25 ◆

 休みの日は大抵、用もないのに駅前をふらついたり、テレビを見たり、経営に役立ちそうなビジネス書を読んだりして、過ごしてきた。今もその延長上と考えればやることはいつもと変わりがないはずだが、自治区が封鎖され、安全が脅かされる地域にいて、普段は働いている曜日に何もすることがなく、漠然とした不安に覆われている中では、時間を持て余してしまう。転居の次の手立てが考え付けば、すぐにでも実行に移す準備はできているのに。
 昼食も食べ終わり、本調子でないコルネリエも寝入ってしまい、そこへ絵里が来たので、軽く話し相手になってもらった。リースに通うようになってからの絵里は、それなりに言葉に反応してくれる。もう、昔ほどは、嫌われていないようだ。
 絵里に嫌われ始めたと分かったのは、確か、絵里が高校一年で、自分が大学二年の、夏。その日は休日で、まだそれほど繁盛していなかったリースの窓際席で涼んでいると、いつもだったらリースに入る絵里が素通りしていくのが見えた。店を出て、歩いていた絵里に声を掛けると無視され、聞こえていないのかともう一度声を掛けたら、『うるさい』と怒鳴り返された。様子の違いに戸惑っているなかで、絵里が振り返った。そのとき絵里は、泣いていて、何も言えずにいると、突然面罵された。その日からだ。絵里の言葉遣いが粗暴になっていったのは。
 絵里が、決められた進路に反発して家を出たのが、高校三年時の七月頃だったから、それまで二年に渡って嫌われていた計算になる。理由を問い質そうとして何度も失敗し、諦め、苦笑で流し……。何もできなかったことに対しては後悔しているが、二年もよく耐えたと、誇ってもいいのではないかとも思える。
 二杯目が欲しいという絵里に応えて作ったココアを渡しながら、だらだらと話を続ける。
「くだらない奴ばっかり。少しは良さそうって奴とも会えなかったし」
「絵里の基準は厳しそうだな」
「そっちこそ、コルネリエとはどうなってんだよ」
「特にどうとも……。姉とか、母親みたいな人だし」
「サラは? 私のいない三年で、女らしくなってたけど」
「んー……サラも、妹みたいな……」
「いつも一緒にいる異性がなんで家族扱いになるわけ? 恋愛感情はどこに忘れてきてんの?」
「そう言われてもなぁ……。どっちとも歳が離れてるから。お前に対してなら、ある。そういうのは」
「へえ」
「反応、薄いな」
 絵里は笑った。
「女三人としか交友関係がない奴の言葉なんて取り合うだけ無駄。ありがちな恋愛小説とかだったら、女たらしのクズに仕立てあげられてるよ」
「何言ってんだよ。俺だって……父さんとは電話でよく話すし、神代とも結構話が合うし、常連の黒沢さんとも……」
「はっ……他は?」
「……いない」
「同数じゃ信用できないね」
「信用しろよ。だって、普通……」
「ん?」
「なんでもない」
 普通、恋愛感情も何も持っていない奴に毎日毎日因縁つけられてたら、怒るか無視するだろ。……とは言えなかった。さすがに、それを言ったら、ふざけた雰囲気では済まされなくなるかもしれない。せっかく、絵里がまともに話してくれているのに、そうしたくはなかった。
 あの頃は、コルネリエのことも少し落ち着いて、大学の授業に追われながらも、その合間の、のんびりとした日常を楽しんでいた。今ではサラの方が愛想がいい笑い方をするが、そのときの絵里は、サラよりずっと、無邪気な笑い方をしていた。サラは十二の頃には既に喜怒哀楽の表現が落ち着いていて、十六の絵里は、歳相応の感情表現を見せてくれて、安心できた。十九と十六の差はどうなんだろうと悩んでいたような気もする。
 それが、三年ぶりに会ったというのに出会い頭に舌打ちしてしまうような、疎ましい存在になって、今また少し、近づいている……。
「不思議だなと思ってさ」
「何が」
 ミルクココアを少しずつ飲んでいる絵里が、コーヒーカップから口を離し、目をしばたかせた。
「今こうしてることが。お前、俺のこと、軽蔑してたみたいだから」
 絵里は、コーヒーカップを床に置き、やや俯く。
「軽蔑はしてない。けど……まあ、嫌ってた。ジジイがらみで、私にはどうしようもないことが重なって……」
「うん」
「いや、そんなの、言い訳か。ヴェルナーには関係ない。私の都合、だった。私の都合で、勝手に。お前には何の非もない。全部、私のせい」
 そう言って薄い金色の髪を掻き上げ、赤い眼でこちらを真っ直ぐ見つめてきた絵里は、口を少し開けたまま、止まった。
「あー……。あの……」
 聞いているという意味を込めて、軽く頷いた。
「ご」
 絵里は、あぐらを崩して、その場に正座した。
「ご……」
「ご?」
「ごめん」
 そして、床に手を突き、頭を下げられた。
「ごめんなさい。二年近くも、不愉快な思いさせて」
 今までに聞いたことのない、か細い声だった。ヴェルナーは面食らってしまい、すぐには言葉が出なかった。絵里が、顔を上げ、苦笑いした。
「いきなり謝られるのとか、迷惑? 自分勝手な話なんだけど、お前に、あんなに酷い扱いしてきたのにさぁ……サラにやられたあと、あの雨の中、わざわざ目が覚めるまで待って、家まで運んでくれたでしょ? あれ、すごく、嬉しくて。もう一回やり直せるのかなって、思って。でも、昔の自分がしたことなんて、今更どうにもならないから、謝るタイミングが掴め……なくて。リースに通って、言おう言おうって思ってたんだけど、言えなくて」
 自分の記憶にある限りでは、絵里は、謝ることに慣れていない。それを反映してか、視線をあっちへ向けたりこっちへ向けたりしている。
 その落ち着かない様子がなんとなく可笑しかったが、笑みを押さえる。
「二年もやられて」
「それは、そう、だよな。無理言ってごめん……」
「まだ話してる途中。二年もやられてたけど、あれから三年以上経ってるし、お前がリースに通い出してから、そんなの、気にしなくなってたし。いいよ、もう」
「でも……それじゃ、なんか、釣り合わない」
「じゃあ……」
 何か絵里が気が済むような条件を考えようとしたが、ほどなく思い浮かんだ。昨日の朝まで、ずっと懸念していたこと。
「リースの従業員になる、ってのは? 神代はいるんだけど、最近はバイトだけじゃ手が回んなくて」
「は? 何言ってんの。店は閉じてるんだろうが。それに私、コルネリエとだって」
「再開したらだよ。そのくらいで許すんだから、簡単な話だろ」
 ぐ、と絵里が言葉に詰まった。
「それに俺は二年間も苦しんだんだし」
「ついさっきと言ってること違うじゃん。こっちが下手に出れば……。やっぱり、お前、嫌いだわ」
 絵里は正座を崩し、あぐらを組み直した。膝の上に片肘を突き、手のひらに不機嫌な顔が載る。
「さっきからお前の携帯、光ってるけど、放っといていいの?」
 言われて振り返ると、床に放られたままの携帯電話が、紫色のランプを点滅させていた。マナーモードにしたままだったようだ。手を伸ばして取って、待受け画面を確認した。不在着信通知が二件。どちらも神代からのもの。午後一時十七分と、五十五分。今の時刻は、午後二時十三分。
「いま、掛け直していい?」
「勝手にしろ」
 絵里が目を逸らしたのを横目に、神代へ電話を掛けた。
 神代はすぐに出て、こちらに何を言う間も与えず、まくしたてた。
「あ、ヴェルナーさんですか? 無事なんですね? 今日午前中授業で、ちょっとリースに寄ろうと思ったら、店ん中に入れなくて……。張り紙だけしてあって。なんなんすか、何かあったんですか?」
「落ち着け。会って説明する。リースの近くにコンビニがあるだろ、そこで」
「すぐ行きます」
「あ、すぐだと困……」
 もう、切れていた。
 軽く溜息を吐き、コーヒーカップに口をつけている絵里に、目を向ける。
「絵里。午後から、予定は?」
「ない。非常時の待機命令だけ」
「神代に会うんだけど、一緒に行く?」
「何で?」
「なんとなく」
「……行く。どうせ、暇だし」
 話している最中、急用でもない用事で帰すのはいくら絵里でも失礼かと思い、誘った。しかし絵里は断るだろうと予想して口にしたので、少し、間が空いた。危うく「行くのか?」と訊き返しかけた。
「何突っ立ってんの? コルネリエ、起きてヴェルナーが居なかったら不安がるよ」
「あ、ああ。メモ残しとく」
 コルネリエはまだ眠っていたので、居間の机の上に『神代に会って状況を説明してきます。夕食までには帰ります』というメモ書きを残し、絵里のバックパックに入っていた品々を添え、鍵を閉めて家を出た。
 少し距離を開けながら、それでも隣合って、近くのコンビニへ歩く。絵里はジャージのファスナーを一番上まで上げ、そこに顔を埋めて、ポケットに手を突っ込んでいる。言動や行動とは違い、白い肌に薄い金髪が重なり、ひどく頼りなく見える。そこから、肌よりも更に白い息が時折吐き出されると、なんともいえない気分にさせられる。もちろんそれは、堂々と見つめた感想ではない。住宅で飼われている犬を見るふりをしたり、児童公園を覗くふりをしたりして、思ったことだ。
 特に会話もなく、コンビニに着いた。黒いブレザーを基調とした制服の上に灰のセーターを着込んだ神代が、ゴミ箱の前に立っていた。
「あ! ヴェルナーさん。絵里さんも来てくれたんですか。ありがとうございます、わざわざ。とりあえず、中、入りましょう」
 こちらに気付いた神代が、手をすり合わせながら言う。マフラーでは覆いきれない頬が、赤い。
 コンビニ内の窓際の空間には、カフェテリアと呼べるほど洒落たものではないが、よく掃除された質素なテーブルと椅子が、備え付けられていた。暖房もかかっていて、学生たちの溜まり場になりそうな所だ。実際、手前側の三つのテーブルに、神代と同じ高校の制服を着た先客が陣取っていて、一番奥まった席に座ることになった。空きテーブルは二人掛けで、その奥にあるカウンター席のようなものにも、空きが二つで、ちょうどいい。ガラス窓越しに、住宅街のすぐ近くにそびえるビル群が目につく。
 神代は、テーブルに荷物を置くと、フライドポテトを注文しに行った。自分と絵里は、ガラス窓に面する、カウンター席もどきに座った。ガラスに映る絵里は、ポケットから手を出し、ファスナーを中の黒シャツが見えるくらいまで下ろした。
「お前、中、そのシャツだけ?」
「ブラの上に、夏物の半袖一枚。あとはこの黒シャツで、ジャージ」
「よく平気だな……」
「リースに行く金程度しか、自由にできる金、持ってねぇし。これと、一昨日、リースに着てった奴しか、冬服はない」
 一週間に二度ほど来店する中で、確かに、ジャージと、一昨日の服にしか、着ている服の覚えはなかった。お気に入りの装いなのかと勘違いしていた。
「俺のコート、二着あるんだけど、一着、やろうか? 男物だし、絵里が嫌いそうなデザインだけど、結構、暖かい」
「今日は妙に優しいね。さっきも、なんとなく、で誘ってくれたし。こいつ可哀想だからとか、思ってんの?」
 全体的に冗談めかした言い方だが、最後は、苛立ちが滲んでいた。ガラスに対面するのをやめ、絵里の方を見た。
「別に。今日は、久しぶりにお前と、しっかり、話せたから。少しは生きやすくさせてやれたらなって、思っただけだよ。今のお前って、本当に無愛想だし、辛くなっても、他人を頼らなそう」
「悪かったな。無愛想で」
「笑い方も、可愛げがない」
「笑い方まで、査定されんのかよ」
 絵里が、笑った。含意なく。
「あ、今のは、可愛い」
 ……余計な事、言った。慌てて目を逸らす。
 絵里の反応が返ってくる前に、助け舟が、すぐ近くを漂ってきた。
「じゃあ、聞かせて貰いましょうか」
 真剣な話になると分かっているからか、気軽さを装った声を、神代が出した。手にはフライドポテト。椅子を回転させ、テーブルに腰を落ち着けた二人に向き直る。絵里も、先程の言葉には特に反応を示さず、少し経ってから、ヴェルナーに倣った。
「どこまで知ってる?」
「父から、封鎖の話はもう聞きました。父はあのオフィスビルのあたりに勤めてて、流通の仕事をやってるんです。さっき店員の人に聞いたら、このポテトも、近いうち値上がりするらしいですね」
「なら話は早い。いくつかの仕入元が自治区への輸送が出来ないって言ってきて、仕入れの見通しが立たなくなったんだ。それにあの辺りの治安の悪化は酷い。来てくれたお客さんの安全を確保できない、そう判断した」
 ヴェルナーがそこまで言うと、フライドポテトをいくつか口に入れ、話の内容と一緒に、咀嚼し始めた。
「つまり、しばらくリースは再開できない、と」
「ああ。もしリースがまた、再開出来るようになったら、連絡する。今月分のバイト代もまだ払ってないしな。アドレス変えたりしたら、教えてくれ」
「はい。再開できるの、待ってますね。生活が立ち行かなくなったら、相談してくださいよ」
 確かに収入がないのは苦しいが、今のところは貯蓄があり、切羽詰まった状況には置かれていない。
「はっ……高校生に心配されてる」
「まだ大丈夫だから」
 隣に座る絵里が、小さく笑った。耳に心地いいほうの、笑い方。ヴェルナーも続けて苦笑を零す。
 零した所で、何の前触れもなく、何かが破裂するような爆音が、耳を貫いた。店の中に居てなお伝わってくるその音に、反射的に耳を塞ぐ。続けて、店全体が、激しく揺れた。遠くで、男子高校生たちの悲鳴が聞こえる。物が散乱するような音もまた、遠くで聞こえた。
 椅子に座ったままでいると、髪を掴まれ、椅子から引きずり下ろされた。そのまま、カウンター席もどきの下に、身体を押しこまれる。身を縮こまらせるのをやめて隣を見ると、絵里が、こちらの肩に手を掛け、窓ガラスの外に視線を向けていた。
 揺れが収まると、絵里は黙って立ち上がり、こちらに手を差し出した。その冷たい手に掴まり、ヴェルナーも、立ち上がる。
 周りを見回す余裕が出来た。絵里の身体越しに見える店内の惨状に呆然とし、彼女の視線の先を追い、店外に砂煙が舞い上がっているのを見て、慄然とした。何が起こったんだ、という月並みな疑問で頭の中が埋め尽くされた。そこで、絵里に右手を借りたままだったことに気付き、ゆっくりと解いた。
「まずいって、これ……」
 左手で右肘を支える格好になった絵里が、右手の親指と人差し指で、前髪を弄っている。
 もう一度店内を見回すと、神代が近くのテーブルの下に潜っていたので、軽く背中を叩いて、安全を知らせる。近くにいた男子学生たちにも、
「もう出てきて大丈夫!」
 と声を掛けた。
 神代が真っ先に立ちあがり、ヴェルナーと同じように、絵里の視線の先を追った。そこには、塵煙が撒き散らされて、何も見えないだけの景色がある。
「絵里さん、何がどうなったんですか?」
 神代が、絵里に問う声を発した。唯一冷静な対応をした絵里に問うのをすっかり忘れていたヴェルナーも、彼女に視線を戻す。
「私は窓の外見てたから、すぐ気付いたんだけど。住宅街の向こうのビルが、何本か倒壊した」
「ビル?」
「え、住宅街の向こうって……」
「日系企業のオフィスビル群」
 絵里が、小さな声で、言った。
「親父が、いる……」
 呟いた神代は、まだ正常な呼吸が難しそうなほど、砂塵が撒き散らされている店外に、飛び出そうとした。ヴェルナーは何も反応が出来なかったが、すぐに絵里が追いつき、神代の横腹を彼女の手のひらが捉えた。神代は化粧品や雑誌類が散乱する場所に向けて、突き飛ばされた。
「昔のビル倒壊事件現場で、粉塵にやられて身体を患った人が大勢いた」
 起き上がろうとしていた神代は、動きを止めた。
「本当に、ビルが……?」


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