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 朝からこの昼時までずっと、コルネリエの経営する喫茶店『リース』の入り口近くにアウトドア用の折り畳み椅子を置かせて貰い、そこに座っている。していることといえば、カーキ色の半袖ポロシャツにジーンズ地の七分丈という地味な格好で、十字のクロスなどが黒い縁取りで描かれた白背景のキャップを被り、じっと往来を見つめているだけ。炎天下の中でこうしていると、祖父の雇った人々に無理矢理鍛えられているサラでもうんざりしてくる。
 七歳も年上の男を守れというのも、馬鹿げた話だが、祖父の言いつけは絶対だ。祖父に不満を抱くことを許されるような、生易しい教育は施されてきていない。コルネリエやヴェルナーが、祖父のことを愚痴っているのを見ると羨ましく感じる。自分にとって祖父は、幼い恐怖を思い起こさせる符号でしかないからだ。
 日焼け止めが汗で流れてきて、それを持参したハンドタオルで拭き取ったサラは店内を窺う。書き入れ時の正午。ヴェルナーは、客から慌ただしく注文を取り回っている。せめてもの救いは、守る対象の彼がそれほど気難しい性格ではないところか。

 日焼け止めが汗と溶け合い、鼻の頭がじりじりと熱を帯びていく。意識も遠のき始めたころ、肩を叩かれた。集中力を欠いていたサラは、触れられるまで近くに人が来た事に気付けなかった。咄嗟に飛び退き、折り畳みナイフをポケットから抜き去る。
「店の中に入れば。熱中症になるから」
 ヴェルナーは、サラが過剰な反応をしたことについては触れず、サラの足に引っ掛かって弾き飛ばされた折り畳み椅子を拾い上げる。
「外で見張っていた方が、怪しい奴が入店しようとしても抑えやすい」
「自分の身くらい自分で守るよ。あのじいさんの言う事は気にしないでいい」
 広げたナイフを畳み、ポケットに戻した。
 カウンター席に案内してもらい、そこでキャップを外した。清涼飲料水を注文後、ハンドタオルに顔を押し付ける。注文してすぐ、透明な液体がなみなみと注がれたコップが出されると、サラはそれを息継ぎなしに飲んだ。干からびていた喉が息を吹き返す。しばらく祖父の言いつけを忘れて、カウンターテーブルに広げたタオルに顔を埋めた。コンクリートに照り返された熱波のせいで、頭も顔も体も熱い。
 店内は冷房が利いていて、熱と汗は少しずつ引いていった。頃合いを見計らって、顔を上げる。いつものカウンター席内側に陣取っていたコルネリエと目が合った。
「お、回復した? 外でヴェルナーと食べてきたら。ちょうど昼休み取らせようとしてたところだし」
 壁掛け時計を見れば、午後の二時半だった。これから四時くらいまではまた客足が遠のく。洗い場の入口で、水に濡れた手をエプロンに押し付けているヴェルナーは、二人の視線を浴びて目を少し見開いた。
「エプロンで拭いたら駄目でしたっけ?」
「違う違う、昼休み取って来いって話。たまには外で食べてきなよ。サラも連れて」
「コルネリエも、サラを連れて歩けって言うんですか? 自分の身くらい自分で守りますって。サラは俺の奴隷じゃない」
「コルネリエはそういう意味で言ったわけじゃない」
 サラは喫茶店の入口まで歩みを進め、振り返ってヴェルナーを促した。
「本人が良いなら、連れて行きます。コルネリエも、ちゃんとご飯食べて下さいよ。この間、食欲無いからって抜いたでしょう。普段は食べ過ぎるほど食べるのに」
「はいはい。ちゃんと食べるからさっさと行ってきなさい」
 無意識のうちに、周囲に視線を走らせる癖がついてしまっている。
 すぐに、挙動不審な自分に気付いたヴェルナーに咎められ、無意識下の行動を抑えるよう意識した。それでも、すれ違う人たちは、自然と視界へ入ってくる。どの顔も、どの歩き方も。日常の不安は抱えていても、それ以外の気配は感じさせない。
 本当に昨日の火事は、祖父の言うように、放火によるものだったのか。警察が発表した、天ぷら油の扱いを間違えたことによる発火で正しいのではないだろうか。ROT自治区の警察に怠慢があるにせよ、目を欺くには巧妙な偽装が必要になる。ROTという民族全体に対する怨恨だけで、そこまでするのかが疑問だった。
 そこまで考えた所で、祖父の考えに疑問を持ってしまったことに思い至った。幼い自分が脳裏に過ぎり、急に汗が噴き出してきた。歩行に支障をきたす前に、口の中で呟き始めた。正しい。正しいに違いない。絶対に正しい。祖父の判断に間違いはない。今の祖父は自分に危害を加える存在ではない。
「サラ」
 自分の呟く声に混じってヴェルナーの声が聞こえ、我に返った。
「ここに入ろう、ってさっきから言ってるんだけど」
 いつの間にか腕を掴まれていた。湿った手だった。それとも、自分の腕が汗でぬめついているのか。
 腕を掴まれたまま、店の外観をざっと見回す。頭上に緑の幌がせり出した店の入り口。その左右には小さな黒板があり、白や赤のチョークで、今日のおすすめメニューなどが書き込んであった。
「ごめん」
 謝ると、彼の手が離れた。
 こげ茶と白の二色で彩られた内装は木目調で、壁には横のボーダーラインが入れられている。
 店員に窓際の席へ案内され、メニューを二つ、渡して貰った。
「ヴェルナーはこの店知ってるんだよね? 何を頼むの?」
「海老とあさりのシーフードパスタ」
「私も、同じにする。早く食べたいから」
 ヴェルナーが頷き、隣の席の後片付けをしていた店員を呼び止めた。彼女は後片付けを一旦止め、人当たりの良く、それでいて営業的な嫌味を表に出さない絶妙な笑みを浮かべながら、胸ポケットから注文伝票を取り出した。じっとその笑顔を見つめているヴェルナーが注文を言い出さなかったので、サラが注文した。店員が注文を取り終え、去っていってもその後ろ姿も目で追う。
 はたから見れば完全に恋をしている男のそれだが、彼の場合は単に、あの笑顔はどうやって出しているんだと、接客技術の向上に役立てようとしているだけだ。十七年も顔見知りなら、そのくらいのことは分かる。
「さっき、何をぶつぶつ言ってたのか、訊いてもいいか?」
 店員を捉えていた目が、サラに向けられていた。目を合わせる。
 祖父が自分にした事は、ヴェルナーにもコルネリエにも言っていない。言って、もし……もし彼らが怒ってくれるのなら、祖父と衝突する彼らを見ることになる。だがその時の自分は、確実に祖父側へついて、切れと言われれば簡単に縁を切るだろう。縁を切るだけでは飽き足らず、危害を加えろと言われれば加える。そして彼らは拳の振り下ろし所を失くすか、下ろそうとした拳自体が存在を失くす。
 ヴェルナーは、あまり言いたくないことだというのを察して、深入りしないようにしてくれた。結局何も話さなかったが、あくまで納得した風を装い、頷く。あまり付き合いの頻繁な人間がいないのは、ヴェルナーの、こういう所が原因のような気がする。どちらかが不快になりそうな気配を察したら、すぐに引いてしまう所。八方美人。……自分も、人のことをどうこう言えるほど、好かれている人間ではないけれど。
 パスタは名前通りの彩りだった。海老とあさりの、というだけあって、その二つは実が大きくて食べ応えがあった。あっさりとした塩気を含んだ麺をフォークに巻き付け、口と皿との間を淡々と往復させる。そこそこ、おいしい。
 食べ終わっても、おいしいか、とすら訊きあわないのは、これも例の十七年が原因だった。サラがおいしいか、と訊けばヴェルナーは必ずおいしいと答え、ヴェルナーがおいしいか、と尋ねたのならサラもおいしい、と答えるだけだからだ。倦怠期の夫婦でももう少しバリエーションの豊富な会話をこなすだろう。同じ長い付き合いでも、コルネリエとヴェルナーならもっと上手く言葉が転がるのかもしれないが、彼女のように明るく受け答えができるのなら、始めからそうしている。
 実際に、リースへ戻るとヴェルナーは途端に元気になり、コルネリエとの会話は弾んでいた。サラは、二人のカウンター席でのやり取りを黙って遠くから聞いていた。くだらない、と口に出してしまいそうな内容で喋り合っている。それを遠くから聞いている自分のことは、気に留めないようにした。

 特に帰りの挨拶をするでもなく、勝手にリースを後にしたサラは、家に帰っていつもの地下室に足を運んだ。防音、防火、防跳弾、全てを兼ね備えた一面の壁に、圧迫される部屋だ。部屋の奥には的があり、部屋の手前側には射撃位置の黄色いラインが示されている。そのすぐ隣にあるのは、サラの胸くらいまである台座に載せられた、拳銃とその弾倉とヘッドフォン型の耳栓。まずヘッドフォン型の耳栓を装着した。それから息を大きく吸って、吐く。
 吐いたと同時に、素早く拳銃を掴み、中に入っていた弾倉を外してコンクリートの床に落とす。隣にあった新しい弾倉を掴み、差し込み、安全装置を外してスライドを引き、そして的を目掛けて撃つ。
 台座に埋め込まれたモニターでは、拳銃を手に取ったときから、タイマーが作動している。それは的に当たった瞬間で時間を止めていた。三秒五五ミリ秒。いつもより格段に遅い。これでは視界に突発的に現れた敵には対処できず、先に撃たれて死んでいた。切り替えて、次の行動に移っていく。
 反動によるブレを少なくするため、力を込めて拳銃を握り、しっかり狙いを定めてから、一発目を的に撃ち込む。間髪入れず、弾を連射。全てを撃ち切った所で、的に対する着弾数が台座のモニターに表示された。
 即死三、静脈出血致死一、動脈出血致死一、負傷三、外れ四。的は、人間の形だ。
 後片付けは祖父の部下がやってくれているため、安全装置をかけてから、拳銃を放り捨てた。無機質な音が地下室に響く。それから地下室を出て、祖父のよく居る一階の居間には寄らず、二階にある自分の部屋へ戻った。
 扉の前で靴を脱ぎ、入った部屋は広々としていて、与えられた家具も上質なものばかり。生活するうえで、不満を持つ箇所はない。しかし、部屋の中央に置かれた大きめのベッドに腰掛けて周りを見渡すと、身に沁みるのは寂寥だけだった。いくら家具が揃っていても、一人だ。いつもこうして一人でいる自分が、せっかく二人でご飯を食べに行くことができたのに、あまりうまく接することが出来なかった。コルネリエのように、うまく笑わせられなかった。
 今日はもう銃を触りたくない。けれどこの部屋に居てもすることはない。サラは、勝手に点いていたクーラーと電気を消し、ベッドに横になった。着ていたポロシャツを脱いで、そのままそれを枕代わりに抱え込んだ。
 閉め切った蒸し暑い空間の中で、寝汗を垂れ流しながら、ぼうっと考えた。
 明日の朝に待っているのは、ついさっき、途中で投げ出した訓練のことを叱責する祖父。祖父の言葉は、何がどうなっても正しいと決まっているのだから、いつか自分はROTの敵対者を、殺すだろう。あの的へ銃弾を撃ち込んだように、淡々と。



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