3−7 謝ったり、謝られたり

 五時間目あたりで薬の効果が切れたのか、他人の視線の前では、あまり堂々と構えてはいられなくなった。反面、直と柚樹と聡美、四人での久しぶりの雑談のおかげで、抑え切れない高揚もどこかにある。部活に顔を出してみようか、なんてことまで、考えてしまう程の高揚が。
 六時間目も無事に終え、部活用の鞄を肩に提げた直に、綾は話しかけた。
「そういえばその指、大丈夫なの? 体育なんかやって。あと部活も」
「もうほとんど治ってる。完治ではないだけ。一応付けとけって、父さんが」
「へえ……。でも、珍しいね」
 直の口から父親の話が出るなんて。最後まで言わなくても、直には意味が伝わったようだった。
「してた?」
「うん」
「そっか」
 分かりにくいけれど、微かに、唇の端が上がった。
 理由は聞かないことにした。悪いことでなければ、なんだっていい。
「部活、頑張ってね」
「ずっと家に籠ってたから、どれくらい体が鈍ってるのか不安だけど。じゃ、綾も、頑張って」
 直は綾の肩に軽く手をかけてから、教室の外に広がる放課後の雑踏に紛れ込んだ。
「本当に、行く?」
 後ろから、柚樹の声がした。
 ロッカーの中から取り出したバッシュは、右手に持っている。綾も柚樹も、部活用のジャージは持っていないけれど、学校指定の青ジャージを代用とするつもりで、既に着替えている。
 綾は何も言わず、足を踏み出した。

 柚樹と並んで入った体育館では、男子のほうの染谷と木下が、練習の始まりを、待っていた。その前を通り過ぎようすると、
「おー! 飯原だ!」
「どうしたん? やめたのかと思ってた」
 染谷と木下が、近づいてきた。
「休んでただけ。やめてないよ」
「そっか、よかった。芝原も喜ぶよ」
「あいつ飯原の熱狂的ファンだから」
 二人の言葉に対し、柚樹はやや目を細め、眉間に皺を寄せた。
「つーか、何気に青野も、久しぶりだな」
 しかし一瞬見せた不快の表情は見間違いだったのか、
「ついでみたいに言うな」
 と、笑みを浮かべながら、染谷のことを軽く蹴った。染谷は大げさにうずくまって呻いた後、柚樹が「そんなに強く蹴ってない」と突っ込みを入れると、すぐに立ち上がり、白い歯を見せた。
「ん、でも、よかったよ。な、木下」
「ああ。体育館が、久しぶりに賑やかになる」

 男子のほうの練習が始まり、五分ほど経っただろうか。準備体操も終え、スリーポイントシュートを練習していた柚樹と綾は、体育館の扉が閉じられる音を聞き、そちらへ目を向けた。入ってきたのは、顧問と一年生マネージャー、それに選手のうち三人。なぜか、一年生部員だけだ。
 何か話し合いながら歩いていた顧問たちは、ほどなく綾と柚樹の存在に気付いた。五人五様に、口を開けたり、立ち止まったり、驚きの表情を浮かべた。
「今日から復帰します。ご迷惑を、おかけしました」
「申し訳ありませんでした!」
 緊張から直立不動で待ち、五人がちょうどスリーポイントラインの近くに来たところで、綾と柚樹は、それぞれ頭を下げた。綾は二週間以上、柚樹は一週間以上、無断で部活を休んだ。
 文字通り手に汗を握りながら顔を上げると、なぜか、選手の二人が目を赤くし、鼻をすすってていた。ひとりは綾よりも身長が十センチ以上は大きいセンターの三瀬で、もうひとりは綾より少し高いくらいのセンター、斉藤。とても年下が泣いているようには見えないが、一年生だ。二人とも綾と柚樹より背が高いので、慰め方に困った。
「ご、ごめんね。泣かせるようなこと言ったつもりはないんだけど」
「すいません、あの、ほっとして」
 三瀬の手を握って軽く揺らすと、今度は涙まで零し始めた。斉藤には柚樹が、泣いている理由を聞いているが、そちらも嗚咽に妨害されている状態だった。
 どうすればいい。一年生マネージャーに視線だけで助けを求める。しかし目が合ったマネージャーは、あからさまに視線を逸らした。なんだかマネージャーの目もとも赤く……。
「おい、なんで二人して体操服なんだ。やる気あんのか」
 顧問は頬を緩め、言う。言葉とは裏腹の、柔和な表情。いつもむっつり押し黙っていることが多い顧問が。
 たじろぐほかない。
「戻るの遅いですよー、センパイ」
 ああ、やっとまともな人がいた。
 三年生のいる時点でレギュラーを掴んだフォワードの草場は、涼しげな笑顔。
「クウ、これ……」
 レギュラー陣は、試合中、お互いを二文字以内のニックネームで呼び合う。下級生は、練習中には呼べないが、上級生は呼ぶことがある。それで呼ぶと、草場は、顔に笑みを貼り付けたまま、応えた。
「あ、スイマセン。それ以上喋らないでください。涙腺がやばいので」
「クウもなの?」

 三瀬と斉藤、それにマネージャーが落ち着いたところで、改めて、顧問に話を聞いた。
 鼻をすする音が聞こえる中で話し始めた顧問は、
「ちょうど青野が休みだしたころ、二年生部員全員が辞めた。それに一年の一部も同調してな。ここにいるメンバーで全部だ。女子のほうは」
「澤山のせいでしょうか」
 柚樹が訊ねる。
「ああ。出ていく際に部室をめちゃくちゃにしていきやがったよ。部室は今、業者に頼んで内装工事中だ」
「内装……。あ! たっ、煙草の吸い殻とか、出たんですか? まさか、来年の大会出場停止……とか?」
「煙草? そんなもの、出てないが」
 顧問の素っ頓狂な声を聞き、柚樹が軽く息を吐いてから、薄く笑んだ。練習中騒ぎ立てる澤山に対し、柚樹がいつも向けていた嘲笑。
「そう、ですか。度胸なしのうえに、嫌がらせの頭も回らないんですね、あいつは」
「いや、だから、部室をめちゃくちゃにしていったんだって……」
 綾は柚樹の言わんとすることに気付いたが、あえて口にはしなかった。柚樹は、澤山が部室で煙草を吸っていたのを、見たか何かしたのだろう。
「ん、でも、先生、それじゃ何で泣いてるかの説明には」
「なんだ、飯原。そのくらい、察せよ。お前らが辞めないなら、次の試合に出れるからだろうが。嬉し泣きだよ嬉し泣き」
「違います」
 草場が、すぐさま否定した。
「新体制になって、冬に差がつくから頑張ろうって時に、澤山センパイがグループみたいなの作って、飯原センパイをハブれって押しつけてきて、そんな時に青野センパイと飯原センパイが仲違いして、来なくなって、ちゃんと練習してるほうが居心地悪くて。それでようやく澤山センパイたちが消えてくれたと思ったら、三人になっちゃって、練習もまともにできなくて、ああ今日も部活か……と思ってたら、青野センパイと飯原センパイが仲良く練習してるんですよ! 夢かと思うじゃないですか。そしたら夢じゃなくて」
 草場はひとこと口にする度に、顧問にどんどん顔を近づけていった。
「わかった、わかったから。近い」
 ほとんどのけ反るほどになっていた顧問から、草場が離れた。
「それだけじゃないんです。飯原センパイのこと、辛い状況にあるって分かってて、散々無視してたのに、飯原センパイが謝ったりするから……。悪いのはこっちなのにって、思ったら、もう、苦しくて」
 今度は、視線を綾と柚樹の双方に振り分けている。
 言っているうちに零れてしまったのか、草場は頬を伝うものを拭おうもとせずに、続ける。
「私、センパイたちが、大好きなんです。練習は誰より真剣だし、澤山センパイにもちゃんと注意できるし、私にレギュラーを取られた三年のセンパイたちの妬みとか、そういうのから、うまく守ってくれたし。なのに、肝心な時に、澤山センパイが怖くなって、裏切って……」
 三瀬や斉藤の鼻をすする音が大きくなり、嗚咽もまた聞こえ始めた。一旦収まった涙がぶり返してきたらしい。
 休憩に入ったらしい男子からの視線が集まっているのが感じられる。
「言い訳は、それで終わり?」
 涙を垂れ流しながら話し終えた草場に、柚樹が容赦ない言葉を浴びせた。
 澤山に屈しながらも、それでも自分たちを慕って残ってくれた三人の、真摯な告白。彼女らに何か慰めの言葉を掛けようとしていた綾は、伝えるタイミングを逸した。
 次の言葉を制止しようか迷っていると、すぐに柚樹は苦笑いを作り、
「……って、友達には言われたよ。私が今のクウと同じようなこと、言ったあとに」
「青野センパイは、澤山センパイのこと、怖がってないじゃないですか! 気休めは、いいです」
「澤山は、だよ。綾はね、同じクラスの女にも標的にされたの。私、そいつが怖くて、怖くて、どうしようもなくて、クウたちと、大差ないこと、綾に、した」
 でもさあ、と柚樹が髪を強く掻いた。
「言い訳、なんだよ。過程がどうでも、綾にとっては、無視されたっていう現実しか残らないんだから。だから、こういうの、やめよう? 泣き落とし、みたいなのは」
 柚樹が言い終えると、手持無沙汰に突っ立っていた顧問が、これ見よがしに頷いていた。その隣で、三瀬と斉藤と草場、それにマネージャーまでが必死に歯を食いしばって、涙を止めようとしていた。それを見て柚樹は、
「あー、無理しなくていいから。そうじゃなくてさ、なんて言えばいいのか」
 柚樹はそこで、伝えるべき言葉を完全に見失ったかのように、絶句してしまった。
 しばらく我慢したけれど、柚樹は一向に喋る気配がない。こうなると、本領発揮だ。次に目が泳ぎ始めて、最後にはきっと顔が真っ赤になってしまう。さっきから休憩中の男子に一挙手一投足を見られていることに、柚樹は気付いていない。かわいそうになってきて、綾は必死に、柚樹の伝えたいことに思いを巡らせる。
 けれど何も浮かばなかったので、仕方なく、柚樹の肩を軽く叩いた。
「みんな、ちょっと、近寄って」
 手招きすると、一年生たちと柚樹は、訝りながらも、綾に近づいてきた。
 三瀬やマネージャーの腕を引っ張ったりして、強引に、円周を作る。
 綾は、右手を、円の中央に差し出した。
 そこまでやって、ようやくみんなが、綾のしようとしていることに、気付いてくれた。
 柚樹の手、草場の手、三瀬の手、斉藤の手、マネージャーの手。ひとりひとりの手が、重なっていく。
「原因は僕にあるから。絶対に、自分を責めないで」
 いつも試合前に行う、円陣での掛け声は、キャプテンの仕事。
「返事は!」
「は、はいっ!」
「えと……見捨てないでくれて、本当に、感謝してます。嬉しいです。ありがとう」
 そう言って、小さく息を吸い込む。
「絶対!」
『絶対!』
「絶対!」
『絶対!』
「勝ぁつ!」
『勝ぁつ!』
「っしゃ行こぉ!」
『しゃあっ!』
 手が押し下げ、足で床を踏み鳴らした。
「おおーし。やるか」
 円陣の外から聞こえてきた顧問の声が、心なしか弾んで聞こえた。

 居残り練習には、綾と芝原に加え、女子部員の全員と、なぜか染谷も残った。いつもだるいだるいと言って真っ先に帰る染谷にしては、珍しい。
 観衆付きの中でワンオンワンをやるのは気が引けたが、後輩たちに押し切られてしまった。
 じゃんけんで勝ち、先行は自分だ。ハーフコートで六点先取。点が入るか、コートからボールが出るかしたら、攻守交代。ディフェンスからだと、二週間休んでいたこちらが体力的に不利になるだろう。たかがじゃんけんだけれど、勝ったのは大きい。
 まず芝原にボールをワンバウンドで放る。芝原がそれを綾へと返して、スタート。
 すぐに仕掛けた。左手でボールを掴んで、後ろで強く弾ませる。それを半回転して自分で受け取って、そのままシュートフェイント。芝原が見事に引っかかってブロックをしようとしてくれた。がら空きになった足元をドリブルで突破。ゴール近くで軽く跳んで、下手からのレイアップシュートを決めた。拍手が起こる。

 芝原の攻め。芝原は、フェイントに引っかかったことがよほど悔しかったのか、自分もフェイントから始めようとした。芝原はスリーポイントが得意で、警戒はしなければいけなかったけれど、雰囲気があからさまにフェイント臭かった。芝原の目線がゴールを捉えた瞬間に、綾はボールを下から強く叩いた。フェイントのための演技に注意が向いていた芝原の手から、ボールがすり抜け、中空に浮かぶ。綾はそれを右手でゴール近くまで弾き飛ばし、芝原より速く追いつく。同時にシュートを決めた。

 もう一度、綾ボールから。細かなシュートフェイントや、股下でドリブルをするレッグスルーで惑わしながら、突破する隙を探るが、さすがに今度は、芝原もガードが固い。身長差が七センチあるため、突発的なシュートはかろうじて防げる、という判断だろう。ぴったりと張り付いてこちらのミスを待つ、フェイスガードだ。
 らちが明かないので、体の向きを変えた。芝原に背中を見せる形でドリブルを続ける。そして芝原の気配が一番近くなったところで、背中から、芝原に体をぶつけた。男子の頑強な体を怖がっていたら、勝負にならない。
 もう冬だというのに、芝原の体はとにかく熱い。お互いの汗が混じり合ったのを感じる間もなく、綾は左足を力強く踏み込んだ。わざと音を立てて。
 体を密着させているから、芝原の体の重心が左足側に傾いたのが、すぐに伝わってくる。綾はすぐさま体を反転させ、芝原の右足側に、ドリブルで切り込んだ。逆を突かれても諦めずについてくる芝原を、ドライブでぶち抜く。その瞬間、体の芯が火照り、奥底が震えるような、たとえようのない快感が突き抜けた。ここまで全身くまなく快楽に溺れられる瞬間は、他にはちょっとない。
 そして余裕をもって、二度目のレイアップシュートを放つ。ボールがリングに吸い込まれ、勝負あり。また、拍手。誰かが、手を痛めるんじゃないかと思うほど強く叩いているので、音の発生源を辿ると、草場の拍手だった。
 青ジャージの袖で顔の汗を拭い、
「上手くなってるよ。ディフェンス。なかなか抜けなかった」
 膝に手をついて息を整えている芝原の背中を、軽く二度、叩く。
「二週間休んでそれとか、反則……」
 芝原が呻いた。
 女子コートに戻ってクールダウンをしようとすると、柚樹が、汗拭き用のタオルを投げ渡してきた……というより、投げつけてきた。なぜだか、やや怒っているようだ。柚樹は、居残り練習が始まる前、芝原から、すさまじい勢いの謝罪を受けていた。土下座するんじゃないかと思ったくらいの。それからは割と機嫌がよかったのに。
 何にせよ今日は、いろいろな人たちに謝ったり、謝られたりと、本当に忙しい一日だった。
 家に帰ったら制服から着替えもせず、夕食も摂らず、お風呂にも入らずに寝たい。そのくらい疲労困憊だけれど、久しぶりに、一日を、生きた心地がした。


 帰る準備は、女子のほうが早く終わり、先に出ることになった。柚樹と草場と綾、マネージャーと三瀬と斉藤、二列になって歩く。
 体育館の真ん中の出入り口から、外へ出た瞬間、やっぱり冬だなぁ、と身を震わせた。
「寒いねー」
 そう言って、左にいる草場と柚樹を見遣る。
 柚樹は、なぜか、よろめいて、草場にぶつかっていた。左肩を、自分の手で押さえ始める。
 蔵本が、その正面に、立っていた。
 血に濡れたカッターの刃が出し入れされ、カチカチ、カチカチと、鳴いている。体育館の灯りが、蔵本の微笑を照らし出す。闇夜と薄明りの中で際立つ、不気味なまでの白さ。
「顔、狙ったのになぁ」
 喋った蔵本の口から、白い吐息が洩れる。
 左肩に押し当てられた柚樹の手。その隙間から口を開けた裂傷。溢れる赤い液体。蔵本の微笑。
 それらを目の当たりにした草場が、声を上げることもなく、後ずさりした。途端、草場の足から明らかに力が抜け、彼女はその場に、腰を落とした。
 鳴き声が、止んだ。



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