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 あの夏の空はその現実から逸脱した光景をただ見ているだけだった。
 そしてあの時の空は、ぼくのことを助けてはくれなかった。
 ただ、見ているだけだった――。
 
 
          ◆
 
 
 空は雲ひとつなく、空気はしっとりとした重さを持って人々の体温上昇を促す。
 そしてその太陽の下で、対向車とようやくすれ違えるかどうかという広さの私道を、一台のバイクが疾走する。
 少年は、走っていた。
 生きるためだけに、ただただ走っていた。
 すべては狂気から逃れ、妹と弟を守るため。
 男を乗せたバイクは、そんな少年の思いを踏みにじるかのように距離を縮めてくる。ただひたすら、生きたい一心で逃げる少年を追いかける。その鋭い眼光の持ち主は、いたって冷静だった。その様子は、中学一年の少年に、確実に迫る死への恐怖を伝えていた。
 そして男がさらにバイクを加速させて、今にも少年を轢き殺さんとしたその時、タイヤの近くで何かが弾けた。そして、あっさりとパンクしたタイヤに引っかかり、バランスを崩したバイクは大きな音を立てて横転する。
 横転の際の音に間髪いれずに、少年の危機を救う二度目の銃声が閑静な住宅街に響き渡った。
「大丈夫か?」
 逆行の中で倒れこんだ少年に手を差し伸べた男は、言った。
 
 専衛軍……?
 薄れ行く意識の中で、少年はその軍服だけを脳裏に焼き付けていた。
 
 
          ◆
 
 

 瞬間、少年の目が大きく見開かれた。
 額から一筋の線を描くようにとめどなく滴る汗、まるでフルマラソンを走り終えたばかりのような息遣い。
 しばらくすると息は秩然と平静を取り戻し始め、汗も引いていく。ゆっくりと起き上がり、辺りを見渡してみるが、どこにも先ほどのような光景は見当たらない。いつものパジャマ姿、いつもの低い天井、いつもの妹の寝顔……。
 夢……か。
 熱くなった目頭を押さえた多々良一郎は、気を紛らわすかのようにキッチンで朝食を作り始めた。
 だが、作る、といっても一郎が作れるのは目玉焼きとパンのトーストのような、簡単な食事だけだった。
 しばらくして、目玉焼きの香りに誘われたのか、布団で寝ていた夏樹も次郎も目を覚ました。目を擦る仕草や、顔を洗う様子はさすが姉弟というほどに似ている。もしかしたら自分もこんな仕草を無意識のうちにしているのかもしれない。
「いただきます」
 それぞれ一通りの身支度を済ませた後、テーブルに集まり声を合わせ、さっそく朝食を食べ始めた。といっても、四畳半で合同トイレ、さらに風呂なしのこの部屋では常に全員が集まっている状況なのだが。
 テレビから流れる、有事に対する憲法改正や、北朝鮮の核再開発疑惑に関する法案で与党が強行採決、といったニュースに耳を傾けていた一郎が、目玉焼きに手を付けようとしたそのとき、不意に美人キャスターが画面上から消え、何の意味を持たない白と黒だけの画面になった。
「あれ……」
 買い換えたばかりのテレビから聞こえる、傘が雨に打たれるときのような雑音は、一郎をあざ笑うかのように、なおも主張を続ける。
「何でテレビ消えたの?」
「……わからない」
 一郎は、次郎が問いかけた疑問に答えながら、アンテナがしっかり張れているかを確かめるためにベランダへ出た。 コーポ東山のベランダはベランダとすら言えない広さで、人ひとりが入りきる程度の広さしかない。そしてその狭い場所からアンテナの方を覗き込むと、隣の大沢さんと目が合った。
「大沢さんのお宅もですか?」
「……ああ」
 低くてしわがれた声は、これもまたいつもと変わらない。ここに住んで二年になるが、この人の職業は何なのか、いまだに謎だった。しかし、大沢さんは無駄話を好む人ではないと言うことだけは分かっていたし、こちらも時間がない。挨拶もそこそこにアンテナをもう一度確認する。
 だが何度確認しても、アンテナに異常は見当たらない。さらに、これ以上時間をかけると出勤に支障が出てしまうので、帰って来てから調べることにした。
 一郎がアンテナを確認している間に、次郎はもう学校に行き、夏樹の登校の時間になっていたようだ。夏樹は金の関係でどうしても遠くの県立高校に入らなければなかったので、毎朝一郎がバイクで送り迎えをしていた。仕事に行く前と終わった後に高校を回っていくのは少々負担になるが、夏樹を人並みに高校に進ませるためには、仕方のないことだった。
 一郎は急いでテレビを消し、部屋の戸締りを確認してから共同玄関を駆け抜けた。玄関を出て少し離れたところにある小さな駐輪場では、夏樹が退屈そうに空を見上げていた。
 一郎は慣れた手つきでバイクにまたがりエンジンをかける。夏樹も一郎の後ろに体を乗せた。一郎はそれを確認すると、アクセルをかけてコーポ東山の駐輪場を出た。
 
 
 そして、走り出してすぐ、一郎は夏樹の異変に気づいた。いつもは、後ろに乗っていると言ってもさすがに距離を置いていたが、今は背中に彼女の感触を確かめることが出来た。さらに言えば、その体が異常に熱い。この真夏ににぴったりとくっついているから、というわけではない。手も、顔も、背中に感じるすべてが熱い。ちょうど赤信号で止まったのでゆっくりと彼女に視線を移してみると、体が示す熱さの通り、前のめりでぐったりとしていた。顔も絵に描いたように紅潮している。
 一郎はこういうときの彼女の強情さを知っているので、何も言わずに病院の方向へと車体を返した。迷惑をかけたくないという気遣いはありがたいが、たった二人しかいない肉親の体調を顧みないわけにはいかない。
 
 病院の正面玄関にある駐輪場に着き、夏樹の頬を何度か軽く叩くと、彼女はようやく気が付いた。
「学校ついた?」
 彼女は努めて明るい声を捻り出して顔を上げた。
 バイクが学校とは正反対の道を十分近く走っていたのに、ここへ来てようやく学校ではないことに気づいた夏樹は、一気に気が抜けたらしく、一郎のほうに倒れてきた。
「重いって……」
 高校一年の妹に向かって無礼極まりない発言をした一郎は、すぐに夏樹を背負って歩き始めた。面倒見のいい小野先生なら、すぐに診てくれるはずだ。
 

「急性胃腸炎だな」
 齢六十を過ぎたと思えぬ芯の通った声で言われ、少し動揺したが、風邪の別称であることが分かり、ほっと胸をなでおろした。
「よくもまぁここまで我慢したもんだ。二日だけだが……入院が必要だな。じゃ、私は事務処理があるからこれで」
 小野は一方的に会話を打ち切り、診察室を出て行った。相変わらずのマイペースぶりだなと感心しながら、一郎もベッドへと歩き出した。
 階段を上がり、渡り廊下を通った先にある病室では、夏樹はキャスター付きで移動可能な点滴の器具を枕の近くに置き、装飾も何もない簡素なベッドに腰をかけていた。
「……また私のせいで通勤時間が遅れちゃうよね」
「なんでそう俺の方の心配をするかな……今病気してるのは夏樹の方だろ。仕事の方は休みを取っておくから心配しなくても大丈夫」
「休み? 取れるの?」
「……いつも家事ばかりやらせてるし、せめてもの恩返し」
「そんなに大した病気じゃないのに……大げさだよ」
 夏樹はそう言うと、ゆっくりと布団を剥がしてその中に潜り込んだ。
「そこまで言うのは大げさだけど……やっぱりだるいから寝るね」
 一郎は目を閉じた夏樹の顔をしばらく見ていたが、仕事のことを思い出してポケットから携帯電話を取り出す。彼女の点滴器具を見てここが病院であることを思い出した一郎は、渡り廊下を歩いて階段を下り、少しの間まっすぐ歩いて玄関から外に出た。そして手に持った携帯のアドレス帳から勤務先の電話番号を探し出し、発信ボタンを押した。しかし、何度掛け直しても、無機質な機械音が流れるだけで、一向に携帯が繋がる気配はない。
 一郎は諦めて二つ折りの携帯を畳み、病院の中へと戻った。
 
 病院内に戻った一郎は、中庭のすぐ近くにある螺旋階段を上った。そして廊下を右に折れてから少しの間歩き、院長室の扉をノックした。しばらく返答を待つ。
 しかし何の反応もなかったので勝手に入ると、小野は電話の受話器を振り回していた。
「……何してるんですか?」
「電話が繋がらない。留萌の医療品を運んでくる会社と連絡が取れないんだ。一郎、宗一が死ぬまで工業校に通ってただろう。どうにかならないのか」
「……いや、工業校っていったって、中等課程までしかいなかったから。それに原因が機械にないとしたらどうしようもないですよ」
 よく分からないという顔をしている小野に、先程自分の携帯で何度かけてもつながらなかったことを話した。
「そうか……一郎のも繋がらないのか。お前の体に関係する物を取り寄せようとしたんだが、仕方がない」
 と小野は言った。
「今日は木曜日で診察も休みだから、ゆっくり休んでいくといい。最近は働き詰めだったんだろう?」
「そう、ですね。……夏樹の看病もしなくてはならないので、少しの間だけ」
 一郎は、雲の狭間から時折顔を覗かせる太陽を一瞥してから、ゆっくりと院長室を後にした。




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