みなもに波立つ陽

前編

 後部座席でぼんやりとしていた僕に、運転席の父が振り向いて声をかけてきた。
 ドアを開けて外に出ると、庭に植わっている松の木が出迎えてくれる。風が通り抜ける場所、とでも言えばいいのか、周りは池を隠している雑木林、田んぼやビニールハウスが目立つばかりで、現代を思わせるものは電線とバス停と軽トラックくらいしか見当たらない。僕が住んでいるところも田舎だから、ちょっと車を走らせただけで、こういうところにたどり着ける。
「おお。いらっしゃい」
 玄関から少し離れた場所にある大きなガレージから、真っ黒に日焼けしたおじいさんが出てきた。タンクトップに麦わら帽子、首にはタオル、やせぎすな体には大粒の汗。
「おじゃまします」
 母が静かな声とともに頭を少し下げ、玄関に歩いて行く。僕も、
「少しはじっとしてらんねえのか。また倒れるぞ」
「余計なお世話だ」
 などといつものやりとりをしている父と祖父のふたりの横を通り過ぎ、開きっぱなしの玄関から中に入った。
 するとそこへ、父の弟――いとこの亜貴の父親でもある叔父が、布団をもって玄関前の廊下を通りかかった。
「あ、いらっしゃい、義姉《ねえ》さん。いま布団を……と、おお!」
 僕を見て、叔父が布団をかついだままこっちに駆けてくる。
「お前、ほんっとに身長のびたなあ! このあいだまでこーんな大きさだったのに」
 布団を抱えた状態なので、『こーんな大きさ』の幅が本当に小さい。筆箱くらいしかない。
「そんなに小さくないですよ」
 僕は笑いながら玄関に上がる。
 この人だけなら、話が合うからいいんだけどな。
 叔父にくっついて割り当ての部屋に行く途中、居間に親戚たちが集まっているのが見えた。祖父の弟や妹、その家族までが集まり、子供たちはすでにテンションが最高潮だ。通りかかっただけで耳が痛くなる騒ぎ。
 ため息をつきたくなるのを堪えて、二階に上がる。階段が急で、先頭を行く叔父さんが転げ落ちてこないか少し怖い。
 十畳の部屋には布団が三つ置かれている。高二にもなって親と一緒に寝るのは恥ずかしいけど、毎年部屋の空きがないから、諦めるしかない。
 母がたすきがけにしていたバッグを降ろし、トートバッグを手に持ったまま、引き返していく。叔父さんと、同じように荷物を置いた僕もそれに続いた。面倒な挨拶が待っている。身長は成績は大学は恋人は、そして小さなころにおかした失敗の数々。時間を埋めるためだけの、雑談のための雑談。
 めんどくさいけど、まあ、仕方ない。
 少し我慢すれば、亜貴と遊べる。

 遅い昼ご飯を食べ、生意気な子供たちの相手と雑談の種としての役割をこなし、夕方になってようやく抜け出せた。二十人以上いるいま、話から外れることができればひとりくらいいなくなっても、誰も気にしない。
 僕は坂を下って道路に出て、右と左を一度ずつ見たあと道路を渡り、農道を歩いた。このところ気温はずっと高く、いっこうに弱まらない日射しの強さに、シャツの内側を汗が流れていくのがわかる。
 雑木林の木々にまぎれて進んでいくたび、風がひやりとしたものに変わっていって、火照った肌をやさしく冷ましてくれた。風情のないアブラゼミの鳴き声がうるさくひびくなか、池の存在を隠している草やぶをしばらくかきわける。
 池に出た。
 いつもいるはずの池のほとりに、亜貴の姿が見えない。
「亜貴」
 大きめの声で呼ぶと、
「遅い」
 池にある小さな浮島のほうから、声が返ってきた。よくよく見てみれば、浮島から二本の細い足がだらりと池にたれている。
「隼人たちの相手をさせられてたんだよ」
 僕はそう言いながら、リュックサックを置いて靴下を脱ぎ、放り出した。スマートフォンだけを手に持ち、スニーカーを履き直して池に足をつける。二年くらい前、中三の夏にはへその高さくらいにあった水面が、いまは腰より少し下のあたりになっている。
 流れのない、よどんだ水をかきわけて進んでいくたび、だんだん水位が低くなって、最後にはスニーカーが水から這い出した。
 草のじゅうたんの上に、亜貴があおむけになって、スマートフォンをいじっていた。空を覆う葉をすかして陽の光がちらつくのか、まぶしそうに目を細めている。
 毎年毎年、親戚同士の変わり映えしない話へ相槌を打つことに飽きてくると、こうして亜貴といっしょに時間を潰す。
「なんでわざわざこんなところに……」
「気分。それより持ってきた?」
「一応」
「じゃあ、やろ」
 狭い浮島で、亜貴の隣に靴を脱いで座った。彼女を真似て足を投げ出すと、まどろんでいた小さな魚たちが驚いて逃げ出した。
 手に持っていたスマートフォンを取り出す。亜貴がはまっているゲームアプリがある。協力プレイをすることで有利に進められるそれに付き合わされて――いや、最初はそうだった。いまはキャラクターたちのレベルが亜貴と同じくらいになってしまっている。
 光がちらついて画面が見づらいので、亜貴と反対に前かがみになって陰を作る。
「部屋の番号は?」
「一九二二、五五四」
 亜貴の言われた通りに番号を入力すると、画面が移った。亜貴の分身となるアバターが、退屈そうに足を組んで椅子に座っている。画面中央の扉をさわると、協力プレイが始まった。

 僕の動きがにぶいせいで死んだと言われたり、亜貴の油断が原因だと言ったり、ときに肘をぶつけあい、ぎゃあぎゃあとわめきながらプレイを続けていたら、だんだん日が暮れてきた。
 画面に集中していた僕は何の気なしに左手首をかいた。かいた途端、かゆみが激しくなってくる。見るとそこは、ぷっくりとふくれていた。気付けば、体中がかゆい。たまらずにゲームを中断し、スマートフォンを放り出した。
 僕の動きをぼんやり眺めていた亜貴も突然跳ね起き、同じように体中をひっかき始めた。
 二人して少しのあいだ無心にかいたが、僕はふと思い出してかくのをやめた。
 池にただよう静寂を突き破って池に飛び込み、ばしゃばしゃと水をはねとばして鞄に向かった。中から、かゆみを鎮めるぬりぐすりを取り出す。どうせ濡れると思って持ってきていたバスタオルで水をぬぐい、さっそく塗りこんだ。
「使う?」
 ぬりぐすりをかかげると、亜貴は頷いて、こっちにやってきた。両手にはふたりぶんのスマートフォンをもち、水につけないように手を上に挙げて、かきわけてくる。水面が、彼女のおなかあたりにある。
 そこでふと、亜貴の身長の伸びがとっくに止まっていて、自分よりもけっこう背が低いことに気付いた。前までは、そこまで差がなかったのに。
 この差は何だか――何だか、嫌だ。
 ぼうっとしていると、亜貴が池のへりに肘をつき、上がってきた。
 そして僕の目の前に立つと、相手も驚いたように僕を見上げてきた。亜貴の顔に西日がさして、うっすらとだいだいいろに染まっている。
 僕と亜貴はお互いの身長の差に呆然としながら、少しのあいだ、見つめあった。
 亜貴が先に視線を外して、
「身長、伸びすぎ」
 と呟き、スマートフォンを鞄に置いたあと、僕の左手にあるバスタオルを引き抜いた。
 僕が使った後のバスタオルで、亜貴は濡れた腕を拭いて、首回りを拭いて、前かがみになって脚を拭き始めた。前より長くなった亜貴の髪がゆらゆら動くのを見ていたら、なぜだか急に、居心地が悪くなってきた。
 うるさいアブラゼミの合唱は止み、虫の鳴き声がこだましている。
 日の暮れかけた、閉ざされた空間に、亜貴とふたりきり。
 昼間はあれだけ軽口をたたき合い、悪ふざけをしていたのに、言葉が上手く出てこない。
 亜貴が前かがみになっていた態勢を元に戻して、少し恥ずかしそうに、バスタオルを渡してきた。
「ありがとう。ごめんね、汚しちゃって」
「いいよ。こっちこそ別のタオル用意してなくてごめん」
 変に緊張しながら、バスタオルを受け取り、リュックサックに押し込む。
 小さいころはお風呂にも一緒に入ったのに、バスタオルひとつで、どうしてこんな、落ち着かない気持ちになるんだろう。
「そうだ、ぬりぐすり」
 バスタオルと一緒にしまいそうになって、差し出す。
「あー……っと、いいや。なんだか、かゆくなくなったみたい。帰ってから家で塗る」
 不思議に思ったけれど本当にそうらしくて、あれほどせわしなく動いていた指は、なぜだか濡れたハーフパンツの横っかわを掴んでいる。
「まだ日が暮れるまで時間あるけど、どうしよっか。ちょっと泳いでく?」
「いや、拭いたばっかりだし……」
 僕が言うと、亜貴は何度か頷いた。
「そうだよね。変なこと言ってごめん」
 亜貴がハーフパンツのポケットからビニール袋を引っ張り出し、それにスマートフォンを入れて、ポケットにしまい直した。
「じゃ、帰ろっか」
 少し困ったように笑った亜貴の後ろについた。
 それからも、会話はあまり弾まなかった。
 もう二人きりで遊ぶ事はないかもしれない。
 毎年一緒に遊んでいて、今日もあれだけ楽しかったのに、なんとなく、そう思った。