二章幕間 ◆

 肋骨に激しい振動を伝える鼓動。肌着やルームウェアを不快なほどに濡らしている汗。
 上半身を起こして布団をめくりあげ、しばらくそのままでじっとしていたら、隣で眠っていたコルネリエが、目を閉じたまま不機嫌そうに眉根を寄せ、
「もう朝?」
 と呻いた。ヴェルナーは、枕元の携帯電話で時刻を確認しようと体をねじった。コルネリエにぶつからないよう、よけてついた手にも、汗が伝わってくる。シーツにまで、汗で、水たまりのようなものができていた。
「午前、三時七分」
 携帯電話のバックライトと、豆電球が、微かな白色と橙色で部屋を包んでいる。
「三時? 何よ、それ」
 コルネリエが目を開けた。少し大きめのシングルベッドに二人で眠っているので、豆電球程度の明かりでも、相手の動作はわかる。
 そして目を開けた途端、コルネリエは勢いよく起き上がった。
「ヴ、ヴェルナー、どうしたの」
「いや、ちょっと……」
 コルネリエが薄闇の中で手を伸ばすと、部屋の中央にぶらさがっている電気傘が揺れた。点いた明かりに目を細める。
「何この汗……熱でもあるんじゃない」
 コルネリエの手が、額に当てられた。しかし、さほどその手が冷たくは感じなかった。
「熱はないね。どうしたの、本当に」
「わかりません。起きたら、こうなってました」
「とにかく、それじゃ風邪引いちゃうよ。着替えないと」
 眠るときだけ羽織るフリースの裾に、手がかけられた。
「や、自分で脱げますから」
「あ、ああ、ごめんごめん。昔の癖で」
 コルネリエが、慌てて手を離した。
「ここで暮らすようになってから、昔の癖、出すぎです」
 畳んで置いたままだった洗濯物から、着替えを手に取った。居間との仕切りを閉め、台所で、汗を拭き取りながら下着まで全て着替える。着替えている最中、外で激しいクラクションが鳴った。
 仕切りのすりガラス戸を開けると、コルネリエが、カーテンの中に潜り込み、窓の外を見ていた。こんな真夜中に鳴ったクラクションの音が気になったのだろう。
「どうかしましたか」
「来てみれば分かる」
 同じようにカーテンをめくり、窓際に顔を寄せた。一瞬、普段通りの夜道に思えたが、その暗闇が、蠢いているのに気付いて、街灯付近を中心に見た。それは、人の群が、間断なく押し寄せ、黒髪や茶髪が、道を形作っていただけだった。
 コルネリエに、視線を転じる。彼女は、ヘアアイロンを使って巻く前の、真っ直ぐに伸びた髪の毛先をいじっていた。
「なんでしょう、これ」
「進行方向は自治区外だから……単純に考えると、自治区から逃げ出す人たち、じゃないの? 日本人だけだったらこんな大群集にはならない」
「でも、区境は封鎖されて」
「人数で押し切るつもりかも」
「無茶ですよ、警察と自衛隊相手に」
「分からないよ、ヴェルナー。あの人たちは、実際に行動を起こしたんだから。どうする、私たちも加わろうか?」
 コルネリエとヴェルナーがそれぞれ言葉を発するたび、窓ガラスが少し曇って、また元通りになってを繰り返した。
「加わるかどうかは別として、着替えておいた方がいいと思いますね。何か、起きるかもしれない」
 コルネリエはすぐに、ルームウェアに手をかけた。
「少し、カーテンの中にいてね」
 衣擦れの音をなるべく意識しないように、窓の外に神経を集中させた。のろのろと進む人混みを、遠景ライトを点けた車両も後をついていく。何かあったら、将棋倒しでも起きそうな密集陣形だ。何もそんなにくっついて歩かなくても、とは思うが、もう歩いている当人たちにはどうしようもないのだろう。止まれば押され、急かせばぶつかる。呼吸を合わせて歩いていく様は、まるでひと塊の生物のようでもある。
「もういいよ、ごめんね。準備しよう」
 コルネリエに声をかけられ、窓際から室内に戻った。コルネリエは、ヴェルナーの貸している男物の服装に着替えていた。
 玄関の扉が開く音がした。
 油断した。家にいるからと鍵を掛けずに居ていいのは、半年以上前の自治区だけだ。コルネリエの腕を取り近くに引き寄せる。居間と台所の仕切りのすりガラス戸に、侵入者の陰影が映った。身構える。戸が開く。
 影の主は、絵里だった。戸が開き切ると同時に、ばたばたと血が飛び散り、当人はフローリングの床に前のめりに座り込んだ。
「ごめん、ごめん、ごめん! これ以上、好き勝手させないつもりっ、だったんだけど! 頼れるやついなくて、それで、どうしよう、あいつら、いかれてる!」
 全く事態が呑み込めないが、叫ぶ絵里に治療が必要なのは分かる。部屋の隅の三段チェストに取り付き、一番下の棚から、救急箱を引っ張りだした。
「いきなり、撃って、巻き込まれて、全員!」
「どこ、怪我した!」
 要領を得ない言葉を遮り、怒鳴る。救急箱から包帯とガーゼを見つけ出し、包装を引き千切るようにして破った。コルネリエは消毒液のキャップを取り、多量を振りかけられるようにしている。
「ひ、左手。怪我は大丈夫だから。とにかく、知らせようって!」
「何を!」
「敵の部隊が表立って動き始めた! この辺りもすぐに」
 言い終わるか否かのところで、激しい発砲音が深夜三時の街路中に轟き、窓ガラスが割れ、すりガラスが割れ、電気傘が割れた。全員がまとまってフローリングに座っていたので、身を寄せあってその音が止むのを待った。電灯はかろうじて無事だった。
「ここも危ない! 早く逃げないと! 制圧されたら、逃げられなくなる!」
「絵里!」
 まだ息遣いも荒く、頬を上気させて平静を取り戻さない絵里に対し、ヴェルナーは真正面から名前を呼んだ。
「何があったか、言いたくないなら、言わなくていい。敵の部隊は、どこから来た。俺たちは、どこへ行って、何をすればいい」
 絵里と目を合わせて、なるべくゆっくりと、区切って言った。ヴェルナーの手元には今、情報が一切ない。絵里が頼りだ。
 絵里は、目を逸らし、黙り込んだ。コルネリエが、絵里の腕を引っ張り、左手に、消毒液をぶちまけた。半透明の液体がフローリングの床に飛び散った。痛みの為か、一瞬だけ腕を引いたが、すぐにコルネリエの消毒に、身を任せた。ヴェルナーは一枚のガーゼを取り出して左手全体を拭き、もう一枚のガーゼを、出血している箇所に抑えつけ、包帯で巻いて固定した。
 その間にも、間断ない銃声と悲鳴が、路地の方から聞こえてきた。部屋を襲った銃弾の雨が、外でも吹き荒んでいる。
 絵里は、左手を握ったり開いたりした後、コルネリエを見、ヴェルナーを見た。
「ありがとう。ごめん、取り乱して。敵も不死身なわけじゃない、冷静に、なんねぇとな……」
 先程から出していた女性らしい高音が消え、いつものような低い声に戻っている。パニックは、収まったのだろうか。
「資料では、敵は、区庁舎を中心に据えた同心円状に、ROTを追い込むみたいだから、ここから逃げ込むなら、警備の堅いジジイの家がいい」
 絵里が、バックパックを下ろし、中から、拳銃を、取り出した。絵里はその拳銃の銃底を、ヴェルナーの腹に押し当ててきた。
「銃なんて使えない」
「そんなことはどうでもいい。敵実行部隊の連中を殺してでも生き延びたいか、殺すくらいならただの市民として死にたいか。どっちだ」
 どっちだ、と唐突に聞かれても。当惑が顔に出ていたのか、絵里は無理に答えを求めず、コルネリエに、目を遣った。
「コルネリエ、一応、あんたにも聞いとく。どうする。私はこれで、三人、やった。人殺しになりたくないなら、ここへ残れ」
 体育座りに近い格好のコルネリエは、髪の毛先をくるくると巻いて弄んでいる。
「敵実行部隊って、あの男に、美晴ちゃんを殺させた連中?」
「そうだ。矢内美晴はこの部隊の策動で殺された」
 コルネリエは、躊躇いなく、手を伸ばした。ヴェルナーの腹に押し当てられていた拳銃を、ヴェルナーの代わりに受け取った。
「後で使い方教えて」
「分かった。とにかく今はジジイの家まで逃げるだけだ」
「絵里。敵は、どうしても殺さないとならないのか」
 惨殺された自治区長の葬儀を伝えるニュース。その映像の中で、掲げられていた遺影。欠伸混じりのドライバーが乗るトラックに、ゴミとして積み込まれていく、先日まで家屋だった消し炭。感情の吐き出し口として割られた窓ガラス、役目を果たせなくなった鏡台、壊れたオーブントースター。
 ここまできて。血の色だと指摘された眼をもつ人間が。そう、絵里には笑われるかもしれない。だが、自治区をここまで追い込んだ人間と同じことをするには、自分でも、納得できる理由が欲しかった。すると絵里は、こちらの心の裡(うち)を見透かしたように、薄く微笑んで、首を軽く傾げた。
「来いよ。良心なんて持つだけ無駄だってことが分かる」
 部屋を出る絵里に、ボストンバックを持って、続いた。
 絵里は周囲の安全を確認した後、手で指し示した。
「見ろ」
 アパートの、くすんだ壁面の向こう。
 先程まで聞こえていたはずの悲鳴はもう、ほとんど、聞こえない。車が、一台だけ、燃えていた。一呼吸のたびに激しさを増す炎が、夜半の路を照らす。吸い寄せられるように、少しずつ、近づいた。根源的な烈火の周囲で焼け付きそうになっているのは、累々と横たわる、死体だった。脳漿がただれ落ち、頭の半分が吹き飛び、肩から外れかけた腕の筋肉が露出し、腸が零れている。それは、たった一つの死体に刻まれた損傷。それが、数十、下手をすれば、数百。
 ヴェルナーは、口を押さえたが、間に合わなかった。その場に、蹲った。吐けるだけ、吐いて、吐き出せるものを全て吐き出した。
「別の場所でも、この虐殺が、あった。自警団特務部隊とジジイの部下が、公民館で会議中でね。私は、居場所がなくて、玄関先で、ぼうっと会議の内容を聞いてた。したら、いきなり二階から、あいつらが降りて来た。特務部隊の連中もジジイの部下も次々に殺された。で、入り口を塞ごうとした敵をどうにか殺して逃げたら、街中にも、こんな状況が広がってる。そこで私と同年代の女が、どう見たって死んでるのに、犯されてて。もう、わけわかんなくて、パニックになって。お前の部屋に、逃げ込んだ」
 地面から一旦顔を上げると、炎に横顔を照らされた絵里も、口を押さえて、眉間に皺が寄るほど強く、目を瞑っていた。
「私らの先祖も、余計なことしてくれたよね。メルヒオルは本気。本気でROTに滅んで欲しがってる」
 また、吐き気を堪え切れなくなり、コンクリートに向かい合った。
「自治区抹消。ROT自治区抹消計画。敵の拠点のひとつで手に入れた資料には、そう書いてあった」


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