3−6 シュートのお手本

 土日とも無気力に家で過ごし、新しい週が始まった。
 綾は、体育館の近くにある水道で、水を口に含んだ。そこに錠剤を放り込み、喉奥へと流し込む。今日は、母に、正面から安定剤を受け取った。昼休みに部活をやめる相談をするつもりだけれど、理由を説明するときに、逃げ出してしまわないようにかけた、保険。薬が効き出すと、副作用で眠くなるのが弱点といえば弱点で、午前中の授業は眠気に耐えながらのものになるかもしれない。
 ホームルームの始まる直前。なるべく誰とも目を合わせないよう、教室に入る日課も、錠剤の効果かそれとも思い込みの効果か、少し楽だった。通り道を挟んで蔵本と隣り合う席に座る。蔵本は退屈そうに肘をつき、枝毛ひとつない艶やかな前髪をいじっていた。
 教室の左奥にある石油ストーブから発散される熱が部屋を満たし、温かい。手をこすり合わせながら教卓を見ると、教卓の目の前の席に、柚樹がいた。先週はずっと休んでいたけれど、これで欠席者は、直だけ。
 直、と思う。
 金曜日にメールを送った時の感傷が、自分の意思とは無関係に湧き出ようとしたとき、教室のドアが開いた。遅刻者のほとんど出ないこのクラスは、直以外の全員が揃っているはずだから、残りは教師しかいない。そう思って前のドアを見遣ると、そこには誰もいなかった。
 途端に教室が奇妙な静寂に包まれた。後ろのドアに、目を移す。クラスメイトの視線の先には、直が立っていた。直は三十九人の視線を柳に風と受け流して歩き、唯一の空席だった、一番右端、一番前の席に座る。その左隣の席の染谷(そめや)が、直に対し、嬉しそうに声をかけた。染谷は男子バスケットボール部員で、芝原や直と結構仲がいい。確か、直が来なくなる前は、直と前後の席だった。席替えの際、どこに置くかで揉めた直の席を決めたのも、染谷だった。
 直が染谷に何か答えて会話が始まっても、奇妙な静寂は続く。綾もその静けさの構成要因でしかなかったが、静寂とは相容れない喧噪が、体の中を駆け巡っていた。
 そこで教師が入ってきて、綾は一旦、そちらへ目を向けた。いつものように、蔵本が視界に入る。だがその美麗な横顔は、いつものよう、ではなかった。退屈そうにしていたはずの顔からは明らかに色彩が失われ、綾の視線に気付かず、微笑もない。どこか一点を凝視し、左手で口もとを押さえていた。

 ホームルームでの連絡が長引き、間隔なしで行われた一時間目の授業が終わってすぐ、直の席に向かおうとしたら、直も、同じことをしていた。
 目が合い、直が、自分の席のほうへ引き返す。
「お、おかえり」
 薬を飲んでおいてよかった。でなければ、こちらから話しかけるなんてことはできなかったかもしれない。
 直は、廊下側の壁に背中を預けながら、
「ただいま。メール、今朝、見たよ」
 俯き加減に言う。
「綾って、本当に、勝手だよね。あの日だけじゃない。確か病院から帰ってきたときも、私のこと、真っ先に疑ってた。いくら蔵本のせいだっていっても、謝れば全部なかったことにできるわけないでしょ」
 何も言い返せずに、やや目線を下げた。
 直が右手を伸ばしてくる。なんだろう。顔を上げると、直の人差し指には、包帯が巻かれていた。休んでいる間に怪我でもしたのだろうか。そんなことに気を取られていると、中指の先が額を直撃した。小学生の時とは、力も何もかもが違う直の、本気。すぐに右手で額を押さえた。爪が伸びているらしく、そのぶん、余計に痛かった。
「な、直、爪が刺さっ……」
「引っ叩いたほうがよかった?」
 慌てて首を横に振る。
「これでいいです」
 直は口もとを緩めた。
 綾はそれを見て、ひどく驚いた。どうしてそんな表情ができるのか、と。直への疑いを完全に捨てきれなかったせいで、直を、傷つけたこと。直だってまだ、忘れたわけではないだろう。
「部活も勉強も何もかも放り出して、抜け殻みたいに過ごしてる人には、いい目覚ましだと思うよ」
「え、なんで直がそのこと、知ってるの?」
「聡美に聞いた」
 直は、綾の後ろを、左手で指差した。
 振り向く。いつの間にか聡美が、綾の後ろにいた。その隣には、先週、丸々一週間、学校を休んだ柚樹が、何食わぬ顔で突っ立っている。
「あのー、ちょっといいかな? 綾よりもっと、謝らないといけない人が、ここにいるんですが」
 柚樹はそう紹介されても、黙ったままだった。
 すると聡美が、柚樹の背中を殴った。握り拳で。途端に柚樹は、眉尻を下げた。
 背中をさすりながら項垂れ、
「あっ、ま、まず、蔵本と仲がいいっていうのは誤解で……。ただ単に、釘を刺されていただけというか、その、私が弱かっただけで。綾にも、直にも、最低な、こと、して……」
 珍しく歯切れの悪い柚樹が、小さな声で言葉を繋ぐ。柚樹はスカートの裾を握りしめている。
「とにかく、ごめん……」
 ……急に謝られても。
 直に対しては、負い目があるが、柚樹に対しては、無視されバッシュを隠されたことによる憤りが燻っていた。二つの感情がマーブル模様のように混ざり合い、どんな表情を浮かべればいいのかわからない。
 聡美が、ブレザーのポケットからメモ帳の一片を取り出し、綾に押しつけてきた。当惑しているこちらを見て取っているはずの聡美は、それきり何も言わず、席に戻っていった。
 助け舟が消え、伏し目がちに直と綾の中間に立つ柚樹と、決して柚樹と視線を合わせようとしない直と、その二人にどのような言葉をかければいいのかわからない自分だけが、取り残された。
 三竦みのような状態になって固まっていると、
「いつまでそうしてるの? 次、体育なのに。もうみんないないよ?」
 知らぬ間にジャージへ着替えていた聡美は、一人でさっさと行ってしまった。
 時計を見ると、始業時間が迫っていた。
 もちろん三人ともが、仲良く遅刻扱いされ、ジャージを着た体育教師に、数秒ほどのやんわりとした注意を受けた。
 叱責されたわけではなかったのでほっとしていたが、
「柚樹がいきなり態度変えたせいだよ」
「私のせいにしないで。私が謝った後、ぼうっと突っ立ってたのは直。普通、気付くでしょ」
 直と柚樹はそうではなかったようだ。
「気付かないで突っ立ってたのは、綾も同じじゃない?」
「それもそうか」
「え、ええー? 巻き込まないでよ」
 バレーボールのサーブ練習が続けられる体育館の隅で、準備体操をこなす。ささやかな合同作業だったが、さっきよりは少し、話しやすかった。体育館へ移動しながら、聡美から渡されたメモを読んだのが、大きいかもしれない。メモには『バッシュはゆずじゃない。澤山』と書いてあった。聡美が話を聞いたと思しきバスケットボール部のマネージャーの名前が、近くに添えられていた。
 少し喋ったきりで、互いにじっと押し黙ったまま、手首と足首をほぐし終えた。
 体育教師が近づいてきて、バレーボールをひとつ、綾に投げ渡してきた。
「オーバーハンドトスの練習」
 と、手を叩く。他のみんなはサーブ練習なのに。
 しかし続けて体育教師が答えて、疑問は消えた。
「阪井に付き合ってやれ」
 そういえば、バレーボールの授業が始まったのは、直がいなくなってからだった。
 ぼうっとしていたら、手からボールを取られた。柚樹がボールを持ったまま離れていく。なんとなく綾も、直も離れて、トライアングルのような形に分かれた。体育教師は、その間にサーブ練習のほうに戻っていった。
 内心で軽く息をつく。話は絶対に弾まないけれど、運動なら、言外の意思疎通ができる。
 柚樹が自分の目の前にボールを上げ、手で押し出す。綾のほうにボールが飛んできたので、綾は膝を軽く曲げて受ける。一度それを自分の真上に上げてから、直のほうへボールを送った。直も同じようにやろうとするが、直が真上に上げようとしたボールは、後ろのほうに飛んで行ってしまった。そしてボールはそのまま、バスケットボールで使うゴールネットに吸い込まれた。それはもう、シュートのお手本のような軌道を描いて。
 まず柚樹が噴き出した。続いて綾も。
「なんで、真後ろの、ゴールに、入れてんの? わざと? わざと?」
「綺麗っ。綺麗だったよ! 今のシュート。後輩に、見せたい、くらい」
「あんた、運動神経いいのに、なんで球技だけ、そんなに、下手なわけ?」
「あれって! 明らかに、真上に、飛ばそうとする、態勢じゃ、なかったよね!」
「は、はぁ、やばい、急に笑いすぎてお腹がつった」
「ぼ、僕も……!」
 憮然とした直は、ボールを綾に向けて、思い切り投げつけてきた。ドッヂボールの要領で、ボールを受け止める。
「残念でした」
 綾が得意になって言うと、直は腰を落として、捕球の姿勢をとる。
 笑いすぎによる痛みが脇腹を走っているが、堪えてトスを上げて、直にボールを送る。
 けれど、直の手にかかったボールは、また変な方向に向かい、今度は二階のギャラリーに飛び込んでいった。
 加減を知らない直のトスに、綾はもう立てなくなり、体育館の床で笑い転げた。柚樹と直との間に張りつめていたはずの緊張の糸が、完全に切れてしまった。
「もうやめて直! 何もしないで! お腹痛いから! あ、いて、脇腹、ほんと、痛い……」
 直がボールを取りに行っている間も、止まらなかった。自分でもなんでこんなに笑えるのかわからないほどだった。
 どうにか波が収まって立ち上がったら、綾と柚樹はそれぞれ、気付かないうちに近くへ来ていた体育教師に、頭をぽかりとやられた。
「さっきからうるせぇよ。真面目にやれ」
「先生、だって、直が、下手すぎて」
「はあ? 下手さなら、小早川が一番ひどいだろ」
 体育教師が見た方向には、サーブ練習で、自分の上げたボールを、アンダーハンドですらまともに捉えられない聡美の姿がある。けれど、聡美が運動音痴なのは知っているので、別になんとも思わない。
「違うんです、先生、あれじゃないんです、直が、いつもすまし顔してるあの直が、この気まずいタイミングで!」
 柚樹が綾の思いを代弁してくれた。
「お前らの笑いのツボが分かんねぇよ、俺は……」

 三、四時間目は薬のせいで眠くて仕方なく、特に四時間目は、授業の後半から意識を失ってしまった。
 起きたら、綾の周りで、三人が昼食を摂っていた。顔を上げた綾は、ここ数日、待ち焦がれていた直の横顔を視界に入れた。こみあげてくる、言い知れない安堵感、何にも代えがたい安心感。もう少しだけ寝よう、と思って、またうつ伏せになった。
 部活をやめる相談を、顧問にしようとしていたことは、すっかり、忘れていた。



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