17

 遠くで鳴る爆撃音を意識の中で感じ、ゆっくりと目を開く。
 目を開けて最初に像を結んだのは、こちらを覗き込む夏樹の顔だった。彼女は千絵と目を合わせるとにこりと微笑んだ。その目を軽く見つめ返してから視線を外し、上半身を起こす。もう完全に深みに嵌っている。今更のように自覚してから、周囲の状況を確認した。薄闇に浮かぶ武田の背中、すぐ近くにおいてある鉄骨の、端のほうへ座る一郎の姿が見えた。
 安藤の猜疑心、記憶を取り戻した武田が顕(あらわ)にする不信感。発作の収まりつつある一郎も、接近した理由を疑い始めるかもしれない。
 今はもう朝鮮に戻ることは叶わない。かといってこの人たちと共に過ごすことはできない、とも思う。
 
 
「ストレイジの発作が、酷くなってきてるみたいだ」
 一郎が唐突に口を開く。
 風になびく薄汚れた黒髪を眺めながら、千絵はそのままの姿勢で話を聞く。
「俺は今回の発作で、あの人格を呼び込んで……」
「………」
「……そして千絵も今までとはどこか違う発作が起きた。そうだろう?」
 反応を示さない千絵を一瞥して、一郎は話を続ける。
「これからは、すぐにこのレベルの発作が起きる、と思う」
「……あの人格が、また兄さんを支配するかもしれないってこと?」
 夏樹の言葉に頷いた一郎は、先程から全く話そうとしない武田と、千絵とを見比べて、言う。
「そのことを考えると、これからは結束が重要になってくると思う。お互いを補い合い、支え、支え合える、信頼関係が。いざとなったとき俺は、ここにいる人たちにしか助けを求められないんだよ」
 信頼関係。
 一郎も、自分を包む空気に気付いている。彼の言わんとしていることを理解した千絵は、小さな声で呟いた。
「……気を遣わないで」
「……分かった。……正直に言うと、俺はだんだん、千絵のことが信用できなくなってきてるんだ。落ち着いて考えれば考えるほど」
「………」
「それに……武田の話、もある」
「聞いたの……?」
「ああ」
 しばらくの間、場を沈黙が包む。
 千絵は時折赤色に染まる遠方の空を見上げ、母が遺した言葉を思い出していた。
 空は私たちを眺めているだけ。
 逃げ場はない、誰も助けてはくれない。自分を叱咤するため、幾度となく呟いてきた言葉だった。
 ……自分の言葉で、自分の考えを、伝える。
 逃げない、というのはこういうことでもあるのかもしれない。
 
 決心した千絵は、場の沈黙を破り、ゆっくりと話し始める。
「七年前……ステイジ案件の研究者は、研究が破棄されそうになるとその多くが何者かの手引きにより脱北し、秘密裡に日本へと亡命。直後に朝鮮は反攻作戦を開始し、まず初めに、手引きした専衛軍の幹部を誅殺した。……名前は第十一師団師団長、多々良宗一」
「父さん……か」
「その反抗作戦の指揮を取っていたのはジュンナン……つまり私の父親。だけど、専衛軍も黙っていたわけじゃない。多々良宗一の死は表面上強盗殺人ということになり、後任の川田師団長は岩波少将に、ステイジ案件の脱北者を守るよう命じたの」
「これがそれに対する朝鮮の対応」
 そう言うと、千絵はポケットから一枚の紙を取り出し、一郎に手渡した。
 最重要監視対象、と太字のゴシック体で書かれたタイトルの下に、顔写真に住所や氏名、家族構成、職場や帰宅時間など、個人情報が事細かに書かれている。両面印刷の表側には川田、岩波、大沢、松木。裏側には、パク・ソナン・ジェミンの三人が並ぶ。そして最後の段には、赤丸で囲まれた、多々良一郎の文字があった。
「今までは大沢や岩波が一郎を守っていたから迂闊に近づけなかったけど、戦争が始まればそんなことは大した問題じゃなくなる……」 
 千絵は一呼吸置いた。
「……私はデータを取った後、一郎を殺すつもりだった」
 
 
 
 
 
 
「俺は……寮長が、遠山さんが、須能さんが……大好きだった。でもみんな、お前は殺した……。それなのに、まだ殺し足りないって言うのか!」
 武田は千絵の言葉を聞いた直後、彼女に掴みかかっていた。
「……本当にごめんなさい。……でも、私があなたを殺さなかったのは、あなたがもたらしてくれた変化、だと思う。こんなこと言える立場じゃないのは分かってる。だけど、少しだけ私の言葉を、聞いて欲しい」
「………」 
「私はあの日、承晩に、遺体でも実験は出来る、なんて言われたの。……こんな言葉を言われても、昔の私だったら、命令を聞いていた。それ以外に居場所がないから。でも今は違う。……夏樹や、一郎、それに武田君も、みんな対等な目線で話を聞いてくれるし、話してくれる。ここに残ろう、と思ったのは、武田君と一郎に自分で考える頭を呼び起こされて、初めて自分で決めた……こと。……だから、今の私を、信じて欲しい」
 
 
 
 
 
 
 不思議と、それ以上の怒りは沸き起こらなかった。
 本当は気付いていたのかもしれない。気付かない振りをしていただけなのかもしれない。自分が恨んでいるのは千絵ではない、と。あの時、寮長たちを守りきれなかった、弱い自分。
 もちろん殺人を加えた千絵を憎む感情はある。だが、千絵もまた己の責務を全うしただけ。変化があったのに、確かな変化があったのに。自分は千絵の心の内を捉え切れなかった。……恨んでいるのは、千絵を任務という呪縛から救えず、寮長を守りきれなかったうえ、自分の都合のいいように記憶を消した、弱い自分なんだ。
「ここに残ろう、と思ったのは、武田君と一郎に、自分で考える頭を呼び起こされて、初めて自分で決めた……こと。……だから、今の私を、信じて欲しい」
 今度は……救いたい。ストレイジには敵わなくても、自分だけにできることがあるはずだ。
 寮長は、寮長を守りきれなかった自分のわがままを……赦してくれるだろうか。
 
 ――恒。お前は、もう十分苦しんだだろう? 自分の、好きにすればいい。
 
 意識のどこかで、寮長の声を聞いた気がした。
 
 
 
 
「武田君?」
 最大限の勇気を持って吐き出した、最後の言葉。
 それを聞いて俯いた武田を、千絵は見つめる。
 一郎もまた、武田を見つめ、彼の言葉を待っているかのように、何も言わずに立っていた。
「……お前を、寮長たちの墓に連れて行く。もう一度、わかば園の皆に、今の言葉を聞かせてやれ。それまでは絶対にお前を……死なせない」
 俯けた顔を、その俯けた顔にあるはずの瞳を、袖で擦ってから顔を上げた武田は、千絵の瞳をまっすぐと見つめ、言った。
 自分の気持ちが、伝わったのだろうか……。
 思わず武田から視線を外した千絵は、一郎へと視線を移した。
「その言葉が本当だって……俺も、信じる」
 彼は微笑を浮かべ、言う。
「………」
「私も……千絵さんの力になりたい」
「……ありがとう」
 
 苦しみに、痛みに耐えれば、こんな事もあるんだね。
 母さん。私はこの人たちとなら、うまくやっていける気がする――。
 
 
 
 
 
 
 自分の言葉が伝わったことに感慨を抱いたのも束の間、千絵の足元にサープレッサーの光が当たった。条件反射で横に飛ぶ。そして同じく条件反射で敵の人数を確認する。一、二、三、四、五……。五人だ。辺りは暗闇だったが、過酷な夜間訓練を幾度となく受けた身には、たいした弊害とならなかった。
 素早く身をいなして立ち上がった千絵の頬を、銃弾が掠める。
 暗視スコープをつけているのに、下手な銃撃ね。自分の言葉が残した余韻、どことなく漂った優しい空気を阻害され、少し嫌味っぽく笑って見せた千絵に、敵は殺到する。
「裏切り者が……!」
 明瞭に聞き取れた朝鮮語が、間際で弾けた。
 
 
「夏樹を……!」
 真っ先に千絵に殺到した敵兵とナイフを交えながら、一郎が言った。
 その言葉を聞いた武田は、闇に浮かぶ二点の緑色の光――おそらく暗視スコープだろう――に向けて、小銃の残弾を全て撃ち尽くし、白いブラウスを微かに覗かせる陰を引き寄せ、自分の後ろに回す。
「離れるな」
 正面を見て、銃剣を取り付けながら言った武田の背中に向かって、夏樹は少し遠慮がちに、はい、と返事をした。
 敵の一人が武田の小銃にナイフの火花をちらつかせたのはその直後だった。
 千絵が引き倒されて拳銃を突きつけられ、その敵を一郎が蹴り飛ばしたのを視界に入れながら、武田は鈍い反応しかよこさない腕と腹筋に、そして再びプレハブ小屋の時と同じようなパターンに戦闘の流れを持っていかれたことに内心舌打ちをして、敵の斬撃を弾き返していた。もちろん背後にいる夏樹のことを気遣いながら、その刺突をかわす事はしない。
 だが、左腕の辺りではじけたナイフは、逆手に持ち替えられ、武田の右胸へと突き出された。その斬撃に小銃を持った両腕はついていけず、思わずかわそうとしたが、背後に夏樹がいる事が、その動作へ移る事をためらわせた。
 ……ここで逃げたら、また誰も救えない。
 だが、ナイフが直撃する寸前まで動かなかった体を襲ったのは、微かな、それこそ鉛筆の先端が皮膚に触れた程度の痛みだった。暗視スコープの中にあるはずの敵の瞳が、確かに揺らいだのを感じたのも束の間、ナイフを持つ彼の腕が可動範囲を越え、あらぬ方向へと押し曲げられた。そして、その手を掴んだ人物を見た武田は、思わずぎょっとなった。
 武田の動揺に構う様子もなく、その腕を掴んだまま、敵に足払いをかけ、その場に引き倒した夏樹は、兵士から目をそむける。
 すぐに頭を切り替えた武田に小銃の先端で喉を裂かれた敵兵は、大量の返り血を武田に浴びせながら、手を微かに痙攣させ、絶命した。顔にかかった返り血を袖でふき取り、少しの間敵兵を見つめていた武田は、夏樹に視線を移した。
「私、少しだけなら、護身術が使えるんです。不意打ち限定ですけど」
 兵士を見て哀しそうな表情をしてからこちらに振り向いて笑った夏樹に、半ば唖然としていた武田はすぐに正面に向き直るが、そのときには既に、千絵が最後の緑色の光を地面へ叩き伏せたところだった。
 
 
 
 大きく息を吐いた武田は、ゆっくりと空を見上げる。
 星が一面に敷き詰められた、戦争とは無縁に感じられる札幌のきれいな空。
 空は私たちを眺めているだけ……。確かにそうだな、と武田は思った。だがその感慨は、わかば園で抱いたような絶望ではなかった。千絵が呟いた意味とも恐らく違うのだろう。
 
 助けてくれなくていい。眺めているだけでもいい。
 その代わり、憶えていてくれ、ここで戦っていた俺たちのことを。照らしていてくれ、日本が進んでいくはずの……これからを。




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