2−4 洩れ出す声

 今日は柚樹までもが学校を休んだ。これまでにも無断で休むことは何度もあったが、昨日の放課後、泣いていたのが気にかかる。直はまだ立ち直れそうにもない、綾に話しかけても生返事しかされない、そのうえ柚樹に何かあったら……。
 授業に対する意欲が余計に薄まったのは言うまでもなく、キャンバスに向かってもうまく集中出来なかった。描き始めて十分で、部活を切り上げた。
 それは家に帰って乃亜の相手をしているさなかでも変わらず、戦隊もののヒーローに影響された必殺技を、もろに背中にくらってしまった。顔をしかめながら振り返ると、得意げな顔は、怪我を案じる顔になった。心配するくらいなら、最初から蹴るなよなぁ。
「痛いなこのやろー」
 乃亜の頭にぽんと手を載せ、立ち上がった。じっとしていても、この気分は晴れない気がした。
 自分の部屋に戻って、机の脇にある棚を片っ端から探っていった。中段に目当てのメモ帳を見つけ、ページを手繰っていく。
 あった。制服の上に白色のコートを羽織り、コートのポケットへ、携帯電話と財布、それにメモ帳を入れた。
「ちょっと出かけてくる。夕飯までには戻るから」
 台所にいる母に声をかけた。
 バスに乗って駅まで戻り、財布に入れてある定期券を使って、駅の改札に入った。柚樹の乗降駅は、聡美の持つ通学定期の区間内にある。短い間隔で走る鈍行に乗り込んで、二つ隣の駅で下りた。
 家から持ってきたメモ帳に書いてある住所を、駅近くの交番で見せて、道順を教えてもらった。歩いて十分くらいの距離だそうだ。
 住所に道順が書き加えられたメモ帳を時折確認しつつ、歩く。
 夕暮れの陽が気まぐれに見せる、藤色の空が広がっていた。どういう現象なのかは分からないけれど、以前、下校途中の電車内で、柚樹と隣り合わせに座っていたときにも、見た時があった。
 ――いつもと違うことが起きると、少し、楽になる。
 一面に紫アサガオが咲いた空を見て、そんなことを、柚樹は呟いていた。
 住宅街に入った途端、立派な誂えの一軒家が増えた。綾同様、切り詰められたお金の使い方を見て、聡美が勝手に想像していたような場所ではなかった。都会に迷い込んだ小動物のような気分で、なるべく道路の隅を歩いた。
 青野という表札が出ている家に着き、インターフォンを押した。十分なスペースのある庭は、芝草の上に、切り整えられた多種多様な草木が植えられている。その隅のガレージの入口は開いていて、磨き上げられた高級車が三台、見る人が見れば、庭の調和に負けないくらいの魅力を発揮するであろう精悍さで横たわっている。あいにく興味がないので、すぐに目を切った。
 ぼうっと庭全体を眺め、この庭を背景にした絵の構図が頭の中に溢れてきた所で、インターフォンに返事があった。たぶん、カメラ付き。方々に設置されている監視カメラのおかげで、一方的に見られることに慣れているとはいえ、なかなか、気持ち悪さは拭えない。
「どちら様ですか?」
「あ……突然お訪ねして申し訳ありません。柚樹さんの友人の、小早川と言います」
 するとインターフォンの切れる音がして、玄関の扉が開いた。玄関と聡美とを隔てる柵越しに、柚樹の母親と思しき人が出てきた。随分と若づくりで、とても高校生の子供がいるようには見えない。目もと口もとには、皺ですら魅力的に見せることを心得ているような、計算された笑みが広がっていた。
 聡美は意識して長いまばたきをした。友人の母親に対して失礼なことを考えてしまった。感じのいい人、と素直に受け止めるように努めた。
「ご用件は?」
「あの、今、柚樹さんはどちらに……」
「ああ、柚樹ですか。ごめんなさい、今は出かけていて」
「何時頃、帰られます?」
「そんなに遅くはならないと思いますけど。ちょっと分からないなぁ、ごめんなさいね」
「あ、じゃあ、帰ってきたら、この番号に電話をかけるように伝えてください」
 聡美はメモ帳に挟んであったボールペンを使い、自身の携帯電話の番号を教えた。携帯電話を持っていない柚樹には、以前、同じようにメモ書きを渡したが、一回もかかってきたことがない。もう失くしているかもしれないから、念のため。
「分かりました。帰ってきたら伝えておきます」
「お願いします」
 結局最後まで笑みを絶やすことなく、柚樹の母親は聡美に背を向けた。

 はあ、と軽く溜息を吐く。
 道順を教えてくれた警察官のおじさんに重ねてお礼を言ってから、その交番の近くに設置してあるベンチに座り、一時間ほどが経った。冬が近づいているからか、辺りもすっかり暗くなってしまった。
 そんなに遅くはならない、という言葉を受けて、柚樹からの折り返し連絡をじっと待っているが、一向に、着信はない。
 仕方ないので、交番から洩れる明かりを頼りに、先程、庭を見て思い浮かんだ絵の構図を、メモ帳に書き留めて時間を潰した。
「絵が好きなのか?」
 暇潰しのはずが興に乗り、庭の一部のデッサンもどきを描いていると、突然、呼びかけられた。
「は、はいっ」
 交番で道順を教えてくれた警察官のおじさんが、近くに立っていた。口に煙草をくわえている。
「あれ……お巡りさん?」
「さっきから声掛けてたんだけど」
 おじさんは人ひとり分くらいの間を開けて、ベンチに座った。聡美の父親くらいの年代だが、見るからに筋肉質で重量感のある体つきだった。
「あと四時間くらいここに居たら補導するよ」
「あ、はい、さすがにそれまでには帰ります」
「誰かを待ってるとか?」
「友達を」
 おじさんが腕時計を見た。
「一時間近くも?」
「一時間近くもです」
 煙草を手に持ったおじさんは、また口もとに寄せて吸い、目を細めてから煙を吐いた。
「ケータイ全盛の時代に古風なこったなぁ」
「その友達、携帯電話、持ってなくて。ひたすら来るのを待つしかないんです」
「だからって一時間も待つなんて、友達思いなんだな」
 煙草の煙が、風にそよいでおじさんの後ろに流れていく。
「友達思いではないですよ」
 自分でもびっくりするくらい硬い声が出て、おじさんも目を少し見開いてこちらを見た。
「あ、いえ、違うんです。お巡りさんに怒ったわけじゃなくて。……いま、友達がいろいろと辛い目にあってるんです。それなのに私、余計なことして話をややこしくするのが怖くて、何もできなくて……。切羽詰まってるのは分かってるのに、どうすれば正しいのか、どうしたら駄目なのか、そんなことばっかりに囚われて、行動できてないんです。どうしたらいいか、分からなくて、本当に」
 いまこうして柚樹を待っていることすら、余計な事してるんじゃないかって、怖くて。
 おじさんのほうを見ず、足元に向かって喋った。
 隣で、
「はぁーあ」
 という溜息が聞こえた。
 顔を上げてそちらを見ると、おじさんは携帯用の吸い殻入れに煙草を押し込んでいる所だった。
「こんないい子を泣かせるなんて、大馬鹿野郎だな、その友達ってのは」
「な、なんでそんな結論に……」
 おじさんは大仰そうに立ち上がった。
「どうにもならなくなったら、相談しに来いよ。交番なんて、そのためにあるようなもんだし。たまには女子高生と茶ぁくらい飲んだって罰は当たんないだろ」
 そのまま交番に戻っていくおじさんを、黙って、見送った。
 ひとりベンチに取り残された後で、息をするのが、少し楽になっている自分に気付いた。

 柚樹はその三十分後に、姿を見せた。改札から吐き出されるサラリーマンに混じった柚樹は、制服姿だった。手には何も持っていない。学校を休んで出かけるにしては、格好がおかしい。ちゃんと捕まえてから話を聞こうとして、声を掛けずに、近づいた。
 しかし途中で気付かれた。柚樹はなぜかこちらに背を向け、いまいる南口とは反対の北口に向けて走り出した。つられて追いかける。五十メートル走、十秒台の人間が、バスケットボール部員に追いつけるはずはないけれど、ここは幸い、通勤帰りの雑踏がある。
 ぶつかりぶつかられながらも、小さい体を活かして、柚樹よりもうまく人々の間を縫い走ることができた。
 運動神経がないなりに、休むことなく追いかけ続け、ようやくその背中に近づく。手が届きそうで届かない。出口が近づき、雑踏も混雑が分散している。仕方なく聡美は、目の前を男が横切り速度の落ちた柚樹の背中に、指を伸ばし、触れると同時にその背中を強く押した。柚樹がよろけた。部活で鍛えているからか、倒れはしなかったが、それで充分だった。聡美は夢中で柚樹の背中に飛び付いた。
 今度はさすがに潰れた。柚樹がコンクリートに直にうつ伏せになり、聡美がその背中に覆いかぶさるような格好になっていた。普段から全く使っていない生白い足ががくがくと震えて全く動かない。夢中で酸素を取り込む。
 今いるのは、駅から出る寸前、雑踏が全くなくなる場所だった。今うまく捕まえなければ、逃げられていた。お互いに息を整えた後、聡美が先に背中から退いた。気付けば周りから不審者を見る目を向けられていた。それは、そうだ。こんなに往来のある場所で、こんなことをしていたら。
 顔が熱くなってきて、すぐに柚樹の手を取って助け起こした。柚樹はこちらを見もせず、歩き始めた。
 少しして、五番と記されたバス乗り場に備え付けの、ベンチに着いた。駅から一番離れた場所にある。柚樹はベンチの奥側に座った。
「疲れたね」
 聡美は呟きつつ、バス乗り場の時刻表を眺める。駅からの光で充分、文字は読めた。携帯電話が表示する時刻と照らし合わせると、経由便はもうなかった。あまり人が通る心配はない、ということだ。
「何か用」
「用がなければあんなことしないよ」
 柚樹の発した素っ気ない声に対し、こちらもできるだけ素っ気なく装った。あまり心配そうにしていると、柚樹は本心を出そうとしないかもしれない。
 どう話を切り出そうかしばらく考えていたら、柚樹が軽く目を擦った。
「寝てないの?」
 聡美は立ったまま、四面に時刻表やお知らせが貼ってある標識に、背中を預けた。
「うん」
「どうしてか、聞いてもいい?」
「どうしても何も。冬も近いっていうのに、こんな布切れだけで眠れるわけないよ」
 言った後に柚樹は、俯いた。
「寒いなぁ」
 そしてスカートから覗く太ももの辺りを擦った。
 聡美は、着ていたコートを脱ぎ、柚樹の膝もとにかけた。突然肌に触れたものに驚いたのだろう、柚樹は顔を上げた。
「さっき、ゆずの家に行ってきたよ」
「え……」
 呆然としたように呟いた柚樹は、聡美がじっと見ていることに気付くと、すぐに取り繕った。
「あ、え、えっと、うちの親、なんか変なこと、言って、なかった?」
「言ってなかった。何もね。でもきっと、遅くなって心配してるから、家に帰ったら?」
 柚樹が身じろぎした。
「……って言えば、そうなるよね。あの家を見たら、どんな馬鹿でもわかるよ。ケータイとかスマホを羨ましがってる柚樹が、経済的な理由で買ってもらえないことはないってことくらい。部活と掛け持ちで、校則無視の深夜バイトなんかする必要もない」
 そう言ってから、いつも、背の低い乃亜に視点を合わせているように、ベンチに座る柚樹の前にしゃがんだ。そして、コートの上から、柚樹の膝の上に手を置いた。
「やっぱり、私じゃ、頼りないかな。自分では、口が堅いと思ってるんだけど」
 ゆっくりと首が横に振られた。
「話してくれない?」
 柚樹はまた俯いてしまった。肩が小刻みに揺れ始めた。
 何か言葉を付け足そうとして、やめた。洩れ出す声を必死に堪えるような、そんな嗚咽がかすかに聞こえていた。柚樹の感情が昂る様子を見たのは、これが、初めてだった。
 駅の喧騒が遠くにあり、後ろの街路樹からは虫の鳴き声が聞こえてくる。柚樹は背中を曲げ、その鳴き声につられるように、微かな声を上げて泣き出した。時々洩れる「うええ」という子供のような嗚咽は、白いコートの上に、ぽとりぽとりと落ちる薄い染みとともに、零れては消えていく。聡美の手の甲にも、一滴、零れ落ちた。
 そのとき、コートから、音がした。二人同時にびくりと体を揺らし、コートを凝視する。お互い、携帯電話の着信音だとすぐに気付き、溜息を吐いた柚樹と、顔を見合わせた。柚樹は慌てて、目の部分を左手で隠した。
 コートのポケットを探って携帯電話を取り出す。メールを確認した。普段は寡黙なのに、メールだと人格が変わる母親は、
『夕飯までに帰るって言ったのに。心配かけさせないでよー』
 と、語尾に顔文字付きで送ってきていた。無駄に可愛い。
「じゃあ、そろそろ帰ろっかな。親が心配してるから」
 柚樹の膝にコートをかけたまま、立ち上がり、駅の方に向かって歩き出した。
「あ、聡美、コート」
 無視して駅のほうに歩き続ける。
 振り返ると、柚樹はまだベンチに座ったままだった。
「早くそれ着て、ついてきて。置いてくよ」
「え、だって、聡美、帰るんじゃ……」
「はーやーく」
 そこでようやく、こちらのしようとしていることを呑みこんでくれたようだった。
 慌ててコートを着込み、こちらに走ってくる。それは、柚樹が普段、絶対に見せないような子供じみた仕草だった。



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