12

 もうじき夜が明ける。
 先行する十一師団本隊に分隊壊滅の報を届けるため、下水をすべて埋め立て、必要最低限の対空迎撃要員を残してこちらへ移動していた武田ら数名は、開戦が近いという言葉を大沢から聞いて、小樽港、第一埠頭に駐留していた。
 ここは既にある程度の防衛線が整っている。自走浮橋でお互いの埠頭が行き来できるようにしっかりと足場が固定されていて、人員の移動をスムーズに行うことができるし、埠頭の先端部分には十二式対艦誘導弾(MAT)が配備されていて、狙撃に特化した者や自ら前線へ志願した者などが操作をしている。さらに湾岸ではイージス艦が巡回警備をしていて、標的を確認すればすぐに攻撃に移れるようになっている。
 これ程の防備を、朝鮮軍はどう突破してくるつもりなのだろうか。果たしてこれ程の兵力を確認しても小樽港へ攻撃を加えてくるのだろうか。
 そして張り詰めた静けさの中、突如一隻の小型艇がモニターに姿を現した。
 モニターを確認できる兵士達は息を呑み、警備を継続しているものたちも双眼鏡を使って海面を確認し、MATの銃口も大きく角度を上げ、小型艇を射程距離に捉える。
 しかし小型艇はある程度の位置に来ると動きを止め、エンジンを切った。
 MATの付近で双眼鏡を使いながら海面を確認していた武田もその異変に気付いた。
「……小型艇の様子がおかしい。"ほたる"、そちらから確認できるか」
 後方で水越大隊長の声が発し、辺りにいた者は警戒を続けながら、聞き耳を立てる。
「確認します」
 しばらくの沈黙の後、"ほたる"の艦長は応えた。
「……小型艇の船員は甲板にいるだけ三十人は軽く超えます。どれも後ろ手に縛られていて、下着しか身に着けていません。おそらく……捕虜でしょう」
「……本当か?」
「ご指示を」
「現状維持だ」
「……仲間がすぐそこにいるんですよ? どうして見てなきゃならないんです」
「頭を冷やせ、あからさまな囮だ」
「だったらなおさら、早く助け出さないと……!」
「……たった三十人の捕虜のために貴重な戦力を危険にさらすわけにはいかない」
「たった三十人……? ……大沢師団長を出してください。あなたじゃ話にならない……!」
「誰に向かってそんな口を……!」
 水越は声を荒げ、無線から漏れ聞こえる音が途絶えたのを確認すると、無線を地面に投げつけた。
 武田はネジや内部に仕込まれたボードなどの部品が飛び散り、粉々に砕けた無線機を見てから海面に視線を戻す。しかし相変わらず小型艇は動き出す様子はなく、波の流れに身を任せてゆらゆらとそこに佇んでいるだけだった。武田はより遠くまで見渡せるように双眼鏡の倍率を上げ、小型艇とその周辺に注意を配った。だが、しばらくたっても、辺りには、ギィギィ、という初めて聞く鳥の鳴き声が響き渡るだけだった。
 
 

          ◆
 

 
 額から流れ落ちる汗を、手で拭う。
 走り出してから三十分程度だったが、既にこの汗の量だ。照り付ける太陽がもたらす異常な暑さの中では、吹き抜ける風にも恩恵を感じられない。先程から一郎は、少し高い位置から見る石狩湾の情景に意識を集中して暑さを紛らわそうとしていたが、どうにも上手くいかない。しかしこの情勢で専衛軍の軍服を脱ぐわけにもいかず、諦めてLAVが港に着くのを待った。
 千絵は乗ったときより幾分快適そうに、風に身を任せていた。風で揺れる髪は、右肩にかかる一部分だけ黒く焼け落ちていたが、彼女は気にしていないようだった。そして、髪は既に鎖骨の辺りまで伸びてきていた。
「髪……」
 一郎は無意識に呟いてしまい、彼女がこちらに視線を移したので仕方無しに言い直した。
「……髪、伸びるの早いね」
「うん、たぶん実験の影響……」
 彼女はそう言うと左側の髪だけを手で引き寄せ、柔らかなゴムを使って髪を左肩の上ででまとめ始めた。柄や付属物は一切付いていない。それは髪の色に溶け込んでしまうような薄い灰色だった。就職してから、意識するともなく同僚や先輩の女性たちの派手な化粧を見てきた一郎は、そのシンプルな彼女の装飾品に好感を持った。
「今は一本しかゴムがないけど、長く戦地にいるときは、こうしておかないと戦闘のとき本当に邪魔なの。後ろに誰かがいるような気がして……」
「俺が後で切るよ。髪を切るのは得意なんだ。弟と妹のはいつも僕が切ってる」
「暇が出来たらお願い」
 千絵から視線を外した一郎は、小樽港の埠頭を眼下に捉える。そこでは既に戦闘が始まっているようだった。LAVの車体はスピードを緩めて立体道を降り、T字路を右に折れて小樽港へと向かう。
 
 安藤は専衛軍の車輌が道を塞ぎ始めると車をその場に停め、ゆっくりとドアを開いて車から降りた。右足が動かないはずの千絵をちらりと見遣るが、彼女は既にルーフから降りていた。一郎もその様子を見て、ルーフから飛び降りた。
「千絵たちはどうする?」
 一郎は安藤に言った。
「そこの倉庫の中で隠れさせとくか? 連れて行っても邪魔になるだけだろ」
「……先生も行くの?」
 安藤の随分な物言いに、そんな言い方ないんじゃないのか、と突っかかろうとすると、脇から次郎が口を挟んだ。
「ああ、先生がいないと話が通らないしな。次郎も……千絵と夏樹と一緒に、そこで待っててくれ」
 次郎は安藤の言葉を聞いて、少しの間考える素振りをしてからゆっくりと口を開いた。
「……僕も行く。僕はまだ、実感できないんだ。この国が戦争をしているっていうのが。……せめて今ここで何が起こってるのかくらい知りたい」
「……次郎、こんな状況で何わがまま言ってる」
「安藤……。少しは融通を利かせたらどうだ。次郎がわざわざ危険な場所に行ってまで確かめたいのなら、そうさせればいいじゃないか」
「………」
「嫌だと言うなら、私は行かない。一人で戦争にでも何でも参加して来い」
 小野は少しだけ不機嫌な顔になり、安藤はそれきり黙りこむ。
 次郎は安藤の様子を少しだけ窺ってから言った。
「ありがとう、先生。……足手まといには、ならないようにするから」
 安藤がため息混じりに言った行くぞという声に反応して一郎が顔を上げると、灰色のシャッターにOTARUSOUKOというアルファベットの大きくペイントされた倉庫へ、右足を小さく引き摺る千絵に、歩調を合わせた夏樹が入っていくのが見えた。
 
 周囲を警戒しながら歩いた十数分後、ようやく港が見えてきたところで、一郎は辺りに戦闘特有の喧騒を感じた。やはり国道から見たとき既に、戦闘は始まっていたのか……?
 壁に身を寄せ、そこから先の様子を窺うと、そこには専衛軍の隊員たちが足の踏み場も無く倒れこんでいた。一郎はその周辺に誰もいないのを周到に確認してから、ゆっくりと踏み出す。倒れこんだどの兵士も起き上がる気配は無い。
「少し急ごう、新しい師団長を探さないと」
 一郎は安藤たちが走り出すのを確認してから、次郎を背負って彼らと並走した。次郎は降りて自分で走りたい様子だったが、なんとかなだめながら走る。
 走っている最中、一郎は何かが蠢く気配を感じて、安藤たちに先に行くように促してから、足を止めた。
 次郎を降ろして辺りを調べていると、突然背中に銃の戦端がめり込んだ。
「動くな」
 その感触は三井グリーンランドと味わったものと同じ感触だった。そしてその声は明らかに武田の声だった。聞き間違えようが無い。幾度と無く聞いた、武田の声だ。
「……一郎だよ」
 その声を聞いた武田はゆっくりと銃を下ろし、一郎は後ろを振り返った。
 しかし、そこには想像していた武田の姿は無かった。体中血だらけで、肩の辺りは皮膚が裂け少しだけ骨が見えている。そして左目からは、ついこの間まで鋭い線を放っていた光が……失われていた。
「武田……?」
「一郎か……」
 武田は安心したようにふっと息を吐いた後、左目に注視した一郎を見るや、小さな声で続けた。
「詮索は後にしてくれ。今は……白石陣が危ない」
 
 
 
          ◆
 
 
 
「千絵さんって、本当、強いですね」
 倉庫の中に入り、天井に近い窓から差し込む光だけが辺りを照らす薄闇の中、ごつごつとした鉄板の上にそのまま座り込んだ千絵の向かいで、階段に腰をかけた夏樹は、千絵を見据えて言った。
「……どうして?」
「私、撃たれたとき、すごく怖くなったんです。当たったのは肩なのに、出血がひどくて死ぬんじゃないか、銃創が悪化して肩の細胞が壊死するんじゃないかって。他の人を看護しているときはそんなことはない、って冷静に判断できるんです。……でも自分が撃たれると何が何だかわからなくなったんです。それなのに、千絵さんはそんな状態になっても……平然としてて」
「……平然とはしてない」
「あ……ごめんなさい」
 返ってきた硬質な声に、すぐに謝ってしまっていた。初対面の相手と話すというだけではない、何らかの緊張感のようなもの彼女からは感じ取ることができる。少しの沈黙がやけに重苦しく思えた夏樹は、繋げる言葉を探そうとするが、見つからない。その傍で、千絵がもう一度口を開いた。
「でも……そう見えるなら、そうなのかもしれない。夏樹……って言った?」
「え……あ、はい」
「私、言い方が悪いみたいで……。別に怒っているわけではないの。だから謝られても……困る」
「あ、そう……なんですか。……悪いこと訊いちゃったのかなと思って、少しびくびくしたんですよ。良かった」
 笑みを作った夏樹は、いつの間にか敬語のような話し方で声を掛けている自分に気付く。やはりこの独特な雰囲気の所為だろうか。自分より年下だと言っても納得してしまう顔ではあるが、雰囲気は同年代のものとは思えない。実年齢が気になった夏樹は、千絵に訊いてみることにした。
「千絵さんって……何歳ですか?」
「十七……だけど十五日で十八になる」
「あ、それなら私より二歳も上なんですね」
 夏樹が言い終わると同時に、倉庫内に扉を叩く音が響き渡った。夏樹が返事をすると、一郎の声が早く倉庫から出るように促す。千絵はその声を聞いて立ち上がると、足に巻きつけた添え木を外して、適当な場所に放り投げた。
「添え木、外しちゃっても大丈夫なんですか? まだ回復には何週間か必要だと思いますけど……」
「足の方なら……もう治ったと思う」
「え……?」
「いつもはただの重荷にしか感じられないけど、こういう場合には強いの。……後で、詳しく教えてあげるから」
 扉に近付くと向こう側から一郎の声が聞こえ、千絵は扉を開けた。外の光が倉庫の中を明るく照らす。
「すぐに出発しよう。札幌が危ないんだ」
 
「武田君……」
 潰れた左目から滴り落ちる血をタオルで拭いた武田を見て、千絵は少しの間呆然とした。初めて彼を見たときのような、どこか刺々しいあの眼差しは、まだ機能している右目にも、役割を終えた左目にも、どこにも捉えることはできなかった。
「……気にするな。先を急ぐ、早く乗ってくれ」
 武田が指し示した車輌はLAVではなく、専衛軍の中でも最高の機動能力を誇る高機動車の荷台だった。
「俺らはこれで移動していた。LAVよりは断然早いし、荷台には十人は乗れる。だから敵より先に札幌にたどり着くには、これを使うしかない」
「敵……?」
「説明は移動しながらだ」
 高機動車の荷台には既に次郎と小野、一郎が乗っていた。
 千絵も車の背後に回り、荷台に乗り、夏樹をゆっくりと引き上げて次郎の隣に腰を下ろし、車に体を預けた。安藤は、荷台に乗るために取り外されていた鉄板を武田が引き上げたのを見て、車を発進させた。
 
 
 
「始まりは、独断で捕虜を救出しようとした"ほたる"が撃沈されたところからだ。朝鮮軍はその発破を皮切りに、輸送機を使って次々と陸に降下してきた。もちろん俺らも応戦したが、すべては撃墜できずに、ある程度の上陸を許した。そしてそのある程度の奴らが――とんでもない化物だった」
「化物……」
「そうだ、化物だ。奴らは降下した途端、兵士達の……虐殺を始めた」
「虐殺……?」
「あまりにも一方的だったんだ。戦車だろうがMATだろうが、あれだけの混乱ではどうしようもなかった。大隊長を含めほとんどの前線要員は、その化け物どもの攻撃で壊滅した。生き残った俺らは師団長らと退避して後方の大隊と合流しようとしたけど、その大隊も壊滅していた。四千人もいたんだ……それを奴らは殺し尽くした」
「………」
「最終的に、挟撃された俺らはその化け物と戦った。けど、他の戦闘に駆り出されていた空軍の支援が間に合わなくて、ほとんどが死んだ。……俺は左目を失って、そこから記憶が無い。俺の小銃は確かに奴の頭に届いたのに、奴らにはそんなの関係なかった。すぐに回復する」
「そんな存在が、在り得るのか……?」 
 いくらストレイジだからと言って、頭部に銃弾を受ければ即死するはずだ。だが武田が言っていることが嘘とは思えない。
「ほとんどは撤退したが……一部はまだ、進軍を続けてる」
「白石に、か」
「……白石には、空への備えはあっても地上への備えは無い」
 
 
「元来た道じゃないですけど、別のルートがあるんですか?」
 むき出しになった荷台部分の暑さで頬についた汗を滴らせながら、次郎が武田に問いかけた。人見知りの激しい次郎にとっては、それが精一杯搾り出せた言葉だった。
「ああ。安藤にはルートを教えておいた」
 武田は言葉少なに答える。
 千絵の隣に座った次郎は少しだけ落ち込んだ様子で、正面に視線を戻す。
 彼の汗を拭く様子を何気なく見ていた千絵も、自分の左肩の辺りにかかった、纏めた髪の毛を後ろにやり、額にかいた汗を袖で拭き取る。車は砂利を蹴りながらザラザラとした音を立てて山道を進んでいた。先程まで、ストレイジのことを全く知らない武田と、軽い知識しか知らせていなかった夏樹と次郎に、ストレイジについて詳しく説明していた小野は、顔の周りに生えたくしゃくしゃの無精髭を触りながら、向かいに座った一郎と何やら話している。
 そして今の千絵は、嬉しそうに話しかけてくる夏樹に適当に答えを返しながら、走り始めてからの十数分を過ごしていた。夏樹の話は、普段の自分なら鬱陶しさを覚えてもいい内容なのに、承晩の脅迫を思い出し暗い気分に沈もうとする自分を、不思議と引き上げてくれていた。
 夏樹の話がひと段落すると、不思議な気持ちをとりあえずしまい込み、千絵は車の進行方向に視線を移す。
「もう街が……」
 口をついて出た言葉に、荷台に乗っていた者は皆、前を見る。
 険しい山道はあと数メートルで終わり、代わりに綺麗に舗装されたアスファルトが進行方向に広がっていた。
 
 街を進んでしばらくすると、二日前に見た時とほとんど変わらない風景が姿を現した。
 白石陣。その入り口には、体のどこかしらは負傷した兵士たちが五、六人立っていた。突然の来訪者に彼らは銃を向けたが、停車した車の荷台に武田の姿を見つけると、こわばらせた顔はそのままだったが、銃の構えを解いた。
 
 運転していた安藤が高機動車を兵舎に横付けした後、千絵は兵舎の側面に取り付けられた時計で現在の時刻――十二時五十八分――を確認すると、武田に問いかけた。
「……来るとしたら、いつ?」
「今すぐだ。ストレイジって言うのは一度能力を使うと何らかの悪影響は受けるんだろうけどな……それを差し引いても、かなりの時間が経ってる」
 武田はそう答えると、兵舎のすぐ脇にある非常階段を駆け上がっていく。
「武田君、どこに行くの?」
「俺は兵舎の上から敵を監視する。地上は他の兵士と小山田たちに任せる」
 彼が階段を上っていく様子を見ていた千絵は、自分の抱える罪の数々をその背中に重ね合わせて幻視してしまい、目を伏せた。




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