自己報酬依存症

深夜の来訪者

 俺は十四番ポールの近くのベンチに腰かけ、電話を待っていた。ベンチの上にも日差しを遮る屋根はあるのに、じっとしているだけでもじわりじわりと汗が広がる感覚がある。
 全国救心会が由佳の失踪に絡んでいるとしたら、おそらくPDFファイルに記載された住所は紛い物だろう。可能性が低いもののために、わざわざ足を運んでいる時間はない。遠い場所から、住所が本物かどうかを確認する方法。それを考えた俺は、もっとも単純な方法を使うことにした。ピザの配達だ。
 またもインターネットで千代田区周辺のピザ屋の電話番号を調べて、適当な商品名を伝えたのが三十分ほど前。そろそろ折り返しの電話がかかってきてもいいころだ。嘘の注文だから、自分の携帯端末からわざわざかける必要はなかったが、駅の公衆電話から掛けても、折り返しの電話はもらえない。そうなってしまうと、住所が確認できない。
 憎らしいほどに広がる青空のもと、バスやタクシーが、日光によってその車体を光らせながら往来する。これが、由佳がバスに乗る前に見たかもしれない景色。人生が変わる出発の前に見たのがこの景色なんだとしたら、ずいぶんと寂しすぎないか、由佳。
 次々に流れ落ちていく汗をそのままに、ぼうっと辺りを眺めていると、着信音が鳴った。出ると、相手は店名と名前を告げ、
「お手数をおかけしますが、もう一度住所をお願いできますか」
 と丁寧に訊いてきた。その物腰に申し訳なさを感じながらも、
「申し訳ありません。注文は誤りだったようです。失礼します」
 一方的に通話を打ち切った。そして通話相手の電話番号を着信拒否にした。立派な業務妨害。ピザ屋が通報すれば警察の厄介になるかもしれないが、一回くらいは見逃してくれるだろう。
 俺は住所が架空だったことに満足しかけて、すぐに気づいた。
 これで、手掛かりはゼロになった。
 
 駅で聞き込みをした結果も、想像通りだった。三日も前のことなんて曖昧にしか覚えていない人がほとんどで、目撃者は一人もいなかった。
 予想していなかったのは、由佳の友人と俺の友人が、駅の中で情報提供を求めるチラシを配ってくれていたことか。彼らは仕事を休んでまで、毎日夜遅くまでチラシ配りをしてくれていたようだ。俺に対しては、警察の捜査に任せておけばいいなんて言っておきながら。感謝しても感謝しきれないが、今の俺には、ありがとうございます、と頭を下げることしかできなかった。
 由佳にはこんなに、心配してくれる人がいる。
 由佳、と思った。
 終電がなくなるまで粘ったが、駄目だった。
 みんなと別れた俺は、また同じ会社にタクシーを頼み、自宅へと戻った。
 部屋に閉じこもっていた状態から、突然、一日中立ちっぱなしで過ごしたせいで体の節々が痛んだ。特に足は、もう一歩も動けないと、地面に根を張ったようだ。タクシーから降りてしばらくはどうすることもできず、その場に立ち尽くした。十分ぐらい経って、少し痛みが和らいだのを見計らって、足を踏み出した。部屋は一階だから、どうにか部屋の前まで辿り着くことができた。
 ドアを開けるなり靴を脱ぎ捨て、玄関に体を投げ出した。痛みによる冷や汗と熱さによる汗とが混じり合ってこの上なく不快だった。そのうえ由佳の行方を探るための足掛かりもなくした。
 少しして、何かが背中に当たっていることに気付く余裕ができて、俺はそれを引き抜いた。それは玄関に出しっぱなしになっていた由佳のお気に入りのスニーカーだった。白地にピンクのラインが入った可愛らしいデザイン。今俺がいる玄関先で、出かける前に鼻歌を口ずさみながらこの靴を履いている背中を、幻視してしまった。
 俺はわけがわからなくなって、スニーカーを胸元に引き寄せた。もう我慢できなかった。俺は言葉にならない言葉を叫んだ。スニーカーを抱くように体を丸めて、玄関のドアを何度も何度も蹴った。のた打ち回って額や後頭部を壁にぶつけ、脱いだばかりの自分の靴を噛んだ。靴を猿轡にして次々に湧き上がる意味をなさない言葉の羅列を押し込め、ひたすら強く噛んだ。泥の味が舌にまとわりつき、急に気持ちが悪くなった。靴から口を離した途端に、胃の内容物が逆流してきて、それを床にまき散らした。
 嫌だ。信じたくない。なんで由佳が。どうして由佳が。こんなことなら、まだ、俺に愛想を尽かして出て行ってくれた方がよかった。どこかで別の人生を送ってほしかった。もう、それすらも叶わないなんて。
 あのときだ。あのとき俺が、旅行に誘ったりなんてしなければ。いや、それは、いい。それは仕方ない。後悔はもっと別のところにある。そんなに必死にならないでくれ。そんなに自分を責めないでくれ。どうしてもっと強く言わなかったのだろう。どうしてもっと強く止めなかったのだろう。由佳がいるだけでじゅうぶん幸せだと、言ってやれなかったのだろう。
 何度押し潰そうとしても湧き上がってくる後悔が、激しく由佳を求める気持ちと混ざり合う。
 由佳がいないと駄目なんだ。由佳じゃないと駄目なんだ、俺は。
 瞼がだんだんと重くなってくる。
 俺の体は目の前の現実をこれ以上直視することを拒み、一時的に夢の世界に逃げ込むことを容認した。
 
 そのまま翌朝まで眠ることができれば楽だっただろうが、そううまくはいかなかった。今夜も、まるで眠気がないまま、長い夜を過ごせと言うお達しらしい。
 まだ抱えたままだった由佳のスニーカーを静かに脇に除け、立ち上がる。吐瀉物に顔をくっつけて眠っていたせいでにおいが酷い。シャワーは手間がかかる。とにかく顔を洗おうと思って、台所の水道に近づいて蛇口をひねった。溜まった食器が邪魔で顔をさらせないので、水を手に取り、少しずつ頬の汚れを落としていく。
 ある程度汚れが取れたところでやめ、タオルで顔を拭いた。そのタオルで玄関先にまき散らされた吐瀉物をすくいあげては、シンクに持って行ってゆすぎ、すくい上げてはゆすいだ。四度ほど繰り返したら、ようやく片付いた。タオルは最後にもう一度ゆすいで絞ったあと、食器の山に重ねた。
 由佳と長い時間を過ごした居間には入りたくなかったので、台所の隅で胡坐をかいた。
 けど、居間を避けたって、結局は同じ。嫌でも由佳のことを考えてしまう。この十日で、散々思い知らされた。きゅうりの輪切りをしている後ろ姿。サンマのわた抜きを手伝ってくれているときの得意げな横顔。大根のかつらむきを披露するといって、一周も行かずにぶつりと切って床に大根を落とした時の間抜けな顔。
 この場所にいると、頭がおかしくなりそうだ。
 それなのに、離れられない。アパートのこの部屋で、由佳のことを、考えてしまう。
 
 目を強く瞑り、じっとその場に静止していた俺は、ベルが鳴ったのを聞くと大慌てで立ち上がり、玄関に走った。
 夜遅くの、来客。
 見つかったのか。
 早鐘を打ち始めた心臓を抱えながら、玄関を開く。
 しかしそこにいたのは笑顔の警官ではなく、無表情の女性警官だった。
 自殺。
 一転して、最悪のシナリオが目の前に広がり、俺は目まいがして、その場にへたり込みそうになった。しかし警官は、遺体が見つかった、とは言わずに、
「署まで来ていただけますか」
 はいともいいえとも言わないうちから、女性警官は歩き始めた。何が何だか分からなかったが、由佳に関することだろう、と思い、深く考えもせずについていった。パトカーの赤色灯はついておらず、暗闇に白で塗られた部分だけがぼんやりと浮き上がって見える。
「助手席へどうぞ」
 勧めに従って助手席へ乗り込み、シートベルトを締める。
 その段になってようやく俺は、昼間の差出人不明のメールを思い出した。警察は味方じゃない。慌ててシートベルトを外して外に出ようとしたら、パトカーが急発進した。意思に反して体がシートに押し付けられ、下りるタイミングを逃した。
「止めてください」
「駄目です」
「車を止めろ!」
「由佳さんに、会いたくないんですか?」
 唐突な言葉に、意味を咀嚼する時間が長くかかった。口を開けた俺は、
「は?」
 と言うのが精いっぱいだった。
「大人しくしていれば由佳さんに会えるかもしれませんよ」
 あまりのことに、うまく考えがまとまらない。
 会える? 由佳と?
 いや、今、由佳は行方不明だ。だって、さっきまで俺は、駅で、由佳を追う手がかりを探していたじゃないか。
 よく考えろ。
 由佳と会える。それはつまり、こいつが、警察も知らない由佳の居場所を知っているということだ。そんなことが有り得るのは。
「断っておきますが、私はただの運転手です。誘拐したのか、なんて問い詰められても困りますから」
 怒りを爆発させようとしたちょうど一歩手前で、女は淡々と言った。
 俺は気持ちを落ち着けるために、車窓に視線を遣った。
 まだ、何が起こっているか掴めない。しかし、ひとつだけはっきりしたことがあった。
「あんた、警察の人間じゃないだろ」
「そうですね」
 女はまた、淡々と答えた。
 
 
 
   *
 
 
 
 回線に連絡があった。
 どうやらまた、おもてなしをしなければならなくなったようだ。
 今日は島田が客人を連れてくるらしい。
 私は見回りをやめて、準備室に向かった。
 準備室というのは名前だけで、実際はひとりひとりに割り当てられた生活空間だ。素っ気ない白のベッドにテーブル、鏡つきの洗面台、それに着替え入れ用のロッカーが二つほど。壁には静脈認証タイプの鍵がついたガンケースがはめ込まれている。私はロックを解除し、ガンケースを開いた。今回は侵入者ではないから、拳銃で十分だろう。取り出して、蓋を静かに閉める。それから鏡に自分の顔を写し、髭の剃り残しがないか入念に確認した。
 殺さずに済むといいが。
 望みは薄い。

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