13

 武田は、首にかけた珊瑚の飾りをちらつかせながら、"化け物"の返り血を浴びてその場に佇む少女――小山田千絵を見て、彼女を一目見たときから胸の中で澱み、錯綜していた思いが一つの場所に収束されていくのを感じた。
 周りの風景が遮断され、あの夏の情景が広がっていく。
 できることなら、そのまま忘れていたかった、あの夏。
 残ったのは――憎悪と迷い。
 
 
          *
 
 
 二〇二八年五月、武田恒(たけだ ひさし)は、北海道岩見沢市に生まれ落ちた。
 しかし、生まれ落ちてから小学校を卒業するまでに覚えている記憶は、両親が離婚したことと、その直後に引き取り手の母が自ら命を絶ったことだけだった。
 物心付いた頃から、両親は毎日のように喧嘩していた。母は、父が吐く罵詈雑言に耐えかねるとすぐ部屋から出て行って、声を押し殺して泣く。父は、残った武田と目を合わせると、当たり所のなくなった怒りを武田にぶつけた。
 狭いリビングの中で、無言で自分を殴り続ける父を、武田は無表情に、ただ黙って眺めていた。空き家だらけのこのアパートでは、騒ぎを聞きつけた下の階の住人が来ることは無い。そして、泣き濡れた瞳を隠そうともせずに戻ってきた母は武田を一瞥するが、顔のあざを心配したり、息を切らして武田のことを見下ろす父を咎めたりはしない。ただただ父に謝り、事態の収拾に望むのに必死なのだ。武田はそんな母が、父以上に大嫌いだった。
 そんな日々が三年も続いたある日、四年生の始業式に珍しく姿を見せた母と父は、その場で取っ組み合いの喧嘩をして、父は、割って入った教員を殴った。しかし、事を荒立てたくない学校側の配慮で、武田は以後も通常通りにその小学校で過ごす。
 武田は、そのことが原因となり、クラスの中で次第に孤立していった。その頃には、服で隠れる部分にありとあらゆる傷を抱えた武田は、自分から積極的に人と話すことはなくなっていた。
 そして十二歳の誕生日の時、両親は離婚し、その翌日に、母は風呂場で手首を切って死んでいた。
 行く当てのない武田は施設に引き取られ、精神障害や身体障害を持つ人々との共同生活を始めた。彼らは父のように武田を殴りはしない代わりに、話しかけても来なかった。武田も彼らの奇行を眺めはするものの、積極的に輪の中に入って行くようなことはしなかった。
 そして通い始めた公立の中学では、施設から通っていることを理由に、初めは何かとちょっかいを出されていたが、そのクラスメイトが武田の大切にしていた本を焼却炉で燃やしたとき、武田が彼を顔面からガラス戸の窓に叩きつけて、額に八針を縫う怪我をさせてからは、誰も武田に近寄ろうとはしなくなった。集団的ないじめがあったことは教師も認識しており、"世間体"を重視する彼の両親もあまり厳しく追及できずに、事件は内内に処理されていった。
 誰にも話しかけられず、話しかけもせず、代わり映えの無い毎日を過ごしていた三年のある日、武田はその少女に出会った。
 
 彼女は、岩見沢に本格的な夏が到来しようとしていた頃、武田の前に姿を現した。
 その日も武田は、いつものように、六時限目の授業が終わってから、部活の終わった生徒達がいなくなるまで日陰に座り込んで本を読み、見回りの先生に声をかけられてから、一人で駐輪場に向かった。このような、周囲から見れば不可解な行動をするのは、あの騒々しい施設に帰る時間を引き延ばすためだった。施設に帰れば、寮長に相互扶助の精神やら、思いやりの心やらを説かれ、身体障害者の食事を手伝ったり、精神障害の患者を寝かしつけたりで、食事や共同大浴場での入浴以外、ろくに自分のために充てる時間がないうえ、就寝時間は大抵午前二時を過ぎる。
 しかし結局は他に帰る場所もなく、自立するほどの将来の展望もなく、家出する体力はあっても気力はない。どうしてもしなければならない嫌なことを引き伸ばしにして、逃げている自分がどうしようもなく情けなかった。そう考えるものの、それ以外に特別に時間を潰す方法が見当たらなかった。いや、見つかるはずもない、と諦めていた。
 そして駐輪場に向かった武田は、自分が通学に使っている自転車と数メートル離れたところに置いてある、全体が綺麗にシルバー統一されている、比較的新しめの自転車の荷台に座り、星空を見上げている少女を見つけた。武田は、変な奴、と思いながらも、自分の自転車にかけた鍵を外し、スタンドを外した。そして自転車に乗り込み、ゆっくりと方向転換して、駐輪場に背を向けた。
「空は私たちを眺めているだけ……」
 銀とも白とも取れぬ髪色を纏った、校内で見かけたことのない少女が呟く声を背に感じながら、武田は中学の校門を、いつもより少し速めのスピードでペダルをこぎながら、駆け抜けた。
 校門を出てからしばらく直進して、いつものように、左右に通り過ぎる風景たちを感じる。コンビニエンスストア、古びた自転車屋、消防署。そしてさらに直進すると、チェーン店の看板を借りた個人経営の電化製品販売店がある。そこを右に折れて廃れた住宅街に入ると、そこにはもう個人経営の養護施設「わかば園」がある。
 このわかば園は、株で一山当てた寮長が、育った街に恩返しをする為、と開設した無料の養護施設だ。しかし無料の養護施設とは言っても、その際限のない財力で雇った従業員は十人近くいるし、二十人が共同で暮らせる程度の広さもある。入所できるのはこの地域の出身者限定だ。そして、この地域で親を亡くした子供が入所するのは、武田が初めてだった。
 武田はゆっくりとわかば園の正面に自転車をつけると、閉じられた門扉に備え付けられた暗証番号の入力装置に手をかける。入所者のプライバシー保護のため、と、セキュリティー対策もしっかりと対応してある。しかし、いくら入所者の快適な環境の為とはいえ、門扉は四メートル程度の高さがあり、セキュリティにこだわりすぎている感は否めなかった。
「……今帰りました」
 暗証番号を入力して、その脇に備え付けられた網膜認証の装置に目を通した武田は、インターフォンにそう吹き込んだ。インターフォンにはカメラが同梱してあり、監視者が背後に誰もいないことを確認すると、丁度自転車が通れる程度の広さに門扉が開く。武田は門扉を通り抜け、自転車を、入り口の近くに設置された急場しのぎの小さな駐輪場へ停めた。
 そう、この施設で外出が許されているのは、武田だけなのだ。だから武田が入所するまで、駐輪する場所も必要なかった。
 他の人々は皆、通常の世界に飛び出すためには様々な障害を抱えており、彼らはこの施設の中が世界だと思っている、と言っても過言ではないだろう。実際、この施設には外出しなくても過ごしていけるだけの世界はある。野菜の自家栽培、家畜から絞る牛乳や家畜を殺して得られる肉、当番制で購入するその他の食材。十人程度が同時に集まれるセンターホールにはテレビがあり、常にNHKが付けっぱなしになっている。新聞も、寮長が集め続けた蔵書がまとめられた図書室で読むことができる。そして、ここにいる入所者、それに従業員は七十を超えた高齢者ばかりで、それだけの娯楽があれば事足りてしまう。
「恒、お帰り」
 玄関のガラス張りで透き通ったドアを押し開くと、そこには寮長が立っていた。武田に近付いてきた寮長は、にっこりと微笑みながら言った。
「夕食は多目的ホールに置いてある。いつも通り、もう皆は食べ終わったよ。一人だけで申し訳ないが……彼らのことも分かってやってくれ」
「はい、大丈夫です。僕は一人のほうが性に合います、構わずに」
「分かっていると思うけど、行儀よく食べろよ。私は少し須能(すのう)さんと寮内を見回ってくるから、食べ終わったら食器は片付けておいて」
 優しげな声で様々な指示を出す寮長をけむたく思ったことはある。しかし、武田を気遣ってくれているその様子を見ていると、少しだけ気分が和らぐ。そして、その安らぎをもたらしてくれる寮長を、武田は好きだった。
「分かりました」
 武田がそう返事をすると、寮長は満足そうに、ひと三人がゆったりと通れる程度の、広々とした廊下を歩いていった。 
 それを見た武田は、玄関の正面にあるセンターホールへと歩を進めた。センターホールからは宿舎、図書室、多目的ホールへと進む道がそれぞれあり、真ん中にやわらかくて背もたれのない椅子が置いてあり、その周りにはパイプ椅子が立てかけられている。腰を痛めている老人などは、パイプ椅子に座り、NHKの流すニュースや外の世界の観光情報を見て楽しんでいる。
 武田は多目的ホールへの廊下を進み、中に入って、ぐるりと部屋を一周するように設置された、持ち運び可能な簡易机の上に食事が置いてあるのを見つけて、折りたたみ式の椅子へと腰を下ろす。そして、少しも食欲を示さない腹に食物を押し込む単調な作業へと入っていった。出されたものは、たとえ腐っていようが何だろうが、残さず食べる……それが幼少の生活の中で学んだ生きる知恵、でもあった。妙に味の濃い豚の角煮を味噌汁で流し込み、武田は一人の食事――腹に食物を押し込む作業――を終え、ごちそうさまでした、と誰に言うともなく呟いた。
 武田は食器をお盆に載せ、多目的ホールの奥にある調理室へ持って行った。中には誰もおらず、武田は一人静かに食器を洗って食器用乾燥機の中にそれらを放り込んだ。
「今日はヤスヒロさんの寝かしつけか……」
 食器乾燥機の近くの壁に張った、シフト表まがいのホワイトボードに目を通すと、武田という文字の隣に、"ヤスヒロ"と書かれていた。武田はタオルで手を拭き、軽くため息をついて、ゆっくりと宿舎へ歩き始めた。帰り際に多目的ホールの戸締りをすべて確認し、カーテンをすべて閉める。入り口付近で電気を消すと、来たときと同じようにスライド式のドアを開いて外へ出た。そしてまたセンターホールまで少しの間歩く。
 単調な毎日の繰り返し。その言葉が本当に当てはまる生活だった。昨日とほとんど同じ時刻に帰宅して、昨日とほとんど同じ時間に食事をして、昨日とほとんど同じ時間にセンターホールへの道のりを歩く。
 そんなことを考えているうち、武田は別棟の宿舎へと足を踏み入れていた。個人差はあるが、寝かしつけにかかる時間は大体二時間。従業員に必要以上の負担をかけないよう、とくに障害を持たない人たちで彼らを助けている。
「失礼します」
 トオヤマという文字の隣に、ヤスヒロと書かれた標識を見つけた武田は、ノックをして部屋へと入る。病院と同じような型のベッドの上から何か返事が返ってくるが、相変わらず何を言っているか分からない。相部屋の遠山さんはもう寝付いているようだった。
 ヤスヒロさんは自分が常に何者かに狙われている、と思っていて、少し体に触れるだけでも、触った者が驚くほどの奇声を上げる。武田はベッドの横に置いてある椅子に座り、彼を眺める。彼は触らないでただ眺めていれば、比較的容易に眠ってくれる。誰か知人がいてくれるという安心感が必要なの、と須能さんは言っていた。
 武田は少しヤスヒロさんから視線を外し、しばらくの間、星空を眺める。
 ――空は私たちを眺めているだけ。
 自分の現状、過去の経験を少しの間思い浮かべ、確かにそうだな、と武田は思った。
 部屋に視線を戻し、ベッドの上の壁に掛けられた時計を見ると、時刻は一時半を回っていた。ヤスヒロさんが寝付いたのを確認してから、武田は立ち上がって、部屋を後にした。
 整然とした廊下を歩き、自分の部屋の前に着くと、武田はドアを開いた。今のところ、この場所には一人で住まわせてもらっている。恐らく、相部屋に入った人が、体のどこかに障害を持つ人なら、その人の世話をすることになるだろう。
 部屋によって備品に違いがあるのが不思議だったが、武田の部屋は畳敷きで、寝起きは布団だった。先程までの整然とした廊下からここへ来ると、少しだけ戸惑う。ここへ来てから二年半経つ今でも、あまり慣れたとは言えない。しかしこの部屋はそれほど狭くもなく、武田と一緒にここに引っ越してきたテレビとタンス、小さなテーブルを置いても、一人で生活をする為のスペースは十分にあった。畳は新調したばかりのようで、どこか優しく、懐かしい香りが部屋に漂っていた。壁もそれほど古くはない。総合的に見て、武田の境遇を除けば、そこは素晴らしく住み心地の良い場所だった。
 隅に重ねてある布団を広げ、薄い掛け布団を毛布の中から引っ張り出して眠る。武田は壁と一体化した窓を開けて外の空気を部屋に取り込む。あれだけのセキュリティがあれば、まず、窃盗犯の窓からの侵入を警戒する必要はない。
 そして武田は部屋の温度計が二十七度を指し示すのを見て、ゆっくりと眠りに落ちた。
 
 翌朝、武田はいつもより少し早めの四時過ぎに目を覚ました。まだ太陽が出ていないせいで薄暗い部屋の中でジャージに着替え、歯ブラシと歯磨き粉を手に男女トイレと併設されている洗面台へと向かった。
 洗面台は宿舎の中の各階にあり、割と大規模なものだった。武田が住む一階の洗面台の蛇口は数にして二十くらいあり、そのひとつひとつにしっかりと鏡も付いている。五月に行った修学旅行先の旅館とだいたい同じような洗面台だ。
 歯ブラシに歯磨き粉を付け、しばらくの間丹念に磨いた後、蛇口から水を出して口の中に入れ、口内に充満した歯磨き粉をゆすいで吐き出す。歯ブラシもゆすいで携帯用の容器の中へと戻した。容器はその場に置いておく。
 武田はそれからセンターホールとは反対の方へ歩き出し、宿舎一階に設置された裏口から外に出た。裏口を出て、すぐ目の前に据えつけられている裏門もまた、正門と同じように厳重な警備が敷かれている。いつも通り、裏口近くにある、監視装置が設置されたプレハブ小屋に詰めている監視者と目を合わせ、軽く会釈をする。すると門扉がするすると両脇に開かれた。門扉は相変わらず武田が通れる程度の広さしか開かない。
 武田は外に出て、人気のない住宅街を一通り見渡してから、ゆっくりとストレッチを始めた。アスファルトの上でのランニングで足を痛めないよう、走る前のストレッチは欠かさない。寮長に勧められて、ここに来てから毎日続けている朝のランニングも、最近少しずつ距離が伸びてきた。同じような住宅が続き、同じような十字路が広がる住宅街を隙間なく走り回ると、それだけで十五キロはあるらしい。武田は寮長から貰ったマップを頭の中に叩き込み、ノートに毎日記録をつけている。昨日はだいたい六.五キロ走った。
 そしてストレッチを終えた武田はゆっくりと走り出した。
 意味を分かって使っているのかは分からないが、下手な字で"I'M A LOYAL PERSON(私は忠義者)"という落書きのされた壁を通り過ぎ、金木犀の香りを漂わせている、母屋と倉に分かれた古い民家を通り過ぎる。そして五本目の十字路に差し掛かり、その場から折り返す。
 わかば園に戻る頃には、武田の顔からは汗が止め処なく滴っていた。ポケットに入ったマップを確認すると、今日のコースは大体七キロだった。乱れた息を整え、インターフォンを短く押した。そしていつもと同じ手順を済ませると、門扉が開く。やや濃い目の赤色をしたジャージを脱ぎながら裏口を押し開けて中に入り、額の汗を拭いながら大浴場へ向かう。
 男女ごちゃまぜにされたその更衣室は、他の設備を見て分かるとおり、広い。軽く見積もって三十人は同時に着替えることができるだろう。
 武田は、"武田恒"と書かれた縦長のロッカーを見つけて、衣服をすべて脱いだ。ロッカーの中に吊るされた詰襟の制服が濡れないよう、ジャージをロッカーの上に載せ、昨日の夜掛けていたタオルを持って、大浴場の中へと入る。
 流石に早朝から湯を張るほど寮長の金遣いも豪放ではないらしく、武田は空の浴槽と目を合わせた後、近くにある台座を引っ張って腰を下ろし、シャワーのコックをひねる。水温をややぬるめにして、頭の上からシャワーを浴び、シャンプーの容器の頭部を押して液体を手のひらに出し、やや長めになりつつある髪を洗う。続いてタオルを使って体も洗い、最後に全体をすすぐ。
 浴場を出て正面にある時計を見ると、時刻はもう既に六時半を過ぎていた。
 体をバスタオルで拭いて制服に着替えた武田は、朝食の準備を手伝う為に多目的ホールの炊事室へ向かう。
 そうして武田の一日は始まる。
 
 学校に着くと、武田はいつもの様にホームルームが始まるまで本を読んで時間を潰し、一時間目、二時間目、三時間目と授業を淡々とこなす。昼食の時間になると、武田は封鎖されている屋上へ繋がるドアの手前の階段に一人で座り、朝自分で作った弁当を食べる。私立の為、給食ではなく弁当だと言うのが武田にとっては唯一の救いだった。なるべくなら人と関わりたくはないし、これも自分が自由にできる時間の一つとなっているからだ。
 昼休みが終わった後は、午前の授業と同じように、淡々と午後の授業を修学し、また学校から外に出されるまで本を読む。
 そして家に帰ったら一人で夕食を食べ、誰かの就寝の手伝いをして、その後に自分も寝る。この行動の繰り返しを頭の中で組み立てていた武田は、施設に帰宅して、彼女が自分と相部屋になる、と言われたとき、少しだけ戸惑った。
「小山田千絵、歳は恒と同じだ。重度の気管支の発作を患っているらしいから、しっかり面倒を見てやってくれ」
「……よろしくお願いします」
「…………」
 昨日の夜、駐輪場にいた少女は、武田に軽く頭を下げた。
 武田は彼女を少しだけ見て、何も言わずに多目的ホールへと向かった。
「恒! 挨拶はしっかりしろ」
「……よろしく」
 武田は背中を向けたままそう言って、再び多目的ホールへ歩き出した。
 寮長のこれ見よがしなため息が聞こえたが、武田は気にせずに、中に入るためのスライド・ドアを開いた。
 
 一人では十分なスペースでも、二人となるとやや手狭になる。
 布団の敷き方に苦心していた武田だったが、結局隣同士に敷くことでそれは解決した。
「……少し狭いけど、我慢してくれ」
「大丈夫。わざわざ気を遣ってくれてありがとう」
「…………」
 今夜は、まだ十時を少し過ぎたところだ。寮長の話によれば、相部屋に千絵が入ったことで、武田は寝かし付けのローテーションから外れ、仕事は彼女の世話をする、という比較的楽なものに変わったらしい。まだ発作を見たわけではないので何とも言えないが、武田にとっては、十時に寝られるという事実の方が、何よりもありがたかった。
「タンスの一番下と下から二番目は使って構わない、テレビも好きなときに見ていい。トイレは部屋を出て右に曲がってすぐの場所にあるし、共同浴場はその反対方向。学校は僕と一緒に行けば分かる。質問は?」
 とにかく早く眠りにつきたい武田は、できるだけ簡潔に説明をして、千絵の反応を待った。
「特に」
「ならいい。俺はもう寝る。寝る前には電気を消しといてくれ」
「うん」
 彼女の返答を聞いた武田は、ゆっくりと布団に入った。そして薄い毛布を体にかけようとしたとき、部屋の電気が消えた。
 程なくして、武田は眠りに落ちた。
 
 
          *
 
 
「……付いてくるのか?」
「迷惑じゃなければ。早くこの辺りに慣れたいの」
「……七キロは走るぞ」
「私は一応前の学校では陸上をやっていたの。付いていくことくらいならできると思う」
「じゃあ着替えてきてくれ。俺は正門で待っているから」
 彼女が着ていたのは質素な作業服の様なもので、長袖長ズボンといった格好だった。彼女からは、身だしなみを大切にする中学の同級生とは違う、どこか俗世離れしたものが感じられる。
「……ジャージは持ってない」
「陸上をやっていたのにか? ……そこのタンスの二段目に入っているから、それを使え」
「ありがとう」
 五段ある小型のタンスを指差して言った武田に、千絵が答えた。
 
 付いくことくらいならできる、と言った少女は、この真夏に七キロを走った後だというのに、汗一つ流さない。本当に陸上をやっていただけなのか? と口が開きかけたが、必要最低限の会話をすることに慣れてしまっていた武田は、結局口をつぐんだ。
 武田は先に部屋戻って少し待っててくれ、と言って裏口のドアを押し開け、宿舎へと入った。
 彼女が自室に戻るのを確認した後、大浴場の更衣室に入り、身にまとった衣服を脱いでいると、ふと更衣室の日めくりカレンダーと目が合った。二千四十三年、八月十四日……日曜日。昨日の夜、いろいろあったせいで明日のことなど考えていなかった武田は、少しだけ気が重くなった。夏休み中の登校日よりも、これから始まる休日の方が、しなければならないことは際限なくある。
 センターホールと図書室の掃除、野菜の管理、雑草抜き、自給では賄えない部分の食料品買い出し、入居者達の下着や洋服等の買い足し……。
 シャワーを浴びて重くなった気分と一緒に汗を流していると、曇ったガラス戸に人影が移った気がして、慌てて正面の鏡に目を戻した。
「……聞いてなかったのか、俺の話」
 正面を見たまま、鏡越しに映る千絵の背中を見て、武田は言った。
「シャワーを浴びてるとは思ってなかったから……。私、もう何日もお風呂に入ってなかったし」
「………」
 彼女も、親を亡くしているんだろうな、と思い、武田はそれ以上追及しないことにした。どうせ来年の三月にはこの施設を離れて、二年間専衛軍の訓練学校に入所するつもりだったし、できることならあまり深入りはしたくない問題だった。人の不幸話を聞いて同情できるほど、今の武田は心に余裕はなかった。
「今日は休日だから……小山田にも、いろいろ手伝ってもらうから」
 そう言って会話を避けるように立ち上がった武田は、ガラス戸を開く。ガラガラというドアの開く音に、その傷……という千絵の声が重なったが、気にせず戸を閉めた。
 幼少の頃に付けられた傷は、未だに背中に後を残していた。一番ひどいのが焼酎の空きビンで背中を殴りつけられた時の裂傷だった。ビンの一部は背中にめり込み、五センチほどの大きな裂傷を残した。摘出作業に当たった医師は淡々と事務をこなすような口調で今度はガラスを突き破らないように、気をつけて見ていてあげてくださいね、と言い、虐待の事実などには勘付きもしなかった。
 体を拭きながら、下着を着た武田は、再び赤いジャージを身に纏う。
 そして更衣室の外に出て、彼女が出てくるのを待った。寮長は恐らく自分の武勇伝を語っただけで、生活に関する具体的なことは何も説明していない。多目的ホールでの食事も当然知らないだろう。武田が入所したときもそうだった。
 スライド・ドアが開き、彼女が出てきたのは、そんなことを考えていたときだった。
「……どうしたの?」
「……比較的健康な人で、今から朝食の準備をしないと駄目なんだ。一応二十人はいるし、食事の時間が自分のペースに合わないとヒステリーを起こす奴がいるからな、従業員だけじゃとても世話しきれない」
「それを私も手伝えばいいの?」
「ああ、頼む」
 宿舎の廊下を歩きながら言った武田の横に、千絵も並んで歩く。
 しばらく無言で歩いて多目的ホールに入ると、調理室には既に人影があった。いつも通り、須能さんと遠山さんだった。遠山さんは年齢は六十を超え、従業員でもないのに毎朝一日も欠くことなく調理室に姿を見せている。彼でなければヤスヒロさんの相部屋は務まらないだろうな、といつもの感慨を抱いた武田は、挨拶をしてから水道で石鹸を付けて手を洗う。千絵にも目で促し、タオルで手に付いた水をふき取りながら、須能さんに指示を仰ぐ。須能さんはここに勤めて十年になると言うベテランの女性栄養士で、総合的な業務を負担している。安月給の上に激しい労働。まだ三十にも満たないほっそりとした体のどこからそんな力が湧き出てくるのか武田にとっては疑問だった。彼女自身はそんなことなど意に介す様子もなく、むしろ住み込みで雇ってくれている寮長に対して常に感謝しているほどだった。
「恒はニンジンとジャガイモの皮むき、……えっと、そこの女の子、なんて言ったっけ、とにかく君もそれを手伝って」
 須能さんはそう言って食器を乾燥機から取り出してお盆に載せ始めた。
 武田はジャガイモの芽を皮むき機の角で削り始める。
「……包丁借りてもいい?」
 ニンジンを前にして、皮むき機を見ながら少しの間考えていた千絵は、そう言った。
「そこの引き出しに入ってる」
 少し不審顔で言った武田は、芽を削り終えたジャガイモの皮をむき始めた。
 
「いただきます」 
 多目的ホールに、全員が集まって、いつも通り朝食が始まる。
「……おいしい」
 思わず、という体で声を漏らした千絵は、ジャガイモとニンジンのスープを口の中に運びながら、武田を見て嬉しそうに言った。
「これなら、皆も満足できるね。須能さんって人、本当に料理が上手」
「そうは感じないけどな……」
「こんな食事、本当に久しぶり……」
 野菜に顔を向け直した千絵を見て、武田も正面に向き直り、アジの開きを口に運ぶ。しばらく無言で食事を口の中に運び、食べ終わって立ち上がりながらちらりと彼女を見ると、彼女の顔は先程の食事の際に見せた顔とは対照的に、心なしか曇った様子だった。
 お盆を調理室の隅に置き、多目的ホールを後にした武田は、センターホールの時計を見て時刻を確認した。七時三十分。
 何から手をつけようか、としばらく思案しているところへ、千絵が姿を見せる。
 とりあえず買い出しに行くのは夜にして、まずは園内の掃除を済ませるか、と手早く決めた武田は、千絵に掃除に関する説明を始めた。
 
 
          *
 
 
 わかば園の正門を出て、廃れた住宅街をひたすら直進すると、コオロギの穏やかな鳴き声が辺りを包み込む田園の風景が広がる。そしてまたしばらくその中を進んでいくと、人々にすっかり忘れ去られてしまったかのようにぽつんとたたずむ「ライトハウス」が見えてくる。洋服を専門に売る個人営業のその店は、施設の人たちの洋服購入で大喜びするほど資金に困っていたが、年老いた女主人は愛想が良く、服の質・量共にライトハウスを凌駕するファッションセンターと称する店舗が中学の反対側にできたというのに、未だに住宅街からわざわざ買いに来る人もいる。寮長もそんな中の一人で、ここ以外での買出しは原則として認めてくれない。
 服はそれほど取り揃えていないのにも関わらず店舗だけがやけに大きい店の、入り口のドアを押し開ける。武田も服のことは良く分からなかったが、そこにはほとんど熟年の男女が好みそうな洋服ばかりで、隣にいる作業着姿の千絵に似合いそうなものなどほとんどない、という程度は分かった。
 しかし、これからずっとその服だけで生活するつもりなのか?という言葉に表情も変えず頷いたその体を、無理矢理ここへ引っ張ってきた武田としては、手ぶらで帰らせるわけにはいかなかった。武田は千絵に、下着を適当に選んで来い、と言って、自分は女主人に今回の注文内容を伝えた。メモを受け取った女主人が、倉庫の中から注文内容の品々を運び出している間に、武田は千絵に選んだ下着を持ってくるように言って、武田は、種類豊富なジャージの中から、肩から手首の辺りかけて白のラインが一本入っただけの黒い無地の上下セットと、赤い地にどこかのメーカーのロゴが入ったTシャツ、それに"I'M A LOYAL PERSON"とプリントされた半袖の黄色いTシャツを選び――住宅街の壁にあった落書きはこの服を見た奴が書いたものだったんだろうか?――他にも適当な半ズボンとジーンズを選んで、レジのある机の上に置いた。千絵もその上に下着を重ねる。
 武田は寮長が自分のために少し多めに見積もってくれていた二万円を、倉庫の中から運び出されてくる服の代金と一緒に出した。どうせ貰ったっていつも使わない、と考えながら、武田は女主人が要領よく袋に詰めていくのを眺めていた。
 ありがとうございました、と言って店を出た直後、千絵が口を開く。
「この下着って、どうやって付けるの?」
「……俺に聞くな」
 袋の中から水色のブラジャーを取り出し、真剣な顔をして問いかけた彼女を見て、武田は呆れたように言った。
「変な形……」
 その感触を確かめるように折ったり引っ張ったりしていた彼女は、全く口を開かない武田を見て、静かに袋の中へとしまった。そして来たときと同じように、しばらく黙って、田んぼの間に広がるあぜの中を歩きながら、武田が沈黙を破った。
「……須能さんに聞けば分かるんじゃないのか?」
 
 武田は買出しの荷物を寮長に引き渡してから宿舎の自室に赴き、ようやく今日初めての休息を味わうことが出来た。千絵は風呂に行くついでに須能さんに下着の付け方を教わってくる、と言ってさっき出て行った。寝転がりながら北朝鮮の兵器開発の様子を伝えるテレビのニュース番組を見ていた武田は、専衛軍の改革を強調する軍事評論家にカメラが移り、彼の意見を聞いてすっかり興味を削がれて、テレビを消した。
 何もすることがなくなり、部屋の入り口に視線を移す。そこにはカード入れに入った自分と千絵のプロフィールがある。彼女のことを何も知らない自分を思い出し、武田はゆっくりと立ち上がって部屋の入り口まで移動し、そのカードを手に取った。
<小山田千絵 二〇二八年八月十五日生まれ 十四歳 女>
 これまでの経歴やここへ来た経緯など雑多な文章を排した簡潔な文章で淡々と記されたそれは、武田に何の感慨も与えなかった。しかし、寮長達は明日が彼女の誕生日と言うことを知っているだろう。施設の誰かが誕生日を迎えるたびに本人そっちのけで騒ぎ立てる彼らのことだ、もうそろそろ明日の準備の為に引っ張り出されるに違いない。
 そんなことを考えていると、部屋にノックの音が響き渡った。
「明日の準備、恒も手伝え」
 遠山さんの声が聞こえ、武田はプロフィールを元あった場所に挿し込んでから、ドアを開いた。
 多目的ホールに彩を添えるための飾り付けをするのは、武田の役割だった。とは言っても、老人達が作った飾り付けを、一番身長の高い者として壁にくくりつけるだけだったが。折り紙を使って作った輪を連結させていった飾りつけは、地味な素材にもかかわらず、ホールの真白な壁にくくりつけると中々に映えた。
「俺のすることってこれだけ……なんですよね」
 飾り付けを終え、いつものように確認した武田は、遠山が頷いたのを見ると軽くため息をついた。
「恒、お前もなんかプレゼント用意してやれよ?」
 遠山さんの他意のない爽やかな笑顔に曖昧に微笑み返しながら、ホールを出て宿舎へと戻っていく。
 
 部屋の前まで戻ると、先程買った赤の地にロゴの入ったTシャツ、どことなく紺色に近い色合いをしたジーンズという格好をした千絵が扉の前に寄りかかっていた。武田は鍵をかけたままだった事を思い出して、ジャージのポケットから熊のキーホルダーが付いた鍵を彼女に投げた。それをゆっくりとした動作で取って、鍵穴に挿し込んだ彼女がドアを押し開けると、武田も後に続いた。
 入り口の近くの壁に付いた電気のスイッチを押すと、蛍光灯の光が部屋に明かりをともす。
「私、今日は疲れたからもう寝るね。おやすみなさい」
「ああ。……そうだ、明日の朝食はそこにおいてあるパンだから。多目的ホールに行く必要はない」
「須能さんの料理が食べられないの……?」
「改修工事の業者が午前中に来る、らしい」
「そう……残念」
 相部屋の人が今まで居なかった武田は、寮長が誕生日を祝うために用意した、見え透いた嘘を初めて実行した。こんなことで騙せるわけがない、と思った武田だったが、本当に残念そうに布団に入った千絵を見て、料理を作る須能さんと、本人なりに一生懸命に嘘を考えた寮長が見たら喜ぶだろうな、と感じ、電気を消して布団に入る。布団に完全に入りきると、左側の空いた窓と目が合った。今夜はそれほど暑くないな、と思い、窓を閉める。
 そしてしばらく寝ることに集中しようとしたが、早く寝ることに余りなれていないせいか、昨日ほど早く寝付けなかった。
 だが、しばらく何も考えずにぼうっと天井を見上げていると、疲労も相まって徐々に眠気が襲ってきた。
 そして、夢と現実との間をゆらゆらしていると、何かが自分の足の辺りに当たった。恐らく千絵のものだろう。あの性格で寝相が悪い、ということを考えると少し可笑しかったが、ふと彼女の方に視線を移すと、異常な量の汗が白髪を濡らしていることに気づいた。気管支の発作、と言っていた寮長の顔を思い出し、慌てて起き上がった。苦しそうに小さな肩を上下させる千絵を見て、武田は何をすればいいか分からず、とりあえずタオルで千絵の汗を拭きながら、器官の辺りをさすってやると、多少は楽になるらしく、表情も少しだけ和らいだ。
 しばらくの間その動作だけを繰り返していくと、だんだんと彼女の呼吸も整ってきたようだった。武田は薬はないんだろうか、と思いながら、視線を外を移した。辺りは薄明かりが照らし始めていた。それを見て、思い出したかのように襲ってきた睡魔によって、武田は少しずつ目を閉じていった。
 
 軽く咳き込んだ千絵の声を聞いて、武田はいつの間にか眠りに落ちていたその身を起こす。そして、少し肌寒さを感じながらタンスの上にある時計に目をやる。時刻は八時を少し回っていたところだった。就寝した時間に関わらず、あまり長く寝られない体質に舌打ちをして、寝不足で鈍い痛みを放っている頭をさすりながらも、千絵が平静を取り戻していたことに安堵し、座ったまま壁に身をよりかける。会話もなく過ぎていく時間の中で、昨日の夜のことを思い出していた武田は、自分の胃が久しぶりに食事を求める意思表示をした音を感じた。無言の沈黙の中で妙に引き立ったその音に反応して、彼女がかすかに頬を緩めてこちらの方を見つめた。
 胃の発した音と、千絵の微笑みに少し気恥ずかしさを感じた武田は、立ち上がってテーブルの上に置いてあるメロンパンとコッペパンを手に取り、メロンパンを千絵の方に投げ、自分は何の味付けも施されていないコッペパンの封を開けて、その先端にかじりついた。
 味のないパンに、いつもと違う食事の満足感を感じ取りながら、最後のひとかけらを口の中に入れて、武田は部屋を出て洗面台に向かい、朝の支度を始めた。
 そしていつも通り歯を磨いた後に顔を洗い、部屋に戻る。部屋に戻ると千絵の姿はなく、彼女も支度をしているのだろう、と思い、また時計を見る。八時四十六分。
 何で今日に限ってこうも時間が経つのが遅いんだ、と思ったが、寮内の協調性を重視する寮長の顔が浮かび、その苛立ちは消えていった。そして頭の中で、全員が午前中の雑事を終えて多目的ホールに集合する十時まで、何をするか考える。
 昨日でほとんど一週間の雑用は済ませてしまったし、家畜や野菜の世話は当番ではないのですることはできない。当番を手伝ったりしたら、その作業をこなすことでわずかな自立性を保っている彼らのいらぬ反感を買うことになる。
 最終的に、行動範囲の狭い武田が寮内の仕事以外で思いついたのは、ありふれた、しかし会話の弾まない自分と千絵にとっては中々気まずい、散歩と言うものだけだった。
 そして、部屋に戻ってきた千絵を見た武田は、結局彼女を散歩に誘い、わかば園を後にした。
 
 自分ひとりで沈黙を貫くのは容易いが、隣に共通する話題を持たない人が並んで歩いていると言うのは、それほど喋ると言う行為を好まず、沈黙が苦でない武田にとっても、やはり気まずかった。武田が危惧した通り、二人の間には特に何の会話もなく、廃れた住宅街を無言で三十分間、ひたすら歩いていた。
 もう幾度掻いたか分からない側頭部を掻きながら、武田はその雰囲気の中、依然として沈黙を貫く彼女を横目で見、視線を正面に戻した。そして、過ぎる時間の遅さ、重さに耐え切れなくなった武田は、ゆっくりと口を開く。
「発作……気管支の発作、ってだけじゃない、だろ」
 千絵が昨夜のことに極力触れようとしなかったのは分かっていたが、武田はこれから生活していく為に知っておかなければならない事象だ、と思い、言った。
「……そう、私の発作は、気管支だけじゃない」
「気管支の発作だったら、病院にいけば有効な薬はいくらでも処方してもらえる、そうだろう」
「武田君、鋭い……その通り。迷惑をかけたくないから黙ってたけど、逆に不安にさせたみたいね。ごめんなさい」
「……で、どこが悪いんだ?」
「原因は、分からない。全身が痙攣したり、特に吐き気があるわけじゃないのにいきなり吐いたり……昨日の夜みたいに、器官の発作があったり。……それに、髪の色が薄くなったり」
 髪を抜いた千絵は、武田の手を取り、手のひらに二、三本の髪の毛を載せた。
 武田はその髪の毛を見た。染めたものや脱色したものとは違い、根元からしっかりと染まった白色だった。そしてそれはしっかりとした輝きを放っていた。
「私、元々は髪の毛だってしっかりとした黒だったんだけど……発作が起きるようになってから、そうなったの」
「原因は分からない……か」
「……話したら、少し楽になった気がする。聞いてくれて……ありがとう」
 千絵がそう言った後、武田は腕時計に目をやった。時間は九時……五十五分。時間厳守を信条に掲げる寮長のことを思い出し、ため息をつく。
「走るぞ」
 突然走り出した武田に戸惑いながらも、とりあえずついてきた彼女を確認してから言った。
「今日誕生日だろ、小山田」
 
 多目的ホールに着いたのは、十時を十五分ほど回ったところだった。武田は汗を拭い、ホールの前のドアの前に立った。この真夏のアスファルトの上の七キロを、汗一つかかずに完走した千絵も、さすがに体力を消耗したらしく、Tシャツに所々汗をにじませていた。
 ドアを開くと、やはりと言うべきか、寮長の険悪な顔がそこにはあった。
 だが、千絵が武田に続いて中に入ると、一瞬前までの表情は消え去り、できうる限りの笑顔を作って出迎えていた。
 ヤスヒロさんが一人で食べ始めているのを見ながら、武田は席についた。
「誕生日おめでとう!」
 と寮長が声を張り上げた後に、遠山の声がやけに目立つ、しまりのない合唱がホールに響く。
「ありがとうございます」
 小さい声でぼそりと呟きながら、顔を赤くした千絵は、この二日の中で見たこともない笑顔をしていた。こんなことをやって、素直に喜ぶのか?と疑問に思っていた武田は、その顔を見て少し安心した。そして各々の会食が始まり、早速宮崎さんが簡易机で囲んだ中にぽっかり明いた四角形の中心に立ち、カラオケセットを持ち出して演歌の熱唱を始めた。酔ってないのに良くやれるよ、と思った武田は、手元においてあるウーロン茶を、運動で乾ききった口に勢いよく流し込んだ。
 流し込んだところで、明らかに酒の味を感じたが、隣に座って嬉しそうに鶏肉を口に運んでいる千絵の前で吐き出すわけにはいかず、結局飲み込んだ。飲み込んだ後で、すぐ頭がふら付き始めたのを感じたが、宮崎を隔てて正面に座る遠山をなんとか睨む。良くある悪戯にあっさり引っかかった武田の最後の抵抗は、遠山に笑って流され、酔っているのを回りに悟られないよう、平静を保つように努め始めた。
「武田君、お酒飲んだら駄目じゃない」
 しかし元より酒に耐性のない武田は、たった今酒を飲んだことをあっさりと千絵に看破され、酔ったことを否定する頭さえ回らず、なるようになれ、と思ったときには既に遠山の思う壺、気づいたときには、元気な老人たちに混ざって手拍子を叩き始めていた。
 その時に一瞬だけ窺わせた、武田を見ていた千絵の、ひどく寂然とした表情。武田はそれを見逃してしまっていた。
 
 
          *
 
 誕生日の翌日から、いつも通りの生活が再び戻ってきた。
 ただ、そこにはしっかりと千絵の存在があるということだけ、違っていた。
 いつもの変わらぬ日々……そこに千絵が組み込まれた、と誰も信じて疑わなかった。
 
 
          *
 
 
 千絵が来てから、ちょうど一週間が経った。
 武田はいつも通りランニングを済ませ、シャワーを済ませ、歯磨きを済ませる。学校へ行くときと変わらない時間に、全ての習慣を終えた武田は、部屋に戻って、昨日配られた一週間の日程表を確認した。
 今日自分のするべきことは須能さんの車で、郊外にできた大型ショッピングモールでの食料品の買出し、それとライトハウスでの衣服の買い物だけ、と確認して、黄色の地に"I'M A LOYAL PERSON"と白いフォントで描かれたTシャツを着た千絵に、日程表を手渡す。ここでの生活に慣れてきた彼女は別行動で、館内に異常がないか見回ったあと、多目的ホールでみんなの夕食の世話、と書いてある。
「今日もやるか……」
 武田はゆっくりと立ち上がり、須能さんの部屋へと向かった。
 彼女もそれに続くように部屋を出て、買出し頑張ってね、とこちらに声をかけてから寮長のいる宿舎の最上階へと向かった。
 
 須能さんの運転する白いワゴン車がショッピングモールに付いたのは、九時を少し回ったところだった。ちょうど店が開く、道路が混雑する時間の前にたどり着いた。助手席に座っていた武田は、シートベルトを外し、かなりこちらに寄っている隣の車にドアをぶつけないように、慎重にワゴンの外に出た。
 中に入ると、既に武田たちが狙っていた卵の特売には長蛇の列ができていた。いつになっても主婦たちの特売に対する熱気は変わらないな、と今更の感慨を抱いた武田に、隣で黄色いかごを持って並ぶ、須能さんが話しかけた。
「そういえば、千絵ちゃんに誕生日プレゼントはあげたの? 忘れてるとか……絶対に無しだからね」
 少しだけ語尾の語調が強まったのを感じた武田は、少し返答に口ごもった。
「やっぱり……わたしが買い出し済ませとくから、恒は……」
 二十八の頼れる姉御肌は、武田に対してすっかり板に付いた対応をして、一万円を財布から取り出して武田に渡し、早く買ってきなさい、と目で促す。
 須能さんの言われるがままにとりあえず三階に着いた武田は、どこから手をつけたものか、と思い、辺りを見回した。三階だけでも軽く十店舗はある。ため息をついてから、赤のジャージ姿でゆっくりと三階をうろつき始めた武田は、濃い化粧をした同年代の辛辣な視線を受けながら、しらみつぶしに千絵の好みそうなものを探していく。さっさと消えろと店員の目が言うのを感じながらも、粘り強く探す。元々こういうものに興味のない武田は、十店目にして初めて声をかけてきた親切そうな若い女性店員に話を聞いた。
「好みが分からなくて……」
 彼女へのプレゼントですか、と聞かれ、曖昧に濁して置いた武田がそう言うと、
「どういう格好で性格か、相手方の特徴を教えてくだされば、なるべく似合いそうなものをお探ししますよ」
 若い店員の言葉に甘えて、髪が白くて性格は寡黙で、笑うときは普段と全然違う顔になる、などできうる限りの情報を伝えた武田を見て、従業員は、
「よっぽど相手の方のことが好きなんですね」
 と言った。耳が赤くなっていくのを感じながら、そんなんじゃありません、と否定した武田は、彼女がが選んでくれた珊瑚のペンダントを手に取り、これにしてください、と言った。
「ペアの青いペンダントもお付けしておきますねー。なんだかあなたのこと、こんな短時間だけど好きになれました。いや、別に変な意味じゃないんですよ。その真摯さ、大切にしてください」
 そう言いながらレジスターを叩く若い女店員は、武田に袋を手渡しした。
 またのご利用、お待ちしています、という声を背に受けながら、武田はなんとか冷静さを取り戻した。遠山さんにこんなところ見られたら茶化されるだろうな、と思いながら、エスカレーターを下っていく。
 一階まで降りて駐車場に戻ると、運転席で正面を見つめていた須能さんが、遅いと口を動かすのが見え、慌てて助手席に乗った。
「何買ったの?」
 興味が先行した声をかけてきた須能さんに、武田は珊瑚をかたどった白のペンダントを見せた。何でこんなものを恒が、と驚いてから車を発進させた彼女に、武田は事情を説明した。
 車体がふら付くほど大笑いをした須能さんを見て、武田は心底疲れきったため息をついた。
 
 車が従業員のための駐車場に着くと、武田は須能さんにありがとうございました、と言って歩き出した。こんなものを持ってて他の入居者に見つかったら何を言われるか分からないから早めに渡そう、と考えた武田は、千絵を探す。見回りをしている彼女は、ちょうど野菜畑の辺りにいた。
 武田は彼女を呼びとめ、手に持った袋を渡した。
「誕生日プレゼント……遅くなったけど」
 少し篭もり気味の声を出す武田を、少し面白そうに眺めてから、彼女は袋を受け取って、中身を取り出した。
「綺麗……これ武田君が選んだの?」
 先程の大笑いが事情を話すのをはばからせたが、その真摯さ、大切にしてください、と言った女店員を思い出し、正直に話した。
 彼女は須能さんとは違い、笑ったりはせず、最後まで黙って聞いてくれた。そして事情を話し終えると、わざわざありがとう、と言って首に珊瑚のペンダントを付けた。
「もう一個入ってるけど、これは……」
「ペアに、って店員は言ってたけど……ペンダントはちょっと」
「じゃあこれは武田君に……と」
 彼女は有無を言わさず武田の首につけ始めた。武田は小柄だったので、身長差はそれほどではなかったから、くくりつけることは容易だった。払い避けようと思えばできたが、今まで感じたことのない、心の中の何かがその思考を遮った。
「これ、本当に大事にするから。武田君も、失くさないでね」
「武田君が帰ってくる頃には、夕食作っておくから。また後で」
 そう言って見回りを再開した千絵を、武田は遠巻きに眺めていた。
 それが、心地よい日常の最後だった。
 
 
          *
 
 
 武田が洋服の買出しを済ませて帰った時、時刻は午後六時を少し回ったところだった。
 ライトハウスの女主人は、今週分の注文内容を既に寮長から聞いていたらしく、注文しようとした荷物を用意してくれていた為、いつもより二時間程度早く帰ってこれたのだ。だが、もう皆夕食を食べ始めているはずなのに、センターホールでは、NHKのニュース番組が付けっぱなしになっていた。
 そして多目的ホールで遅めの夕食をとろうと、ホールの廊下を歩き始めたとき、武田はようやくその場の異変に気付いた。
「血痕……」
 寮長室の扉から滴り続けているそれは、ホールへと向かっている。
 妙な胸騒ぎを感じた武田は、走り出す。そして勢い良くホールの扉を開く。
「何だよ、これ……」
 入り口で仰臥する、額を割られて絶命している遠山さんに足を取られて転倒した武田が起き上がり、目にしたのは、まさに血の海としか形容しがたい光景だった。
 買出しに出ていたはずの武田の声を聞いたからか、広がる血の海の中に佇む少女は驚いてこちらを振り返った。
「ひさ……」
 懇願する目をこちらに向けながら立ち上がろうとした寮長に、すぐに千絵は視線を戻して、ナイフを寮長の頭に突き刺した。その傷の断面から、寮長を構成していた脳髄が飛び散り、地面にかすかな寮長の生の痕跡を残した。
「何で……」
 ナイフの切っ先がこちらを向き、武田は呆然と、その先にある千絵の瞳を見つめた。
 彼女は、返り血で髪が浅黒く染まり、顔の辺りに飛び散った血飛沫に時折混じる、引っかき傷を擁した鉄面皮を携え、こちらをしばらく凝視していた。その目には、明らかな迷いと、徹底的な無表情が双方不安定な形で宿されているように感じた。
「何で戻ってきたの……?」
 冷たくそう言い放った彼女の口元を見て、武田は状況を必死に把握しようと努めた。
 そして震える体を律しながら、なんとか声を絞り出す。
「ナイフを、下ろしてくれ」
「……それはできない」
「何で……何でこんなことをした! 答えろ!!」
 武田は叫び声を上げ、こちらとの距離をいつの間にか縮めていた千絵に殴りかかる。あっさりとかわされ、武田は、もう顔で判別は不可になった若い女性の、臓器が散乱した床へと顔から突っ込んだ。口の中に臓器の一部が入った感触を感じた武田は、起き上がりながら床に吐き出した。
「……私の前から、今すぐ消えて」
 無表情を崩さずそう言い放った千絵の胴へ、武田は蹴りを入れようとするが、逆に右足を蹴り上げられ、後方に吹き飛ばされた。
 敵わないのか……。心中にそう呟きながら、武田は壁に体を打ちつけた。見上げると、"小山田千絵 十五歳の誕生日おめでとう!"と書かれたカードが壁に付けたままになっていた。武田は零れる涙を拭こうともせず、再び千絵に向かって走り出した。だが、千絵の目に宿った、同じ十五歳とは思えぬ殺気に、武田はその場に棒立ちになった。
「……あなただけは、殺したくなかったのに」
 殺気の宿った瞳をそのままにして言った彼女は、ナイフを逆手に構えた。
 棒立ちになったままだった武田も形だけ身構えたが、構えたときには既に、彼女が目前に迫っていた。
「……さよなら」
 その瞬間、武田は首の辺りに鋭い痛みを感じ、むき出しの腹に蹴りの直撃を受けて仰向けに倒れこむ。そして、その腹部にナイフが突き立てられるのを感じた。
 声にならない激痛が全身を駆け巡り、それが自分の体なのかどうかさえ疑わしくなった。武田はなんとか反撃しようと千絵の足に手を伸ばすが、伸ばした右手は、靴の踵で踏み砕かれた。
「殺してやる……」
 背中の痛みに堪えながらなんとかそう呟いた武田を気にすることなく、千絵は武田から少し離れた位置で無線を取り出した。
 
「承晩隊長、任務完了しました。パク、ソナン、ジェミンの三名、排除完了」
(そうですか。よくやりましたね。遺体の回収、帰国の為の偽造パスはこちらで手配しておきます)
(既に奴らが動き出しているかもしれない。早めにその場を離脱した方がいいみたいです)
「了解。父によろしくお伝えください」
(では)
 
 武田の近くで、終始抑揚のない事務報告のような形で無線に吹き込んでいた千絵は、通信が終わると、無線機を床に投げつけ、その場に膝を折った。
「ごめんね……武田君」
 仰向けに倒れた武田の額を、千絵の冷たい手が触れる。
 その瞳からは涙が止め処なく零れ落ちていた。
「あなたと過ごせた一週間、楽しかった。……絶対に忘れない」
 彼女はそう言い終わると、静かにその場を立ち、ホールを出て行く。
 待ってくれ、という声がしっかりとした音として出ずに、武田は沈黙を持ってその小さな背中を見送った。
 
 それからしばらく、止め処なく流れ出る血を感じながら、隣に倒れこんだ頭のない寮長の遺体を見ていた。この二年半の間、常に規律を守り、父親としての模範を見せてくれた寮長に感謝しつつ、武田は視線を天井に戻した。自分はこのまま死んでいくのか……。今更ながらの感慨を呟く。しかし、眠気を誘発し、楽になろうとする体を、ホールに響き渡った小刻みな振動は許さなかった。
「く……。遅かったか」
「岩波。パクの死亡を確認した」
「須能さん……いや、ジェミンも既に」
「遠山さんも同じく」
「宗一が殺されたときと同じような傷跡……。大沢さん、既にストレイジを投入したのかもしれないぞ、奴らは……!」
「この子供、まだ生きてるんじゃないんですか?」
 死者だけが存在するこのホールに響き渡り始めた慌しい怒号が場を支配する中、自分よりやや年上といった青年が武田の目を覗き込み、武田は少しだけ首を動かした。
「どけ、松木。すぐに運び出そう。奴らの死体回収班と鉢合わせたらまずい」
 
 

          *
 
 

「――軽い失語症になっているようです」
「――作戦実行時のことも、何一つ覚えていない模様」
「――任務に感情を入り込ませすぎたらしいな。使えん野郎だ」
「――任務を成功させた娘に、その言い様はないんじゃないんですか、ジュンナン様。それに、あの機密作戦の内容を全く覚えていないというのは幸いでしょう」
 

 
          *
 

 
 走馬灯のように蘇ってきた記憶が、武田が構えたライフルの銃口を、化け物から千絵へと徐々に移動させていく。寮長を殺したのはあいつだ、と叫ぶ自分と、こんなことをしたって何も変わらない、と叫ぶ自分が混在していて、武田は破綻しかかった精神の狭間で揺れていた。
 だが、少しずつ、そして確実に、ポケットに入った青い珊瑚のペンダントを捨てられずにいた意味をようやく理解した心が、武田の精神を統一し始めた。憎悪を超えた異質な何かが、ライフルにかけた指をゆっくりと外していく。
 ……小山田も心のどこかで、俺のことを覚えてくれているんだろうか?
 今まで行動を共にしながら、今回の戦闘でようやく白い珊瑚のペンダントを身につけていることに気づいた武田は、つい呟いてしまっていた。
 そして、正気を完全に取り戻した武田は、航空機の爆撃を受けて多量の血液を撒き散らし、ようやく炎を上げて燃え始めた化け物に対して、ライフルを連射する。灰と化した顔面を打ち砕き、その場に化け物を崩れ落ちさせることに成功した武田は、こちらを見上げた千絵と目を合わせた。
 微かに頬を緩めたその瞳に、十五歳の武田恒は、映っているのだろうか。




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