エピローグ1 ◆

 ロルフ邸の屋上にヘリで降下した神奈川県警が、医務室へ突入したのには、いくつかの理由があった。
 銃創の治療をされている最中に、常連客である黒沢の『お前でも解決できないことが起きたら、俺も頼れ』という言葉を思い出し、馬鹿正直に信じたこと。そのうえでフレートを介し、コルネリエに黒沢への電話を頼んでおいたこと。そしてその黒沢が神奈川県警の警備部に所属していて、コルネリエの情報からロルフ邸包囲の状況が判明し、同じく神奈川県警所属の対テロ特殊部隊に、出動待機命令が出されたこと。最後は、フレートの護送が迅速に果たされ、残留していた人員の救出要請を出してから、ロルフが復路についたことだった。ロルフが自警団の元締めで、自治区封鎖の前は神奈川県警と度々協力関係にあったことも大きい、と、黒沢には説明された。
「つまりヴェルナーはすごーく運が良かったってだけ」
 右足の銃創の悪化で入院を余儀なくされたヴェルナーに対し、コルネリエは不機嫌に言い切った。
 誰かが個室を取ってくれたおかげで、病院の一室のやけに広い部屋の中には、ヴェルナーと黒沢とコルネリエの三人しかいない。
「あのまま死んでたら、私、ヴェルナーの墓の前でずっと泣いてたからね」
「それ、脅しになってないですよ。嬉しいです」
「まあまあ、命あったんだ。そう責めてやるな」
 黒沢がとりなしてくれて、コルネリエは少し眉尻を下げた。
「それにしても黒沢さん、前からなんか変な動きする人だなあって思ってたら、警察の方だったんですね」
「変な動きって何だ、変な動きって」
「ヴェルナーに言付けされたときは何が何だか分からなかったけど」
「まあなんだ。ちゃんと言っときゃよかったって、今は思ってるよ。電話番号を渡した時はこんなに話がでかくなるとは思ってもみなかったからな。その後は事件の対応で忙殺されちまったし……。そういや、ヴェルナーはどうして分かったんだ? 俺が警察にいるってこと」
「分かってたわけじゃないです。黒沢さんは普段から大言を吐くような人じゃないから、できないことは言わないと思ったんです。あの時の言い回しでは、精神的な解決は俺に任せてくれたと感じてて、特殊な危機に対処するときに頼れ、ってことだと勝手に解釈してました。それで、特殊な危機に対応できる職業は、さほど多くないので」
「へえ、ぼーっとしてるようで、ちゃんと考えてるんだな」
「失礼ですね。そういえば、番号を知ってるかどうか確認しなかったんですけど、コルネリエはどうして黒沢さんの電話番号を知っていたんですか?」
「え? や、それは、別に、その」
「ヴェルナーに電話番号を渡す前、連絡先を聞かれてな。その時に教えた。話を聞いてほしいって言われて、何回か外でも会ったし」
 目に見えて動揺するコルネリエを尻目に、黒沢がさらりと答えた。
「ああ、そっか、コルネリエは……」
 ヴェルナーが笑うと、コルネリエは、黒沢に気付かれないよう「それ以上言ったら殺す」という目で睨んできた。
 コルネリエは、事件が起こる前から、黒沢と話す時には心底楽しそうにしていた。もちろん他の常連客と話す時も楽しそうではあったが、彼は、どこか、特別だった。黒沢は五十半ばで未だ独身らしいが、見た目はまだまだ若い。全体的に筋肉質で、四十前半と言っても通用するくらいだ。慰めてくれた時には頼り甲斐も感じたに違いない。
「じゃあ、俺はまた仕事があるから」
 黒沢が袖をめくって腕時計を見た。コルネリエも黒沢の腕時計を覗き込んだ。
「あ、私も」
「内装工事の業者が打ち合せに来るんでしたっけ。二人とも、わざわざ、ありがとうございました」
「内装工事が終わったら、また、行くからな、リースに。他んとこでカレー食っても、味気なくてしょうがない」
「暴れないでじっとしてるんだよ」
「子供じゃないんですから」
 ベッドの上から苦笑を向けると、コルネリエは、事件が始まる前に少し近づいた自然さで、笑った。
 コルネリエに頼んでおいた、ノートとボールペンが、食事用の台の上に置かれている。ヴェルナーはスライドする食事台を近くに引き寄せ、ボールペンを手に取った。
 フレートが神奈川県警に身柄を引き渡されて、三日。
 自治区救済への対応が緊急を要するということで、逮捕当日にフレートの供述の内容が発表されてから、政財界を巻き込んだ未曾有の混乱が自治区や日本に吹き荒れている。ROT自治区暫定区長を含めた、自治区の政治中枢部。日本から派遣された人間を含む警察上層部。それらが行った、メルヒオル・グレーナーがトップを務めるIPUGとの政治的意図を持った共謀、また、資金や電話のやり取りが、実の息子、フレート・グレーナーによって暴かれたからだ。
 ただの内部告発者だったら握り潰されていたかもしれない情報も、本人が事件に関わり、物的証拠まで揃えたということで、早い段階から広く世間に知れ渡った。予想外の裏切りに遭ったといえるメルヒオルは、供述が公式発表される前に、ドイツ警察によって身柄を確保され、近々日本へ送還されることになっているそうだ。未だ逃走中の者もいるが、テロリスト……敵実行部隊も、人海作戦によりほとんどが駆逐されつつある。
 自警団は治安維持機能を有するため、しばらくは存続することになった。その一方で、排他主義者と同化推進派は争う理由を無くし、組織を解散させた。二つの団体は、著しい工作を受けていたとはいえ、冷静さを欠いて積極的に破壊活動を行ったことには変わりなく、放火や殺人などは、通常の事件と同じく裁かれることになった。捜査は、再編される予定のROT自治区警察本部に代わり、神奈川県警と警視庁、紛争中も中立を維持した自警団が中心となって進めることになったそうだ。毎日、大勢の逮捕者が出ている。
 自治区長の椅子欲しさのあまり、自治区を潰そうとする人間に取り入られ、前任者暗殺の手引きをした政治家。日本には日本人という単一民族しか必要ないと、あまりにもシンプルな思想故に利用された差別主義者(レイシスト)。明らかになった事件の背景はお定まりの権力闘争、過激思想の域を出ないものだったが、今回の総合的な死者は二万人以上と、現時点では、推計されている。定型人間たちに付き合わされ家族を喪った人間は、それよりも圧倒的に多くなる。
「何してんの?」
 事件のメモを取る手を休め、顔を上げた。絵里と、その後ろにサラ。少し緊張した。サラが姿を見せたのは、事件後、初めてだ。
「そのうち自分なりに事件を総括しようかと思って、メモ」
「私はもう思い出したくもないけどね」
 絵里はそう言って、手に持っている長方形の箱を差し出した。包装紙にはひよこの絵が描かれている。
「東京のアパート引き払ってきたから、お土産。お前の好み知らないから定番のやつ」
「おー、ありがとう。可愛くて頭から食えないやつか」
「とりあえず今日は、顔見に来ただけだから。疲れたから家帰って寝る。じゃあね」
 ベッド脇の棚の一番上に箱を置いて、引き留める間もなく、絵里は体を翻した。
 残ったのはサラだけだ。個室なので他の入院患者もいない。どこをどう足掻いても、二人きり。もうサラに告げる答えは決まっているが、それでもやはり独特の緊張感があった。
 手で椅子を指し示すと、サラは大人しく座った。いちいち動きがぎこちない。サラも少し、緊張しているのかもしれない。しきりに髪を撫で付け、視線も窓の外を彷徨っている。
「個室、取ってくれたの、サラか?」
「ん、ああ、うん。ここ、おじいさんの会社とは馴染みのある病院だし」
「コネか」
「そう、コネ。ヴェルナーが快適に寝泊まりしてるのは、薄汚い大人たちの権力を使って手に入れたベッドってこと」
「嫌な言い方するなよ」
 サラは笑った。笑みと共に、しばらくあちこちを彷徨っていた視線が室内のヴェルナーのもとへ戻ってきた。
「あんまり待たせてもあれだし、さっさと言うけど」
 身構えられていると言いにくいが、今なら、言える。
「俺も、好き」
 言った後、少し、間があった。咳払いをしたが、それは沈黙を助長させた。
 サラはひとつ、息を吐いた。それから、からかうような笑顔になった。
「何が、好きなの?」
「言うね、サラも……」
「ちゃんと聞きたい」
「サラが、好き」
 最近は絵里と接する機会が多く、絵里のことが好きなのかもしれないと考えていた。だが、サラが手を取り「大丈夫」と言ってくれたあの時、その考えは霧散した。自分は絵里に、サラの面影を追っていた。祖父に隷属を強いられているところ。リースでのお気に入りが窓際の席であるところ。息を吹きかけてからでないとホットココアを飲めない、猫舌なところ。席につくときの、マフラーの外し方。椅子への座り方。声の抑揚の付け方。コーヒーカップの握り方。含意がないときの笑い方。
 今の動作はサラにそっくりだ、今のも似てる。サラがいなくなり、絵里が姿を見せるようになった半年の間、そうやって無意識のうちに、サラと絵里を重ねて見ていた。求めている存在は、サラだった。夕陽に包まれた窓際席で「貴方はいつでも夏休みだけど」と微笑むサラであり、曲がったネクタイを「ちゃんと結びなよ」と直してくれるサラだった。
 サラとは、年の差があり過ぎる。妹みたいな存在、大切な友人、と勝手に定義づけて、諦めた。それでいて、サラと会えなくなると、彼女の姉に、面影を転嫁した。そして相手に好意を告げられたらまた、その気持ちを押し留めることが出来なくなった。
「サラにばっかり負担かけてきて、本当に勝手だけど……。これからも、一緒に、いたい」



◆◆◆



 祖父が死んだ。
 フレートを神奈川県警へ送り届けた、ちょうど一週間後。朝起きて、トイレに行こうとした所で、心筋梗塞、だったそうだ。
 ヴェルナーから、ロルフを傷害などの罪で訴えるつもりでいるが、どうするか、と相談された翌日だった。
 葬儀は、急に生気をみなぎらせ始めた父親が、手際よく、進めた。絵里は当然のように欠席したが、サラは出席した。あれだけ、あれほど、自分の人格形成の重きを占めていた人間も、死ぬときは死ぬ。そのさまを、その最期を、しっかりと目に焼き付けた。それ以外の感傷は、特になかった。肉親を喪った悲しみなんて微塵も湧いてこないから泣きもしなかったし、罰を受けずに死んだと恨みにも思わなかった。
 今は、今年卒業だった高校も、祖父の命令で夏に退学させられ、自警団の副代表も解任されてしまったので、人生の指針を失った宙づりの状態のまま、ふらふらしている。午前中にヴェルナーの入院している病院へお見舞いに行き、穏やかな空気の中で二時間ほどぼうっとしたあと、リースへ行って内装工事の進捗状況を眺め、二階でコルネリエと雑談を交わす。午後は自室に戻って昼寝をして、午後三時頃起き出して自分で料理を作り、休みの日の絵里が飲み物を漁りにきたときは、誘って、一緒に遅い昼ご飯を食べる。そして昼食が終わった後は英語と数学を一時間ずつ勉強して、夕食も自分で作って食べ、風呂に入り、ヴェルナーに借りた青年漫画をだらだらと読んでから、寝る。
 そんな日々を過ごしているうち、祖父が死んでから一週間が経った。
 どういう反応をされるだろうと思いつつ、その暮らしぶりを淡々とヴェルナーに語ってみたら、
「しばらくはゆっくり休んでいいと思う」
 と笑ってくれた。こちらも軽く笑んで返す。
 何気なく病室を見回すと、フルーツバスケットが床に置いてあるのが目に留まり、訊ねた。
「ああ、これ? 神代がくれた」
「へえ、よかったね。神代くん、なんて言ってた?」
「すいませんでした。それだけ言って帰ったよ。テロが起きた日、少しいざこざがあったから。でもたぶん、また来てくれる気がする」
 それまでにもフルーツバスケットが届けられていたので、ベッド脇にある棚の引き出しには、簡易まな板と果物ナイフが入っている。それを取り出した。
「デコポン、剥いてあげようか?」
「ん……ありがとう。でも、たぶん、手で剥けるだろ。皮が硬いのはブンタンとかイヨカンとか」
 同じ棚に入っているウェットティッシュを使って手を拭いてから、フルーツバスケットの包装紙を破った。そこから試しにデコポンを一個取り、爪を立ててみた。
「ほんとだ」
 あっさりと爪が入った。そのまま、ミカンを剥くのと同じ要領で、皮を剥がした。剥がした皮と中身を簡易まな板に載せ、一房一房にわけた。膝の上に載せたまな板を、棚の一番上に置いた。ヴェルナーは右手を使って上半身を起こし、一房、掴んだ。
「あ、結構、甘い」
「私も食べていい?」
「いいけど、三分の二くらい食べて貰ってもいいか? あんまり動かないから、腹減るのが遅くて」
「ありがとう。貰うね」
 二房を一口に入れた。噛むと柔らかな皮が破れ、酸味の落ち着いた、控えめな甘さが口の中に広がった。
「おいし」
 暖房のせいで少し乾いた口の中で、飛び散る水気も心地良かった。
 ヴェルナーは何房か食べ終えると、食事台をスライドさせて手前に持ってきて、ボールペンを手に取った。ここのところヴェルナーは、リースの損益計算や月別売り上げなどの明細、貸借対照表などの再計算を日課にしている。十二月までに作成していた決算書のプリントアウトを基に、三月の確定申告に備えている、らしい。自治区抹消計画への対応のための知識ばかりを詰め込まれてきた自分には、よく理解できない。だが、ぶつぶつ言いながら時折眉根を寄せて電卓を弾いているヴェルナーを見ているのは好きだ。
「意外と、真面目に仕事してたんだよね」
「意外と、は余計」
「私にとっては、窓際でぼーっとしてるイメージが強いから。でも再計算ってそんなに時間かかるものなの?」
「いや、だいたい間違い探しは終わったよ。今は、一月のをまとめてる。詳しくはパソコンでやるつもりだけど、ホント、やばいんだよなぁ、一月は……。店の内装も駄目にされて、客もほとんど来なくて。繰越金だけじゃ全然穴埋めにならない……。二月は本当、どうにかして客を呼び戻さないと」
「ふうん」
「何、笑ってんだよ。大変なんだかんな、冗談抜きで」
「真面目なヴェルナーも、いいね」
 ヴェルナーは右手で頬杖を突き、ボールペンのノックを一回押した。
「いつも言ってただろ。閉店後は仕事してんだよ」
「来週からは私が、大口顧客になってあげるよ。コーヒーになるべく食べ物をつけるようにする。ヴェルナーももうすぐ退院だし、そのころには内装工事も終わってるだろうし」
「それは大口って言わないから」
 ヴェルナーが溜息を吐きつつ、ボールペンを置き、食事代のスライドを遠くへ押しやった。
 ヴェルナーはぼうっと、窓の外に視線を彷徨わせ始めた。窓の外に見える庭では、常緑樹と落葉樹が混ざった統一感のない木々が、植わっているだけだ。病院を四方から囲むフェンスの向こうも、車が何台も行き交っているだけで、何の変哲もない道路だ。風情も何もない。
 しばらくはヴェルナーにつられてぼうっとしていたが、ただぼうっとしているのにも疲れた。ヴェルナーが事件をまとめているノートを読もうと、中腰になって、食事台に右手を伸ばした。そこで左腕を引かれた。バランスを崩しかけたが、足に力を入れて堪えた。文句を言おうと横を向くと、背中をベッドの囲いに預けたまま、ヴェルナーがくすりと笑った。
 少し、顔を寄せるだけでよかった。ヴェルナーの右手が後頭部に回った。サラは、ヴェルナーの左肩に右手を掛け、左手で、ヴェルナーの右手を触った。暖房のおかげで、互いの手が暖かい。微かな柑橘の香り。やさしくやわらかに包みこまれる感覚だった。ずっと、そうしていたくなるような、心地良さがあった。サラは呼吸が辛くなったところで、静かに離れ、椅子に座り直した。服の袖で、口の端を軽く拭いた。
 また降り出しに戻って、ぼうっと窓の外を見るはめになった。事件のことを振り返る気分ではなくなった。
「暇だな」
「暇だね」
 自宅の医務室のベッドとは違い、囲いがついているのは足元だけ。
 椅子をベッドに近づけ、布団の上に腕を組んだ。その上に、額を乗せる。
 暖房のせいで訪れつつあるまどろみに身を任せ、目を閉じた。


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