30 ◆

 医務室のような所で白衣を着た男に治療を受け、ベッドに横にならせてもらった。このロルフ邸までもが包囲されつつあるらしく、ヴェルナーとサラの他にも結構な数の怪我人がいた。医務室は手狭で、コルネリエと絵里は、担架を運んだ後退出させられていた。すぐ隣のベッドには、サラが眠っている。額にあった新しい傷が運悪く広がってしまったというだけで、軽傷に近い重傷、命に別状はないそうだ。
 ヴェルナーは右足の銃創が発する鈍痛を感じながら、サラのほうへ顔を向けた。
 中学生の頃から、何事に対しても興味が希薄で、何事に対しても熱中しなくなった彼女は、感情すらも強く出すことをしない。改めて想起すると、半年前の彼女の激怒は、サラが久しぶりに吐露した感情だった。それも、尋常ではない、激情。その後も会うことを拒絶され、もう二度と顔も見たくないという意思表示だったのかと思わされていた。それが最近になって絵里の言葉に覆された。そしてギアに置いていた手に、重ねられた小さな手。思い出したのは、手を繋いで帰った、彼女が中学三年生の体育祭の日だった。
 サラと絵里。サラが絵里に殴りかかったあのとき、あの場所で、どちらがより大切だったか。どちらにより共感するべきだったか。そんなことは、体育祭の帰り、初めてサラが弱音をさらけ出したときから、自明のことだった。
 間違わなかったら、サラがあんな傷を受けなかった、とは言い切れない。結局、軍事的に素人のヴェルナーにはサラを助けることはできないのだから。だが、精神面なら。卒業目前で高校を中退し、自分の意に添わぬ命令に唯々諾々と従わざるを得なかったサラに、何かしら、関わることはできたはずだ。愚痴を聞くなり、泣き言を引き出すなり、サラの好きなチーズケーキを振る舞うなりして、何かしら、関わることはできた。
 サラは、「風景をのんびり眺めるのだけは、なんとなく好き」といつもよく言っていた。リースで、ぼうっと夕陽を眺める時間が好きだとも言っていた。自分もその時間が好きだった。だから、夕方の、客もまばらなリースの窓際席で、一緒にぼうっと夕陽を眺めるだけで、よかったはずだ。十月で十八歳になったばかりのサラに……そのくらいのことも、してやれなかった。
 どうすれば、この気持ちを伝えられるだろう。どうすれば、サラの現在の心境に合わせた、前向きな言葉として伝えられるだろうか。
 サラから視線を外し、飾り気のない白い天井を眺めていると、足の辺りに人の気配がした。
「いま、いいですか」
 コルネリエか絵里だろう、とあたりをつけていたが、違った。全く予想していなかった青年。護送対象、だ。
「あ、はい、大丈夫です」
 寝たままでは話しにくいので、右手を使って上半身を起こす。ベッドの囲いに背を預けた。青年は背もたれのない丸椅子をどこからか運んできて座った。持っているバッグは床へ置いたようだった。
「先に言っておきます。私は貴方がたの先祖に殺された、マルセル・フォン・グレーナー直系の曾孫、フレート・グレーナーです。貴方がたの呼ぶ、敵実行部隊の隊長でもあります」
 ヴェルナーは、あまりにも流暢で淡々とした日本語の使い方に、思わず最後の言葉を受け流しそうになった。
「敵実行部隊の隊長? あなたが?」
 見たところ、ヴェルナーと同年代の青年だった。眼が青く、色白で、絵里のように染めたのではなく、正真正銘のブロンドの髪。頼りなさそうなこの男の風貌には、ROTを徹底的に追い込む思想的根拠の欠片すら滲んでいない。
「冗談ですよね?」
「いえ、本当です」
 敵実行部隊。ROTによる仲違いを演出し、ROTによる日本人の排斥運動を演出し、ROTによる内紛を演出し、ROTの国際社会からの孤立を演出した、類稀な脚本家。そして、コルネリエの大切な友人、矢内美晴を殺し、サラや絵里を祖父の隷属下に置き、神代の父親が死ぬ遠因を作った脚本家。
「失せろ」
 無意識に近い状態で、その言葉が飛び出した。サラは、こんな男を助けるために、あんな怪我を。納得がいかない。いくはずがない。
「いま大丈夫と言ったのは貴方です」
「同じこと言わせんな」
 左腕も右足も満足に動かないのがもどかしかった。目の前の男を今すぐ徹底的に殴り尽くしてやりたかった。
「あの」
「黙れ!」
 怪我人同士の会話で多少ざわついていた医務室が、静まり返った。ヴェルナーは、サラのように、眠っている怪我人がいることを思い出し、続けざまに怒声を出すのを躊躇った。その合間に、フレートは、
「今日はですね、これを返そうと思って」
 紺色の紙包みに覆われた、四角い箱を、取り出した。こちらに向かって、差し出してくる。ヴェルナーはそれを無視し、正面にある白い壁に目を向け、じっとしていた。
 しかし視界の右側に映るフレートは、何分経っても馬鹿みたいに差し出し続け、じっとこちらを見つめてきていた。ついには鬱陶しくて仕方がなくなり、ヴェルナーはその箱を引っ手繰る様にして受け取った。
「ありがとうございます。それは、貴方の先祖、ティナ・リースの頭蓋骨です。日本でいうところの、遺骨、でしょうか」
 あまりにも唐突な内容物に、ヴェルナーは虚を突かれ、何も反応できなかった。
「私は、メルヒオル・グレーナーの末子、七番目の子供、五男です。私たちが代々、洗脳に近い反ROT教育をされてきたのは、ご存知ですか?」
 頭蓋骨、と言われて渡されただけでも何のことかわからないので、仕方なく、頷く。
「私も、つい最近まで、ROTを目の敵にして生きてきました。生まれた時から、毎日毎日、親にそうやって教育……いや、洗脳、支配されてきましたから。しかし、今まですべての子供でROTを憎む条件反射を生み出すことに成功した父は、私が七番目の子供ということもあり、油断したんでしょう。この間、洗脳みたいなものが、ふっと緩んでしまいましてね。そのときは、既に、日系企業のビルが、部下によって爆破されたあとでした」
 フレートはそこで、一呼吸置いた。
「すぐに、どうしようもない、言葉ではとても言い表せないほどの、自責の念が、後悔が、絶望が、心の中に生まれました。それから、部隊の指揮権が私の手を離れて始まった自治区抹消計画の総仕上げは、自分の加担しこととは認めたくないほど、凄惨を極めていました。男は問答無用で殺し尽くし、女は陵辱され尽くしていました。死んでもなお、ね。私はその光景の真ん中に一人で立ち、泣きました。みっともなく、涙と鼻水と涎を撒き散らし、尿を垂れ流しながら、いつまでもいつまでも」
 ヴェルナーは、今すぐ消えろと遮るつもりはなく、黙って聞いていた。少しずつ、怒りも静まっていくのも感じる。すぐ近くに、似たような境遇の人間がいるのを知っているからだ。祖父に、絶対に逆らえないよう、洗脳に近い隷属を強いられている姉妹が。
「父は……メルヒオルは、あえて、死体性愛(ネクロフィリア)や小児性愛(ペドフィリア)の性的倒錯者を中心に、実行部隊員として雇いました。目の前で、妻と、たった六歳の子供が犯され、殺され。嬲られて死んだ後も、人間の尊厳もなく犯されている所を、目の前で、四肢の自由を奪われ見せつけられた夫が、どうするか知っていますか。舌を噛みきって死ぬんですよ。それを見て楽しむような人間たちを、メルヒオルは雇いました。敵に捕まった軍人でも、そんな死に方は滅多に選びません。よほど強い力で舌を噛みきらないと、死ぬほどのダメージは体に与えられませんから。それを、一般市民が実行する。彼にとっては、どれだけの苦痛だったのでしょう。彼にとっては……半年前までは、平穏に日常を過ごしていたはずの、彼らにとっては。……私は、ルジツカ会長と密かに連絡を取り、寝返りの相談を持ち掛けました。ROTをこれ以上の災禍から救うため、ではありません。彼のような男を増やさないため、です」
 フレートは、涙声になったのを誤魔化すように、咳払いした。ヴェルナーも、あの虐殺の風景が脳裏に浮かんでしまい、えずきそうになるのをこらえた。
「貴方とともに救援に来てくれた女性……彼女も、クラウス・ルジツカの子孫だそうですね。車内で彼女に言いましたが、私は、起訴回避のための根回しなどしていません。何もせず、刑に服すつもりです」
 それは、と、フレートは四角い木箱を指さした。
「それは、ティナ・リースの遺骨の一部です。我々は、ティナ・リース、及びエヴァルト・シーフェルデッカーの子孫が生きていることを把握していませんでした。家系の情報が、何者かによって攪乱されていましたので。クラウスの子孫は、ルジツカ会長が堂々と名乗っているので、生きていることは分かっていましたが、クラウスは、マルセル・フォン・グレーナーの殺害には関わっていませんし、警備が厳重でとても近づけませんからね。ただ、メルヒオルが、貴方とコルネリエさんが、それぞれティナとエヴァルトの子孫であること、なおかつここにいることを知ったら、何もかもに優先して、殺しにくるでしょう。……話が逸れました。ティナ・リースですね。彼女の死後の遺体の動き、知りたいでしょうか。知る権利はあると思うのですが、不快と思えるものも混ざっているので、一応、意思を確認しておきます」
「聞きます」
「ティナ・リースとエヴァルト・シーフェルデッカーの遺体は、マルセル・フォン・グレーナーの死を目の当たりにした彼の息子――つまり私の祖父によって、引き取られました。祖父は、遺体を持ち帰ると、どちらの遺体にも防腐処理を施し、一日中、その遺体を眺め、時折髪を梳いたり、体に触れたり、性的な接触を行ったりしていたそうです。そして、防腐処理の限度を超えて腐り始めたところで、ようやく火葬し、骨にしました。しかし祖父はその骨すらも加工して愛で、始終、愛おしげに眺め、話しかけていたそうです。そしてその口癖は"お前たちの親族もいつかはここに並べてやるから"。結局、ROTを襲った悲劇の連鎖による混乱でその願いが叶うことはありませんでしたが、性的倒錯者を集めたメルヒオルの部隊編成へのこだわりも、祖父に影響を受けたのかもしれません」
 ヴェルナーは、自らの先祖の遺体がそのように扱われたことに対して、少なからず不快感を覚えたが、話を続けるよう、促した。
「寝返る前、直系の親族しか入れない保管場所に行って、体から分離されていた頭蓋骨だけを二つ、くすねてきました。既にエヴァルトの遺骨はコルネリエさんに渡しました。彼女は私の立場を知ると激怒しましたが、どうにか、受け取っては、くれました。それは、貴方が受け取ってください。そしてしかるべき場所に、埋葬していただけたら……私も、嬉しく思います」
 そこまで話すと、フレートは二つのバッグを抱えて、立ち上がった。片方のバッグは遺骨を運ぶためのものだったのか、中には何も入っていない。
「長々と申し訳ありませんでした。情報は必ず、日本の警察機構に届け出ます。ROT自治区における権力者たちは、今回の事件で我々に便宜をはかっていますからね。どこから洩れるか分かりません」
「ROT自治区の? それはどういう……」
「一つの企業の力だけではここまで事を大きくできないという意味ですよ、ヴェルナーさん。そこは裁判で明らかになるでしょう。私が殺されなければね」
 フレートは自嘲の笑みを浮かべた。彼が医務室を出て行こうとしたので、ヴェルナーはその背中に呼び掛けた。治療を受けている間に思い付いたことがあった。
「あ、部屋に戻ったら、絵里を介してでもいいので、コルネリエに、伝えてください。黒沢さんに電話をかけてください、と」
 フレートは頷き、今度こそ医務室を出て行った。
 ヴェルナーは上半身を起こした姿勢を保ち、ぼうっと中空を見つめた。まさか、ティナとエヴァルトが殺した将軍の子孫から、彼女らの遺体の処遇を聞くことになるなんて、想像もしていなかった。そして敵の実行部隊の隊長に、途中から少し、肩入れしてしまうことも、想像していなかった。
 あの涙声が、自己満足の言い訳を伝えるための演技でないと言い切ることはできない。だが、絵里とサラの二人と、フレートとの境遇に違いがないことは、大人たちの過去へのこだわりから隷属を強いられていることは、確かだ。もしあの懺悔が偽りだったとしても、やはり、今と同じような、境遇への同情や、やり場のない憤りが生まれたと、断言できる。
 絵里とサラと、フレートとは、引写しのようだ。フレートがロルフの孫として生まれれば、絵里とサラの姿だったかもしれない。絵里とサラがメルヒオルの子として生まれていたら、フレートの姿だったかもしれない。同じように大人の玩具にされているのに、その大人の思想が違うだけで、虐殺する人間と、それに抵抗する人間とに変わる。
 今まで、自分は、サラと絵里とが絶対に理由を言わずに泣いていたことを、深く考えようとしてこなかった。今日は、フレートの告白を聞けて、よかった。改めて、ロルフの異常性を確認できたからだ。この事件が終わったら、証拠と証人を集めて、ロルフを告発する。絵里とサラへの虐待や、暴力、脅迫の罪で。もちろん、本人たちの同意を得ることが大前提だが、それが、二人を助けることが出来なかった自分にできる、せめてもの……。
「ヴェルナー」
 思考を中断し、声のした方を見た。額を包帯に覆われた、サラ。目が、開いている。
「気がついたのか」
「うん。ヴェルナーとフレートが話し始めた、割と最初のほうで。ここ、おじいさんの家の、医務室だよね? 運んでくれて、ありがとう」
「途中からは、絵里だけど。何で俺が背負ったって知ってんの? 気絶してたんじゃ」
「してたよ。けど、運んでくれるなら、ヴェルナーだろうなって思った。ヴェルナーも、怪我したの?」
「左手首と、右足を、ちょっと。まあ、平気」
 依然として右足の銃創は熱と痛みを帯びていたが、わざわざ心配させることはない。サラも特に疑いもせず、頷いた。
「この間会ったけど、ちゃんと話すのは、半年ぶり、だね」
 ベッドに横になっていることで気が抜けているのか、いつもよりは刺々しさの薄い、言い方。それだけで、半年の間に隔たった溝が、少し、埋まった気がした。今なら、フレートが来る前に考えていたことを、伝えられる気がした。上手く伝えられるかは分からないが、今のサラなら大丈夫だという、妙な安心感があった。
「サラ、さっきはいきなりすぎて、上手く言えなかったけど……。俺、ずっと、半年前のこと、謝りたかった。理由も聞かずにサラのこと、疑って……」
「ヴェルナーは謝らないで。私も、謝りたかった。あれはね、ヴェルナーのせいじゃない。私が自分の事を、よく知らなかったせいだった」
 ごめん、が喉元で出かかっている気持ち悪さを堪えた。サラが、謝らないでと言ったのだ。ここで謝っても自己満足にしかならない。サラの話を聞いてから、判断することにした。
「聞いてもいいか? 俺の知らない場所で、サラに何があったのか」
「ん……。自分でも、まだ、考えをまとめきれてないから、長くなるかもしれないけど……。それでも、いいなら」
「ああ。サラがどう考えてきたのか、いろいろ、聞いてみたい」
 サラはひとつ、大きく息を吐いてから、話し始めた。
「私が、この事件の端緒を知らされたのは五年半くらい前。メルヒオル・グレーナーが、軍需産業に手をつけた辺りから。おじいさんは業界のコネをフルに活用して、その後の情報を追った。時には傘下企業の内部にスパイみたいなものまで用意してね。それから、私と絵里は、毎日、訓練をさせられた。五年半前だから、私が中学一年生の夏頃、絵里が高校一年生の夏頃、かな。一歳になる前から祖父に預けられて、徹底的に命令を無視できないよう教育されてきたから、抵抗はできなかった。おじいさんの雇った部下に混じって、女二人で、何の自由もなく、訓練漬け。自分が人形であるとでも思わないと、ついていけないほどの訓練量だった。感情を出すと、自分が人形でないことが、自分自身にばれてしまう。みんなと談笑すると、自分が人形でないことを、自分自身が認識してしまう。人間らしい行動は、私にとって、アイデンティティの崩壊に直結するものだった。そんな人間が、集団生活になじめるわけがない。私が周りから孤立してたのは、当然のことだった。でもその時はまだ、良かった。絵里が居たから。血を分けた姉が、そばにいる、血を分けた姉は、抵抗できない苦しさを解ってくれる。それだけでよかった。でも絵里は、高校を卒業すると、私を置いて出て行った。それから、私は、何のために生きているのか分からなくなった。そんなときも、ヴェルナーが、いた。ヴェルナーが、そばにいてくれた。中学最後の……体育祭を、見に来てくれた。私の好きなものを、リースのメニューに、わざわざ、追加してくれた。高校の授業参観日に来てくれた。体育祭に来てくれた。三者面談に来てくれた。リースで雑談に付き合ってくれた。でも私ね。ヴェルナーが、絵里のことを好きだったのは、知ってたよ」
 サラは、天井を見つめながら、言葉を紡いでいく。
 絵里が好きだったことを、サラに悟られていた。驚きと同時に気恥ずかしさもあり、言い訳をさせてもらいたかったが、話を挟むことはしなかった。本当のことだ。
「当たり前だよ。訓練のせいでおかしくなる前の絵里は、本当に素直で感情豊かで、妹の私から見ても、魅力的だったから。だから、私、絵里がおかしくなって、ヴェルナーと距離を置いてからも、必要以上に感謝を表しはしなかった。ヴェルナーは絵里が好きなのに、私がべたべたして、誤解されちゃったら、困るから。ヴェルナーの迷惑になるような事は、絶対にしたくなかったから。けど、それがいけなかったんだと思う。私は、自分の気持ちを抑えつけることを覚えた。絵里が、私を置いて出て行ってからも、同じように抑えつけて……。今日初めて、気がついたの。ヴェルナーに責められたあの日に、自分が制御できなくなった原因が、その、抑えつけてきた気持ちに起因するってことに」
「抑えつけた、気持ち?」
「ヴェルナーは、みんなにやさしい。私が苦しんでる時にしてくれたことを、絵里にも、コルネリエにも、神代くんにも、常連の人にも、同じように、平等に、してる。絵里から聞いたかもしれないけど。私は、ヴェルナーのみんなに対するやさしさを、八方美人って言って、嫌ってた。私は、特別じゃない。私が特別じゃないやさしさなんて嫌い。自分でも呆れ果てるほど……わがまま。それでも、私は、昔から、ヴェルナーのやさしさを独占したかった。ずっと、ね」
「俺は、そんなに、大した人間じゃない。だって、そうだろ? サラも、絵里も、そんなに長い間苦しんできたのに、俺は、そんなことも知らずに、日常の悩み程度しか持たないで、能天気に、話しかけて。今回の事件でだって、サラに迷惑をかけて、周りに流されるまま、周りの人たちに任せきりで、ただ、呆然と突っ立ってるだけ。そんな人間のどこが、やさしい?」
 授業参観に、体育祭に、三者面談。そんなものに出たから何だ。親の代わりに出るくらいなら、誰だってできる。それどころか、そんなに長い間接してきて、サラが、祖父に隷属を強いられていることに気付けなかったなんて、相当な馬鹿だ。加えて、今回の事件では本当に、何もできなかった。自治区に対して何ものかの介入があることは教えられていたのに。排他主義者と同化推進派の争いが拡がっていくのを、ただ、指をくわえて眺めていただけ。
 しかしサラは、ヴェルナーの後悔の念には、反応してくれなかった。
「ねえ、ヴェルナー。ヴェルナーって、ずるいよね」
「は?」
「いつもいつも、私が、一番困ってる時に、助けてくれる。知ってる? さっき、貴方が電話を掛けてくるのが何秒か遅かったら、私、死んでたんだよ。自殺行為をしようとしてた。私が死んだとしても、確実に上手くいく保証もないのにね。声が変だったのは、そのせい。情けないけど、死ぬのが怖くて……泣いてたの」
「車の中でも、泣いてたけど」
「見られてたか。あれは、ああ、生きてて良かったなあ、の涙」
 サラはそこで、布団をめくり上げた。安静にしてろ、とヴェルナーが注意する間もなく立ち上がり、ベッドとベッドの間の丸椅子に、座った。サラの赤い眼が、真っ直ぐにヴェルナーを見据えている。
「ずっと、絵里が羨ましかった。ヴェルナーに酷いこと言った日も、無意識に、絵里を、妬んでたんだと思う。絵里は、三年ぶりに、帰って来たばっかりだった。それなのに知ったような顔をして、ヴェルナーに何かを言った。そしてそれをヴェルナーが信じて、私を、責めた。それが、ヴェルナーが絵里のことを信頼している証拠みたいで、苛立たしかった。たぶん……嫉妬、だった」
「嫉妬……」
「そろそろ、私の考えてること、分かってきた?」
 いつも他人と正面から目を合わせることなどしないサラが、まだ、視線を外さない。



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