8 ◆◆◆

 なるべく緊張を伝播させないようにと、祖父に言われている。指示された通り、いつもよりも明るくいようと心がけ、コルネリエを参考にして話しかけてはいるが、こんなことで不安が和らぐものなのだろうか。馴れ馴れしく……と言ったら参考にしているコルネリエには失礼だけれど、馴れ馴れしく、隣の席に来るように合図した。普段の自分を演じている自分の、位相をずらす。
 隣にヴェルナーの気配。サラは窓の外を見つめながら言った。
「私は三つ先で降りる」
「知ってるよ。俺もそこで降りるから。サラの家まで送ったら、歩いて帰る」
 そこまでしなくていい、と反射的に答えそうになり、堪えた。いま自分の言葉で口を開いたら、どう足掻いても刺々しさが表面化する。不審を解くことが優先事項。なるべく抑えた声で、ありがとう、と返しておく。
 そして改めて、絵里がいなくなってからの負担の増加に、吐き気がした。絵里がいた頃は、絶対に裏切らない身内として祖父の指示に従い、自分と絵里とでするべきことを分け合っていた。現在は違う。絵里が全てをサラに押し付けて家を飛び出し、一人で何役もこなすことを強要される。深夜は祖父の部下と共に矢内美晴の自宅を見張り、矢内美晴が法律事務所へ出勤するまで後をつけて護衛、そのあとは訓練を行う。今日は訓練の途中で抜け出して、ヴェルナーの相談を阻止しに来た。
 このまま帰れば、勝手な行動を諌められ倍の訓練が待ち受けている。そして訓練をこなして一時間くらい眠った所で叩き起こされ、また矢内美晴の自宅へ行く。
 馬鹿らしい。祖父に反抗できない自分も、ヴェルナーに些細な火の粉すらも降りかからないよう、配慮している自分も。ヴェルナーのことを放っておけば、少なくとも三時間は眠れたのだ。再び頭をもたげてきた憤懣の落とし所が掴めず、奥歯を食い縛った。
 今朝、絵里が近々強制的に呼び戻されると祖父の部下に聞いた。祖父に対しては猜疑心の塊である絵里も、家出した後の生活までもが祖父に筒抜けになっているとは思ってもみないだろうから、監視されていたと知った時の行動は簡単に想像がつく。
 呼び出しには、必ず応じる。家出の直前のように、もう二度と関わらないでと喚き散らし、祖父をなじりに戻ってくる。長い外での生活に慣れ、自分たちは祖父に意見できないという、決定的な事実を忘れて。
 姉である絵里が戻ってきた時、彼女に、この憤懣をぶつければいい。そう、自分を納得させるしかなかった。
「今日は何だか、雰囲気、違うな」
 ヴェルナーは、整理券の番号と料金が並んで表示された電光掲示板を眺めている。
「いつもより、話し易い?」
 当たり前だ。いつも目にしてきたコルネリエの行動を、模倣しているのだから。言葉を尽くさないせいで違和感と不信感を与えたりしないように、自然にこの騒動からヴェルナーを除外しなければならない。
「うん。よく喋る」
「そう?」
「ああ」
 彼はそう言うと、再び黙り込んだ。
「他に、訊きたいことはない?」
 今の一言で、話しにくくなった。普段と違うと感じさせてはいけない。ヴェルナーに会話の主導権を返そうと思い、そう訊ねる。
「訊きたいこと……。じゃあ、ちゃんと寝てるのか?」
「寝てる」
「じいさんがあんまり無理を言うようなら、俺が頼んでみようか。あの人、なんだか俺には優しいから」
「平気」
 ヴェルナーが笑った。
「いつものサラに戻ってる」
「……どっちならいいの?」
「意識しないでいいから。よく喋るサラも楽しいし、あんまり喋らないサラでも、落ち着ける。何を考えてるのかは、どっちもよく分かんないけど」
「大したことは考えてない」
 ヴェルナーを舞台に上げないことと、祖父に従うこと。考えていることはそれだけだ。他には何も考えてなんかいない。

 門の前でヴェルナーと別れ、玄関まで一人で歩き、居間で祖父に顔を見せる。どこに行っていたと問われ、ヴェルナーが事件に首を突っ込もうとしていたから止めてきた、と答えた。勝手な行動は慎めと言ったはずだと返ってくると、素直に頭を下げ、謝罪。指示される前に、地下の訓練場へと足を運ぶ。全てが予想した通り。淡々と流れ作業をこなすことに、あまり違和感は覚えない。
 軍隊のような、公式の場での訓練ができない祖父の部下たちの為に、地下にはいくつもの施設が備えてある。サラは、射撃訓練用の部屋とは違う、基礎的な筋力トレーニング器具が置いてある部屋へ行った。そこで、筋力維持のトレーニングをこなしている祖父の部下たちに混じり、五時間たっぷりと汗を流した。
 銃の扱いを支える最低限の筋力に集中力、そして突発的な危機から逃げ延びる素早い瞬発力に、体力の持久性。丸太のように太い手足は必要ない。体格に恵まれていない自分が頑強さを志向するよりは、そういった部分に活路を求めた方がはるかに効率が良い。
 太腿の筋力で素早くおもりを上下させる器具をこなしている時に眠気が限界を迎え、ゆっくりと足を下ろしてから、目を閉じた。
「こんな所で寝たら駄目ですよ」
 少し目を瞑っただけなのに、すぐに足元から注意する声が聞こえた。
「はい」
 仕方なく、お腹の辺りの肉を思い切りつねって眠気を飛ばし、起き上がった。
「今日、一緒に監視に行くのは貴方の班?」
「ええ。あと一時間ほどで出発の予定だそうで。先程、サラを探すようにと会長から言付かってきました」
「分かりました。いつも祖父が無理をさせて、ごめんなさい」
「その分の給料はしっかり頂いていますよ。それに、ジャージ姿の女子高生と一緒に仕事をするなんて、他の職場じゃまず無理ですから」
 ふざけた口調で付け加えた祖父の部下に対し、サラは微笑みを零してから立ち上がった。

 今日も、無事に矢内美晴を事務所へ送り届ける事が出来た。彼女が指定席へ座ったことを確認した後で、空室である二階テナント部分に集合していた祖父の部下、四人と合流する。彼らはこのテナントハウスを取り囲むようにして備え付けた高性能の小型カメラを使い、既に周囲の警戒を開始していた。サラは欠伸を噛み殺して、部屋の中央に置かれた、十台あるモニターのうち、玄関を写した一台の前に座った。
 監視は、Tシャツの上に防刃ベストを着け、その上から更にもう一枚白いTシャツを着て行う。下は、学校指定のものから大量生産品のジャージに着替えた。あくまで目立たない、証拠が残らない、印象に残らないことが肝心だ。護衛する理由は一つだけ。彼女が殺されれば様々な場所に問題が飛び火し、手のつけようがなくなる可能性が高いということ、その一点のみ。
 例えば、ヴェルナーだ。矢内美晴が殺されたと知れば、何かあると推測するのは当然のことで、他のアクションを起こせば彼も連中の思惑に巻き込まれる。ヴェルナー以外の依頼者も、何かあると思うだろう。これまでの経過から、核心に踏み込まれることは絶対に許さないが、踏み込む能力のない者に適度な猜疑が広がっていくことは、敵にとって、とても都合が良いようだ。
 核心に踏み込む能力がある。それが、それだけが、矢内美晴の狙われる理由。
 いくら祖父が権力を使役しているとはいえ、まだまだ敵の全貌は掴めていない。その中で彼女を守りきるのは難しい、かもしれない。
 だが、コルネリエを悲しませないためにも、ヴェルナーを事件に巻き込まないためにも、これは絶対に成し遂げなければならないことだ。コルネリエがここまで回復したのは、調停で自分の主張を認めてもらい、額の多寡ではなく、慰謝料を取れたという事実も大きいだろう。それは疲労困憊だったコルネリエには非常に難しいことに思えて、当時は、矢内美晴が弁護士で良かったと胸を撫で下ろしたことを覚えている。
 男たち四人の手元には、それぞれ拳銃がある。念の為の装備。もちろん、基本は日本の法律に沿っているROT自治区内でも、銃の所持や使用は禁止されている。その中で、手に入れるルートを独自に確保してあると、祖父は言う。サラは、自分用の銃を持っていない。いくら同程度の訓練が日課とはいっても、銃を扱う技術は祖父の部下らに劣ると自覚している。そのため、武器は護身用にいつも忍ばせている折り畳みナイフ一本だけで、いざという時の戦闘は彼らに任せるつもりでいる。
 深夜からずっと家を見張ってきたからか、見慣れた四人の顔を前に、緊張の糸が少しだけ解れた。
 ここ一週間ろくに眠っていない中で、耐えきれない眠気の波が襲ってきて、目を瞑った。
「来訪者一名、確認。玄関前のモニターをお願いします」
 その声で、はっと我に返る。いつの間にかモニターの前に横たわって眠ってしまっていた。
「危険物はありません」
 慌ててモニター画面の赤外線反応をチェックし、答えを返す。
「駐車場」
『異常なし』
「屋上」
『異常なし』
「窓際」
『異常なし。来訪者は、事務所勤務の女性と視認。この女性をAとする』
「いつも言うが、同僚でも女でも人は殺せる。油断するな」
 今、部屋にいるのは、モニターをお願いしますと声を掛けてきた祖父の部下と、サラだけだった。他は、カメラでフォローできない事務所内部の様子を確認中なのだろう。近隣住民の目に触れぬよう、細心の注意を払っているはずだ。
 部屋に残った祖父の部下は、トレーニング中に声を掛けてきた彼だ。名字は確か……櫻井(さくらい)。瞳の色は茶色がかっていて、赤くはない。同化推進派の子どもではない。名前通りの日本人。
「右目が充血してますよ。かなり濃く」
「ごめんなさい、仕事中に眠ったりして」
「構いません。女子高生の寝顔なんて」
「……他の職場じゃ見られませんから?」
 櫻井の口癖を先回りして捕まえると、彼はけらけらと笑う。
「分かってますね」
「櫻井さんは、私が高校を卒業したら、途端に冷たくなりそうですね」
「そうかもしれないです」
 眠気を飛ばすために、意識して余計な事を喋った。おかげで眠気が少し収まり、モニターに集中できるようになった。
 会話の後は全く表情を崩さなくなった櫻井が、マイク一体型のヘッドフォンを着けて、外の三人と五分おきに連絡を取り合っている。サラは十台あるモニターを全体的にカバーしながら、次の監視要員との交代の時間を待った。
「駐車場」
『異常なし』
「屋上」
『異常なし』
「窓際」
『前回の報告の直後より、対象Aと目標とが激しい口論を交わし始めた。注視している』
「状況は」
『たった今、対象Aが目標に掴みかかった。非常に興奮している。近くにはガラス製の灰皿があり、対象Aが突発的な殺人に走る可能性も』
「動くな。まだ護衛対象に我々の存在を知られるわけにはいかない。凶器を手に取りそうな瞬間に、合図を送れ。同時にインターフォンを鳴らす」
 そう吹きこんだ直後、櫻井が目で合図をしてきた。無線と、丸められた革の手袋を放り投げてくる。サラはそれらを受け取り、無線をポケットに押し込んで革の手袋をはめる。二階のテナント部分から階段を駆け降りて一階の玄関前で待機しようとした。するとそこには既に先客がいた。危うく飛び出しかけた体をどうにか押し留め、屈みながら階段を戻った。
「新たな来訪者一名。危うく鉢合わせしそうになった。モニター確認を怠るな」
「口論は収まったと窓際から報告。連絡に気を取られた」
 櫻井はそこまで言った所で、振り返る。
「申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。それより彼の赤外線結果は」
「録画映像に切り替えます」
 櫻井の指が機械の上を走り、一番左のモニターが過去の映像に切り替わった。
「貴方一人じゃモニターは追えない。屋上の人員は必要ないから呼び戻して」
「分かりました」
 彼が屋上の人員に連絡を取る間、サラは一分前の赤外線映像をチェックした。そこに映っていたのは、服の内側に隠された大型の刃物。
「対象Bは刃物を所持! 窓際と駐車場に突入を命令!」
 サラは櫻井に向けてそう叫んだ後すぐ、玄関側の窓を開けて飛び降りた。着地は上手く行ったが衝撃で右足を軽く痛め、足を引きずりながら玄関のガラス戸を押し開ける。耳に飛び込んできたのは対象A……矢内美晴の同僚の金切り声。服の内側に大型のナイフを隠していた男は、対象Aの胸にナイフを突き立て、それを引き抜いている最中だった。そのまま、近くの床に腰を落としまっていた矢内美晴に馬乗りになった。
 サラが折り畳みナイフを取り出し、男の背中目掛けて突っ込もうとすると、何かがそれを遮った。
 僅かな妨害の間に、男は何度も何度も腕を上下に動かした。その度に血飛沫が飛ぶ。見覚えのあるその横顔は、その男は、コルネリエを散々いたぶった当人だった。
 矢内美晴がこちらに気付いた。いや、気付いたような気がした。男の体に圧迫されながらも必死に手を伸ばして、何かを訴えかけようとしている。彼女の口はまともに開かず、さながらそれは酸素を渇望する魚のようだった。こちらに気付いてなどいない。痛みと出血で目の焦点が合わなくなっているだけだ。
 遮ったのは、櫻井の腕。櫻井の腕が、サラの首を締めつけていた。
「現場に、靴跡などの痕跡を残すわけにはいきません。撤退します」
 まともに息が出来ない中で手足をばたつかせて大暴れするが、櫻井の腕は外れてくれない。サラはそのまま引きずられるようにして、男がなおも矢内美晴を刺し続けている現場から強引に引き離された。
 ようやく、首の締まりが緩む。再び現場に戻ろうとした自分の腕を、櫻井の手が強く掴んだ。振り返って櫻井に罵声を浴びせようとすると、顎にひやりとした物体が押し付けられた。
「錯乱せず。冷静に」
 銃が、顎下に押し付けられている。櫻井は、冗談を言う時のような笑みとは正反対の、底冷えのする目を向けてきていた。
「待って。待ってよ櫻井さん。あの人……あの人は!」
「コルネリエの大切な友人」
「そうだよ。それに、あの人自身もすごくいい人で、だから、駄目、みんなを巻き込みたくないの、本当に。私、おじいさんの言い成りで、何も考えてないように見えるかもしれないけど、みんなを巻き込みたくないって気持ちだけは、本当で、みんなは、笑ってなきゃ駄目で、喫茶店の、夕暮れ時に、集まって……」
『次の時間帯の監視要員が近くにいたため、応援を要請。モニターの持ち出し、カメラの撤去、部屋の痕跡消去、残り四分ほどで完了』
 無線から男の報告が流れてくる。
「分かった。支援する」
 今度こそ本当に、櫻井が腕を離した。
「せめて、警察と、救急車を」
「それも出来ない」
「どうして!」
「申し訳ありません。こうするしか……」
 余程、酷い顔をしているのだろう。櫻井が普段の様子に一瞬だけ戻り、頭を下げた。それから撤退作業に加わりにいった。
 サラは右手の甲で、それぞれの頬を拭った。充血していると指摘された右目が、瞬きするたびに痛かった。
 ……自分も、手伝わなければ。



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