23 ◆

 時計を何気なく見ると、もう六時半だった。眠ったままのコルネリエに声をかけ、そのついでにカーテンも開けた。
「んん……」
 寒さに呻いたコルネリエの声を背に、台所に置いてある、昨晩の残りのカレーを電子レンジで加熱。そろそろカレーには飽きてきたが、とにかく料理をする手間が要らないので、それで相殺だ。テーブルをふきんで拭いて、スプーンを食器棚から出し、置く。
 すぐに電子レンジが作業の終了を知らせ、皿を取りに行ってテーブルに二つ並べた。
「できましたよ」
 ベッドの上で丸まっているコルネリエに声を掛けた。コルネリエは、栗毛色の毛布をもう一度被ろうとしてやめ、それを引きずったまま、どうにか這い出してきた。コルネリエが自分の毛を食んでいたので教えると、彼女は毛を摘まんで床に捨てた。ROT特有の赤い虹彩を、黒く見せるためのカラーコンタクトレンズは、入れっ放しのようだった。そろそろ、自分の前でくらいは外してくれてもいいのにと、少し、寂しくなった。
「ありがとう。でも、カレー、飽きた……」
 肩まで毛布を被っているコルネリエは、自分の店で出しているメニューに文句をつけ、スプーンを掴む。本当に嫌そうに食べ始めた。ヴェルナーも、朝からはきついスパイスの香りが効いたその皿に、ゆっくりとスプーンを差し入れる。
「あとさ、手際はいいんだけど、所帯じみてるよね、ヴェルナーは。若さがない」
「コルネリエとは、ほとんど一緒に生活してますからね。自然とそうなるんじゃないですか」
「なら、戸籍も一緒にしよう」
「日常会話の中に溶け込ませないでくださいよ。俺が頷いたらどうするつもりですか」
「私は構わないよ」
 真剣な声に、少しどきりとしてしまう。カレーから顔を上げると、目に映ったのは、手で頬を支え、にやついているコルネリエ。少し間隔が開くとすぐに彼女の性質を忘れてしまう自分に対して、溜息を吐くしかない。コルネリエにからかわれつつ朝食を食べ終え、諸々の身支度を整えてからはルーチンワークだ。階段を下りて更衣室で制服に着替えて、いつものように、店の前の掃除へ。
 鼻から白い息を出し出し、外用の箒でコンクリートの上を掃く。夏も冬も変わらない制服では、朝の冷気は遮れない。着膨れしない程度の厚さのものを下に三枚は着ているが、すぐに手が冷たくなった。適当にしてしまいたい衝動に耐え、とにかく掃いた。隅から隅まで清潔に保ち、その上で、客をもてなす。この小さな喫茶店が生き残るためには、細部での手抜きは致命傷だ。
 入念にほこりを取り、納得できたところで、店内に戻った。まだ暖房がついていないが、外よりは暖かい。隅にある用具入れに外用の箒とちりとりを収めていると、コルネリエが階段を下りてくるのが見えた。彼女は手で欠伸を抑えながら、目の涙を拭った。ここで寝泊まりするようになってからは、コルネリエの欠伸と、涙を拭う様子が、昼夜問わず目につく。
 排他主義者と同化推進派の争いに巻き込まれない、安全な輸送ルートが少なくなって、食材を卸売業者へ直接受け取りに行く機会が増えた。未だ配達を続けてくれる業者も、時間通りに届けてはくれなくなり、急遽、メニューの変更を迫られることも。さらには店の看板等へのスプレー書きが日常茶飯事で、ヴェルナーの対応しきれない分の落書き消しはコルネリエに任せるしかない。
 自治区外からの常連の客足が途絶えた今は、経営もおろそかにはできず、営業時間はこれまで通り。間もなく神代が本格的にシフトを増やすとはいえ、資金に余裕があれば、もう一人でも二人でも雇っている所だ。疲れが溜まっているのは同じでも、まだ自分は、従業員である分、軽い。
 外に一歩も出ることができない状態から立ち直って、ここまで共に歩んできた店。コルネリエのこの店への思い入れが、ヴェルナーよりもずっと強いことは、疑いようがない。心底憎んでいる男から勝ち取った慰謝料で建てたこの店は潰したくない、ヴェルナーの生活もかかっている。そういったことも考えているならば、コルネリエはいつ過労で倒れるか分かったものじゃない。実際、随分と顔周りの肉付きが落ちているように感じられた。
「さ、今日も頑張ろう」
 重たげな瞼のまま声だけ張っている。何か言おうと思ったが、上手い具合にガス抜きをさせてあげられる言葉が咄嗟には出て来ず、張り切った風を装って箒を取り出す背中を黙って見つめた。
「コルネリエ」
「ん?」
 微笑み。コルネリエは、今の微笑みのぶん、余計に表情を取り繕った。消耗を助けたような罪悪感を覚える。
「コルネリエ、提案があるんです」
 コルネリエのほうを向いて、話しかける。
「この辺りも、本当に治安が悪くなってきて……。ここにもいつ強盗や抗争が飛び火するかわからない。このままこうしているより、自治区から、逃げませんか。その……店を、一旦、閉めて」
 最後の一言にだけ、コルネリエは反応して、顔を上げた。疲れきっているが、少しは、表情らしきものが窺える。
「どうして? どうして、店を閉めなきゃならないの?」
「店はいくら壊されても建て直せる。そう言ったのはコルネリエです。もしかして、他人を心配していいのは自分だけだ、なんて思ってるんですか。だとしたらずいぶん傲岸ですね。傲岸過ぎますよ」
「やめて、ヴェルナー。今は言い合う気分じゃない」
 コルネリエが心底疲れ切った目配せをしてきたので、たった今膨らんだばかりの、苛立ちがしぼんだ。
「わかりました。あのことは今はいいです。今はとにかく、自治区外に逃げましょう」
 話を本筋に戻す。
「嫌」
「どうして」
「自治区の中で、赤眼を隠して、人混みや雑踏をなるべく避けて、やっと生活してきたのよ。そんなのが、自治区外に出て、何ができる?」
「いいですから。生活の心配なんて、今はいいです」
 銃声が、道路を挟んだ反対側の路地のほうから聞こえてきた。その後も、散発的に発砲音が続く。コルネリエも、音に気付いて窓の方を見ている。この機を逃す手はない。少し体を近づけた。
「分かるでしょう。ここだって、すぐに危険地帯になりますよ。とにかく出ましょう。どうしても駄目なら、俺が養いますから。日雇いでも何でもして」
「そうね。養ってもらうしかないかもしれない。私は、自治区を出たら、ヴェルナーに助力してもらえなければ生活できない、ただの役立たずだから」
「そういうことを言ってるんじゃないんです!」
「ヴェルナーは知らないだけ。自治区外で、ROTがどんな目で見られているか。私は知ってる。あんな最低の人間がたくさんいるところに出ていくなんて、私は耐えられない」
「コルネリエの周りは、そういう人ばかりいたかもしれないですけど……。絵里だって、ちゃんと一人で生活できていたじゃないですか。確かに、気に食わない奴は居ますよ。ちょっとコンビニに立ち寄るだけで、居る。でもそれは。コルネリエのその言い方は。いろいろな土産話で楽しませてくれた、自治区外のお客さんたちすらも、そのカテゴリーに含めていることになりますよ」
「うん。それは、言い過ぎた。ごめん。でも絵里は……あいつは、私と違って、強いから。多少の偏見じゃびくともしないでしょ。私は、無理だよ……。怖い。怖くてしょうがない。コンタクトを入れてるのに、業者の人とも、未だに目が合わせられない。全員、あの男みたいに、信用ならない人に見えてくる……。例外は、この店だけ、なの。この店にいると、みんな自分のことを、どうこうしようって思ってることはないって、安心できる。でも、店を閉めて逃げたら……。私は、この店がないと、同族以外を信用しない、信用できない、狭量で、臆病で、自意識過剰なだけの人間だよ」
「そんな脆さ、誰だって抱えてるじゃないですか! あの男は今はもう塀の中です。この先、何十年かは出られないでしょう。その事実がある限り、今までとは、決定的に違います。コルネリエを害そうとする人間はいない。絶対に、今までとは違う」
 コルネリエは、薄く笑った。
「優しいね。そんなこと、思ってもいないのに」
 もう少し早く折れてくれると思っていたが、予想以上に、リースが精神的な拠り所となっているらしい。ヴェルナーはコルネリエのすぐ真横まで寄った。
「じゃあ、こうしましょう。自治区外に行くと言っても、いきなり飛び出すわけじゃありません。とりあえず、住むところを下見してから、その周辺の様子を観察してから、にする。それならいいですよね?」
「……下見に付き合うだけならいいよ。転居はしないけど」
「分かりました。今はそれでいいです。明日、定休日なんで、行きましょう」
 ここから転居まで説得するには、はるかに骨が折れそうだ。

 翌朝、ヴェルナーは、渋るコルネリエを追い立て、合い鍵を使ってリースの入口と裏口に施錠した。
 車に乗り、エンジンをかけてシートベルトを着けると、ゆっくりついてきていたコルネリエが助手席に乗り込んだ。伏し目がちの、浮かない顔だ。それを確認して、発進させる。
「ヴェルナーって本当、行動が決まると強引だよね」
「途中で給油しないとだめかな……確か、ガソリン代はダッシュボードに入れてあるんですよね」
「残りは二千円だけ」
「充分ですね」
 自治区の外れに近いこの場所から自治区を出るには、そんなに時間はかからない。
 まだ続く銃声を聞きながら幹線道路に出て、道沿いにあるセルフサービスのガソリンスタンドに寄った。千円を入れ、静電気防止用の機械に触り、給油装置を給油口に差し入れる。その間にコルネリエは、プラスチック容器に入っていたタオルで、窓ガラスを拭いていた。動作は緩慢だが、顔全体に、生きている人間らしい赤みがある。少し、安堵した。
 車に戻ってガソリンスタンドを出た直後、恐ろしく長い渋滞につかまった。
 静かな車内で、助手席の窓に額を擦りつけたコルネリエは、いつもの癖で髪の毛先を弄っている。
 フロントガラスに意識を向けた。今日は平日。そのうえ、このあたりに信号はないというのに、渋滞が解消される兆候は全くない。
 長蛇の前のほうで、激しいクラクションの音が弾けた。車の姿は見えず、間の抜けた余韻の音だけが聞こえた。対向車線は羨ましいくらい空いている。このままだと逆走する車がいてもおかしくはない。
「なんかおかしいですね。ちょっと降ります」
 シートベルトを外して、アスファルトに降りた。この場所で、十五分近く待って少しも渋滞が動かないのは奇妙だ。
 自転車と車道を区切る白線の上を、しばらく歩いた。それから少し小走りになった。走った。そして最終的には諦め、息を切らしながら立ち止まった。それでも渋滞の先頭は見えず、消化される気配がない。その代わりと言うべきか、対向車線から、車が走ってくるのが見えた。パチンコ店の宣伝カーだろうか。何かをがなりながらのろのろと走行している。ヴェルナーは、車に戻ろうと歩き出した。徒歩よりは早い、宣伝カーが追いついて来て、話す内容が、徐々に聞き取れるようになっていく。
『……所の広報車です。本日より、自治区外への移動が制限されることになりました。繰り返します。こちらは、ROT自治区役所の広報車です』
 訝りながら車へ戻ると、コルネリエがAMラジオをつけていた。
『兼ねてから著しい治安の悪化が取り沙汰されていた自治区は実質的に封鎖されることになり……』
「これ、本当かな、ヴェルナー……」
 コルネリエが、不安げにこちらの目を見つめてきた。
「自治区が、封鎖されたって」


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