エピローグ2(最終話) ◆

 車イスの客でも気兼ねなく入れるよう、階段を潰し、スロープ状にした『リース』の入口を、ゆっくりと歩く。店内には車イスの客用の座席もある。
 自治区抹消事件の煽りを受けて店じまいへと追い込まれてしまった右隣の雑貨屋に、土地を間借りして、そこにオープンテラスも作った。今も何人か、仕事帰りのOLなどが、春の夕暮れの中、会話を楽しんでいる。
「いらっしゃいませ」
 店内へ入ってすぐ、来客に気を配っていたウエイトレスが、出迎えてくれた。
 花の咲くような笑顔、と表現していいだろう。愛想笑いはコツを掴めば簡単、と言っていたのは、あながち嘘ではなかった。
 しかし、入ってきたのがヴェルナーだと気付くと、花はすぐに枯れた。
「お前、今日は休みだろ。暇人」
 絵里は仏頂面で呟く。絵里が着ている制服は、絵里が彼女の母親に頼んで、デザインしてもらったものだった。男女共通のすらっとした制服は、髪が短めの絵里に、よく似合っている。
「たまには、客として見とかないと、まずいと思って」
「ウソつけ。別の目的のくせに。で、注文は?」
「いつも通りに聞いてくれ」
 舌打ち。そして唐突な、微笑。
「お一人ですか」
「一人です」
「禁煙席、喫煙席、オープンテラス、どこになさいますか」
 店内の一角にはちゃんと、喫煙者用のスペースがある。
 絵里の提案を取り入れて、徹底的な分煙をした店内に、煙草の匂いはない。
「禁煙で」
「ではこちらへどうぞ」
 絵里の接客はそつがない。彼女の普段の顔を知らない客から見れば、売上に有利に働いていそうだ。
 そのうえ、店の入り口のスロープも、制服も、オープンテラスも、車イスの客用の座席を作ったのも、新しい工夫はほとんどすべてが、絵里の提案。
 絵里を、口約束通り従業員として雇ったのは、ヴェルナーが退院したその日だった。
 絵里は、東京の飲食チェーンで働いていた三年の間、東京の人気店を観察していたらしい。その結果をまとめてあるノートが、メニューの選択などでも、色々と役に立っている。これからも客の好みは変わっていくだろうが、変わらない部分もあるはずなので、貴重な資料には変わりない。
 初めてそのノートを見せてもらったとき、コルネリエが「本当は、東京に行ってる間も、この店のことが気になってたとか?」と脇から余計な事を言った。絵里が珍しく顔を赤くして、ノートを破り捨てようとしたのを、ヴェルナーが慌てて止めた。
 絵里は、コルネリエがいなくなったあと、「当時は無意識だったけど、気にはなってたのかも」と、零していた。なんだかんだ言いつつ、小さな頃に世話になったコルネリエのことは、嫌いきれなかったようだ。

 案内されたのは、窓際の、夕陽が良く見える席だった。
 そこには、先客。絵里に注文を聞かれたので、とりあえず、アイスコーヒーを注文した。
「調子は」
「はかどってるよ」
 サラの目の前には、勉強道具が広がっていた。きっと、高卒認定試験の対策だろう。
「区切りのいいところまでやっていい?」
 首を軽く傾げたサラに、頷きかけた。
 店内を眺める。喫茶店の一番目立つ壁面に設置されていたテレビは既に撤去されていた。その場所に今は、額に収められた写真がある。白黒の拡大コピー写真。額の下には、説明文が貼り付けてある。
『第一次大戦下、ROT共和国の民家にて。ROT共和国中央軍第十一歩兵師団長、ティナ・リース(中央)とその下僕、クラウス・ルジツカ(左)、エヴァルト・シーフェルデッカー(右)』
 メルヒオルが逮捕されて戻ってきた、遺品の一部だった。本物の写真は、ティナの当時着ていた軍服のポケットから見つかり、ヴェルナーの自宅で大切に保管してある。
 百年前に死んだ三人……。まだ本当に子供といっていいクラウス、無垢な笑顔のせいか十八のサラよりも幼く見えるティナ、彼らとは同世代に見えないほど風格のあるエヴァルト。
 ティナは、クラウスとエヴァルトの肩に手を回して頬を寄せあい、白黒写真の中でも分かるくらい、本当に嬉しそうに、笑っている。二人の事が大好きだ、と思っているのを、写真一枚が雄弁に語っている。これが、亡くなったティナの軍服のポケットに入っていたというのは、なんだか、残酷な話だ。
「いい写真だよね」
 アイスコーヒーを持ってきた絵里が、言う。
「ああ」
「でも、クラウスの兄貴も、下僕だったはずなんだよね。そいつは……ジジイの語る話にもあんまり出てこなかったし、この写真にもいない。嫌われてたのかな」
 絵里が、寂しそうに言った。
 サラの姉である自分と、重ね合わせているのかもしれない。
 それを察したのか、サラも手を止めた。サラは微笑む。
「絵里は知らないんだっけ」
「何が」
「考えてみて。おじいさんに、昔話をしたのは誰?」
「ん……そりゃあ、ジジイの父親だろ」
「それがクラウスのお兄さんだよ。語り手目線で話したなら、自分の話を伝えなかったとしてもおかしくない。それに、おじいさんの昔の日記には、虚弱児だから、父さんは下僕になれなかったらしいって書いてある」
「へえ……そいつ、下僕じゃなかったのか」
「私の勝手な想像だけど、写真を撮ってあげたのは、ひいおじいさんだったと思う。ティナが、こんなに嬉しそうに笑いかける人だから、撮影した人の事も、大好きだったんじゃないのかな」
「はあ? 撮影者が誰かなんて分かんないだろ」
「でもいいなその想像。夢があって」
「ヴェルナーまで乗るなよ……」
 絵里は溜息を吐いた。
「まあ、いいけど。そいつがどうだろうと、私は私で、信頼されるようにするだけだから」
 そしてあの、含意のない笑顔を浮かべた。絵里の素直な笑みは、前よりも、良く見るようになった。少しずつ絵里も、何かを取り戻しているのだろう。
 絵里はカウンターに戻っていく。カウンターでは、コルネリエが常連客の黒沢と談笑していた。黒沢の後ろを、神代が横切り、新しく入ってきた女性客の案内に向かう。その女性客は神代の後についてオープンテラスに向かって歩き始め、夕陽が二人を包んだ。
 ふと視線を感じて、サラに目を向けた。いつの間にか勉強道具を片付けていたサラが、こちらをじっと見ていた。手には、ヴェルナーが注文したばかりのアイスコーヒーの入ったグラス。
「おいしくなったね、コーヒー」
「大口顧客になってくれるんじゃなかったのか?」
「覚えてないなぁ」
 サラはからかうように言った後で、微笑んだ。



(終わり)
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