19

 八月十四日、午後二時十三分。
 頭上で青々とした草木が風に揺れ、なだらかな傾斜ながらもぬかるんだ傍ヶ岳の山道を一歩一歩確実に踏みしめながら、一郎は極度の疲労を感じていた。
 標高は千八百メートルに及び、面積も広いこの傍ヶ岳は、それほど美しい景色が堪能できるわけでもなく、山頂から見下ろせる景観を頼みに栄えてきた山だったが、見下ろせる景観が壊され、マンションなどの高層ビルが乱立するようになった十年前には登山客も少なくなり、老朽化したロープウェイの廃止が引き金となって、数年前にはもうこの山に登るものはいなくなっていた。そして、三年前には私有地として立ち入りが完全に禁じられた。
 そのため道と言うべきものなどは無く、背の低い木々の狭間をくぐったり、時折現れる古い標識を確認したりしながら一郎は進んでいた。この状況を考えれば小銃を担いできたのは失敗だったが、今小銃を外し、敵にむざむざ弾薬を明け渡すわけにもいかず、今もしっかりと背中にその存在が感じられる。
 疲労の要因はそれだけではなく、数日前の豪雨でぬかるんだ地面、連日の戦闘による能力の酷使、水分不足による喉の乾きなど、様々な要因が絡み合っていた。そして今、その彼を引っ張っているのは、この場に、自分を誘い出す囮として次郎が囚われていると言う推察だけだった。
 極度の疲労の弊害か、何の障害もない平坦な道に差し掛かったところで、一郎は泥に足を取られて倒れこみ、折れた木の幹に背中を強く打ち付けた。
 ――この状況で敵が襲い掛かってきたら、どうする事も出来ないな。
 捕虜収監所から背負ってきた背嚢の中身がこぼれても、その下敷きになっている小銃が嫌な音を立てても、起き上がる力も無くなりつつある体を律し切れない。
 そして、諦めて目を閉じようとする一郎の耳に、その音は入り込んできた。
 山に来た経験の無かった一郎でも、その音は聞き分けられた。ゆっくりと立ち上がって、背嚢からこぼれた携行用ろ過器と目を合わせ、少し希望を取り戻した自分を確認し、音のするほうへと歩き出す。ぬかるんだ地面が相変わらず一郎の歩行を阻害していたが、しばらくして音源となっていた小川が眼前に現れると、そんなことなどすっかり忘れてしまっていた。
 
 先端に付いた吸水口を使い、少しずつ水を蒸留させてろ過する。この奇妙な形をした携行用ろ過器は、エキノコックスに代表される微生物や虫卵をほぼ完全に排除してくれる。持ち主はこの装備を使い込む前に殺されてしまったらしく、フィルターは新しかった。
 暗くなりがちな思考を遮り、一郎は蓋を外してその水を水筒に移し変える。そして蓋を閉じてその作業を再開する前に、水筒の水を一気に飲み干す。
「ふー……」
 思わずため息が漏れるほどの冷たさ、美味しさに、今まで感じていた疲労が一時的に緩和されたような気分になった。
 作業を続けながら、曇天模様の空を見上げた一郎は、どこかで雨を凌ぐ場所を探さないとな、と思った。
 
 
 
 
「待って! 夏樹が倒れた!」
 傍ヶ岳を登り始めてから、何度目かに後ろを振り返った千絵は、前を歩く武田と安藤に呼びかけてから、岩が自然に作った段差を駆け降り、少し遅れ気味について来ていた夏樹を抱き起こした。
「まだ行ける気がしたんですけど……」
 申し訳なさそうに笑った夏樹を見て安心した千絵は、石段の一段上から覗き込む武田と安藤を交互に見る。安藤は視線を合わせようともせず立ち上がり、武田は諦観の眼差しで千絵の視線を受け止めていた。
 
 ……視線くらい合わせてくれてもいいのに。
 千絵の背嚢を背中に、武田の背嚢を左肩で担ぎ、拳銃を持つ右手で木々を掻き分ける安藤に少し不快感を抱きながら、千絵は足を取られないようにしっかりと地面を踏みしめて歩いていた。
 前を歩く武田が背負う夏樹の足は、存外と言うべきか、当然と言うべきか、擦り傷や切り傷が目に見えて多かった。中には相当深く切れているものもあった。
 身に付けているものが防弾ベストと、高校というところで定められたスカートだけ、というのは早いところ解決してあげたいことではあったが、千絵より少しだけ身長の高い夏樹の体格に合うような服は、以前白石陣のテントで見つけた、今自分の着ている軍服――恐らく女性兵士のもの――くらいしかなかった。
 そんなことを考えながら歩き、足元をおろそかにしていた千絵は、何もないところで滑り、地面に背中を打ち付けた。自分の用意した背嚢は、昨日の戦いでの疲労を気遣ったらしい安藤が背負ってくれていたが、衝撃で武田から預かった小銃を取り落としてしまった。
「痛い……」
 仰向けに倒れたまま小さく呟いた千絵は、木々の間から見える曇天模様を呈す空と目が合った。千絵は誰に見られているわけでもないのにどことなく恥ずかしくなり、肩に担いでいた小銃を拾って、すぐに立ち上がり、武田の後ろに付いた。
 昨日は結局二時間くらいしか寝る事はできなかったものの、すぐ立ち上がれたのだから疲労はそれほどではないようだった。これは自分の奇異な能力が関わっているかもしれない。今も疲労に襲われているはずの安藤や武田のことを考えると、夏樹を背負うことすら出来ない非力な自分がひどく情けないような気がした。
 
 しばらく黙って歩き続けていると、突然、凄まじい雷鳴とともに、激しい雨が降り始めた。
 安藤がこちらを振り向いて何か言ったようだったが、信じられないほどの激しい降雨は、山を囲む木々に叩きつけられると、轟音を発してすべての音を掻き消してしまっていた。聞こえない、と自分が発声しうる最大の音量で安藤に向かって叫んでみたものの、安藤の声でさえ届かないのに、自分の微小な声で届くはずもなく、彼も同じように千絵の声が聞こえてないようだった。安藤もそのことに気が付いたのか、ゆっくりと口を動かして言葉を伝えた。
「休めそうな場所が見えた」
 完全に読み取れたわけではないが、だいたいそのような内容の事を言っているようだった。少し開けた場所に出たので、いまだ夏樹を背負う武田に並んで、平坦な道を歩き始める。
 三人ともしばらく無言で歩くと、先に進むための道は三つに分かれていた。そのうちの左に曲がる所は、今いる場所より一段階下になっていて、また逆戻りをするような変則的な道になっていた。安藤はそちらへ進んで行った。千絵は冷たい唇を軽く噛みながら、その斜面をゆっくりと降りていった。
 そこからさらに十分ほど歩くと古い小屋があって、入り口には"ロープウェイ管理者常駐"と書いてあった。この程度の漢字なら読める、と少し安心した千絵は、こんな所に人が居るのかと思い、薄く曇った窓から中を覗いてみたが、小屋には人から忘れ去られて久しい光景が広がっていた。
 
「薪がないからストーブは燃やせないけど、薪なんて朝になったら探せばいい。それに、外にいるよりはいいだろ」
 一通り小屋の中を物色し終えた安藤の声が、重苦しい小屋の沈黙に彩られ、良く響いた。相変わらず外では豪雨が止む気配は無かったが、幸いこの小屋にいれば直接雨に打たれることもないし、声が聞き取れないなんていうことも無かった。
 しかし、濡れてしまった服が奪う体温や、全身に感じさせる不快感まで拭い去る事はできなかった。幾分かは戻りつつある唇の温かみも、ほんの気休めにしかならない。
 本当に寒い……。
 背嚢の中身の大半を占める救命道具を使って、夏樹の切り傷の消毒をしながら震えを抑えている体は、時間が経つ度に千絵の脳から思考能力を奪っていく。それに比べると、時折消毒する時に顔をしかめる夏樹は、寒さに関して平静を保っていた。
 消毒を終え、一番程度の大きかった太腿の切り傷に処置を施す。そして最後に包帯を巻き終わったとき、夏樹に突然額を手で覆われた。
「……やっぱり。すごく熱い……。千絵さん、さっきから顔色悪いし……」
「大丈夫。少し頭痛がするだけだから……」
 軽くため息を付いて、薄闇の中で安藤と視線を会わせた夏樹は、言った。
「安藤くん、薪を……」
「僕は嫌だからな。こんな雨の中……。いつ敵が襲ってくるかも分からないって言うのに」
「……じゃあ、いい。私が一人で探しに行く」
 安藤の言葉を聞き、すぐに小屋を後にしようとした夏樹。そしてその腕を反射的に安藤が掴み、振り返った夏樹は笑った。
「お願いね」
「………」
 扱い慣れている、と千絵と武田は同時に感じた。
 
 
 
 
 安藤は、今の時間――午後六時四十三分――から一時間経っても戻ってこなかったら探してくれ、と言って腕時計を千絵に渡し、小屋を出た。
 
「安藤は一人で大丈夫なのか?」
 安藤が出て行ってしばらく経ったころ、武田は濡れた上着を脱ぎ、うずくまる千絵の肩にかけてから、言った。
「安藤君は、私より強いし、大丈夫だよ」
 顔を上げ、震える唇でなんとか言葉を搾り出した千絵は、またうずくまる。
 いつもより熱を持つ全身と、激しい頭痛。発作とは違う、初めて味わう感覚に戸惑っている自分が、非力な自分と同じようにまた、情けなかった。
「私……って、足手まといになってる、よね……」
 ひとり言にもならないような声量で、千絵が呟く。隣で背中を擦っている夏樹はそれを聞いて、半ば呆れたように言った。
「何度千絵さんに助けられたと思ってるんですか……」
「……でも、今は」
「しっかり休んで早く風邪を治して、二人を助ける……それじゃ駄目ですか? 残念だけど、今の千絵さんは風邪のせいで極度に抵抗力が落ちていると思います。気をつけないとストレイジの発作を誘発しかねません。小野先生の薬があればいいんだろうけど……」
「風邪? それってそんなに厄介な病気なの……?」
「……風邪、かかった事無いんですか? 症状自体は高熱、頭痛、咳とか簡単なものが多いんですけど、病気に対する免疫力が低下して……。体内に持病を抱えてる人とかは気をつけないといけないんです。ストレイジなんて未知の障害だし、特に」
「……詳しいね、夏樹」
「先生に聞いただけですよ」
 少し照れ笑いを浮かべた夏樹は、もう一度千絵の手を掴み、綻びる顔を引き締めてから、しっかりと視線を合わせて言った。
「風邪は、すぐ治ります。弱音なんて吐いてないで、治す事に集中してください」
 夏樹がそう言った後、小屋の奥のほうで武田の咳き込む声が聞こえ、千絵と夏樹は視線をそちらへ移した。彼は布団のようなものを押入れから引っ張り出し、その布団が被っていた大量の埃(ほこり)を宙に舞い上がらせているようだった。
「……要領悪いですねえ、もう」
 小屋の隅まで歩いていった夏樹は、未だ咳き込む彼の代わりに、布団の上に乗るほこりを払ってからゆっくりと引き下ろし、床の上に置いた。
「見つけたんだから……げほ……いいだろ」
「うわー……すごい埃」
 後ろを向いてまた咳き込み始めた武田の頭に付いた埃を払った夏樹は、自分が下ろした布団を見て、少なからず驚きの表情を浮かべていた。そして彼女は武田に抱きつきそうな勢いで武田の肩をばしばしと叩くと、咳がようやく止まり、面倒そうに振り返った武田の表情も凍りついた。
「……武田さん戻してくださいよ」
「俺が、これを……?」
「私、虫は無理です」
「………」
「……武田さん?」
「……分かったよ。やる。やればいいんだろ」
 自分に言い聞かせるように呟いた武田が、布団に近付き、逆に夏樹は布団から離れる。武田がゆっくりと布団の端を掴み、折り畳む。武田はそれを抱え上げて押入れに戻し、勢い良く押入れの扉を閉めた。
「どうしたの?」
 動作は見えたものの、押入れの閉まる音しか聞き取れなかった千絵は、不思議そうに武田を見上げた。
「……あの布団は、使えそうに無い」
 
「使え」
 腕に抱えた薪をばらばらとストーブの近くに放り投げた安藤は、額から多量の血を流しながら、七時三十五分に帰ってきた。
 そして安藤は、自分を注視する三人を無視して、救護用品の中から大きめのガーゼを取り出し、その患部へとあてた。
「使わないのか?」
 額を押さえながらやや不機嫌に言った安藤に促され、夏樹は古いストーブの中に薪を入れた。
「紙を燃やして入れれば、薪に燃え移るはずだ」
 そう言った安藤の手元から武田の足元までライターが滑走し、武田はそれを拾い上げる。武田は安藤に向かってライターを軽く上げてから、背嚢から雨で濡れたノートを取り出し、一番後ろの部分を破って、火をつけた。そして紙をストーブの中に放り込んだ。
 
「……小山田。お前、同じ承晩の部下の顔は分かるのか?」
 徐々に暖かくなっていく室内の沈黙を破ったのは、帰ってきてからずっと部屋の片隅で黙り込んでいた安藤だった。彼が乾パンをかじっているのを見て、落ち着いた様子の出血を確認した千絵は、ぼんやりとストーブに焦点を合わせながら言った。
「……もしかして、敵が?」
「ああ。黒髪の……女だった。……背は小山田より少し小さいくらいだったか」
「その人……殺した?」
「いや、接近戦になって肩に一発打ち込んだだけだ。そうしたらいきなり逃げ始めた。だけど、僕は逃げ始める前に額を割られて……追えなかった」
 最後の一言がひどく悔しそうに聞こえた千絵は、ここが敵の拠点であるかもしれないという推察が少しずつ現実味を帯びてきたのを感じた。
「……今までの五人一班とは、動きが違う」
「敵は一人?」
「物陰にもう一人いたような気がしたが……いや、どっちにしろ直接戦闘したのは一人だ」
 
 一人で安藤と戦える女、そう聞いたときに頭の中を巡っていたものが、彼の最後の言葉を聞いて、具体的な形を作っていくのを感じた。
 地図のメモ書き。あのメモ書きはどう見ても女……そして同年代。
 安藤君が会ったのも女。それが同年代だとしたら。
 そして今まで五人一班で行動してきたストレイジたち。その女が何か事情があって単独行動をしなければならなかった、先を急がなければならなかったとしたら。
 "物陰に隠れて見えなかった"のは……。
「安藤君、その女と会ったのは、どこ……?」
 突然立ち上がった千絵に、小屋を出てすぐ左に入った森みたいな所だ、と返す安藤。千絵はそれを聞いて、武田の上着を羽織ったまま、すぐに小屋を飛び出した。
 
 
 
 
 安藤が帰ってきてからしばらく経ったその森をいくら探した所で、次郎が見つかるはずはなかった。さらに激しさを増す頭痛、顔を覆う熱。
 
 しっかり休んで早く風邪を治して、二人を助ける……それじゃ駄目ですか?
 夏樹の声を心の中で反芻する。
 ――それじゃあ一郎は助けられても、次郎君は助けられないよ、夏樹。
「結局、一人の方がやりやすいのかな……」
 雨に掻き消される呟き。
 一本道の森の中、豪雨に打たれて佇む体を、帰路とは反対の方へ向ける。そして走り出した千絵は、彼女を追って小屋を飛び出し、その姿をようやく捉えた武田を、大きく引き離していった。




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