3−3 母の肩

 猜疑心と自意識の強さは今に始まったことじゃない。
 自宅のソファに横になっていた綾は、一人で自嘲の笑みを零した。
「僕、か……」
 大人になってまで自分の事を僕なんて呼んでるようだと、弊害があるに決まっている。いい加減、やめないとならないけれど、この一人称は、父にここは見つからない、父にここは見つからない、という自己暗示のようなものだった。直以外の相手にはまだ、この自己暗示は有効だった。
 ソファに寝転がったまま、近くに置いてあった鞄を漁り、携帯電話を、取り出した。時間を見ると、九時過ぎだった。まだ母は帰ってきていなかった。
『疑ったりしてごめん』
 直にメールを送った。
 五分くらいじっとしていたが、返信はない。
『助けてくれてありがとう』
 違う文面で送った。やはり、返信はなかった。直が学校に来なくなった日から、二週間が経った。こんなメールだけで、解決するはずなんて、ない。
 直の顔が見たかった。声が聞きたかった。小学校の時のように、『そんなこと、明日言えばいいでしょ』と返してきてほしかった。携帯電話を閉じ、鞄に戻した。ソファにうつ伏せになった。
 ……小学生の時は、似たような状況でも、あんなに早く、謝れたのに。
 二週間。二週間もだ。最初は、直に裏切られた思いを抱えて。冷静になってからは、直すら信じることが出来ない自分への激しい嫌悪感で。考えることをやめ、毎日を過ごしてきた。
 安定剤が欲しい。依存気味なのは分かっている。それでも、欲しくて欲しくてたまらない。発作的に立ち上がろうとする体を制止し、ソファにしがみついた。再び信頼を裏切られた母の涙を、何度も何度も頭の中で再生した。母は、薬の場所をまだ変えていないはずだ。自分を信じてくれているはずだ。探せばすぐに見つけることが出来てしまう。臓腑の奥の奥からせり上がってくる衝動を、気持ち悪さを、ソファに爪を立ててやり過ごす。
 そうしているうちに、玄関の扉が開く音がした。
「ただいまぁ」
 母の声だった。綾はソファから立ち上がった。
 ふらつきながらリビングと玄関との間の扉を開けると、母と鉢合わせした。仕事終わりに寄って来たのか、手にはスーパーのビニール袋があった。母の姿を見た瞬間、体の力が抜けた。床に座り込んだ。
「お願い。安定剤、職場に持って行って」
 俯き、母の女っ気のないズボンに手をかけながら、言った。
 母が近くにしゃがんだのが、衣擦れの気配で分かった。俯いた綾の首の後ろに、手がかけられた。外から帰って来たばかりの、冷たい手だった。
「そんなに、我慢できないほど、飲みたくなる?」
 頷いた。
「人間として駄目なんだよ、もう。あるって分かったら、使わないといられない。ちょっと辛いことがあっただけで、薬に頼る」
「心配しないで。今は、先生に処方されている一回分だけしか置いてない。薬に頼るのは、不安を増幅させる脳内物質を抑制するためで、頻繁に使いすぎなければ、科学的な根拠がある治療法だって……。逃げとは違うって、きちんと説明されたじゃない?」
「けど、この前、薬を探した時、お母さん、泣いてた」
 かすかに母が身じろぎした。
「僕が、自殺未遂した後、一度も薬を貰いに来ないから、嬉しかったんだよね。自殺未遂したから、後悔して、何かが変わったのかもしれないって、喜んじゃったんだよね。だから、僕が、あんな……。突然、部屋中、荒らし回って、本棚ひっくり返して、食器も何枚か割って、そうまでして薬のしまってある場所を見つけたことが……泣くほど、悲しかった。そこまで薬に依存してる僕に、失望した」
 蔵本が直を責めたあの日が思い出され、自分でも、情けない声になっていくのが分かる。
「口では先生の話を信じてるふりして、お母さんも、薬に頼るのは逃げだと思ってるんだよ、やっぱり。それなら、目の前に逃げ道を示しておかないで。僕は、大丈夫だから」
 母は、溜息を吐いた。綾のせいで泣いているのを認めたのかと思ったら、
「綾、それはちょっと、勘違いだと思う」
 驚いて顔を上げると、母の苦笑いが目の前にあった。
「私が泣いてたのは、職場で辛いことがあって……それに、綾の事が加わったから、だよ。娘があんなに暴れ回った痕跡見つけたら、どんな親でも辛くなると思わない? 娘にどんな耐えがたいことが起こったんだろう……って。なんかもう感情が擦れちゃってさあ、一つの理由だけで泣くなんて、できないできない。ま、綾が助かった時は泣いちゃったけど」
 最後の言葉に、嬉しさがこみ上げたが、どうにか、噛み殺した。
「お母さんも、職場で?」
「ほら、介護職始めたの、離婚してからでしょ? 今の施設で雇ってもらってから、慣れるまで、いろんなことが下手くそで、他の職員の人にも、デイサービスに来てる人にも、疎まれちゃってね。クビになる寸前だった。そんな時に、随分良くしてくれたおじいさんが、いたのね。最近、やっとまともに介護できるようになってきて、その人にも、もっといろんな恩返しができると思ってたら……。あの夜勤の日に、亡くなったって連絡を受けて……。それで、帰ったら、綾があんな状態だったから」
 母が、首に回した手に力を入れてきた。母の肩に、頬を預ける形になった。
「だから綾……。そんな目で家族を見ないで。綾を大切に想う気持ちを疑われるのは、どんなことより、辛いから」
 綾は堪え切れず、母にしなだれかかった。
 そんな目で。その通りだと思う。たった一人の家族も、一番大切な友達も、疑いの目でしか見られない。まず信頼の否定から入る。信頼できるのは、何もやらなければ目に見えて数字の悪化する、部活やテストの結果くらいしかない。
 バッシュがなくて綾が試合に出られなかった時、柚樹が代役を務めて強豪校に競り勝った練習試合が、浮かんだ。元々、勉強とバスケットボール部のレベルがちょうどいいから、今の学校を選んだ。そのはずのバスケットボール部が弱小校に転落したのは、綾が入った年からだった。周りの部員が、綾の自殺未遂の後にあれほど態度を変化させたのは、蔵本の流した噂だけのせいでは、なかったのかもしれない。自分が、直と似た所のある柚樹以外に、全く信頼を寄せていない空気を、薄々感じていたせいだったのかもしれなかった。
 再び負の思考スパイラルに陥りそうになり、安定剤のことがよぎった。母の背中に回した腕に、力を込めた。母の体の温もりに神経を集中させて、波をやり過ごす。
 しばらくそうしたあと、
「落ち着いた?」
 背中を二度、軽く叩かれた綾は、頷き、母から離れた。
 立ち上がってから、母と目が合ったが、まともに見れず、床に目線を落とした。床には、母が手にしていたビニール袋が、横倒しになっていた。
「今日は久しぶりに、ご飯、一緒に作ろうか?」
 そう言って母は、ビニール袋を持ち上げてみせた。



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