15

 武田は、突如頭上で発した轟音によって、わずか二時間ばかりの眠りから覚めた。
 起き上がると、不安そうに天井を見上げる負傷者達が目に入った。彼らと同じように上を見上げて立ち上がり、左側の視界が黒く塗り固められたままの状態であることを感じながら、その場所を注視する。
 武田が見上げた直後に音が止み、四角形に切り取られた屋根がその場に落ちてきたと同時に、負傷者達は一斉に四散した。切り取られた屋根と一緒に、手榴弾が投げ込まれたからだ。少し離れた位置で屋根が切断される様を見ていた武田は、誰も寝ていない簡易ベッドを引き倒し、その裏に隠れた。視覚で捉えることのできる熱風がベッドの脇を通り過ぎ、それをやり過ごしてから、武田はその着弾点を窺った。そこには、朝鮮軍の青い迷彩服を着て、小銃を構えた兵士が二人いた。それとは別の兵装をした一人は、ナイフを構えて、すぐに武田の視界から消え去った。
 あれがストレイジか、と確認したとき、二人の兵士と目が合ってしまった。すぐにベッドの裏に隠れ、飛びかかる弾幕をやり過ごす。承晩と言う男が所持していたP92ではないことに安堵しながら、武田は小銃の先端だけを出し、狙いをつけずに放った。敵も隠れる場所を確保したのか、少しの間銃撃が止んだ。そして再び弾丸がベッドの鉄板部分を叩き始める。武田は代えの弾薬がないことを確認してから、牽制の弾幕を張り、飛び出した。敵の銃声が鳴ってから着弾までの時間で大体の距離にめどをつけ、遮蔽物に身を隠しながら近付いていく。そして、五メートル程度距離を縮めたところで、その場所に立ち尽くす千絵を見つけてしまった。
 このまま見殺しにするか?と心の中で自問したが、考えるより先に、体は千絵を医務用品のたっぷり詰まった棚へと引き込んでいた。
「傷病者は足手まといだ。早く失せろ……!」
「……ごめんなさい。でも、夏樹が負傷兵を逃がそうと……」
 既に信用のおけなくなった千絵の表情は無視して、武田は少しだけ棚から顔を出した。
 確かにそこには制服姿で屹立(きつりつ)している少女が居た。しかし、その事実より、屹立したその手に握られた物を確認して、武田は焦りを感じた。
「グロック……」
 安全装置(セーフティ)が外れていないその拳銃を見て思わず呟いた武田は、その先に立つ兵士を見据えた。彼は、手を上げた状態でにやと笑いながら、隣の兵士となにやら話し合っていた。
 夏樹の表情をちらと窺うと、今にも泣き出しそうな目で、だが敢然と、兵士達を睨みつけていた。
「今すぐ銃を降ろした方がいい、お嬢さん。あんたは喧嘩を売る相手を間違えたんだ」
 次の瞬間、武田にとっても夏樹にとっても死角となる場所から、何かが飛び出した。
「ストレイジ……!」
 武田が腰を上げかけたときには、夏樹は銃を叩き落され、地面にうつぶせの状態で、右手をひねり上げられていた。破けた制服の間から見える包帯が、まだ右肩の銃創が完治していないことを示していたが、犯人は気にする風もなく、骨が今にも折れそうなところでようやく捻り上げるのを止めた。
「近くで見ると結構可愛いじゃねぇか。土下座して頼めば、軍の娼婦くらいにはしてやってもいいぜ」
 夏樹を取り押さえた男は、流暢な日本語を操りながら言った。遠くで二人の兵士が笑った声も聞こえたが、夏樹は相変わらず男を睨み、顔を背けようとはしない。
 武田は夏樹に意識が集中している今しか好機はない、と思い、棚から飛び出した。飛び出してからすぐに銃口を男の頭に定めたが、男はすぐさま夏樹に圧し掛かけていた体を離して、華麗に飛び上がった。武田が照準を絞り直している間に男は武田の眼前に着地し、小銃を蹴り上げた。次の瞬間には視界の黒く塗りつぶされた左側からナイフが飛び込んできたらしく、左肩に激痛が走った。
 そして、蹴り飛ばされた武田は、体格は違くとも、やはり化物は化物か、と認識を新たにした。数メートル飛ばされ、背中に鈍痛が走ってようやく地面に体が戻り、薄目を開くと、そこには既に、男が立っていた。
「なめるなよ。……俺ら"失敗作"を」
 拳銃を頭に突きつけられ、状況をどう打開しようかと思考が一巡する前に、突然男が左の方へと飛ばされ、床を転がった。
「大丈夫?」
 そう言って千絵が差し出した手を払い除け、武田はゆっくりと立ち上がった。
「医務室にて小山田少尉発見……! 至急応援を」
「……このままだと俺らは殺される」
 男が立ち上がって、吐き捨てるように無線機に吹き込んだのを聞いて、武田は言った。
 そして武田が先程の二人へと視線を移したとき、武田はその背後に移った影を確かに見た。
 
「どーコー見てるのォ?」
 明らかに一郎の発した声、だが明らかに違う何かが発した声。
 武田がその声を耳にしたときには、一郎は一人の兵士の背中にナイフを突き刺していた。そして、突き刺した後すぐに引き抜かず、何度か内蔵をかき回した後、ゆっくりと引き抜いた。切っ先を触りながら、愉悦に歪んだ顔を見せた一郎を見て、もう一人の兵士は小銃を構えることすらせず逃げ出した。一郎は構わず敵を追いかけ、今度は敵の肛門にナイフを突き立てた。武田は思わず自分の足元に視線を戻し、少しの間その場所から視線を外さなかった。
「汚ねェなあ。ま、その表情は合格」
 糞尿にまみれて倒れた敵兵を見下ろしたその目が次に捉えたのは、ただ立ち尽くしていたストレイジらしき男だった。男は構えて一郎が飛び込んでくるのに備えたが、一撃目を受け止めた後にすぐにナイフを弾き飛ばされ、腹を蹴り上げられた。その男の首を掴んで引っ張り上げた一郎は、心から楽しそうに言った。
「オマエは……そうだな、舌だ」
 抵抗する男を強靭な脚力を使って抑え込み、手を男の口内に突っ込んで舌を引っ張り出した一郎は、根元の辺りをナイフを使って捌き、それを呆然と見つめる負傷者に投げつけた。一郎は声も無く絶命した男をしばらく眺めていたが、それに飽きると、今度は武田と目を合わせた。
「次ィー、オマエ殺すわ」
 殺気の全く感じられない目でこちらを見定めた一郎は、凄まじいスピードで距離を縮めてきた。武田は振り上げられたナイフを拾い上げた小銃で受け止め、弾き返した。
「小山田! 一郎の妹を!」
 二撃目三撃目を弾きながら、武田は一郎を見据えたまま言った。
 千絵は声が届ききる前に、倒れこんだまま動かない夏樹を抱き起こし、負傷者のいない入り口の扉へと走り出した。
「そいつが夏樹か……!」
 武田がその言葉に違和感を覚えたのも束の間、一郎は武田の眼前から姿を消し、千絵の首筋をナイフで掻き切っていた。わずかに重要な血管を外させたらしく、千絵は夏樹の手を引きながら首筋を押さえて、後ろに飛びずさっていた。
「千絵さん!」
 一郎は、夏樹の声を聞いて口元に笑みを浮かべた。
 そして夏樹の正面に回りこむと、髪を掴んで引っ張り上げて、武田と千絵に夏樹の痛みに堪える表情を見せつけながら、背後に誰もいないことを確認して正面玄関のほうに背を向け、夏樹を自分の方に向かせた。
「オレが主人格になるのには、オマエが一郎の支えになってて、邪魔なんだよなァ。オマエがいなけりゃ、一郎はもう立ち直れない。オマエを殺せば、この体はオレのもんなんだ……! 死んでもらうぜェ」
 口元を楽しそうに歪めた一郎が、夏樹の首元へ右手のナイフを突き出そうとしたその時、小屋の中に銃声が響き渡った。
 
「夏樹、動くなよ!」
 "狂気"の左手に銃弾を命中させた安藤は、小銃を担ぎながらグロック17を構え、さらに左手を二回撃った。"狂気"の顔は歪められ、安藤は武田と千絵に目配せしてから、ナイフを取り出した。
「安藤雄(ゆう)! 相変わらずいい度胸だなァ!」
 それを見た"狂気"もまた、左手を揺らしながら、ナイフを取り出した。安藤はいつものように身構えたが、"狂気"の方は既に安藤へと迫り、右手で何度かナイフを突き出した。左手がうまく使えないことで多少威力が落ちているらしく、安藤が警備員の服を破られながらもその刺突をかわしていると、次の瞬間、背後に回った武田の蹴りが、"狂気"を地面にひれ伏せさせた。安藤はすかさずその上に圧し掛かって、タオルを取り出し、足首をきつく縛り上げた。
 そして安藤は、抵抗しようと仰向けに向き直った"狂気"の首を絞め付けた。
「これ以上抵抗したら、この体ごとお前を消す……!」
「オマエに一郎が殺せるのかナァ……!」
「試してみるか? "狂気"!」
 そう言ってさらにきつく締め上げると、"狂気"の瞳は正常な位置からフェードアウトした。そして彼は、よだれを垂れ流しながら意識を失った。
 唇の端から血が流れ続けている中で呆然と立ち尽くす夏樹を尻目に、安藤は一郎を抱え上げて、精一杯の声を搾り出して言った。
「誰か独房へこいつを運んでくれ! 僕はまだここを離れられない」
 安藤がそう言うと、ただ戦闘を見つめるだけだった、程度の軽い負傷兵の一人が、我に帰ったように安藤に近寄り、敬礼をしてから一郎を受け取り、小屋の扉を開いた。
「……夏樹も一緒に付き添ってやってくれ」
 安藤の言葉に黙って従い、夏樹も歩き出した。
 
 
 
 
 夏樹は独房の椅子に一人で座りながら、プレハブ小屋を出る前に拾っておいた兄の拳銃を眺め、深いため息をついた。荷台に置き忘れた、銃創に塗る軟膏を取りに戻ったとき見つけたそれは、意外としっかりとした重さを持っていて、敵を殺傷する能力があるのも納得ができる存在感だった。本当はすぐに渡すべきだったのだろうが、着いてすぐに戦闘が始まってしまっていたため、渡しそびれてしまった。
 そして先程の戦闘でのこの存在感の頼りなさ。
 逃げ遅れた負傷兵を庇うためとはいえ、良くもあれだけの啖呵を切って無事で居られたな、と夏樹は思った。敵に怖じた感情の揺れは感じられなかったし、銃の撃ち方なんて分からなかった。武田が助けてくれなかったら本当に死んでいたかもしれない。
「土下座で娼婦……かぁ」
 あの兵士が言っていた言葉を思い出し、一人呟く。
 戦争が終わるまで兵士達の性の道具として生き、終わったらどうなるか分からない。軍の機密情報を守るため、などと適当な理由をつけて殺されるかもしれないし、兵士の誰かと結婚させられて誰の子供か分からない子供を育てることになるかもしれない。
 まだ性体験を持った事のない自分には想像できない、従軍慰安婦という、教科書で読んだ程度の遠い過去の出来事が、妙な現実感を持って夏樹の脳内に漂っていた。
 戦争と言うのは、こういうことなんだろうか。普段何の関係もないと思っていた出来事が、突然自分の人生に絡み付いてくる。そして平穏無事な人生を大きく狂わせていく。
「私が考えてもどうにかなる問題じゃないけど……」
 再び一人で呟いた夏樹は、言葉を繋ぐ。
「独房ってひとり言が多くなるよね、兄さん」
 繋いだ言葉を、足の結びを解かれ、地面に直接横たわっている、鉄格子の向こうでまだ意識を取り戻さない兄に向かって発する。
 だが、あの狂った兄だったら、起きない方がいい。あれが兄の言っていたもう一人の人格なのだろうか。今まで信じて疑わなかった血縁関係が消えて無くなると同時に突きつけられた、彼の精神障害の実態。そのことを再び思い出してしまい、夏樹は空疎な物思いに捉われた。
 かろうじて残されたのは、父を通して生まれた、義理の妹というどこかよそよそしい関係。
 次郎はどう思っているのだろう。その前に、このことを知っているのだろうか。
 自分の知らないところで展開していく事態。ストレイジという言葉の意味さえ完全に飲み込めていない自分を置いて、展開していく……。
 そんなことを考えるなんて自分自身、らしくないな、と思う。これも……戦争の力、なのだろうか。
 
「……夏樹、か」
 夏樹は、声を発した一郎の方をちらと見遣り、そのまま正面に視線を戻した。
 ――起きたばかりの彼は、性格が見定められるまで、相手にしないほうがいい。
 ここまで兄を運んでくれた負傷兵の、唯一のアドバイス。多重人格者を戦場で何度か見たことがある、という彼のアドバイスに、夏樹は素直に耳を傾けた。
「……ここから出してくれ」
 よろめきながら立ち上がり、こちらに近付いてきた一郎を見て、夏樹は確信した。こいつは"兄さん"ではない。兄だったら、まず自分の置かれた状況より他人の心配をするはずだったからだ。怪我は無いか、安藤は大丈夫か、敵はどうなった……。
「……頼む」
 兄の顔を使って懇願する……安藤の言葉を使うなら、"狂気"。
 少しだけ情が移りそうになった夏樹は、牢のすぐ目の前にある椅子から立ち、独房の重厚な扉のドアノブに手をかけた。しかし、絶対に外に出るな、と医務室で言っていた小野の言葉を思い出し、ドアノブにかけた手を外してその場に座る。
 狭い独房の中、彼と目を合わせまいと視線を床に据えながら、夏樹は兄の姿をした"狂気"の言葉を聞くともなしに聞いていた。
 
 ――こんなところに居たくない、助けてくれ。
 ――何で僕を閉じ込める必要がある、敵を殺しただけじゃないか。
 ――夏樹、お前を守るために仕方なくやったことなんだ。
「煩い……! 兄さんの姿でそんな事口にしないで」
 利己的な物言いの数々に、夏樹は思わず一郎を見上げてしまっていた。
 すかさず、と行った体で、彼は牢の鉄格子に手をかけ、夏樹を見た。
「お前の兄は僕だろう。何を言ってる」
「あなたは兄さんじゃない……!」
「いや、違う。僕はお前の兄だ。どうして認めようとしない」
「……それ以上言ったら、撃つから」
 夏樹は、一郎の切迫した表情に、自分の確信と負傷兵のアドバイスを覆されることへの恐れを感じながら、銃口を彼の額に突きつけた。彼は全く微動だにせず、言葉を続けた。
「僕は信じてる。夏樹は絶対に撃たない。だから僕のことも信じてくれ」
「そんな言葉、信じない……」
 銃を突きつけられても一向に動じない彼の言葉に、夏樹が少し銃身にかけた力を弱めたその時、その感触に微かな重みが加わった。重みを増した銃口に恐る恐る目を移すと、そこには彼の左手が置かれていた。そしてその左手の持ち主は、先程小屋の中で見た、陰湿な笑顔を浮かべた一郎だった。
「わざわざ自分から殺されに来るなんてなァ! ハハッ!これでこの体はオレのものになる……!」
 あっさりとグロックを奪われた夏樹の頭に、無愛想な銃身が突きつけられる。
「………最低……!」
 夏樹の向けた憎悪の表情など意に介さず、彼は銃のセーフティを外す。カチ、という無機質な音は、彼が引き金を引けば、夏樹がこの世から消えてなくなることを意味していた。そしてその音を聞いた夏樹は、再び彼を睨みつけた。
「……私を殺してどうするの? 私を殺したら、もう二度とここからは出られないよ」
 彼はより一層深い笑みを浮かべた。
「それは一郎の能力だったら、だろォ? 完全にこの体がオレのモンになったら、こんな牢、すぐに壊して外に出れる」
 こめかみに押し付けられる銃の力が強まり、夏樹は目を閉じた。
 今度こそ、死ぬ。脳が死の到来を予感するが、しかし、体はまだ諦めていなかった。
 夏樹は銃が額に押し付けられたまま、スカートに手を突っ込み、太ももに手を伸ばす。"狂気"は突然の夏樹の行動に虚を突かれ、少しだけ撃つのをためらった。そして護身用に、と針金でくくりつけていたメスを引き抜いた夏樹は、一縷の望みをかけ、一郎が銃を構えている左手の手の甲――先程、兄の精神病を知り尽くした安藤が集中的に狙っていた場所――へと、一直線にナイフを突き立てた。メスが皮膚に刺さろうとした瞬間、銃の火線が夏樹のまだ完治していない肩の銃創を捉えたが、夏樹の右腕はしっかりと動作を完遂した。
 安藤が撃ったときの苦痛を上回わらせるべく、差し込んだメスを使って傷口を抉る。その間、骨が軋む嫌な音が耳朶を打ち続けていたが、それを遮るように、夏樹は言った。
「……兄さんは、返してもらうから……!」
「やめろ!やめろォ!!」
 そして次の瞬間、右手で夏樹の手を引っかき、メスを引き抜こうとしていた"狂気"はその場に跪いた。
 彼が頭を抱えて小刻みに震えだしたのを見た夏樹は、メスを握った手を離し、その成り行きを見つめていた。
 やがて震えが収まった彼の体は、立ち上がり、こちらを見据えた。
「夏樹だった、のか……」
 一郎が驚きの表情を浮かべたのを見て微笑んだ夏樹は、ゆっくりと首に掛けていた鍵を取り外し、鍵穴に差し込みながら、鉄格子の扉を押し開けた。
 
「……怪我は無いか?」
 少しだけ間を空けて、夏樹の目をしっかり捉えて離さず一郎が言った。その言葉を聞いた夏樹は、兄である事に確信を抱いた。そして張り詰めた緊張が解かれたのとほとんど同時に、笑みを浮かべる事で抑えていた感情が自分の中で大きく脈打つ音を聞き、思わず後ずさりをしてしまっていた。
「もう、狂気は居ない」
 夏樹は涙が一滴、頬にまで流れたのを感じる。そして、おぼろげになっていく視界を開こうと目を擦った。
「うまく見えないや……」
 夏樹はそう言いながら、さらに何度か目を擦り、視界を遮る物がますます大きくなっていく感覚に、少しだけ胸苦しさを覚えた。
「……もう大丈夫だ」
 しばらくその様子を眺めていた一郎は、彼女を気遣うように、優しく言った。
「……っく……えぐ……」
 その言葉を聞いて今まで必死に抑えていた感情が一気に流れ出たかのように、彼女はその場にうずくまり、微かな嗚咽を狭い牢内に響かせ始めた。
「本当に怖かった……! ……兄さんが、兄さんが……もう………」
 途切れ途切れに発する言葉を聞いた一郎は、膝を抱え、顔だけこちらを向いている夏樹の隣に座り込み、涙が染み出し、濡れている彼女の目元に手を伸ばす。
 そして、涙をふき取り、手を離そうとしたとき、しっかりと掴まれた腕。
 人間の繋がりを感じさせる、確然とした存在が、右腕に添えられた夏樹の暖かい指先から伝わってくる。
 先程まで狂気に蝕まれていた一郎は、今回もまた支えとなってくれた妹の存在に感謝しながら、目元に溜まり出した雫を隠すかのように顔を伏せた。




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