26 ◆

 コンビニの店内でマスクを買い、装着し、外に出た。
 事故で死んだ父がいる自分だから、神代の不安も、全く無関係とは感じられなかった。だが、産まれる前に事故で死んだ人、という事実しか残っていない自分とは違い、神代にとっての父親は、共有した時間が果てしなく長く、代わりなんて、どこにも存在し得ないだろう。ましてや神代は、どんなに背伸びしても、高校生だ。彼にのしかかる様々な圧力の大きさは、計り知れない。ヴェルナーにとってのホルストのような、親代わりが都合よくいるかもわからない。
「ねえ、ヴェルナーさん」
 コンビニの駐車場前の歩道で、粉塵に包まれたビル群のほうを窺っていると、名前を呼ばれた。振り返る。
「さっきから考えてたんですけど。これやったの、やっぱり、ROTの、排他主義者、って奴らなんすかね」
 神代はそう、呟いた。
 排他主義者なんて、この間まで民間人だった連中だ。そんなことを言っても、今の神代には何の意味もないだろう。これだけ争いが激しければ、ROTを疑っても仕方がない。
「なんなんでしょう。あいつら。同族同士で殺しあって、子供でも関係なく陵辱して殺して、何の罪もない日本人まで巻き込んで、殺して、殺して、殺して……。血の色みたいですよね、あの眼。気味が悪い」
 目の前にいるヴェルナーと絵里がROTだということにすら、頭が回っていないようだった。コルネリエが聞いたら倒れそうな最後の一言は、聞かなかったことにした。駐輪場に向かった神代に、何も、言葉はかけなかった。
「俺、帰ります。母親に、伝えなきゃ」
 無表情のまま自転車に乗り、漕ぎだしたその背中を見つめていると、神代とのやりとりの間は一言もしゃべらなかった絵里が、ヴェルナーの名前を呼んだ。
「お前、最後のくらいは、感情出して反論しろよ。自分の身体的特徴を、気味が悪いって言われたんだぞ? サラは昔から、お前のことを八方美人、八方美人って言って苛々してたけど。お前にはその言葉は合わないね。もし本当に八方美人だったら、もっとうまく人間関係を処理できる。お前はただ、臆病なだけだ。感情を出す方法を知らない、子供のまま」
「なんでお前が怒る」
「怒ってねぇよ。苛ついてるだけだ」
「それを怒ってるって言うんだよ」
「感情を出せよ。……慰めたらいいのか、何もしなくてもいいのか、分かんねぇだろうが」
 ぶっきらぼうな言い方に少し笑ってしまったが、マスクをしているから、気付かれてはいない。絵里に再会した日の自分と、似たような内容を呟いたことに、彼女は気付いているだろうか。
「自分でも不思議なんだけど。俺は、お前とコルネリエとサラと父さんに関する以外のことで、ほとんど、頭に血が上らない」
「変な奴」
「ただ、気味悪がられたのはさすがに応えた……かな。慰めてくれるのか」
「はっ……時間切れだよ、ばぁか」
 軽く笑った絵里が、ジャージのポケットに手を突っ込んで、黒色の携帯電話を取り出した。そしてなにやら操作してから、砂塵がところどころについた顔を上げた。
「敵拠点の一つが見つかったらしいから、行ってくる」
 その辺を散歩してくる、くらいの調子で言った絵里は、マスクを外して、ゴミ箱に捨てた。そしてあの、含みのない笑いを、浮かべた。笑顔につられ、自然と、彼女の身を案じる言葉を、発することができた。
「俺は、これしか、言えないけど……気をつけろよ。本当に。また、近いうち、会おう」
「うん。また、ね」
 絵里と別れて、自宅へ戻った。
 部屋に入った途端、油の香りが漂ってきた。何かを炒めているような音もする。靴を脱ぎながら台所を覗くと、コルネリエが料理をしていた。
「おかえり。夜ご飯、もうすぐ出来るから。待ってて」
 コルネリエは、繕った笑顔は浮かべなかった。自治区が封鎖され、店を休業することを決めたその日に、無理に元気であることを装うのはやめてくださいと、ヴェルナーが頼んだ。
 料理の分担は決めていない。作りたい方が作り、時には二人で一緒に作ることもある。二人ともリースでは毎日料理を作っていたため、それなりに腕は良い。加えて、新メニューを作る際の試食や普段の食事では、味覚が割と似ている。互いに、外れ、の料理を食べさせられることはほとんどない。
「おかずは何ですか?」
「もやしにカレー粉まぶして炒めたのと、鶏肉と春雨の南蛮あえ」
「おいしそうですね」
 コートを脱いでベッドに放ろうとして、部屋中に買い物袋が散乱していることに気づいた。手近な袋の一つを漁る。電池で動く携帯電話用の充電器と、大量の電池が入っていた。次の袋には、大量の缶詰。水だけで調理可能な飯ごうキット。次の袋も缶詰だけ。
 この間は、大量のティッシュ箱とトイレットペーパーを買い込んできていたが、種類と量が、その比ではない。
「そろそろ食料品も高騰すると思ってね。何もないところで三ヶ月過ごせるくらいは、買い込んでおいた」
 コルネリエが、鶏肉と春雨の南蛮あえを載せた皿を、持ってきた。取り分け皿は、洗うための水道代がもったいないからと、使わない。そのまま二人でつついて食べる。
「そうですね。さっきのテロで、自治区の立場はさらに苦しくなりそうですし」
 何しろ、日系企業が甚大な人的被害を被ったと予想される事件だ。今後の影響を考えれば、この買い込みは当然だろう。神代の思い込みが一般的な理解だとすると、自治区に対する締め付けは今以上に厳しくなる。
「え、何それ?」
 しかし台所に戻りかけていたコルネリエは、何も知らないというように、振り返った。
「知らないんですか?」
「うん。電池が特売だった電気屋に行ったけど、そこのテレビでは何にもやってなかったよ。近くのオフィスビルで、手抜き工事されたのが倒壊したって奴以外は……」
「違いますよ」
 規模が大きい被害には、誤報が付きまとう。だが今はもう、正確な情報が入りかけている頃だろう。
 ヴェルナーは、テレビをつけた。コルネリエが巻き込まれた大衆性には嫌悪感しか抱いていないが、リースにあるパソコンでしか、ウェブサイトは見られない。定額制に入っていない携帯電話では料金がかさむ。速報性という面では未だにテレビに頼ることが多い。
 テレビの画面は、左端に裏返り気味の声でまくし立てる若い男性レポーター、中央に人間の群れ、そして遠景に、瓦礫の山を映し出していた。殺到する報道陣と、バリケードとおぼしき白い鉄柵を抱えた警察官とが、もみ合いになっている。カメラマンは警察官の表情にピントを合わせた。
『どけよ! どけよ! 救急車が通れない!』
 退去を求める声を無視し、カメラに向かって喋り続けるレポーターを、警察官が突き飛ばした。
『道を開けろ! 助けられる奴まで殺す気か!』
 オフィスビルの周辺は、住宅街だ。家と家が密集していて、路地が狭い。救急車の通れる場所も限られているのだろう。
 警察官の要求を受け入れ後退を試みる人々、その人々と入れ替わりに前へ進み、いい中継位置を確保しようとする連中。そんな報道陣の波の中で揉まれたらしいレポーターが、額から血を滴らせながら、立ち上がった。彼は憤怒の形相になって画面に背を向け、中指を立てて、何か訳の分からないことを、警察官に向けて叫んでいる。画面に他の手が伸び、レポーターから、ピンマイクをふんだくった。
『一時中断します』
 少しの間画面がブラックアウトし、ニュース番組のスタジオに映像が戻された。
『自治区で爆弾テロ? 排他主義過激派の関与濃厚』
 右上のスーパーには、そう書いてある。中継先のことには何も触れずに、アナウンサーと解説者が台本通りの質問と回答を繰り返し始めた。画面下端を分割したスペースでは、確認された死者の名前が、ふりがな付きで流れていた。ヴェルナーはしばらく黙って画面を見つめ、その中に『死亡 神代克敏(くましろかつとし) 四十八歳・男性 会社員』という表示を見つけてから、テレビを消した。
 神代と書いてくましろと読ませる名字は、よくあるものだろうか。……ない、だろう。
 死が確実に、周囲を侵食してきている。初めは、自治区長。少し離れて、見ず知らずの家族。今度は近づいて、母代わりの人間の友人。次はまた離れて、排他主義者、同化推進派、自警団の構成員たち。そしてバイト先の後輩の父親が呑み込まれ……また、身近になった。
 次は? と考えることの寒々しさ。ヴェルナーは、冬の冷え込みと入り交じったその感情に軽く体を震わせた。
「ストーブ、つけますね」
 次は。自分の番じゃないか。それとも、自分が、大切な人間を、喪う番、か。
 コルネリエを見た。コルネリエは黙って、台所に戻っていた。白いパジャマの上に浅葱色のカーディガンを羽織ったその背中を見つめ、それから、俯く。
 石油ファンヒーターの温風口に手をかざした。早く体が温まれば、この震えも、きっと、止まってくれるはずだ。


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