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 民家を改装したような三階建てテナントハウスの一階、ガラス張りになっている入口の右に、矢内(やない)法律事務所の表札があった。ドアを開けてすぐの場所にはオフィスデスクが待ち構えていて、そこに積み上げられた書類たちが、三人所帯の小さな法律事務所に、多くの依頼が舞い込んでいることを物語っている。
 駅から二十分ほど歩いてきたコルネリエとヴェルナーは、冷房の利いたオフィスに入ってすぐの所で、涼みながら待った。
 矢内美晴は、部屋の一番奥にある書類の山の中から姿を見せた。四十代後半の彼女は少し痩せぎすで、十人見れば十人がくたびれた印象を抱くであろう、生気のない目元が特徴的だった。その辺りは最後に会った時とあまり変わっていない。美晴はワイシャツに隠れた細い腕を使って、部屋の右隅にあるソファを示す。
「そちらがコルネリエの知り合いのヴェルナーさんですね。電話で、相談内容のさわりだけお聞きしました。本来ならそういった話は興信所にでも依頼してほしい所ですが……」
 二人は赤茶色のソファに並んで座り、対面のソファに浅く腰かけた美晴を見つめた。
「それは考えました。被害男性の人物調査を依頼して、接点のあった人々に聞き込みをしてもらおうと。でも俺は真犯人を探し出せると自惚れているわけではありません。殺人事件であったということを公表して、警察に本格的な捜査をさせたいだけです」
「そのためには犯罪被害に詳しい私の協力が必要、と……」
「はい」
「まずは情報ですね。明確な証拠は警察でも見つけられないのですから、殺人が行われているのではないか、という現場の刑事の憶測でも積み上げていけば、案外簡単に山は動くはずです」
「そんなに簡単にいくんでしょうか」
「私の知り合いに、信頼できるマスコミ関係者が居ます。彼経由で、そうですね……警察官の肉声が吹き込まれた録音テープでも渡せば取り上げてもらえると思いますよ。今は、区長が猟奇的に惨殺されたことで数年ぶりにROT自治区の話がマスコミを賑わせていますから。関連性が疑われる事件になら、ワイドショーは飛びついてくるはず。好機です」
「テープくらいで変わりますか?」
「分かりません。警察も、最近はマスコミに対して打たれ強くなってきていますしね。ただ、行動しないと何も変わらないのは確かです」
 事前に考えてきた質問を言うだけのヴェルナーに、いま質問を聞いたばかりの美晴は間を空けず淡々と答える。風貌からは頼りなさしか覚えないが、ひとつひとつの相談に誠実に応答し、ひとつひとつの事件に向き合っていく姿勢には惹かれるものがある。
 コルネリエが依頼した時もそうだった。男女のいざこざなど掃いて捨てるほどの依頼があるはずなのに、よくある問題の一つ、ではなく、本人にとっては人生を左右する問題、として配慮してくれた。話しているうちに仕事以外の話題でも意気投合したというのもあるだろうが、家裁での判決後に、わざわざ経過を訊ねる電話がかかってきた時には驚いたものだ。そんな彼女を、自分は今でも信頼して、連絡を取り合っていた。
 もちろん、仕事と私事は別だ。今回もしっかりと規定の料金を支払う前提で、相談に乗ってもらっている。
「そうですよね。行動しないと分かりませんよね。アドバイスありがとうございました。上手くいかなかったら、また相談しにきます」
 そこまで言うと、ヴェルナーがソファから立ち上がった。まだここへ来てから十分と経っていない。店でのヴェルナーは、何もせずに店の外を見ていたり、客に難癖をつけられても曖昧に頷いてやり過ごしたり、ぼうっとしていることが多いが、小さな頃から、やることが決まれば行動は早い。
「あ、もしこれで聞きたいことが終わりなら、次まで含めて今回の料金として計上しておきますよ」
「お願いします」
「ヴェルナー、私は少し話してから帰るね」
 本当に帰り支度を始めたヴェルナーに対し、コルネリエは言った。

「どう? 体調、崩してない?」
 注いでもらったインスタントコーヒーを飲んでいる最中、敬語をやめた美晴に訊ねられた。
「うん……おかげさまで。男の前でコンタクト外すのは、まだ怖くて無理だけど」
 コーヒーの容器をテーブルに置き、答えた。
「さっきの子がコンタクトを買いに付き添ってくれたのよね。あの子の前でも?」
「まあ、ね。……それに、似合ってるって褒めてくれるし」
「あら、世辞を真に受けるなんて貴方らしくもない」
「うるさいなあ、別にいいじゃない」
 軽く睨むと、美晴は微笑んだ。やつれた目元とは対照的に、柔和な唇が形良く上がる笑い方。
「でも、厄介な所に目をつけたわね、あの子。ROT周辺の問題は今、いろいろと危険なのよ」
「危険?」
「ROTが被害者の殺人未遂事件を担当していた弁護人が、どこかから圧力を掛けられて手を引いた、なんてことが起きているらしいわ。……それ以外にも色々と、悪い噂には事欠かない」
「そう……」
「目立たずに目的を遂げる方法を教えたつもりだけど、気をつけてあげてね。あの子がいなければ、貴方はここまで立ち直れなかったんだから」
 コルネリエは何も言わずに頷いた。

 まだ喫茶店を始める前、同棲をしていた男とトラブルになったのは、彼の両親に結婚を反対されたことが始まりだったか。まさかROTであるというだけで拒絶されるとは思ってもみなかった。日本に巣食う害悪、目を合わせるだけで怖気が走ると罵られ、説得に赴くたび、足もとの畳をずっと見つめていたのを覚えている。何度行っても結婚の許諾が貰えず、しまいには門前払いをくらう始末。そこから男はおかしくなっていった。富を得ている両親の後ろ盾を捨て、二人だけで生きていく度胸もなく、かといってコルネリエと別れたくもない。男は、自分の思い通りにならないことに初めて出遭ったとでも言うように、パニックになっていた。
 最初は些細なことでもコルネリエのせいにして怒り出すことから。次第にその怒りの延長上として手を上げるようになり、徐々に、徐々に意味もなく暴力を振るうようになっていった。
 嫌いな男と一緒にいたわけではない。結婚まで考えたほどの相手と一緒にいたのだ。最初の頃は何とも思っていなかった。怒りの延長上に手を上げられるのも、仕方がないと思っていた。意味もなく暴力を振るわれるに至り、ようやく危機感を覚えるようになった。それでも、暴力を振るった後にはふと我に返ったような表情になり、徹底的な卑屈さで謝罪を繰り返す男を、コルネリエは憎めなかった。たとえ髪を何十本も引き抜かれた時でも。『これのせいだよな』と、赤い虹彩を宿した眼球を抉り出されそうになった時でも。
 法律を介して別れた上で慰謝料を取ろうと思ったのは、家に遊びに来たヴェルナーにまで手を上げたのを目の当たりにしたからだった。
 男が仕事に行っている間にサラとヴェルナーの二人を家に上げ、他愛ない世間話をしていた時に、突然、気まぐれに昼食を家で摂ることにした男が帰ってきた。ヴェルナーを見るや否や『何で他の男が家にいるんだよ』と呟いて、椅子に座っていたヴェルナーの胸ぐらを掴み、冷蔵庫に後頭部を叩きつけ、拳を鼻に打ち込んだ。それ以上の暴力行為は、サラが横面から男を蹴り飛ばし、床へとうつ伏せに押し付けることで、留めた。だが、怒りで躊躇いを捨てた一撃のせいで、ヴェルナーの鼻からは血が勢い良く流れ始めていた。まだ大学に入ったばかりだったヴェルナーは慌てて鼻柱を押さえ、テーブルに置いてあったティッシュ箱からティッシュを何枚かとって鼻に当てた。そして何もできずただ突っ立っていただけの自分や、床に這いつくばっている男を責めるでもなく、『すいません。床が血まみれに』と苦笑を零した。
 鼻骨を骨折したヴェルナーに慰謝料の全額を渡そうと思い、最低限の義務として家裁で男と争い慰謝料を勝ち取った後は、かつて男と同居していたアパートから遠く離れた場所に部屋を借り、閉じこもった。前のアパートとは違って、自治区内にある部屋だというのに、ごく稀に向けられる、不躾な差別の目を過剰に意識するようになり、一歩も外へ出られなかった。コルネリエの眼球を敵視し、『これのせいだよな』と言ったときの男の表情が夢にも出てきた。ただただ、震えていた。
 そんな自分をどうにか外に引っ張り出してくれたのも、ヴェルナー。いくらコルネリエが懇願しても慰謝料を受け取らなかった彼は、大学に通いながら一週間に何度も家に足を運んでくれ、夏休みには、コルネリエを外出させるためだけに車の免許を取った。
 男と別れて何ヶ月か経った頃、ようやく人前に出られたとき。濃いサングラスをかけて眼科まで辿りついた自分は、ヴェルナーに手を握って貰いながら、受付の人に黒のコンタクトレンズを注文する方法を訊いた。
 それからまた何ヶ月か経った後、ヴェルナーが受け取らなかった慰謝料を元手にして、小さな喫茶店を建てた。

「言うまでもなかったかしら?」
「ん」
 コルネリエが同意すると、美晴はまた微笑んだ。



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