14

 二〇四六年、八月十三日、午後一時十六分。
 東アジア全土を覆いつくす、極東大戦が勃発。
 既に開戦していた中国の革新派と、保守派を擁して停戦に入ったアメリカ・イギリスを中心に編成された国連軍の戦いに加え、オーストラリア、台湾、日本という国連の肩書きを背負ったその三国の連合軍と朝鮮軍が始めて戦火を交えたその日、その大戦は幕を開けた。
 その時の空も、ただ、ぼくらを見下ろしているだけだった――。
 
 
 
 
 凄まじい殺気を感じた一郎は、隣に立っている千絵を視界に入れながら、武田の構えたライフルを凝視する。こちらを向いている……? しかし疑問に思った瞬間には、焼け焦げた化け物の頭を、ライフルの弾が打ち砕いていた。
 思い過ごしだったか。そう心中に呟きながら、一郎はその場に座り込んだ。
「師団長! 迂闊に近寄られては……」
 一郎と千絵の戦いを呆然と見つめていた歩哨の声が聞こえ、一郎は隣に並んだ軍服を見上げる。
「死んだか」
 聞き覚えのあるしわがれた声を発してそこに立っていたのは、何を生業にしているか分からない、年老いた隣人だった。
「大沢さん……?」
 一郎の疑問を気に留める風もなく、大沢は、恐らく投与された薬物は自分と同じであろう化け物を見下ろす。
 そして、良くご無事で、と口を開きかけたとき、一郎は突然激しい頭痛に襲われた。精神の混同を許そうとする思考を抑え込み、その場に倒れ込みたい衝動を自制し、こめかみを押さえて、痛みに堪える。
「どうしたの?」
 このまま引き込まれてしまったら、二度とこの世界に戻れないかもしれない……底知れぬ不安を再確認した一郎は、心配そうな声を発した千絵に、寄るな、と怒鳴り返して、腰にかけたナイフを引き抜く。
 そして一郎は手に持ったナイフを、自分の左手に突き刺した。まだ完治していない左手の傷を抉るような行為に、精神の混同は霧散し、代わりに左手の激痛が一郎の感覚を支配する。
「……俺のことはいいですから、千絵を」
 能力を使った後の発作はまだ出ていないようだったが、いつ発症しないとも限らない。相も変わらずな表情でこちらを見つめる大沢は、精神病か何かか?と訝りながら一郎を見ている歩哨に、千絵を医務室に連れて行くよう命令した。
「君は行かなくていいのか?」
 左手から血を垂れ流す一郎を見ながら、大沢は言った。
「そのうち直ります」
 大沢はそれを聞くと移動し、部下達に何やら指示を始めた。
 一郎は倒れこんだ安藤に右手を差し出し、引っ張り起こしながら、衛兵から消毒液と包帯を受け取り、自分の左手と安藤の擦り傷に対して、簡単な治療を施した。久しぶりに感じた自分だけが体内に存在すると言う開放感は、痛みの縮小と共に、早くも薄れていった。問題は腹部に強烈な打撃を受けた安藤だったが、骨に異常はなく、これから始まる戦闘にも支障はないように思えた。
「国連が近くまで来てるなら、早めに知らせてほしいもんだな。おかげで貴重な弾薬が一つ消えた」
 それに、これだけの悪態を吐く元気があれば大丈夫だな、と思った一郎は、恐らく敵が進軍してくるだろう道路の正面に展開し始めた国連軍を見る。主にオーストラリアで構成された軍の中に、時折台湾の兵士らしき人だかりも確認できる。数では後詰が予想されている朝鮮のデソンが率いる部隊とほとんど同数で、専衛軍をはるかに凌駕している。だが、国際貢献で有名な大沢が率いる十一師団なら、肩身の狭い思いをすることなく部隊を展開させることができるだろう。とは言っても既に二百数十人にまで減った十一師団の中で、負傷しておらずに戦闘が可能なのは宮沢を含めた三十数名程度。さらに、生き残ったのは主に、輸送や対空戦闘などを担当していた空挺部隊だったので、とても地上に部隊を展開させることはできない。敵の擁するストレイジたちが回復していた場合、連携の強固とはいえない国連軍で対応しきれるだろうか?
 一郎は、彼らの指揮に期待するしかない、と思い、視線を正面に戻す。
 
「君達には、負傷兵が大量に詰めている医務室を固めてもらいたい」
 慌しくこちらに戻ってきた大沢は安藤と一郎を見比べて、言った。
「民間人を戦闘に参加させると言うのは、やはり我らの仲間にとっては余り気持ちのいいものじゃない。……だが、私は君達の戦闘能力を高く評価している。ぜひとも協力を仰ぎたい。岩波に小野、それに私の大事な部下たちを……頼む」
 軽く頭を下げ、元来た道を戻る大沢を見てから、一郎たちは何も言わずに医務室へと向かった。
 
 
 
 
 私は何をしているんだろう――。
 一郎に接近し、二人きりになったときに殺す……。それが私の任務だったはずだ。江別駅でも最後の最後でためらい、札幌のテントで過ごした夜には攻撃することすらできなかった。
 その後も、味方と何度も刃を交えた。正体に勘付いた安藤を殺そうとした。そして隊長を裏切った。
 非情になりきれない。仲間に打ち解けきれない。中途半端な自分。
 ――やはりあの時、わかば園を損なうべきではなかった。
 それが幾度となく考えてきた末にたどり着いた結論だった。
 父が私を利用しているだけだと、薄々気付いていたのに。そんな親の為に、二十人もの命を奪ってしまった。
 この人生の中で自分の手で選んだことと言えば、自分で起きる前に聞いた父達の会話を聞いて、任務に関しては知らない体(てい)を通したことくらいだろう。
 寮長室でナイフを突き刺したときの寮長の顔。腹を裂いたときの須能さんの微笑み。
 幾度となく悪夢となって蘇る、あの時の記憶。
 
「……しっかりしろ」
 ようやく発作の収まった千絵に、武田は呼びかけた。一方的な憎悪を募らせるより、話し合う。その方がいい、と事情を知る大沢に諭された武田は、大沢の許可を取ってから、医務室の千絵を訪ねたのだった。
「武田君、か……」
 あの夢が始まる前に引き戻されたことに安堵しつつも、明らかに以前とは違う武田の雰囲気を感じ取った千絵は、彼から少し目をそらした。
「……思い出せたんだね」
「あんな記憶、思い出したくもなかった……」
 冷静さを欠いた武田の言葉に、千絵は何と返していいか分からず、沈黙で答えた。
「本当は、お前を殺してやりたい。だが、俺には殺せない。十八年間生きてきて、あの時が一番楽しかったんだ、俺は」
 後悔の念を一層強めさせる言葉を聞いて、千絵は武田とは反対の方向に寝返りを打って、この場を切り抜けようとした。
「……また来る」
 逃げるなんて許さない。そんな強さをもって発せられた言葉を背中に感じながら、千絵は再び目を閉じた。目を閉じる直前、隣の負傷兵が哀れそうな目でこちらを見ていたが、そんなことはどうでも良くなっていた。
 
 武田は、千絵と話してから、衛兵に左目の治療を施してもらった。
「眼帯はこの施設にはないので、ガーゼを固定してからタオルで目を覆いますが、よろしいでしょうか」
「了解」
 タオルを被せる前でも、被せた後でも視界が変わらないという奇妙な感覚に捉われながら、武田はソファーに横になった。大沢には戦闘配置につかなくて良い、と言われていたので、少しの間休息をとることにした。
 そして疲れの溜まった体は、すぐに武田の意識を深い眠りへと引きずり込んでいった。
 
 
 
 
「この期に及んで正面突破を狙ってくるとは……迎撃!」
 大沢の号令で各地に配置された国連軍は、正面突破を狙ってきたデソン軍に対し、一斉に迎撃を開始した。以後の攻撃は、中東戦争で知り合った、恐らく現代で最も戦争を経験している軍人の一人であろう、オーストラリア軍のレイソン中尉に委任して、大沢は指揮詰所へと移動した。
 
 
「……それにしても、こんなプレハブ小屋、狙う奴はいるのか?」
「大沢も言っていたが、千絵が情報を伝えていないと分かった以上、専衛軍の中に内通者がいるとしか考えられない。先生から聞いた話だが、千絵――重要な被研究対象――と、ここ十年、宗一さん達と共に、奴らの展開していた脱北研究者討滅を"ほとんど"防いできた岩波。ストレイジに深く関わった二人が揃っているのは敵にとって好都合……らしい」
「岩波さんが……」
「僕もついさっき知ったばか……待て」
 安藤は会話の途中で口をつぐみ、辺りを窺うように見渡した。
「今、大沢の号令が聞こえた。戦闘が始まったらしい」
 自分の話を聞いているうちにすっかり戦闘体制が整っていた安藤を確認した一郎は、辺りの気配を探ることに徹する。かなり大規模なプレハブ小屋に、医務室への扉が一つしかついていない事は、危機管理対策は別として、一郎たちにとっては好都合だった。一郎と安藤は、窓がなく、正方形で平らな屋根をした小屋の正面に備え付けられた扉の前に立っていた。
 会話している最中でも最低限の内容は聞き取る……自分よりよっぽど兵士らしいな、と感じながら、一郎はグロックを取り出そうとした。しかし、腰に備え付けられたホルスターにはその感触はなかった。車の荷台で調子を確かめていたことを思い出し、荷台に取りにいこうと思ったときにはもう遅かった。
「……上だ!」
 一郎は安藤が叫んだのと同時にナイフを引き抜き、わずかに軋んだ音を発したプレハブの屋根を見上げるようにナイフをかざす。金属同士がこすれあう不快な音が辺りを包んだのとほとんど同時に、それを凌駕する轟音が小屋の屋根の上から発した。
「屋根を焼き切るつもりか……!」
 そう言った安藤が男に銃を構えるのを横目で見やり、一郎は力を強めて相手を弾き飛ばし、その場から屋根へと跳躍した。まだ収まりきらない精神の混同に、全力を出すのが早すぎたか? と思いながら、一郎は屋根に佇む四人の敵兵を確認して息を呑んだ。ストレイジの利点を最大限に生かせる、ナイフを構えた敵兵士が二人、バーナーで屋根を切断する作業を進めている仲間を隠すように立っていた。
「安藤、下の敵を!」
 先程弾き飛ばした兵士も含めると五人。だが、人数が同じとはいえ、下水道で戦ったときとは相手のレベルが根本的に違う。
 そしていつの間にか距離を縮めていた一人が右側からナイフを突き出してきたので、それを右手に構えたナイフで弾き飛ばした。そして左側から繰り出されたナイフもしゃがみこんで避ける。承晩のような化物じみた強さでないことに安堵しながら、一郎は相変わらず作業を続ける二人の男に向かって走り出した。
 しかし、走り出した瞬間には屋根が踏み破られ、二人が何かを屋根へ投げ込むのが見えた。次の瞬間には凄まじい爆発が巻き起こり、内部からは悲鳴が漏れ聞こえた。一郎は仕方なく後ろを向き直り、ナイフを構える。しかし二人のうち一人は一郎の頭上を飛び越え、四角に開いた穴へと入っていってしまった。
 グロックがあれば中空の敵を狙えるのに、と思ったのも束の間、間髪置かずに突っ込んできた敵の斬撃を鼻先で受け止める。
 その瞬間、敵の口元が微かに歪み、左腕の拳打が腹に直撃した。
 異常なほど強力な拳打に、こいつは腕か……と一郎は体を浮き上がらされながら考えた。
 着地するのを許さずに飛んできた脇腹への打撃を叩き込まれ、一郎は広い屋根の上を転がった。そして、起き上がると同時に顔面に肘鉄が入り、靴のかかとであばらを抉られる。そして平衡感覚の分からぬくらいに殴りつけられた一郎は、最後にナイフが肩にめり込むのを感じた。
 敵の股間を蹴り上げ、なんとか体勢を立て直すものの、中途半端な蹴りで相手は痛みを感じなかったらしく、膝蹴りをみぞおちに決められた一郎は、着地と同時に手榴弾が足元に転がるのを見た。死を意識した刹那、先程痛みによって押さえ込んだ精神の混同が激しくなり、一郎は"狂気"の声を最後に聞いてから意識を失った。
 
 
 
 安藤は、ナイフを蹴りで弾き飛ばした敵の頭を小銃で打ち抜き、戦闘に終止符を打った。直後、再び辺りを包んだ爆発音が安藤の耳に届いた。
 それから少し間をおいた後、屋根の方から聞き覚えのある、耳障りな男の笑い声が安藤の耳に届いた。
「アハハハ! 弱ェなオマエ! 弱すぎ!」
 一郎が危機に直面すると飛び出す、狂気。再びこの声を聞いたことに自己嫌悪の念が渦巻くのを感じたが、安藤はすぐさま脚立を取り出してプレハブの屋根の取っ掛かりに取り付け、屋根へと上った。
「一番苦しい死に方、知ってるかァ?」
 "狂気"が男の腹を裂いて臓器の一部を取り出し、男の近くに放り投げたのを見て、安藤は叫んだ。
「一郎ォ! そんな奴に、何、人格明け渡してやがる!!」
 一郎の顔で陰湿な笑みを浮かべたその男は、安藤をちらと見て、屋根に開いた四角形の穴へと飛び込んでいった。安藤が駆け寄ると、"狂気"に腹を裂かれた男は、全ての穴から水という水を垂れ流しながら、震えていた。しかし一人で死ねる気配は全くない。
 安藤はグロック17を取り出し、男のこめかみに向け、放った。
 
 "あの男"は殺しを楽しんでる。
 その感触を再確認し、安藤は屋根を飛び降りた。




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