2−3 気付かないふり

 模試で一段階評定の下がった弟の機嫌が悪く、もちろん、あいつだけに期待のすべてを懸けている両親も機嫌が悪かった。きっと何か嫌なことが起こるだろう、というような雰囲気だった。朝から、気分が乗らなかった。
 今まで、そう感じた時は、無断で学校を休んできたし、今回もそうするべきだった。

 それでも登校した理由は、部活を休み、周囲との関わりをほとんど断っている綾に、どうしてもバッシュのことが言い出せなくて、そのまま帰ってきてしまったからだ。そして今日もなんとなく渡しそびれてしまった。
 そのまま部活の時間となり、練習前のウォーミングアップを始めた。
 マネージャーがホワイトボードに書く今日の予定を横目で見ていると、芝原に名字を呼ばれた。体育館ステージの手前で、芝原が手招きしていた。
「これさあ」
 と芝原が持っていたのは、綾のバッシュ。心臓が軽くはねた。
「昨日の後片付けの時に見つけたんだけど。青野だろ。そこに置いたの。昨日の、昼休みの時」
「うん」 
「飯原が練習に来ないのは、履くものすらないから?」
「あ……」
「最低だな。青野だけはそんなことしないと思ってたのに」
 血液が脈打って、顔が赤くなっていくのが分かる。
「バッシュは俺が飯原に返しとく」
「ち、違っ……」
 声がかすれてしか出ない。綾のバッシュをその場に置き、練習に戻っていく芝原の背中を止められなかった。
 ……これは澤山が、新品としてオークションに出して、小遣い稼ぎをしようとしているだけ。くだらないことをしているのは澤山たちで、私は関係ない。
 普段から喋るのが得意とはいえない自分が、芝原の前で、そんな言葉をすらすらと吐き出せるわけもなかった。

 芝原と喋るようになったのは、入部してすぐの頃だった。顧問は、入部した時から部内で一人だけ別格の綾に、特別メニューを課していた。他の部員は無理しなくていいぞ、と言われていたのに意地になって、綾と同じメニューをこなした。淡々と、地獄のようなメニューをこなしていく綾に負けないよう、必死に追いすがって、やっぱり到底こなせなかった。十分間のインターバルが入り、早速、体育館裏でバケツに向かって吐いていると、背中を何度か軽く叩く手があった。女子部員の誰かかと思って
「ありがとう、もう落ち着いたから……」
 と礼を言うと、
「すごいな、飯原さんと同じ練習に挑むなんて。えげつないよね、飯原さんの練習量。男子でもかなりきついよ」
 返ってきたのは男の声だった。慌てて手の甲で口周りを拭い、バケツを、その声の聞こえた方から遠ざけた。
 男が笑った。
「隠さなくていいじゃん」
「隠すよ、普通」
「必死にやった結果なのに?」
「血でも吐いたなら堂々と見せるけど。これは、今日のお昼ごはんだから」
 男がまた笑った。
「俺、芝原。そっちは?」
「青野……」
「青野、さん。明日、どっちが涼しい顔で飯原さんの練習量をこなせるかで、勝負しない?」
「何、それ。誰が判断するの?」
「飯原さんが」
 翌日の練習では、練習の時々に芝原のほうを見た。すると不思議なことに、かろうじてではあるものの、綾の練習に、ついていくことができた。
 練習後、綾は困った顔で、「引き分け。どっちもすごく苦しそう」と判定した。芝原と、お互い顔を見合わせて笑った。その、ひたすら苦しそうで、ひたすら楽しげな笑みを見たときにはもう……好きになっていたと思う。

 芝原に投げかけられた一言がいつまでも頭にこびりついて、離れなかった。練習をする気力が削がれた。顧問がまだ来ていなかったので、バッシュを持って引き返した。
 部室には澤山と他数名がいて、煙草をふかしながら雑談していた。
 柚樹は特に驚きもせず、その光景を受け入れた。綾が立場をなくしてから、澤山たちを抑えつけていた枷が、外れていたからだ。綾を特別扱いしてきた顧問も、綾が影響力を失うと指導力不足が目立つようになった。
 ここはもう、部として終わった。
 部室備え付けの水色のベンチに座っている澤山たちを無視し、着替える。
「青野さぁ、部室に置いてあったバッシュ、どこやった? なんかアレ、変なプレミアついてて、一万五千とかで売れそうなんだよねー。まあ大した金じゃないけど、貰えるものは貰っときたいじゃん?」
「空箱でも送れば?」
 ジャージを脱いでワイシャツを羽織りながら、返す。
「今さら飯原についたってしょうがねーだろ。さっさと言えよ」
「知らない」
「青野、その調子だと煙草のことも話しそうだよね。今のうちに痛い目見とく?」
「あんたらがヤニ臭くなろうが歯が変色して余計に小汚くなろーがどうでもいい。なんで私が、あんたらの更生を手伝ってやんなきゃなんないの? くっだらない」
「何、私たちが仲間でつるんでんのがそんなに羨ましい? そうだよね、抜け殻二人と最底辺の劣等生、あんたにはそれしか友達がいないもんねー」
 制服に着替え終わり、バッシュをカバーに入れていた途中で、澤山が、言った。無視して部室を出ることは、なぜだかできなかった。
「一人は言うまでもないけど、一人は中学時代にマワされて頭がイカれちゃった引きこもりだし、もう一人はなんか独りで絵ばっかり描いてて気持ち悪いだけの存在だし」
「お前があいつらを語るな」
 売り言葉に買い言葉で、反射的に言葉が出た。微かに澤山が怯んだのが感じられた。目付きが悪いと、散々両親に嫌悪されてきた両目が、役に立っているようだった。
「あれ? 自分でもあれだけ無視しといて、今さら怒る? それって人としておかしくない?」
 部活中も、特に申し合わせもせず、澤山に同調して綾を無視した。部室で、綾に対して皮肉を呟きもした。それは、ついこの間のこと。せめて部活中の味方になっていれば、綾の憔悴は少しでも和らいだはずだ。綾が直を疑うこともなかったかもしれない。
 分かってる。
 それでも、柚樹は一歩、澤山の前に踏み込んだ。訝るような目つきで見上げてきたその横面を、手に持っていたバッシュで引っ叩いた。澤山の手から、煙草の吸い殻が落ちた。
 続いて掴みかかろうとすると、脇腹に、澤山の仲間の爪先が入った。部室には、柚樹以外に四人いた。うずくまりかけると、今度は髪を引っ張られた。一人が煙草の吸殻を拾い上げる。どの部員にも、表情がなかった。
 掴んでいる奴の手に思い切り爪を立て、髪を掴む手が解けると同時に、部室の扉を押し開き、外に転がり出た。
 さすがに、殴る際に落としたバッシュのカバーは、拾う暇がなかった。
 バッシュは鞄に入りきらず、そのまま持って帰るのもなんとなく億劫だった。鍵付きの教室のロッカーに入れておこうと思い、昇降口に戻った。
 靴を脱ぎ、上履きに履き替える。そこでふと、煙草の吸い殻を拾う部員の姿を思い出した。徹底した無表情。人が何かに加虐する時の、顔だ。両親や弟がこちらに向けるものと同じ……。急に怖くなってきて、昇降口で一旦、うずくまった。
 澤山は小悪党だ。蔵本のような事はしない。澤山の仲間に囲まれかけたいまもまだ、その侮りは、正しいと思っている。
 けど。蔵本は。やり切った。矢崎に対して、綾に対して、直に対して。
 前に標的にされた矢崎が、肉体的に嬲られる現場を目撃したことのあるのは、たぶん、学校の中でも自分だけだ。圧倒的な暴力を何のためらいもなく他人へ向ける蔵本と、恒常的に言葉の暴力を向けてくる家族とを、重ねた。
 ……だから、歯向かわなかった。綾が起こした自殺未遂への憤りを、逃げ道にした。牙を自ら引き抜いて、へりくだった鳴き声を発しながらお腹を見せて、媚びた。蔵本たちはそんなこちらの様子を見てとっていただろう。陰で馬鹿にしていただろう。でも、歯向かうことはできなかった。これまで生きてきた中で、焼金のように押しつけられた劣等感と被虐の記憶が、蔵本に対しては絶対に従順でいろと警鐘を鳴らし、邪魔をした。
 こちらの情けない態度を蔑みながら、直は、綾を守るため、蔵本に立ち向かった。そして、壊されてしまった。
 
 階段を上る。二年生の教室は三階だ。
 途中、仲良く下校する女子生徒二人とすれ違った。そのうち一人が直とよく似た佇まいをしていたので、思わず振り返る。しかし、別人だった。また、足から力が抜けた。手すりにつかまり、堪える。
 綾とバッシュを一緒に買ったとき。入部してからいつも綾に負けないように練習をし『柚樹とやってると、バスケ、楽しいなぁ』と嬉しそうに言ってもらえたとき。同じ量の練習をこなしているはずの綾と芝原の上達についていけず絶望したとき。楽しげに芝原とのワンオンワンをこなす綾に激しい嫉妬を感じたとき。直が、彼女なりのやり方で自殺未遂後の綾を慰めているとき。安井たちの言葉に晒される直を、綾が連れ出したとき。直の携帯電話から、綾の携帯電話に中傷メールが送られていると発覚したとき。本当に直が送ったのか聞きもせず、綾が、直でなく、蔵本の言葉の方を信じたとき。そして芝原から浴びせられた『最低だな』。
 色々な記憶が干渉し合う。手すりに掴まり、立ち上がった。
 バッシュを握り直して教室へ向かうと、
「柚樹」
 と後ろから呼び止められた。聞き慣れた心地いい声。
 そこで柚樹は初めて、自分が泣いていることに気付いた。袖で拭ってから、振り返る。
「蔵本に何か……」
「違う」
 それだけ言って、教室に入った。ここで聡美と接したら、絶対に、甘えてしまう。なるべく、話をしたくなかった。
「いまさら、部活で綾に味方したとか?」
 今はその話をしないで。暗にそう伝えるため、ロッカーにバッシュを突っ込んで、思い切り閉めた。
「ホント、いまさらだね。あれだけ無視しておいて」
 聡美が言っていることが正しいと分かっていても、今は。
「分かってるよ! そんなこと!」
 嗚咽を噛み殺しながらの状態で、咄嗟に叫んだせいで、むせた。そのうえ唾液と鼻水とが混じり合って喉奥を苛み、一気に息苦しくなった。ロッカーに思わず手をつく。
 すると、今の今まで怒っていたはずの聡美が、背中をさすってきた。
 今すぐ聡美に、綾に、直に、謝りたい。でもそんなことをしたら、泣き喚いて、ひたすら聡美に謝り続けてしまうような気がした。これまで、人付き合いの中で引いてきたラインを越えて、誰にも見せてこなかった、自分の醜態をさらすことになる。
 気付けば、聡美の手を振り払っていた。

 今日は午後九時から午前二時まで、深夜のアルバイトが入っている。それまでの時間を潰すため、柚樹は、適当に駅ビルの中をぶらついた。ここは直と二人できた、あそこで聡美が突然転んだ、あの映画館で、綾と聡美が楽しみにしている新作の映画を見る予定だった……。
 そんなことを考えてしまっている自分に嫌気がさした。きっと、何も目的を持ってないからだ。そう思い直し、駅ビル内のATMから、支給されたばかりのアルバイトの代金を引き落とし、その中から、三千円を、自分用にした。
 いつもは、アルバイトで稼いだ金は全て親に吸い上げられ、弟の快適な受験環境のために使われる。小遣いは、存在しない。毎年のお正月に、父方のおばあちゃんが、表向きのお年玉、母に奪い取られる三千円とは別に、母の見ていない所でこっそり包んでくれるお金、五万円を、切り崩して使っている。栄養を補う食べ物、服、お菓子、雑誌、シャンプー、歯ブラシ。他にもこまごまとしたものすべてを、一年間まとめて、その五万円に頼って生きている。母は、いったいどこから金が湧いて出ているのか、いつも疑心暗鬼の目でこちらを見る。
 柚樹は、洋服などを見たあと、CDショップに入った。買いたいものがなければ、洋服にしようと思ったが、店の隅のインディーズコーナーに、自分が唯一、気に入っている女性シンガーソングライターの、新譜が出ていた。疲れた時に、生きていく力を分けてくれる人だ。普段は、インディーズを多くそろえているレンタル店で、半額の日にまとめてレンタルして、テープに録音している。この歌手のよさを知って欲しくて、以前、レンタル期日内に、直へ又貸しをしたこともあった。……まだ、感想は、聞いていない。
 新譜をレジに持って行く時、少し躊躇った。けれど、自分で稼いだものを、たまに自分のために使ったって、罰は当たらないだろう。
 
 それから、コンビニのアルバイトに行った。深夜、誰もいない店内で行われる店長の性的な接触は、段々とエスカレートしている。学校の目を逃れられて、時給がそれなりによく、部活動とのすり合わせに融通が利き、かつ無理なく行き来が出来るようなアルバイト先は、なかなか見つからないので、我慢していた。
 今日は商品の入れ替えをしている際に、背後から抱き寄せられ、勃起したものを腰のあたりに押し付けられた。すぐに突き飛ばし、睨んだ。しかし店長は笑う。こいつは、こちらの嫌悪を、勝手に、照れ隠しだと受け取っている。
 でも今日は、いつものように沈み込まないで済んだ。買ったCDがあるからだ。頭の中に、前作のアルバムの曲を思い浮かべながら、家路を急ぐ。足早に。それでいて、遠回りでも、なるべく暗い道は通らないように。
 家に帰ると、まだ電気が点いていて、玄関の鍵も開いていた。家に入ってすぐ、玄関に敷かれた絨毯の上でぶつぶつ独り言を言いながら立っている母に気付いた。母もこちらに気付くと、右手を差し出した。
 鞄に入れていたアルバイト代、六万九千円を、渡す。本当は七万二千円だった。
 お札の枚数を数えていた母は突然、居間に取って返した。今のうちに自分の部屋に逃げよう、と思って靴を脱いで家に上がった。しかしそこで母が、戻ってきた。
「待ちなさい! 計算が合わない!」
 母は深夜三時も近いというのにヒステリックな声を上げた。
「給与明細を出せ」
「今月はまだ、貰ってない」
 肩から提げた鞄に、母が取りついてきた。青筋が浮き立って見える。
「今すぐ出せっ!」
「やめて!」
 母よりもずっと腕力は強いはずなのに、うまく引き剥がせなかった。結局、柚樹のほうから、手を離した。揉み合いになって、少しでも暴力的な態度を取ってしまうと、後で母が大騒ぎする。そうなると、父と弟から、反論を封殺した罵声の集中砲火を受けるのは自分だった。
 母は鞄を漁り、折り畳まれた給与明細と、買ったばかりのCDを見つけ出した。
 母は給与明細を放り捨てた。
「可愛い弟が大変な思いをしてるこの時期に、大切なこの時期に。このくだらないゴミに三千円もつぎ込んだってわけね。そう……」
「くだらなくなんか……!」
「うるさいっ!」
 母はCDケースを床に放ってから、踏みつけた。ケースと中身のCD、それぞれの割れる音がした。
「謝罪するつもりがあんなら、今すぐ一万、持って来い」
「来月まで、待って……今は」
「用意できないなら今すぐ出てけ。援交で稼いで来なよ。今までもそっから洋服代、出してるんでしょ? お前なんかを買う奴はよっぽどの変態野郎だろうけどさぁ」
 ふらつきながらも、立ち上がった。
 そのまま、玄関に向かおうとすると、廊下から声がした。
「何だよ、もう、目ぇ覚めちゃったじゃん……」
 靴のそばに行こうとすると、反対側を向くよう肩を掴んで促された。
「行く前に謝れ」
「何を……ですか」
「何言ってんの? 一志(かずし)に対してに決まってるでしょ」
 弟の方は、
「またこいつが騒いでたのかよ」
 と呟いた。
「早くしろ」
 後ろで母が絨毯を踏みつけた。柚樹はその場で、頭を下げた。
「よ……夜中に起こして、ごめんなさい」
「気持ちがこもってない」
「夜中に起こして、ごめんなさい」
 弟の舌打ち。
「……んだよその目は」
 腹に蹴りが一発。よろめき、玄関に背中をぶつけた。
「一志に謝ることすらまともにできないなんてね」
「しょうがないよ。だってこいつ、頭、空っぽなんだから」
 母と弟、それぞれの声を背に、柚樹は、家を出た。

 弟への絶対的服従。そのたびに、自分の中の何かが死んで、劣等感が増幅していく。
 柚樹はしばらく歩いて、街灯も月の光も届かない真っ暗な路地に、座り込んだ。
「一回くらい……」
 聴きたかった。割られたCDを思い返しながら、呟く。セクハラ野郎に耐えて、手に入れたお金を、少し、自分の趣味に、使っただけ。それも、使ったのは、今回が、初めて。今までのは全部、弟の受験費用を稼ぐために、ちゃんと、家に入れてきた。
 祖母に貰った五万円はもう、五千円しか残っていなかった。母の要求する金額には足りない。
 店長の気色の悪い視線にさらされ続けている柚樹は、母に提示された選択肢を、早々に消した。あんなのを相手にするなんて、絶対、できない。次に思いつくのは、冴えない本屋で万引きして、新古書店に売ること。それも、否定した。
 本当は、無理して金を稼ぐ必要なんて、どこにもないから。
 気付かないふりをしてきた。
 弟の一志が、柚樹の稼いだ金をそのまま、自分の小遣いにしていることを。柚樹の稼いだ金は、一志の娯楽のためだけに、全て費やされていることを。柚樹のアルバイトなんてなくても、両親の収入があれば十二分に、受験費用を賄えることを。
 だって、それが事実だったら、今の自分が崩れてしまうから。自分が世間体のためだけに生かされ、高校に行かされていることを、かけらほども愛されていないことを、突きつけられてしまうから。
 でも、それも今日で終わり。
 いい加減、認めないとね。自分は誰にも……。



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