3−2 僕

 小学五年の夏休み明け、綾の通う小学校に転校してきた直の第一印象は、姿勢がいい子だなあ、だった。身長はそこらへんの男子よりも高く、あいさつした後で席に着くまでの動作が綺麗で、やけに鮮明に記憶に残っている。
 ただ、それだけだった。遊び友達には困っていなかったし、転校生を仲間に入れてあげよう、そんな殊勝なことを考えられるほど大人ではなかった。小学生なりにほとんど遊び相手が固定化されていて、そこに割り込むには、それなりの積極性が必要だった。だから直は、いつも一人でいた。あの子、誰とも話そうとしないで暗いよね、なんて友達と言い合ったりもした。
 当時の自分には、何があっても友達に知られたくない事実があった。それは父親の存在だった。父は違法マッサージ店の経営で所帯を持つ程度の財をなした人間だった。警察に目を付けられないよう、素行には常に気を配り、いつもスーツにネクタイを締めて歩いていた。歓楽街のすぐそばに借家を借り、そこを通らないと仕事に行けないんで困りますよ、なんて近所の人には愚痴っていた。今思えばそれは、案外小心者だった父の、気休めに過ぎない行為だったが、本人はそれで安心していた。母と所帯を持ったのは、そんな気休めの一環だった。
 酒が入ると必ず母と綾に手を上げ、時間が空けば家に香水くさい女を連れ込み、近所の目を気にして、猿轡を噛ませてセックスするような男だった。母と綾が家にいるにもかかわらず、だ。自分は父の、獣のような激しい息遣いと、ベッドの軋む音を毎日聞いて育った。父と獣の交わりをする女たちが、決まって勝ち誇ったような目で母を見て行くのが、不快で仕方なかった。
 父親は、五年生になった時初めて、自分が経営する店に、綾を連れていった。なんでも従業員の人件費を削減するためだとかで、学校が終わったら毎日、店番をやれということだった。システムが割と複雑だったので、間違えたら顔以外を殴られ、間違えたら顔以外を殴られしているうちに、やり方を覚えていった。最初は下校後直接店に行き、ランドセルをカウンターの内側に突っ込んで、女の格好のまま店番をしていたが、一人の客を案内している際、無理矢理抱き締められて、首筋に舌を這わせられたことがあった。幸い、表向きはマッサージ師の女が、案内が遅いのを不審に思って出迎えに来たので、そこで終わった。父は外に漏れないよう、会員制で客を取っていたが、そいつは初見だった。次の日から綾は、男物の服装に着替えて店番をした。
 綾は、店にいる間、息子として振舞うようになった。キャップを目深にかぶり、胸が目立たないような服を着た。客と会話に迫られた時は、いかにも声変り前の男子といったふりをして、応対をしていた。長かった髪も、ばっさりと切り落とした。気付いたら、母の前でも、友達の前でも、無意識に「僕」という一人称を使うようになっていた。そのことを友達は不思議がったが、すぐに慣れたようで、あまり言及はされなかった。十一歳の「僕」にとって、性行為は父への嫌悪と直結していた。絶対に避けなければならないものだった。客に襲われかけたことが、本当に怖かった。母を苦しめる父と、父と交わる女たちと同じになってしまうような気がして、怖かった。けれど、「僕」でいるなら、客に襲われるような心配はなかった。
 転機は、直に、店から出てくる所を見られたことだった。
 その日は夜九時まで店番をして、男の恰好のまま、風俗店が軒を連ねる裏通りを歩いていた。すると、向こうから、誰かが歩いてきた。路地は暗く、叫んでも誰も助けが来ないような立地だった。だが、その時の自分にとって、「僕」でいるということは、苦しいこと、嫌悪していることに触れる可能性を排除してくれる魔法の暗示だったので、さほど警戒はしなかった。
 自分より頭一つ分くらい、背の高い女の人だった。足早に歩いてきた彼女に、
「飯原さん! この辺で、うろうろしてるおばあさん見かけなかった?」
 と聞かれた。女の人は、汗を顔いっぱいにかいて、肩で息をしていた。よく見ると直だった。直の身長の伸びは小学生の時に止まったから、今では同じくらいの身長になったけれど、あの頃は直の方が頭ひとつ分、高かった。
 その時の衝撃は、今でも忘れられない。
 男の恰好をして、ポケットに手を突っ込んで、目深にキャップを被って、俯いて歩いていたのに、直は、一発で綾を、見抜いたのだ。
 「僕」が「女」であると、一目で。
 しばらく返事が出来なかった。綾が何も言わないでいると、
「ごめん、見てないよね。ありがとう」
 と言って、走り出した。直が路地を曲がるのを見送ったところで、体中から嫌な汗が噴き出しているのに気付いた。
 家に帰り、明るい所でちゃんと自分の服を見ると、襟の辺りに大きな汗染みが出来ていた。夏の残り香は、昼にはあったが、夜にはなかった。過ごしやすい陽気が続いていた。
 次の日から綾は、直に話しかけるようになった。自分が、夜の歓楽街を、男の恰好で出歩いていたことを、直が面白がってみんなに言いふらす。そのことを想像しただけで、生きた心地がしなかった。どうせ、あんな父親から生まれた自分は、ろくな人生を歩めない。だからせめて学校にいる間だけは、みんなと仲良く、束の間の夢を見ていたかった。そのためには、絶対に誰にも、父のことを知られてはならなかった。父の職業が分かる糸口すら、知られてはならなかった。
 しかし直は、綾にとっては絶対的な自己暗示だった「僕」のことを見破った。たったそれだけの根拠だけだったが、綾の父があの辺りで働いていることを、直は既に見破っているかもしれない、という恐怖心が、とめどなく溢れた。
 だから、直に友達が出来て、言いふらされる前に取り入ろうとした。急に直へ話しかけるようになった綾を、友達は、不思議がった。けれど、「僕」と言い始めた時のように、時間が経てばすぐに慣れていった。
 そんな始まりだったにもかかわらず、周囲にはない知識や落ち着きをもつ直と居ると楽しく、直と話しているだけで、父の手伝いの疲れが体から抜けていくようになっていった。それでも毎日が不安で仕方ないことには、変わりなかった。口約束が守られる、なんて無邪気に信じてはいなかったけれど、口約束でもいいから、直を信じる根拠が欲しかった。
 ついに我慢しきれず、ある時、自分から、直に口止めした。
「あの、さ……お願いがあるんだけど」
 給食の片づけが終わった昼休み、みんなが外に遊びに行った教室で、直へ話しかけた。
 そう切り出すと、一人で学級文庫を読んでいた直は、目だけでこちらを見た。
「前に、夜、会ったこと、覚えてる?」
「覚えてるけど」
「お願い。僕をあそこで見たこと、誰にも言わないで」
 頭を、下げた。直の小さな笑い声が、耳朶をくすぐった。
「顔、上げてよ」
 言われたとおりにすると、直は、寂しそうに笑っていた。
「言わない。どんな事情があるのか知らないけど、そんなこと、しない」
 直は本を閉じた。
「変だと思った。飯原さんみたいなのが、仲良くしてくれるなんて。そういえば、あそこで会った次の日からだね。話しかけてくれたの」
 綾は、少し迷ってから、頷いた。
「そう……。そんなことを頼むために、我慢して……。私なんかといても楽しくなかったよね」
「あ、えと……」
「ごめん。飯原さんと居るのが楽しくなってたから、なんだかいま、すっごく嫌な気分なんだ。早くみんなと一緒に遊んできたら?」
 直は頬杖をついて、教室の外に、睨むような視線をやった。グラウンドでは、ひとつひとつのはしゃぎ声が大きな塊になって騒音と化していた。ドッヂボールや大縄大会の練習などが行われていた。
 言わなければよかった。言わなければ直は、ずっと黙っていてくれたんだ。でも今は、疑われた腹いせに、みんなに言うかもしれない。直は最近になって、綾以外の喋り相手もできていた。心臓の鼓動が、「僕」を見破られた時のように、激しくなっていた。学校では、みんなと仲良くしていなければならなかった。友達とうまくいかないことに慣れていなかった。
 中学に上がったら客を取れ、と父に言われたことを思い出した。新しい奴雇うのにもリスクあるし、と、煙草をふかしながら父は言った。やっぱり自分はまともな人間にはなれそうにもない。だから、せめて学校では……学校にいる間だけは、みんなと、仲良く。
 ぐるぐる天地が回り出した。気持ち悪かった。

 気が付いたら、硬いベッドに背中を預けていた。
 右向きに寝ていて、目を開けるとすぐ近くに、薬品の棚があった。
「初めての子だねえ、今日はどうして倒れちゃったの?」
 体を起して左を向くと、だいぶ年のいった女の養護教諭が、事務机に向かって何か仕事をしながら、のんびりとした口調で尋ねてきた。
「僕、自分でここに来たんですか?」
 自分でもなぜ倒れたのか分からなかったので、養護教諭の問いには答えなかった。その時は、過労やストレスで倒れることもある、ということを知らなかった。倒れるのは体の弱い人だけだと思っていた。
「日焼けしてて背の高い、ピシッとした子がね、汗ダッラダラ流しながら抱えてきてくれたの。しばらくは心配そうに声をかけたり、諦めてからは、眺めてたりしてたけどね。五時間目のチャイムが鳴ったから、教室に帰らせたよ」
 綾は、その場面を想像した。
 話している最中に突然、倒れられて、直はどうしようかと途方に暮れた。それから、読みさしの本をしまい、自分とそう体重の変わらない綾のことを運ぼうと考えた。実際に抱きあげてみると予想以上に重くて、直は、昼休みの人気のない校舎をひとり、息を切らして歩く。涼しく過ごしやすい気温のなかで、汗を流しながら、それでもどうにか綾を、保健室に送り届けた。そしてしばらくの間「飯原さん、大丈夫?」などと声をかけて、返事がないと分かってからも、傍にいてくれた。
 全部、想像だ。想像だけれど……。
 なんだか、居ても立っても居られない気持ちになった。
「で、原因に心当たりは?」
「わかりません」
 応えて、ベッドを、保健室を、素早く抜け出した。
 ……早く阪井さんにお礼を言わないと。阪井さんを疑ったことを、謝らないと。
 教室に戻ると、みんなは帰り支度をしていた。教室に備え付けられた時計を見ると、四時を過ぎていた。
「綾、大丈夫だったの?」
「阪井さんに何かされたの?」
 普段いつも一緒に下校している友達四人が、待ってくれていた。
「ううん。阪井さんは、保健室に連れてってくれただけ。ちょっと貧血。大したことないよ」
「じゃあ、一緒に帰ろー」
「あ、ごめん、今日は、用事があって」
 綾は慌てて断った。
「そうなんだ、じゃあ、また明日ね」
 寂しそうに言った子に平謝りしながら、赤いランドセルだけを机から取り、昇降口まで全速力で走った。
 下駄箱周辺には既に直の姿はなかった。六時間目の授業があった五、六年生の群れを掻き分け、上履きのまま外に駆け出た。すると校門の辺りに、直の後ろ姿を見つけた。背の高さのおかげで目立つ。
「阪井さん!」
 自分の中にこんなに大きな声を出せる力があったのかと思うほど、大きな声が出た。おかげで、言い終えた後すぐ、ひどく喉が痛み、何度か咳き込む羽目になった。直だけでなく、下校途中の人たちが一斉にこちらを振り仰いだので、さすがに恥ずかしくなり、近くにあった掲示板に体を向け、その視線を避けた。
 とん、と一度だけ肩を叩かれた。
「何?」
 振り向くと、直は不機嫌そうに言った。
「あ、あの。さっきは疑ったりしてごめん。保健室に連れてってくれて、ありがとう」
 綾はそう言って、頭を下げ、上げた。それから何を言うでもなく、直の反応を待ち、目を合わせていた。
「それだけ?」
 頷いた。直は溜息を吐いた。
 ……何か悪いことを言っただろうか。
 そう思っていると、直が、右手を綾の顔の近くに持ってきた。中指が親指に引っ掛けられている。これは、と思ったらもう、額は中指によって弾かれていた。
「い、痛いんだけど、阪井さん」
 綾は額を両手で抑えながら、不満を零した。
「そのくらいのことで、あんな悲鳴みたいな大声出さないで。明日言えばいいでしょ。何かもっと大変なことが起こったのかと思った」
「で、でも、僕にとっては大変なことで……。疑ったことを、すぐに謝りたくて」
 直はそこでまた、寂しそうに笑った。
「そんなに心配しなくても、大丈夫。疑われた腹いせに言いふらしたりとかもするつもりないし」
「うん。確かに僕、最初は、阪井さんが言いふらさないか、確認するつもりで話しかけた。でも、でもね、だんだん、阪井さんといると安心できるようになってきてたのも本当で……。さっき保健室に送り届けてくれたんでしょ。息を切らしながら、汗だっていっぱい、かきながら。保健室の先生にそれ聞いて、すぐ謝らないと、って」
「そんなに必死に運んでない。保健室の先生が大げさなんだよ」
「運んでくれたのは本当でしょ。僕だったら、あんな、疑うようなこと言われたすぐ後に、大変な思いして、運んだり、できないから。阪井さん、本当にすごいなあって……。この人ともっと一緒にいろんなことしてみたいなあって、思った」
 それができるのは、きっと、あと一年半くらいだけれど。
 直の、日に焼けた顔が少しだけ、色を濃くしたような気がした。
「恥ずかしいこと、平然と言うね。いつもそうなの?」
「僕も、こんなこと言えたのは、直が初めて」
 さりげなく、呼び捨てにしてみると、
「なんかそれ、口説き文句みたいだよ、綾」
 直も同じように、呼び捨てで返してきた。
 お互いになんとなく顔を見合わせて、笑った。

 一番の友達は直になった。まともな生活を送れるはずの最後の年も、同じクラスになれて、楽しいことをたくさん、分かち合った。
 これでもう満足だ、後は父の言い成りになって働こう。小学校の卒業式を終え、そう覚悟して家へと帰ると、両親がいなかった。それまでも不在の頻度が増えていたから、綾は、黙って母の帰りを待った。
 後から母に聞いた話だと、母は、家庭裁判所にいたらしい。綾の知らないうちに、父は、家庭内暴力の証拠を溜めこんでいた母によって、離婚調停へ持ち込まれていた。母は慰謝料の請求をせず、綾の親権だけを主張した。条件的には悪くなかったからか、既に次の女への目星をつけていたからか、あるいはその両方か。初めは渋っていた父も、最終的には離婚に同意したそうだ。
 そして小学校の卒業式の日は、ちょうど調停調書が作成され、離婚が成立した日だった。結果を父より早く知った母は、事情の呑み込めないでいる綾を連れてすぐ家を出て、最寄り駅に向かった。
 綾と母は新しい街に引っ越した。直の一家がまた、三月に入ってから引っ越していたので、そのことは母に伏せつつ、直から教えてもらった住所の近くへの転居を希望した。通えるのなら、同じ中学に通いたかった。
 その後、離婚調停の聞き取り調査の過程で出た話を、事件性ありと判断した調査官が、警察へ届け出た。そこから違法マッサージ店の複数経営が明らかになって、父は逮捕されたと聞いた。父は家庭裁判所だけでなく、地方裁判所へも足を運ぶこととなり、そこで父には執行猶予なしの実刑、懲役二年の判決が出た。父は控訴したが、高等裁判所でも結果は変わらなかった。父はもう、控訴しなかった。

 以降の父の消息は、知らない。
 けれど、今年になって襲われるようになった自殺衝動には、父が絡んでいた。
 中学三年の、冬ごろ。逆恨みから娘と妻を殺した男が世間で騒がれたのをきっかけに、それまでほとんど忘れかけていた父の事を、突然、思い出した。
 それからだった。計算上は二年の刑期を終えたはずの父に、母と綾が警察に情報提供したと思いこんでいるはずの父に、今の借家が見つかった夢を、頻繁に見るようになったのは。その夢ではいつも母が真っ先に殺され、自分は最終的に、薬物漬けの廃人にされる。毎日毎日、体中あざだらけにされていたころの記憶が、フラッシュバックするようにもなった。
 直と、母と、精神科医のおかげで、どうにか持ちこたえていたけれど、そんな日々が二年近く続いて……自分は、自殺を図った。



inserted by FC2 system