2章終幕

 目を覚まし、起き上がった武田は、まず目に付いた水を手に取った。結局食料を探す前に寝たんだったか、と徐々に明瞭になっていく脳内を感じながら、水をむさぼるように飲んだ。二リットルより小さなペットボトルに分けてあった水は、十秒も経たたないうちになくなってしまった。
 まだ血痕の乾ききっていない床を見渡しながら、武田は手にあの紙の感覚が無いことに気付いた。自分をここに運んだのは……。
「……小山田、俺が手に持っていた紙、分かるか?」
 扉の前で膝を抱えて座り込んでいる千絵に、訊いた。夏樹はまだ眠っているようだった。
「……一郎に、見つかった」
「そうか。……一郎は、もう行った……よな」
「うん」
「追いかけないのか?」
「うん」
 武田は軽く息を吐くと、立ち上がった。そして荷物をまとめてある所へ足を運ぶと、背嚢に入れておいた無線を取り出し、宮沢の持つ無線の周波数へと合わせる。
 相手が応答するまで待ち、繋がったのを確認すると、武田は口を開いた。
「様子はどうだ」
「今はこっちが押してる。国連のレイソン中尉、あれはなかなかの熟練者だな」
「そうか。増援は要らない……か?」
「地上は国連が陣取ってるから、今行くのは危ない。敵だと誤認される可能性がある。そっちの人数は何人だ? 五六人いれば上に連絡しておくけど」
「……戦闘要員は二人だ」
「さすがにそれは無理だな……余計な混乱を招くだけだ」
「そうか。分かった。邪魔にならない程度に行動する」
 武田が無線を切ろうとしたとき、宮沢が言葉を繋げた。
「そういえばここに安藤って奴がいるんだけど、知り合いか? 一般人らしいけど、妙に戦闘慣れしている……できれば民間人は巻き込みたくないから、お前たちと行動してもらいたいんだけど」
「安藤が? ……あ、そいつに代わってくれ!」
 
 
 
 
「安藤がこっちに向かってる。事情は……話さなくて良かったよな?」
「ん……どうして安藤君が?」
「一郎を助けたくないのか?」
「……無理だよ」
「……何がだ?」
「拠点にこんな少人数で行くなんて、みんなジュンナンを甘く見過ぎてる」
「……このままだと一郎は捕縛されるぞ」
「ジュンナンの私兵は百人を越えるの。ここまで殺した兵士だってせいぜい十人……九十人が私たち五人に殺到する。そんな所に……」
「そんなことはどうでもいい。一郎がこのままいなくなってもいいのかって訊いてるんだよ」
 武田は千絵の視線にあわせるため腰を落とし、目の前にある千絵の瞳を見つめて言った。多少語調の強まった自分を感じたが、視線は外さない。
「……嫌に決まってるじゃない」
「じゃあ、どうして……」
「怖いの! ……ジュンナンが、本当に怖いの……」
 千絵はその声を皮切りに、目元に涙を溜め始めた。武田は立ち上がって視線を外し、少しバツが悪そうに雲行きが怪しくなってきた空を見上げる。泣くほどの事か、と言いそうになる口の動きを堪え、自分の意思ではどうにもならない、絶対的な力が働いていたであろう、あの時の千絵を思い出していた。あの時、自分が彼女を救い上げる事の出来なかった、絶対的な力。
 これから自分が戦っていくのは、その絶対的な力……。彼女がこのような状態に陥るのは、仕方が無い事なのかもしれない。
 しばらく自分の置かれている状況も忘れてそんなことを考えていると、突然扉を開く音が聞こえた。武田は立てかけてあった小銃を構えようとするが、扉を開けた手に容易く押さえつけられ、小銃の先が自分の喉下にまで押し下げられた。
「武田、油断してたな?」
「……考え事だ」
 グロックをくるくると回して腰にかけた安藤を見て、武田は警戒を解いた。
 扉が開かれたことによって、思い切りその重厚な扉に頭を打ちつけた千絵は、小さく呻き、右手で後頭部を擦(さす)りながら、壁に向き直った体を立ち上げた。
「……泣くほど痛かったのか?」
 大真面目な目で、こちらを振り向いた千絵の表情を捉えている安藤を見て、思わず噴き出しそうになった武田だったが、機転を利かせて、安藤は夏樹を起こしてきてくれ、と言った。
 頭を擦る手を止め、少し哀しげに笑った顔がこちらを向いた。ここでどうにか説得しないと、一郎を助ける事ができない。そう思って、今の自分で考え付く言葉を千絵にぶつけた。
「……俺だって怖い。小山田が敵わないような敵に、俺たちは挑むんだ。怖いに決まってる。小山田がどんなに恐怖を植えつけられている境遇にいたか分からないけど、それは誰だって同じだ。一郎だって、何が待っているかも分からない所で、死にたくない。俺だって、小樽港で倒れていった人たちのように簡単に、死にたくない。だから怖い。でも、それを克服できて初めて、勇気が生まれるんじゃないのか? それを克服できて初めて、俺たちは窮地に陥った他人のことを救えるんじゃないのか?」
 予想外に早く入り口へ戻ってきていた安藤と夏樹を視野に入れながら、千絵を見る。
「克服して……生まれる勇気」
 そう繰り返した千絵の顔に微笑が零れ、言葉を繋げようとしている彼女がいることに武田は安堵し、立てかけてあった小銃を、再び手に取る。
「……武田君、ありがとう。少し、元気が出たかもしれない」
 
 地図だけを見て大体の事情を飲み込んだ様子の安藤が、夏樹に事情を説明しながら先に荷物をまとめて出て行き、武田は、焦って荷を詰める千絵に目線を移す。
 その胸には、確かにその胸には、白い珊瑚のペンダントがあった。
 
 
 夜になると淡い光を発する、青い珊瑚のペンダント。ここへ着いた昨日の夜、右手に乗せて、その様子をじっと眺めていた。
 ……もう、付けられる。
 ペンダントを買った自分。付ける必要も感じず、しかし手放せなかった頃の自分。この青い光を嫌悪した自分。そして今、このペンダントを受け入れた自分。様々な要因の上に成り立ち、生きている自分を感じながら、武田はそのペンダントを身に付けようとした。だが、遺体を埋めたときの泥のせいで、上手く付けられない。
「それ、貸して」
 いつの間にか武田に近付いていた千絵が、右手を差し出した。
 千絵の手も戦闘の時に付いた返り血で同じような具合だったが、その血痕の下にある白くて細い手は、器用にペンダントの円形を崩すと、それを武田の首にくくり付けた。
 三年前と変わらない身長差、三年前と変わらない動作、三年前と変わらない感覚。
 
 ペンダントを付けた後、少し微笑んで自分に視線を合わせてからこの場を後にした千絵の背中を目で追う。
 
 三年前と今、変わったもの、変わらないもの。
 俺はこの戦いで、それを証明していく。
 証明できる力があるかは分からない。だけど……。
 
 小銃を握った手に自然と力が入っていくことを感じながら、武田は扉を開ける。
 その先に広がっているのが、どんな世界でも、前へ、進んでいく。
 あの笑顔を、もう二度と、失ってしまわないように。




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