18

 朝鮮の新型核『agnea』により、関東全ては"消滅"したと聞くが、旅行旅行と毎月騒ぎ立てる母と、仕事で本州各地を飛び回る真美子なら、どこかで生きているかもしれない。だってこの間まで、あんなに元気で、あんなに懸命で、あんなに愛し合っていたじゃないか……。
 あの二人が核で、生活の痕跡もなく、遺体すら葬れずに俺の目の前から消えてしまうなんて、到底信じがたい話だろう……?
 室崎敏美伍長は、東京に残してきた家族の事を思い出していた。
 人数不足で全ての人員が駆りだされている今、ぼうっとしているとすぐ飛んでくる、職務中は気を抜くな、という鉄拳はない。しかしやる気が出ないのはそれだけが原因ではなかった。室崎は、そもそもこの任務内容自体に納得がいっていなかったのだ。
 一人の市民を守るために五人の兵士を付ける?
 白石陣の弾薬・装備は朝鮮より未だ多い。しかしそれを射出するための人員は朝鮮よりも少ない。連合軍がどこまでやるのかはわからないが、少なくとも"ホーク"を扱えるのは我々十一師団だけだ。それなのになぜ五人も……。岩波中将の考える事はやはりよく分からない。
 室崎は、指揮所や医務室から遠く離れ、急遽護衛場所にあてがわれた捕虜収監所の格子窓から、中にいる少年を覗き見た。先程から爪をかじったり、石で壁に何か文字を書いたりして落ち着かない少年。
 だが、それは当たり前だろう。広々としたあの医務室から急にこんな所に押し込められたりしたら、挙動がおかしくなっても仕方がない。
 そんな思考を閉じる前に、室崎は背後に立つ何者かの気配を感じ、思わず振り返った。
 同期の三笠がふざけている、と思って振り返った室崎はその何者かと、手に持つナイフを見て、頭の中が真っ白になった。
 そして、室崎が他の仲間に叫ぶより、黒のサングラスを額に上げてにこりと笑った黒髪の女が、彼の喉にナイフを突き立てるほうが早かった。
 
 
 
 
 一郎が見せた隙を見て、増援として駆けつけた敵兵は小銃を構えなおす。
 千絵は敵兵の視界に自分が入っていないことを確認し、ナイフを構えてその敵兵に体ごとぶつかり、的確に心臓を貫く。
「一郎、しっかりしてっ!」
 次郎が何者かに拿捕された、という無線連絡を武田の代わりに受けた夏樹の言葉は、彼に大きな隙を生じさせていた。だが千絵の言葉にすぐに体勢を立て直した一郎は、残り最後の一人となった敵の攻撃を直前に避ける。
 そして何かが吹っ切れたような武田は、一郎がかわした後の攻撃を引き受け、小銃に取り付けられた銃剣が火花を散らす。千絵が戦闘中一番気にかけていた夏樹は、彼に付かず離れずで、足手まといにはなっていないようだった。
 千絵は力強い怒声で能力の発露を感覚の奥底に押し込み、脇腹に蹴りをくらい崩れ落ちそうになった武田の正面にいる敵を蹴り飛ばす。軽く浮き上がった敵に一郎がグロックを連射し、敵のストレイジは全滅した。
 そしてすぐさま無言で走り出した一郎たちの背中を見ながら、全焼し、崩落した医務室にちらと視線を移す。そこで見たのは残骸の中から突き出された黒い手。胸の奥に確かに積もった思いを確認し、千絵はその場から視線を外して走り出した。
 
 独房に着くと、その場には首を裂かれた遺体が転がっていた。
 開け放たれた独房の扉から這い出してきたのは、恐らく無線連絡を発した兵士だろう。
「三笠さん……!」
 脇から飛び出した武田が無理に引き起こそうとするのを制止し、千絵は足から大量の血が流れていることを確認してから、ゆっくりと壁に寄りかからせた。止血剤は……もう、ない。どうすればいい……? そう考えている千絵の上に、原形をとどめていないブラウスが差し出された。
「……これ、使ってあげてください」
「ありがとう……でも夏樹は」
 ノースリーブの防弾ベストしか着衣していない夏樹に向かって、寒くないの、と訊きかけた口をつぐむ。これまで直面してきた数々の"死"が、命の重みというものを軽視するように仕向けているのかもしれない。そう思い、夏樹から視線を外した千絵は、少し目を伏せ、遠慮がちに兵士を見つめた。
「……どうしたの?」
 手早く止血をする為の動作を終え、大きな血管に異常が無い事を確認した千絵は、必死に口を開けようとしている兵士に耳を寄せ、微かな声を聞き取る。
「……人間の動きじゃない……ね」
「敵は何人ストレイジを投入しているんだ……」
 千絵の言葉を受け、小さな声で呟いた武田に、言った。
「……朝鮮軍がここまで性急に実践投入するとは思えない。このストレイジたちはジュンナンの私兵だと思う。承晩が何か妙な事を言っていたから」
「……そうか」
 一郎は、いよいよ顔の判別も難しくなってきた空の下で、自分を落ち着けるように大きく息を吐き、眠りに落ちた三笠上等兵の隣に座った。
「今日はここで休んでいいか、みんな。なんだか疲れた……」
「……そうね。ここなら休むのにはちょうど良い。捕虜収監所なら食べ物はありそうだし」
 武田も特に異論はないようで、青いペンダントが発する淡い光は微動だにしない。
「今日一日何も食べてませんでしたね、そういえば。ずっと慌しく動いてたからあまり空腹は感じませんでしたけど。……でも暑さのせいでなんだかのどの辺りが気持ち悪いです。頭もどこかぼーっとしていて……。どこかに水道があれば……」
「水道探しなら私と行こう。夏樹一人だけだと危ないから」
「ありがとうございます」
「待って、入れる容器を持って行かないと」
 すぐに歩き出そうとした夏樹を止め、千絵は独房の中に入り、しばらくしてから清涼飲料水のラベルが張ってある、二リットルペットボトルの空容器を四本抱えて出てきた。
「……良く見えなかったけど、生活の痕跡があるみたい。武田君、食べられそうなものをまとめておいて貰ってもいい?」
 もう既に眠りに落ちた様子の一郎のホルスターからグロックを抜き取り、新しいマガジンを装填した千絵は、武田にそう言った。
「……ああ」
 短い返答が帰ってきたのを確認した千絵は、前を行く夏樹が抱え、残り二本になったペットボトルを掴み、ゆっくりと歩き出した。
 
「昔ね、次郎が言ったんです」
 しばらく黙って歩いていた千絵は、前を行く夏樹を見ながら、話を聞いた。
「自分の不注意で、私が交通事故にあったとき。でも、打撲だけの軽い事故だったんですよ。そしたら次郎、泣きそうな目で言ったんです。"姉ちゃんの不注意で相手の人生が大きく狂う所だったんだよ"って。……日本ではドライバーだけが一方的に悪い、と法律で決め付けられるんです。でもまさか、実の弟にそんなことを言われるとは思ってませんでした」
 そう笑った夏樹は言葉を繋げる。
「昔から次郎はそういう子なんです。自分の事より家族のこと、家族が悪ければその相手のことを考える。……そんな性格のせいで、いじめられても、何も言わなかった。あざに気付いた私が訊いても、"原因を作った自分が悪い、いじめている子たちは何も悪くない"。信じられなかったです。なんでこんなに相手のことを考えられるんだろうって思いました」
「それで……夏樹はそのままにしておいたの?」
「……いいえ。もちろん違います。小野さんだと上手く言い包められそうだし、兄さんが彼らを相手にしたら何をするか分からない。だから私、保護者として学校に行きました。顔に毎日のようにあざを作ってきていたし、いじめられてることは明白でした。でも、対応した担任の教師、こう言ったんです。"次郎君、皆といるときいつも笑っていて、楽しそうですよ。そりゃもちろん怪我だってしますが……所詮子供の遊びです。少し心配しすぎなんじゃないんですかね、お姉さん"……私、その教師を思いっきり殴って学校を出ました。……でも何も解決できなかった。次郎にそのことを言ったら、これは自分の問題だからって」
「……強いね、次郎君」
「馬鹿みたいにお人好しですよね、私の弟。兄さんと同じくらいのお人好しなんです。でも……そんな二人が大好きです。本当に大好きなんです……」
「……うん」
 少しだけ上下する肩を見ながら、どのように声をかけるか考えあぐねていると、夏樹は立ち止まった。
「あんな性格の子が戦争に巻き込まれて、それだけで十分苦しんでるのに……。今まで散々苦労してきたのに、中学に入って、これから楽しい事が沢山あるのに。なんで、なんで次郎が朝鮮軍に連れて行かなければならないんですか……! 家族が死ぬのはもう嫌です……」
 
 
 
 
 ひやりとした壁の感触が、思わず眠りに入り込みそうになっていた神経を覚まさせてくれた。両頬を手で思い切り叩き、気合を入れなおした武田は、捕虜収監所の中へと足を踏み入れた。背嚢から取り出した懐中電灯で足元を照らすと、そこにはこの戦争で既に見慣れてしまった光景が広がっていた。先程の戦闘で、あの素早い動作を「少しだけ」と言い切った夏樹に対して興味が沸いて、なぜだか安堵感を感じていた武田は、その光景を見て、自分の心情がもう一度白紙の状態に戻ってしまったような気がした。
 何故ここまで簡単に人が死んでいくんだ……。
 牢の格子にもたれて微動だにしない男、入り口に転がっていた男と同じく、喉を裂かれて絶命している男。次郎のいたであろう牢の格子が風に吹かれてかすかな音を立て、そこに視線を移した武田の目には、床に転がった小銃と、瞳孔の開ききった目を中空に向け、握り締めた拳を宿した右腕が上がりかかった、最後の一人の"死"が映った。格子を押して牢に入った武田は、ゆっくりと兵士の腕を下ろし、瞼を閉ざした。
 食料を探す為に入った収監所だったが、その兵士を肩に担ぎ、用具箱から丈の長いシャベルを取り出してから、武田は外へ出た。
 
 名も知らぬ兵士たちをまだ少しぬかるんだ土の下へと導き、武田は寄りかかる場所を探す事すらもどかしく、その場にへたり込んだ。今までの疲労が一挙に襲ってきたような感覚に、辺りの気配を探る事すら忘れ、目を閉じる。
 すると、"お前を殺して探すまでだ"。そう言った声が耳のどこかで再生され、瞼の裏には這いつくばって敵を追う自分の姿が映る。
「俺は……弱いな」
 専衛軍の養成キャンプで頑張っても、入ってからの訓練で何度吐いても、ここに来てからの戦いを生き抜いても。奴らの動きには追いつけない。奴らにとって、それは当然のような経験だろうし、ベースとなる身体能力が違う。
 この戦いは自分を、生きて帰してはくれないのだろうか。
 そんな不安を抱えながら目を開いた武田は、風に吹かれて舞い上がり、まさに頭上を通過しようとした紙屑を、何気なく掴んだ。土の中へ導いた兵士から、零れていたものが舞い上がったようだ。半身を起こし、ただの屑かと思って手を開いた武田は、それを見て少し戸惑った。
 地図……?
 頭の中で順序立てて考える事が得意だと自負する武田は、それが何を意味するのか、どことなく理解した。これは恐らく次郎の囚われている場所、だろう。そして隅の方に記された文字を見た武田は、全身に鳥肌が立つような寒気を感じた。
 "血、美味しかったよ。ありがと、室崎さん"
 書かれたものが少女のような文章であることもそうだが、血を飲むという行為そのものが衝撃的だった。自分のいる世界ではない。そう強く思う。喉が渇いたから飲んだ……そんな軽い印象を受けるのだ、文体から。
 何のためにそんなことをする必要がある? なぜ死体を辱めるような行為をする? そう訓練されているのか? ただ物資が欠乏しているだけなのか?
 全ての問いはこの圧倒的な攻勢の中では打ち消される。
 そして、最後に残った疑問が、この異常な戦場では、一番現実的なように思えた。
 ……愉悦のため?
 
 武田は地図を開きなおし、その中央に据えられた「傍ヶ岳」を確認する。
 さらに頭を働かせようとしたが、酷使した体が遂に悲鳴をあげ、武田はそのまま、意識を失うようにして眠りへと吸い込まれていった。
 
 
 
 
「武田君、寝ちゃってる……」
 呆れたように言うと、なんとかペットボトルを抱えて歩く夏樹を一瞥してから――千絵は夜目が利く――自分の持っている二リットルのペットボトル二本を、地面に立てた。夏樹からペットボトルを預かり、同じく地面に立てた千絵は、眉間の皺が常時より明らかに薄く優しそうな武田の寝顔に、こんな顔も出来るんだ、と少し微笑むと同時に、彼が手に握る紙に気付いた。
 紙を開くと、見慣れた筆跡で書かれた地図の横に、見慣れない文体で書かれた言葉が添えられていた。
 この内容に驚かない所は朝鮮で育ったことが影響している。朝鮮の戦場では、物資の乏しい反乱軍が良く利用していたからだ。病気に感染することはもちろん、様々な弊害を引き起こすが、水分不足で死ぬよりはいい……。そしてその異常な行為が、癖になってしまった人々もいると聞いたことがある。だが、その光景を見ながら水筒の口を開けた自分には、このことを語る資格は無い。
「何ですか? その紙」
 思考を遮られた千絵は、なんでもない、と言ってからそれをポケットにしまい、立ち上がった。
 
「……そろそろ私たちも寝ようか?」
 武田たちを夏樹と協力して捕虜収監所の中へと運び込んだ後、その分厚い扉を閉め、千絵が言った。夏樹はか細い声を発して同意し、牢の間にあるコンクリートの壁に体を預けたようだった。千絵は閉めた扉から離れ、少しだけ奥行きのある収監所を、壁に突き当たるまで歩いた。途中で床に転がる夏樹を見て、自分もこのくらい簡単に寝られれば、と思いながら、仰向けに寝転んだ。そこには無機質な天井が広がるだけで、眠りの手助けになるようなものは何も見当たらなかった。
 明日も早いのに。そう思えば思うほど、まるで初めから睡眠の方法など知らなかったかのように、眠りの感覚は遠のいていく。
 ……眠くないなら眠らなければいい。いつものようにそう結論付けた千絵は、ポケットの中を探り、再び地図を取り出した。
「一郎……」
 これを見たら、どうするだろう。独り言が最後まで言葉になり切る前に、別の声が重なった。
「呼んだ?」
「わっ……!」
 予期していなかった彼の言葉に、心臓の鼓動が少し早まり、全身に体温が行き渡るような感覚を味わった千絵は、なんとか自分の動揺を取り繕おうとしたが、遅かった。
「驚かせないで……」
「ごめん。……長く寝れない体質だから、千絵が起きてるのがなんだか嬉しくて……で、その紙は?」
「ええと……」
「……千絵って結構顔に出るんだな」
 千絵はその言葉で一郎に視線を合わせられない自分に気付くと、地図を隠す事を諦め、彼へと手渡した。
「次郎君の……囚われてる場所、だと思う」
「………」
「……行ったらすぐに捕縛されて実験に利用されるだけだよ。ジュンナンはどんな実験も躊躇しないの。実の娘にすら薬物を投与するような奴だから」
「……だからどうしろって言うんだ?」
「……行かないで」
 千絵は動揺がとうに失せた顔で、力強く言った。そこには無謀を諫めるというよりも、希望のほうが強く感じられた。
「その場所が拠点のひとつである事は明白だし、軍に要請すればどうにかなると思う。それに……」
「ここでの戦いが終わっていないのに、か? もし軍なんかに要請したりしたら、助け出す前に拠点ごと潰すだろうな」
「………」
 黙りこんだ千絵を見て立ち上がった一郎は、空になったグロックの弾倉を床に放り投げ、替えの弾倉を装填しながら扉の目の前に立った。
「俺は、行く」
「……行ったら、戻ってこれないかもしれない。もう二度と、戻ってこれないかもしれないんだよ?」
「それでもいい。それが俺の決めた道なんだ」
「決めた……道?」
「この戦争から、次郎と夏樹を守る。目の前で両親を失った俺にあるのは、それだけだ」
 
 扉が開き、閉まる。
 まるでその先に隔絶された世界が広がっているかのように、千絵は体を動かす事が出来なかった。




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