20

 上官からその命令を受けたとき、思わず彼はその顔に視線を合わせてしまっていた。だが、何か不満でもあるのか、と目で威圧されると、何も言えなくなってしまうのが彼の立場だった。
 敵がどこにいるかも分からないのに、班構成を解体する。
 報告では敵は四人。任務を放棄した小山田少尉、今回の作戦の標的であった多々良一郎、苛烈な抵抗を見せたものの結局は岩見沢で掃討した警備員の生き残りと、兵卒が一人。最後の二人は恐らく、ストレイジを相手にしては人数にも入らないだろう。
 この兵士詰所には、彼と同じような境遇の兵士が八十人いた。その八十人を各所に分散させ、敵の包囲殲滅を図ると言うのだ。承晩に忠節を誓っている大半の兵士は疑問すら持たないが、突然変異を起こした化物たちが小樽港で捨て駒にされたのを目の当たりにしている自分にとっては、祖国のために日帝を打ち滅ぼすならともかく、そんな無茶な作戦で死のうなどとは到底考えられない事だった。
 それが視線を合わせてしまった原因だった。
 
 そして今、彼は小川に沿って歩いていた。
 明らかに雨が降り出しそうな曇天模様をよそに、小川はゆらゆらと穏やかに流れていた。
 
 ――生きて帰る事が叶わないのなら、せめて小山田少尉とは鉢合わせしませんように。
 ジュンナンに利用されながらも健気に忠義を尽くしていた彼女。ある程度冷静に考えをまとめられる兵士なら、彼女が物としか見られていないことに気付くのは当然だった。中隊を用いて幾度と無く鎮圧に失敗している屈強な反乱軍の鎮圧に、小隊を率いさせて向かわせたり、治安の悪いソウルで、民間人に紛れた韓国軍の残党の中心人物十名の殺害を一人で行わせたり。軍に血縁など関係ない、というのがジュンナンの口癖ではあったが、彼女をあえて苦境に追い込んでいることは明白だった。
 特にパク科学研究院長の暗殺から帰還したときの彼女への態度は、酷かった。
 軽い失語症にかかっているようです、と報告した自分がいる事すら忘れているのか、平然と「使えん娘だ」と言い切った冷酷な瞳。あの言葉は、軍への忠誠心を揺るがした。
 
 そう考えながら、彼女に鉢合わせしたくない、という自分と、失語症の治療をした自分を覚えていてくれてるんだろうかと、確かめたい自分。
 自分に同情以上の感情が芽生えている事は明白だったが、彼女が完全に敵方についてしまった今は、もう叶わない思いだった。
 空虚な笑顔の裏に隠れた、悲壮。
 それが彼女の人生をそのまま写し、また魅力として成している部分でもあったが、あの笑顔を思い出すと、胸が苦しくなる。
 自分達がストレイジとしてではなく、ただの市民として出会っていたら……。
 
 ――やめよう。
 捨て駒として切り捨てられた今、希望は無い。
 ……せめて敵に一矢報いてやる。
 結局のところ、何も考えない兵士と同じ行動を取る事になったが、仕方が無い。彼もまた、自分が生きていた証、それがどうしても欲しかったのだ。
 彼は小川に沿って、ひたすらに歩き続けた。
 
 そして彼は……多々良一郎と鉢合わせてしまった。
 武器として配られたのは、一本のナイフ。弾薬は白石の戦いのせいでここまで届かなかった"らしい"。
 そのナイフを構え、水筒を手に持つ対象めがけて、切り込む。しかし対象は水筒を放り投げて小銃で受け止め弾き返す。
 
 こんな、こんな刃物一つで何が出来る……!
 ストレイジだろうがなんだろうが、これじゃあどうしようもないじゃないか……。
 ナイフを弾かれた彼は、一郎に小銃の先端を向けられる。
「一人目……」
 ――俺の人生は、一つの数字として処理されるのか。
 
 一人の名も無き兵士の残滓が、川底に沈んだ。
 
 
 
 
 兵士を見下ろす自分の目が、酷く残忍な性質を帯びているように感じ、瞳を閉じた。……今の自分は、確実に悦楽を感じていた。小銃を向けると、揺らぐ相手の瞳。その瞳を見ることができた、その事がたまらなく愉しかった。
 人が殺したくて、殺したくて、仕方が無い。
 
 一郎は、目を開くとゆっくりと右手を動かし、自分がこの体を支配している事を確認した。突然の敵の襲撃で、能力が発露しそうになっていた。ただ純粋な、殺意。それが芽生える寸前で踏みとどまったと言う事は、発露"しそうになった"状態で、止まってくれたと言う事だ。
 恐らく原因は、迷いの込められた斬撃により、長引かなかった戦闘。
 冷静に考えながら、水筒とろ過器を背嚢(はいのう)にしまい込んでいると、ふと小川に沈む敵兵士の背嚢が目に付いた。
 何か手がかりを掴めるかもしれない、と思った一郎は、飛び散った脳漿(のうしょう)を手に感じながら、川底に沈んだ敵兵士の背嚢を引き上げた。しかしそこには期待したような事務連絡の記録などは一切なく、朝鮮語で書かれた医療用カルテ――恐らく軍医だったのだろう――が大半を占めていた。
 希望的観測でカルテを一枚一枚めくると、一郎はMs.Oyamada Ensignという文字の下に一枚の写真を見つけた。最終学歴が中学卒業の一郎に医療文書を読み取ることはできなかったが、その写真自体は興味深いものだった。
 髪が黒い、健やかな笑顔の千絵。今の顔より明らかに幼く、小学生のような顔をしていたが、今の無表情で髪色が薄い千絵にも、その面影は残っているような気がした。
 千絵の体に関係する文書かもしれない。
 一郎は文書を抜き取り、それも背嚢に詰めた。
 
 山頂に登ったとして、そこに確実に敵の拠点があるわけではない。
 そのことを念頭において、一郎は歩いていた。
 ひとまず一郎が目指していたのは、ロープウェイだった。とにかく疲労した体は雨を凌げ、休息が取れる場所を欲していた。幸運な事に、標識はまだ撤去されていなかったし、そこで雨を凌ぐ事が無理だったとしても、その周辺にあるらしい――時折標識に出てきていた――ロープウェイ管理者の小屋を探せばどうにかなるだろう。
 そして、予想よりも早く、予想よりも多量に、その雨は降り出した。
 
 
 
 
 完全に千絵を見失った武田は、近くにあった木の幹に手を付き、荒れる息を整える。
 ストレイジの走りに、自分が付いていけるはずは無かった。
 ……自分達は小山田にとって重荷でしかないのか?
 その考えが湧き出ると同時に、武田は幹にひらがなで彫り込まれた文字を見つけた。
 
 じろうをたすける。
 ……意外と、後先考えない性格なのか。
 任務という性質の中に閉じ込められていて、ここへ来てようやく現れ始めた彼女自身の性質。
 自分は今まで感じてきた"小山田千絵"の印象から、いつも冷静で、いつもしっかりとした判断力がある、と考えていた。だけど、その考えはもう取り払わないといけない。
 ……欠点、か。
 戦闘に関しては驚異的な能力を発揮するストレイジにだって、出来ることと出来ない事がある。
 今の今まで、その思考が、自分の無力さを恥じる思考に打ち消されていた。
 ……恥じたって、現状が変わる事は無いじゃないか。
 自分より能力的に優れる二人に気後れすることなく、時には励まし、時には諫める。そして二人が窮地に陥ったとき、助け出す。
 それが俺の……今、できることだ。
 大切なものをこれ以上失わない為に、自分がしなければならないこと。
 
 ふっと体が軽くなり、思考が明瞭になっていく。
 何を悩んでいたんだろう。ストレイジと張り合う必要なんかないじゃないか。
 ――俺は……弱いな。
 そう言ったのは、ついこの間だったか。
 自分の節操の無さが少しおかしくなり、それと同時に、心のどこかで感じていた一郎たちへの羨望、嫉妬。そういったものが抜けていったような心地になった。
 
 とにかく、勝手に行動したあいつらをここへ合流させないといけないな。
 武田は元来た道を戻りながら、既にその方法を考え始めていた。
 
 ……死ぬなよ、一郎、小山田。
 
 
 
 
 相変わらず鉄板を打ち続ける雨は、周囲の音を遮断するほどの轟音を発しながら木々を揺らす。
 豪雨に打たれながらも、ようやくロープウェイまで辿り着いた一郎は、濡れた専衛軍の上着をロープウェイ乗り場の鉄柵に引っ掛け、ロープウェイの進行方向を見据えていた。車体自体は老朽化で廃止というのも頷ける錆び具合だったが、それを支えるロープはそれに比べるとまだ新しかった。
 標高は千八百メートル程度……普通だったら一日あれば登れる距離だ。しかしこの悪天候に加えて、足場の悪さ、自身の体調、精神面の不安を考えれば、仕方が無い事だった。
 ――この調子で行ったとして、次郎は、助け出せるのか?
 今回は、敵のことを甘く見ていた。小野さんに預けたと言っても、敵には自分より能力に優れ、中隊一つを単独で潰せるような兵士たちが何人もいる……。
 自分は、隣に次郎がいても果たして守り切れていただろうか。
 
 次郎は……昔から無口で、自分とそっくりだった。楽しく談笑した事など、ほとんど思い出せない。それに最近は、次郎を見ているときは自分を見ているような心地になって、それが嫌でわざと次郎を遠ざけるようになっていた。
 次郎がいじめられていると分かったときも、夏樹が学校に行ってくれて良かった、と思っていた。自分が行っていたら、そんな次郎のことで面倒に巻き込まれたくないから、教師の言う事を鵜呑みにして帰ってきていたと思う。
 それを知ってか知らずか、次第に次郎も自分に話しかけようとはしなくなり、小野医院に居候している安藤の所へ遊びに行ったり、夏樹の買い物に付いて行ったりして……。
 今思い出すだけでも、嫌な兄だった。
 
 次郎がいなくなったと分かったとき、今更そのことを後悔した。
 ……まだ、何もしてやれていない。そう、思った。
 千絵や夏樹が想像しているような、純粋な感情じゃない。
 汚い兄の、陳腐な自尊心。それを満たす為の行動。
 失うまで何もしない、馬鹿な兄の、押し付けがましい偽善。
 自分がこんな感情で動いているなんて、みんなは知らない。
 今は、上辺だけしか、見えていないから。
 千絵、夏樹、武田、安藤、宮沢。みんな、綺麗で純粋な、上辺だけを眺め合っているだけだ。汚い底辺は、見えていない。
 
 自分を追って、誰かが来てくれたとしたら、言いたい。
 次郎のことは嫌いだ。でも、兄としてまだ何もしてやれていないから、そんな自分に責任を感じたくないから、失いたくない。
 そう、言いたい。
 そして、訊きたい。その人の、奥底にある、必ずある、暗い感情を。
 
 そこまで考えた一郎は、小銃を手に、ロープウェイ乗り場を降りた。
 眠るためには、まず周囲の安全を確保しないといけない。
 
 
 
 
 千絵は豪雨の中、ひたすら走っていた。
 次郎を連れているのなら、まだ追いつけるかもしれない。あくまで希望でしかなかったが、それでも諦め切れなかった。
 ここまで懸命なのは、たぶん他人の為じゃない。任務に対する反射付け、任務に対する恐怖心が、自分の足を動かしている。それが例え非公式で、軍に関係ないことでも、しなければならない、という意識が先行してしまうと、力が上手く抜けなくなる。
 
 突然、体調不良とは違う感触が全身を駆け巡る。
 夏樹の言った通りだった。
 ……発作が、始まる。
 そう思ったときにはもう遅く、頭が割れるような痛みと共に、走る力が段々と弱まり、千絵はその場に崩れ落ちた。心臓が張り裂けそうな勢いで早鐘を打ち、呼吸器系は完全にやられ、ただただ異常な速度の呼吸を繰り返すだけで、何も考える余裕などはなくなっていた。右手で左脇腹の辺りを掴んで痛みに堪えながら、千絵はその小さな体を豪雨に晒し続けた。
 ……限界か。
 
 
「お前が小山田か? それとも"対象"の妹か?」
 しばらくうつ伏せになり、気を失いそうで失わない途切れ途切れの意識の中、千絵はその言葉を聞いた。
「お前が小山田かって聞いてるんだよ……!」
「っ……」
 背中に当たる軍靴の感触を感じながらも、千絵は指一本動かせそうに無いほど消耗していた。
「どっちにしろ、女だ」
 男はそう言うと、うつぶせに倒れこむ千絵を蹴って仰向けにした後、千絵が穿いている専衛軍のズボンをナイフで裂き、剥ぎ取った。
「ん……」
 千絵は下着の上から感じる指の感触に強い不快感を感じ、体を動かそうとするが、どの筋肉も弛緩し切っていて力が入らなかった。
「恥かく前に、さっさと認めちまえよ」
「や……め……」
 千絵の表情を見て楽しそうにしている男の指が下着を割って入り、さらに奥へと入り込もうとしたとき、突然男は脳漿を撒き散らして後方に吹き飛んだ。
 
「クズが……」
 声は一郎のものだったが、視線を移した千絵が見た敵を見下ろすその目は、"狂気"……そのものだった。
 
 
 
 
 一郎は敵兵士の衣服、主要な装備を全て剥ぎ取り、下着姿になった頭の無い兵士を一瞥してから千絵を背負った。千絵が口を開いて何か言ったようだったが、雨に遮られて聞き取れなかったので、そのまま元来た道を戻る。
 千絵は自分を掴む力すらないのか、放って置くと落ちてしまいそうになったため、一郎は何度か彼女を背負い直した。
 途上、木の幹に掴まりながら、千絵を背負い急な斜面を歩くのは、非常に体力を消耗する行動だった。
 なんとかロープウェイ乗り場への階段まで辿り付いた一郎はそれを登り始めたが、最後の段に足を引っ掛け、千絵を背負ったまま倒れこんでしまった。その衝撃を受けても微動だにしない彼女をゆっくりと脇に除けて、小銃を支えにして立ち上がった一郎は、さきほど敵兵士から奪った衣服を千絵に被せ、近くの壁に背を預けて座り込んだ。
 焦点の定まらない目を閉じ、徐々に弱まりつつある、"一郎"という体における、自分の支配を感じる。この体を明け渡してしまう事へのどうしようもない恐怖が、休息という休息を阻害する。
 
 もう嫌だ……俺を自由にしてくれ……!
 
 
 
 
 精神的な限界……それを感じると、どこからか既視感のような感覚が漂ってきた。
 何故だろうと思って目を開けると、目の前に座る千絵から伸びた手が、自分の頬に添えられていた。
 ……分かってくれるのか、千絵は。
 それは、今までに味わった事の無い、どんな言葉をかけられても味わう事の出来なかった、本当の安心感だった。
 
 江別駅からは、目を閉じても眠れてはいなかった。ストレイジが表に出てきたときも、捕虜収監所の夜も、眠って自分の意識を途絶えさせないよう、必死に抗っていた。テントのときのように目を閉じながら意識を失う事はあっても、失った意識のどこかでストレイジを牽制していた。それはとても休息と言えるほどの充足した睡眠ではなかった。
 
 
 だが、そんなことがまるで初めから無かったかのように、伸ばした手の先にあるはずの千絵の表情を捉える前に、一郎は眠りに落ちた。




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