16

「僕は屋根から索敵していって、増援を潰す。武田は中でそいつを護衛してくれ。そいつに死なれると一郎がうるさい」
 負傷兵達が小屋中の物をかき集めて玄関にバリケードを作っているのを窺って、武田は安藤の提案に耳を傾けていた。
「……今の提案、何か問題があったか?」
 提案を聞いた武田の顔がこわばったのを目に留めたのか、彼は少し口調を和らげて言った。
「……いや」
 彼が椅子に足をかけて四角い穴から抜け出し、屋根によじ登ったのを確認してから、武田は簡易ベッドに腰を降ろし、視線を小銃へと移した。
 残弾十八。フルオートで撃てば、あっという間に弾が尽きてしまうため、先程の戦闘でフルオートにソートされたセレクターを単発に合わせ、常に撃てる状態に設定する。
「記憶が戻ったのに……ペンダント、まだ持っててくれたんだ」
「………」
 空は私たちを眺めているだけ……。
 空虚な瞳が夜の駐輪場に響かせたその言葉の意味を考え、結論を導き出す事が出来れば、あるいは千絵の事を許せるかもしれない。
 そう思った武田は、隣に座った彼女の言葉を無視して天井を見上げ、その向こうにあるはずの曇りなき青空を幻視する。
 
 
 
 
 岩波は、先程の戦闘で砕け散ったベッドの破片を除(よ)けて床に座り、まだ痛む白石陣での戦いで負った傷を触りながら、せめて自分の身は自分で守ろうと、必死にバリケードを作る兵士達を見ていた。
「まだ痛むか?」
 頭上で発した小野の声に、岩波は少しだけ顔を上げ、彼と目を合わせた。
「少し。……そんなことより」
「一郎の事か?」
「ええ。明らかにここを発つ前の彼とは違う。……発作、ですね?」
「……一郎は、精神の発作を患っている中で、唯一の生存者だからな。あれは別の人格、だ」
「やはり……。それで、今はどこに?」
 岩波はゆっくりと立ち上がりながら、尻についた泥を軽く払い、言った。
「独房に幽閉した。妹が付き添っているから、問題ない」
「……妹?」
「妹が付き添っているから、問題ないと言ったんだ」
「宗一の娘を殺す気ですか……! あのような異常な人格、異常な能力、見た事もない。ここは兵士を付けて、牢の中でしっかりと……」
「夏樹も一郎も、お互いを信頼しているし、何より強い。あの状態を打開するには、支えとなる者が元の人格を引きずり出せるかにかかっている。夏樹が必要なんだ」
「ですが!」
「私はこれ以上、ステイジ案件の犠牲者を増やしたくはないんだ……!」
「だからと言って……! ……いえ、なんでもありません」
 こんなところで言い争っている場合じゃない。
 なんとか言葉を飲み込んだ岩波は、一つ息を吐いてから、突如発したその轟音を頭上に感じた。
 崩れ落ちてきた天井の瓦礫が迫ってくる中、咄嗟に小野を突き飛ばした岩波は、床に伏せて手で頭を覆った。背中に少し大きめな瓦礫が直撃したのを感じて、久しく忘れていた死の感触が蘇る。
 しかし、それ以上瓦礫が岩波を襲う事はなかった。
 顔を上げて視界に入ったのは、襲い来る瓦礫ではなく、行方不明になっていたはずの青年だった。
「遅くなりました」
「戻るのが遅い、松木……!」
「いいじゃないですか、お互い無事だったんですし」
 肩に下げていた小銃を降ろして岩波に手を差し出した松木は、口からガムを吐き出し、笑った。
 
 
 
 
 武田は襲い掛かるナイフの刺突を必死の思いで弾き返していた。
 爆発音と同時に、幻視していたはずの青空が突然広がり、目がくらんだ武田の懐へ飛び込んできた敵兵は、ナイフを握った手を休めてこちらの左目をちらと見遣ると、右足の蹴りを繰り出した。敵の視線の流れを確かめ、死角からの攻撃を左肘でどうにか受け止める。受け止められた右足を素早く戻した敵は、もう一度蹴りを繰り出す。その衝撃に、武田は左肘が圧縮されたような感覚を味わい、思わず手を引く。そこへ三連打の最後を締めくくる蹴りが上腕部に放たれ、武田は少しよろめいた。
 よろめいたところでナイフが心臓を狙って振り出される。武田はそこへ直撃する寸前、体をひねって回避し、ナイフが刺さった肩の痛みに耐えながら、がら空きになった胴へ蹴りを入れて敵を倒れこませた後、手近な瓦礫の陰へと身を隠した。
 小銃の残弾は十。あの化物染みたスピードで回避されては、こんなもの何の役にも立たないな、と思った武田は、瓦礫に小銃を立てかけ、専衛軍支給の拳銃を手にした。
 ……水越大隊長から託された、専衛軍の指揮官のみに支給される拳銃。あの惨状を再び思い出した武田は静かに息を吐き、瓦礫の隙間から先程まで自分のいた場所を確認する。
「肩……」
 神経を研ぎ澄ませて敵の気配を探る中、突然背後で発した声に内心驚きながらも、武田は平静を装い、千絵を見上げた。
 彼女は、不用意に声をかけたことを後悔しているのか、どことなく曇った表情だった。
「お前は能力を使えないんだ。……どこかに隠れていろ」
 武田は特に意識せずその言葉を呟いてから、もう一度敵の位置を探る事に徹し始めた。
 しかし、いくら見渡しても敵の気配は感じられない。
 隣にしゃがんで無表情に敵を探索し始めた千絵を見て、再び視線を正面に戻した武田は、改めて見渡した光景に少し違和感を覚えた。もう一度視線を外してから違和感を覚えた部分を注視すると、砕けたコンクリートの狭間に、正方形の箱が確かに置いてあった。
「HNIW……?」
 現代で最大規模の威力を誇る高性能爆薬の略称を呟いた千絵の声を聞き、武田は嫌な汗が額に滲むのを感じた。
「逃げるぞ……!」
 天井の無くなったプレハブ小屋とHNIWを意識の中で素早くリンクさせた武田は、考える前にその言葉を叫んでいた。
 拳銃をホルスターに戻し、立てかけた小銃を構え、崩落の影響でひびの入った壁に連射し、全ての弾を使い切る。そして思い切りその場所を小銃で殴りつけると、人一人が通れる程度の隙間が開いた。
 先に千絵が頭を低くしてその隙間から出たのを確認して、肩に突き刺ささったナイフを引き抜き、自分もくぐろうとした武田は突然、背中に何かが覆いかぶさった感覚とともに、壁に押し付けられた。
 覆いかぶさったのが敵だと感じるより先に、背後から脇腹に突き立てられたナイフによる痛みに襲われた。
「少尉はどこだ!」
「……知らないな、そんな奴。……俺はただの二等兵だ」
「逃がすわけには行かないんだよな、少尉を」
 さらに奥深く入り込んできたナイフに、思わず呻き声が漏れた武田は、なんとか体勢を立て直そうとするが、左手で頭を押さえつけられ、右手で脇腹を押さえられているため、身動きが取れない。
「……ストレイジを見た事がないただの二等兵がここまで対応できるはずはないんだ。お前は知っているな?」
「知らないと言っている……!」
 左手で頭を壁に打ち付けられ、ナイフはとうとう脇腹を貫通したようだった。
「ならいい。……お前を殺して探すまでだ」
 勢いよく引き抜かれたそれは、再び武田を襲う。その間に甘くなった右側の押さえつけを感じた武田は、右手で先程腰にかけたナイフを手に取り、敵の懐があると思われる場所を思い切り突いた。しかし残った感触は、背中に今一度突き立てられたナイフだけだった。もうそこに敵の気配はなく、彼が自分の開けた隙間から出て行くところを視界に捉えた。己の無力を噛み締めながら、武田は精一杯の声を振り絞り、吐き出した。
「逃がすか……」
 
 
 
 
 衝撃とともに壁に走ったひびを見て、中で何かが起こった、と感じた千絵は、ひしゃげた鉄骨に素早く掴まって、わずかに崩落せずに残ったプレハブ小屋の屋根へと足を付けた。
 そして、しばらくして隙間から出てきたのは武田ではなく、先程見た敵兵の姿だった。能力を使ったばかりの今では足手まといになるだけ、と判断した思考は間違いだったか?
 だが、煙草をポケットから取り出して火をつけた敵兵も、能力を使ったためか、瓦礫の上をよろめきながら歩いている。
 今なら……。そう思い、立ち上がったとき、突然目の前の視界が暗くなった。
 千絵はその場から足を踏み外して小屋の中へと落ちる。
 簡易ベッドに背中から落ち、衝撃で中心から折れ曲がったベッドの上で、千絵は激しく咳き込み、その場に嘔吐した。吐き出すものが無くなっても、その吐き気はしばらく収まる事はなかった。
 
 千絵はそれからしばらくして反吐が幅を利かせるベッドの上で立ち上がった。ベッドと同様の状態になってしまった専衛軍の軍服の上半分を脱ぎ、口の周りを拭いてからその場に置く。
 そしていつのまにか流れていた涙を拭いた千絵は、ベッドの近くの壁際から外へと続く血痕を見つけていた。その場に放り出された血まみれのナイフを見て心臓が一度大きく脈打つのを感じた千絵は、何故能力を使っていないのに発作が起きたのか、という疑問も忘れ、すぐさま駆け出していた。
 そして、駆け出した先には、血痕を一滴一滴しっかりと地面に滴らせ、脇腹を抱えながら歩いている武田の姿があった。
 しばらく声もなく立ち尽くしていると、彼は倒れた。
 それでも尚、砂を掴んで進もうとする彼に、千絵は敵の存在など考えもせずに歩み寄っていた。
「もういい……から」
「俺は諦めが悪いんだ……昔からな」
 仰向けに向き直った武田は、血まみれになった手を挙げてみせ、苦笑顔で言葉を続けた。
「だけど、意地だけじゃあストレイジには勝てなかった……」
 痛みのせいだろうか。まさかあのことを許したわけではないだろう。小屋にいたときの声に混ざっていた刺々しさが、幾分抜け落ちたような印象を受けるその声音は、徐々に弱まっていく。
 そして、そこで途切れた武田の言葉の余韻は、虚空へと吸い込まれていった。
 
 彼の脈を図ろうとした千絵もまた、屋根から落ちたときと同様、異常な速さで脈打ち始める心臓を感じた。今度は吐く間もなく、千絵は意識を失った。
 
 
 
 
 爆発音と同時に大地が鳴動する。小屋の脇の通路で死体を啄ばんでいたカラスたちも、一斉に飛び立つ。壁はあっさりと吹き飛ばされ、辺りに粉塵を撒き散らす。内部で連鎖的に爆発を起こしたHNIWは、行き場を求めて人という人、物という物を劫火で包み込み、凄まじい爆炎と共に小屋を燃え上がらせる。
 
 
 
 
「くっ……!」
 武田と安藤を助けるために独房から隣接する小屋へと走り出していた一郎は、突然燃え上がった小屋の爆風の直撃を受け、吹き飛ばされた。
 手をついてどうにか頭から地面に落ちる事は避けたが、同時に、護りやすいように前を走らせていた夏樹がそこへぶつかり、体勢を崩して左手から倒れこみそうになる。
 なんとか左手をひねって、自分のせいで銃創が悪化した夏樹の上に倒れる事を回避した一郎は、いつ敵に遭遇するか分からない状況の中、文字通り歯を食いしばって、喉をついて漏れそうになった悲鳴を堪えた。
 炎を宿した小屋を、うつ伏せになった状態から見上げた一郎は、窓が少しでもあればガラス片の集中豪雨で使い物にならなくなっていたであろう五体の無事をすばやく確かめ、右手を支えとして立ち上がった。
 うんざりした様子で、既に着衣の意味を成さなくなるほどに破けたブラウスを引っ張ってしわを伸ばした夏樹を見た一郎は、軍服の上に着用していた軽量の防弾ベストを彼女に手渡した。
 ありがとう、と言ってベストを受け取った夏樹が着替えを始める前に、周囲の安全を確認した一郎は、見覚えのある服を夏樹の足元に見つけ、思わずその場から視線を外す事を忘れてしまっていた。
「兄さん、着替えたいんだけど……」
 そう言った夏樹の言葉を遮って彼女に近寄り、その手前でしゃがんだ一郎は、砂利の上で燃え続けている、細切れになった綜合警備保障の上着を掴んだ。
 そして再度注意深く辺りを見渡すと、確かな血痕がそこにはあった。
 一郎は夏樹と目を合わせた後、すぐに走り始めた。
 負傷兵だけでなく、安藤まで……。ストレイジ投入による理不尽なまでの朝鮮軍の猛攻に、一郎は人格云々(うんぬん)は関係なく、理性の破綻しかかった己を感じる。千絵の思惑、専衛軍の思惑、朝鮮軍の思惑。疑心暗鬼に陥る材料は、考えてみればそこら中にある。
 いっそのこと、全てを捨てて楽になってしまおうか……。
 血痕の先にいるはずの安藤が死んでいれば、全てを投げ出せる。
 しかし、それを異常だと思える臨界点はとうに超えた一郎が見たのは、逡巡していた思考からすればなんともお粗末な結末だった。
「逃げ場はない、か……」
 煙草を口にくわえ、小銃をいじりながら鉄骨の上に座り、こちらを振り向いた安藤を見て、思わず言葉が零れた。
「お前も吸うか?」
 徐々に異常を脱し、状況を飲み込んでいこうとしている思考を遮り、安藤が煙草を差し出す。
 朝鮮語で書かかれた文字の上に血痕がべったりとこびり付いたパッケージを向けられた一郎は、戦闘を無傷で締めくくり、死体に残った必要品を残らず拝借したらしい安藤に少し嫌悪の念を感じながら、煙草の箱を押し返した。
「……あの血痕の近くに、服でも置いておけば気付くかと思ってな。見て分かると思うが、こっちの敵はほぼ殲滅した」
 口に含んだ煙草を地面に放り出し、足でその残り香を掻き消した安藤はそう言うと、視線を鉄骨の陰に移した。顎をしゃくって見せた安藤に促され、高さが三十センチ程度しかない鉄骨の陰を覗き込んだ一郎が見たのは、ぐったりと横たわり、何かにうなされて額に多量の汗を浮かべている千絵と、血にまみれて、ぴくりとも動かない武田の姿だった。
「何があったのかは知らないが、血痕から少し離れたところに、二人とも倒れていた。武田は気絶しているだけだ。命に別状はない」
 言葉少なに状況を説明した安藤は、ゆっくりと立ち上がり、一郎の心持ち後ろを見据えながら、言った。
「お前は少し休んでいろ。僕は前線に増援に行く。……敵のストレイジたちが、暴れまわってるらしいからな」
 一抹の不安を宿した語尾に人間味を残して、安藤は夕暮れの地平線に姿を消した。
 そして、安藤と入れ違いざまにようやくこの場所にたどり着き、膝に手をかけ肩を上下させる夏樹を見て謝った一郎は、鉄骨に腰をかけ、所在無く視線を泳がせる。
「……大丈夫かな」
 防弾ベストを着た夏樹はそう言いながら千絵に近寄り、額に溜まった汗をふき取る。
 
 君は、本当に"多々良一郎"に接してくれていたのか?
 安藤が言っていたように、ただの"対象"ではなかったのか?
 あの夜、テントの中で見せた表情は、"本物"だったのか?
 安藤に取り残され、戦闘という命のやり取り、極限の精神状態に身を置いていれば考えずに済む問題に突然直面した一郎は、様々な疑問が浮かび上がってきたことに不快感を感じて、しばらくの間ただただ地面を見つめていた。
 
 この闘争がどの終末に向かうにせよ、逃げ場はない。
 そんな事は分かっているんだ……。
 沈みかけた太陽が鮮やかな橙色の光を戦場に照射する中、自分だけが取り残されているような気がした。




inserted by FC2 system