し込まれた狂気は、自分と入れ替わった事を外に漏らさないようにするなど、出来うる限りの狡猾な手段を使うはず。安藤たちと合流した後だったら……確実に殺してしまう。
 そして……自分にとって、徐々に存在の大きくなりつつある千絵も。
 
 
 そんな沈黙を嫌うかのように、一郎は、山に向かって叫んだ。それは音……と呼んだ方が良いような声。
 音の中に込められたのは、言葉にならない何かだった。
 
 その音が、辺りを囲う木々たちに完全に吸い込まれた――あるいは豪雨に掻き消された――後、千絵が冷静に言う。
「……どうしたの?」
「……狂気はもう出てこられない」
 自分に言い聞かせるように千絵へ言葉を返し、一郎は再び階段を降り始めた。




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