31 ◆

 サラの伝えてきた気持ちには、即答、できなかった。情けないが、動揺の余り、歳の差を持ちだして言い訳めいた言葉が出た。たとえばサラが十二歳のときは、十九歳だった。たとえばサラが十五歳のときは、二十二歳だった。
 ……けど今は、十八歳と、二十四歳だよ。
 彼女は今、隣のベッドで、大人しく横になっている。眠っているかどうかは分からないが、目は閉じている。
 もちろんサラが大切な存在という点は、自分の中でも疑いようがない。しかしサラが、そんな曖昧な言葉で納得するとも思えない。もし自分が断ったら、きっと、これまで通りの関係でいられなくなる。何らかの弊害が出る。サラはそれを覚悟して、一歩、踏み込んできた。恋愛対象として見ることができるか、できないか、どちらかで、答えるしかない。
 ベッドに横になり、そのことを考えていたら、小さな声での私語が交わされていた医務室全体が静まり返った。何かと思い体を起こす。
 ロルフが、白衣姿の部下たちを伴い、医務室の入口に立っていた。ロルフが部下に対して何事か囁く。すると部下たちはそれぞれに違うベッドへ向けて歩き出した。部屋の一番右端にいたヴェルナーのもとには、そのうちの一人が来た。
「確かお前は、左手首骨折と、右足の銃創だったな。歩けるか?」
「今はまだ、無理みたいです。絶対安静だと言われました」
「そうか」
 それだけ聞いて、部下は、黒の色紙(いろがみ)をベッドの囲いに張り付けた。
「サラ、あなたの怪我は、軽い脳震とうと、額の裂傷でしたか。歩けますね?」
「はい、歩けます。ある程度なら、戦闘も」
 サラのベッドの囲いには、黄色の色紙。
 部下はそのまま、次のベッドへ歩み寄った。
 しばらくサラのことは考えるのはやめて、ロルフの意図を考えていると、ロルフの周りに、色紙を貼り終えた部下が集まっていった。
「既に聞き及んでいるとは思うが、敵実行部隊の隊長でメルヒオル・グレーナーの実子、フレート・グレーナーが我が方に寝返った。彼の所持した証拠と、彼本人を無事に神奈川県警へ送り届ければ、ROT自治区への救援が始まるだろう。今の状況ではデジタルデータの安全な送信は困難だ。直接、送り届けなければ事態は何も好転しない。そこで、だ」
 ロルフは軽く首の骨を鳴らした。
「我々はフレート・グレーナーを無事送り届けるため、戦闘可能な全ての人員を連れ、神奈川県警本部へ向かう。フレートが寝返ったことに感づいたのか、徐々にこの家への包囲も厳しくなっている。突破するにはそれしかない。ベッドに貼り付けられた紙があるだろう。それは、トリアージの真似ごとのようなものだ。緑は戦闘可能、黄色は戦闘に多少の障害がある、赤は戦闘に多大の障害、黒は自力歩行不可。私も鬼ではない。赤までは連れて行く。だが黒は無理だ。ここへ残ってくれ」
 ヴェルナーは自分のベッドの囲いに貼り付けられた、黒の色紙を見た。見ればわかるのに、「黒か」と呟いてしまった。
「緑は赤に手を貸し、地下駐車場へ向かえ。黄色は自分だけで歩け」
「待ってください!」
 サラが、大きな声を出した。
「黒は、ここへ残って死ねということですか」
「ここは緊急時には数々の防壁を作動させることが出来る。防壁が持ちこたえている間に、ここへ戻ってくればいい」
「……敵は未だ、C4爆弾等を所持している可能性があります。その間に防壁を突破されたら? 区境を封鎖する自衛隊と警察の説得に時間がかかったら?」
「死ぬしかないだろう。ここから自治区外へ行くまでには激しい戦闘が予想される。戦闘に加わって死ぬ人間と、加わらずに死ぬ人間。そこには差があるか、サラ?」
「しかしやはり、残る方が、死ぬ確率は圧倒的に高まり……」
「口答えするつもりか?」
 サラとロルフのやり取りを、全員が見守っている。サラはしばらくロルフと視線を合わせていた。
 耐え切れなくなったように先に目を逸らしたのは、サラだった。
「さあ、動け。時間がないぞ」
 ロルフが手を叩いた。
 サラは、何があってもロルフに、逆らえない。分かっていたから、サラの反論によって覆ることを、期待はしていなかった。いなかったが、それでも少し、悲しくなった。自分がここへ置いていかれるからではない。どうせ置いていかれるならせめて、サラの、悔しそうな、泣き出しそうな表情だけは、見たくなかった。立ち上がったサラはヴェルナーを一瞥した後、何も言わずに、部屋の外へ出て行った。歩ける怪我人たちも、次々と部屋の外へ吐きだされていく。
 フレートやサラと話している間は、忘れていた。自分たちROTが置かれている立場を。今や自治区は、かつてない危機状態に陥っている。こうして自分がベッドの上で安穏としている間にも、フレートが語ったような人々が、たくさん生み出されている。神代や店の常連客だって、きっと危ない目に遭っている。知り合いに自警団を作らせた人間がいるから自分は安全、なんてわけにはいかない。
「これが、普通」
 言い聞かせるように、独り言を零した。
 医務室をざっと見渡す。数十人いたと思われる怪我人だったが、今は簡単に数えられた。五人。いずれも、ベッドの囲いには黒い色紙が貼られているのだろう。部屋の中央には、抵抗用と思われる銃火器類が、何の説明もなく転がっていた。自分は右手が使える。片足飛びもできる。武器を他の五人に配ろう。布団をめくり、右手でベッドの囲いを伝って、左足だけで武器の置いてある場所に行った。ガスマスクのようなもの、手榴弾のようなもの、銃のようなものがたくさんある。
 武器の種類はよく分からないが、とりあえずその中の一番重そうな銃を掴み、持ち上げた。ずしりと手にきて、片手では十秒と持っていられそうになかった。
「これ、誰か使えますか?」
「ああ、俺が使う」
 真っ先に声を上げたロルフの部下が、ベッドから這い出し、ヴェルナーと同じく片足跳びで近づいてきた。包帯に巻かれた彼の左足は膝から下がなかった。
「兄ちゃん、ついてねぇな。見たとこ、素人だろ? 雇われてもいねぇのに、こんな場所に、置いてかれて」
「いえ、虐殺されている人たちに比べたら、こんなの……」
「まあ、な。あの光景、見ちまうとな……」
「名前を聞いてもいいですか?」
 銃を渡しつつ、聞く。
「ああ、俺は松田。あんたは」
「ヴェルナーです」
 厳つい顔をした松田には、右肩口や右腕にも包帯が巻かれている。顔を歪めて痛みに耐え、他のロルフの部下が使う武器を持って行こうとしたので、座っているように言った。松田は少し苦しそうな声を出しつつ、大人しく、その場に座った。
「あと三人は、ぎりぎり戦える。そいつらにはこれを配ってくれ。一番奥の奴は意識がないままだから、いい」
 松田に指定された三つの銃器を、一人に一つずつ、配った。右手だけで重量のある銃を抱え、左足だけで行ったり来たりするのは意外と負担で、少し汗をかいた。
 松田の隣に座って、汗を上着の袖で拭いてから上着を脱ぐ。それを置くと、もう誰も用がなくなったはずの医務室の横開きの扉が、開いた。絵里とコルネリエ。それにサラもいる。コルネリエは何も言わずにこちらに駆け寄ってきて、右手を差し出した。ヴェルナーは、溜息を吐きたくなった。来ないほうが、残る決心がつきやすいのに。
「早く行こう」
「待ってください。俺は、足をやられたので、ここに残れってロルフに言われました」
「いいから、早く! もう下では車が出始めてる」
 コルネリエがじれったそうに、差し出した右手を動かした。それに自分の右手を重ねたくなる衝動を押さえつけ、コルネリエに目を合わせた。
「コルネリエ。聞いてください」
「ロルフの言う事なんて」
「コルネリエ!」
 残っている限りの気力で、怒声を出した。黒いコンタクトレンズをはめているコルネリエは、びくりと肩を震わせた。
「きっとロルフは、一度決めたことを覆しません。そこで言い合っているうちにコルネリエの乗る予定の車が来たりしたら、俺は、ここまで自力で戻らないとなりません。そうしている間に、この家の防壁とやらが作動したら、俺はどうすればいいんですか。それにここから、俺だけ連れ出すつもりですか? 他の五人はどうします? 雇われているからここに残って、死んでも構わないと?」
 失望させるなよ、と念を押した赤い眼を思い出しながら言うと、コルネリエは右手を引っ込めた。
「すいません、意地の悪い言い方して。でも、俺は、残ります」
「私も残ろうかな」
 押し黙ったコルネリエの横に立っている絵里が、呟くように言った。
「残ったら、十中八九、死ぬよ」
「絵里。何で俺なんかに構ってんだよ、早く行け」
 絵里は目を合わせず、医務室の壁を見ている。
「お前は、それでいいのか」
「お前が早く戻ればいいだけ。今は自治区のほうが大事だろ」
「少しは考えてから答えろ! 既に玄関前を守る部隊は撤退を始めた。時間稼ぎのブービートラップを残してね。あんなもの稼げて十秒程度だ。それで、屋敷に残っている人間はお前らしかいなくなる」
「けど、戻って来てくれるって、信じてるから」
 ヴェルナーは、医務室の入口でじっとこちらを見つめているサラに、視線を移した。
 サラは頷き、二人の腕をそれぞれの手で掴んだ。
 絵里は最初抵抗するようなそぶりを見せたが、サラに睨まれ、すぐにやめた。それからサラの手を振り払って、真っ先に医務室を出て行った。
「勝手に死ね! ばーか!」
 外から蹴飛ばされたらしい医務室の扉が、大きな音を立てた。
 子供のような八つ当たりの仕方に、ヴェルナーは、少し笑った。その声が嗚咽交じりに震えていたのは聞こえないふりをして。サラもコルネリエも、絵里に続いて、部屋を出て行った。
 医務室の扉が、閉められた。
「兄ちゃん、大人気だなぁ。あのアニにまで心配してもらえるなんて」
「家族みたいなものなんです、さっきの三人とは」
 三人が出て行ってすぐ、松田が冷やかすような口調で言い、ヴェルナーは苦笑交じりに答えた。何も言わずにここへ残してくれたサラに、心の中で感謝した。
 これでよかったんだ。
 ――家族が目の前で殺される光景は、もう二度と、見たくないから。自分の中の知らない声が、そう、付け加えた。深層のさらに深くから付け加えられた言葉の出所は、ヴェルナーにはすぐに分かった。だが、誰に言ってもきっと、信じてもらえない。
 屋敷全体に、非常ベルの音が鳴り響き、地鳴りのような音が至る所で響いた。
「始まったみたいだな。お前ら、準備しとけよ」
 この中で最年長らしい松田が、命令した。
 ヴェルナーはいざというときの避難場所を考えようと思い、片足跳びで医務室の窓へ向かった。窓は開けずに、額をくっつけて下を覗く。どうやらここは、三階にあるらしい。おまけに下には、敵実行部隊と見られる人影がちらほらと見える。黒の色紙を貼り付けられた六人が、飛び降りて逃げるのは、不可能だ。この部屋で戦うしかない。
 松田の隣に戻り、窓の外の状況を伝えたあと、小銃と手榴弾、ガスマスクの使い方を教わった。ガスマスクは、マスクからホースが伸びて、酸素缶に繋がっている。
 それから、松田の提案で、扉の前にバリケードを作ることになった。薬品の入った棚から役に立ちそうな治療道具のみを抜き取り、棚自体を入り口に押し運ぶ。ベッドを五人で持ち上げ、布団のある側を前面にした横倒しで、棚の前に置く。そこからはとにかくベッドを運んで置くことの繰り返しだったが、片手か片足しか使えない人間が大半の中、それは困難を極めた。銃を松葉杖の代わりに使う人もいた。
 入り口だけでなく、自分たちを守るバリケードも備え終えて汗だくになった五人は、防壁が次々に破られていく爆破音を聞いていることしかできなかった。他の四人は、小銃の安全装置を外し、バリケードに意図的に作った隙間から、銃口の身を出して構えた。ヴェルナーは、入口が発破された際に手榴弾を投げることになり、安全装置を抜いて素早く投げる練習をしていた。
 防壁の爆破音が近づいてくる。ヴェルナーは手榴弾の安全装置に手をかけた。
 鍵を掛けた扉を、がたがたと揺らす音が鳴った。その数十秒後、扉がバリケードごと、吹き飛んだ。ヴェルナーは間近に作ったバリケードに隠れて、破砕した棚の断片から身を守った。右手だけで手榴弾の安全装置を外し、放った。爆発音と敵の怒号。同時に、松田らの小銃が入口へ砲火を始めた。
 反撃の銃火が、煌めき始めた所で、また、手榴弾を放る。敵の怒声が飛び交う。
「ここにフレートがいると思われてんじゃねぇのか! 少しは兵員残してけあのジジイ!」
 松田が悪態をつきながら、銃を放ち続けるが、途中で弾切れ。松田に替えの弾倉を渡しつつ、三個目の手榴弾を放った。そこで、室内に何かが射出され、催涙ガスのような煙が充満し始めた。事前に言われていた通り、ガスマスクを被ってすぐまた、手榴弾。ガスマスクのおかげでうるさい小銃の射撃音が遠のいた。だが、味方の声も聞こえにくくなり、ガスのスモッグのせいで味方の姿も見えにくくもなった。
 ヴェルナーはその煙幕の中で、松田に腕を叩かれ、替えの弾倉を渡した。五つ目の手榴弾を、なるべく遠くに放る。爆発音も鈍く聞こえ、敵の声はもうほとんど聞こえない。
 二人、二人、一人と分けられた状況で、どうしても一人の所では、弾倉の交換時には時間が空いてしまう。敵はそこを集中攻撃して、反撃してくる。
 そして何度目かにこちらの反撃が鈍った中で、一際大きな爆発が二度、起こった。そこだけ煙幕が少し晴れ、一人の射手が居たはずのバリケードが、吹き飛んだ様子が見えた。射撃を続ける松田が
「隙を見せると手榴弾がくる!」
 と怒鳴った。かろうじて耳に届いた。
 敵の数が何人か分からない中で、みるみるうちに弾薬が減っていく。弾倉の交換の際に放てと指示されてきた手榴弾もあと二つ。
 松田の三度目の弾倉交換に、手榴弾をまた一つ使った。
 間近な防壁が発破された時にはまだ、サラたちが屋敷を後にして、一時間ほどしか経っていなかった。弾薬がなくなるまでに戻るのは、不可能だろう。
 絵里の言う通りだ。死がいよいよ間近に迫ってきた。だというのに、なぜだか、銃口を向けられた時ほどの怖さは、なかった。不思議と、落ち着いた気持ちで臨めていた。
 ヴェルナーは、手榴弾がなくなった後に使う予定の、小銃の安全装置を外した。
 生き残ることは望まないから、せめてあと少し耐えたい、と思った。耐えた分だけ、自治区抹消計画が明るみに出る可能性が高まる。耐えた分だけ、わけもわからず嬲り殺された人たちが少しだけ浮かばれる。耐えた分だけ、サラや、コルネリエや、絵里が、もしかすると神代や常連客までもが、生き残る確率を上げるかもしれない。こういった意識が、沸き立つ恐怖心を、抑制してくれている。今まで散々溜め込んできた、何もできない無力さ、情けなさが、目的を持って初めて、良い方向に働いてくれている。
 松田に促され、最後の手榴弾を放った。それから、小銃を手に取った。左手首が折れていて使えないので、左腕で銃身を支えるしかない。射撃能力の低さも相まって、全くと言っていいほど狙った方向に飛ばなかった。牽制のために撃ってくれと頼まれていたが、牽制ですら怪しい。自信なく射撃していることに気付いたのか、松田が肩を叩いてきた。見ると、親指を立ててくれている。ふと見ると、松田の銃の弾倉が、あと一つしかなくなっていた。この小銃を貸すまではできるだけ集中して撃つしかない。
 そして松田の最後の弾倉交換の最中、爆発が起きた。起きたと知覚する前に、バリケードごと吹き飛ばされて壁にぶつかっていた。バリケード代わりのベッドと壁の間に足を挟まれたが、両肩が脱臼したらしく動かないので、ベッドを退かせない。目の前では、爆風を上手く避けたらしい松田が銃を放ち続けている。
 また手榴弾が部屋に入った。今度は、こちら側でなく、バリケードの残っていた二人のほうに、投げ込まれた。爆発。血飛沫。
 息が苦しくなってきて、酸素ボンベが破損したことに気付いた。両肩を動かせず、ここに残る原因となった銃創から血が滲む感覚がし、左足はベッドに挟まれている。そろそろ、諦める時間帯だろうか。
 ガスマスクを外したいが、外せない。呼吸をなるべくゆっくりさせようと努力したが、脈拍の上昇だけはどうにもならない。朦朧としてきた。酸素不足で死ぬのは、計算外だった。
 ……ああ、やっぱり、と思った。どんなに強がっても。
 死にたく、ないなあ……。
 自治区抹消計画が始まった頃、炎天下の中、サラが護衛についてくれたことがあった。そんな時よりも今、ここに、居てほしかった。車内で手を重ねてくれた時のように、「大丈夫」と言って欲しかった。
 窓ガラスの割れる音と、爆発音とともに、目が眩むほどの光が部屋を包んだ。光が網膜に焼きついて何も見えず、音も全く聞こえない。敵が外からも突入したのだろう、と思い、目を閉じた。酸素不足で死ぬのが早いか、銃で撃たれて死ぬのが早いか。どっちかだ。
 しかし銃撃で死ぬ様子が一向になく、ヴェルナーは、酸素濃度の低下で頭を襲う鈍痛を抱えながら目を開けた。目の前に、ヴェルナーがつけているものとは違うタイプのガスマスクが大きく映り込んでいた。今の状態では驚いてのけぞることもできない。ヴェルナーのガスマスクに手が掛けられ、外される。外されたと同時に、催涙ガスの残りで、目と喉と鼻がやられた。激しくむせ込んだ。涙でぼやける視界の中、その男を見上げた。全身黒の戦闘衣装は、ぱっと見では敵なのか味方なのか分からなかった。
「神奈川県警だ」
 と、男は名乗った。左足の上に圧し掛かっていたベッドが、退かされた。



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