2 ◆

「店員さん。アイスコーヒー」
 サラはいつもの注文をし、いつもの窓際席に座った。鞄を床に置き、制服のネクタイを緩めた。
「たまにはコーヒー以外も頼めよ」
「うん。今度ね」
 サラは高校三年生の十七歳で、ヴェルナーはよりも七歳年下だが、彼女は、ヴェルナーに対しては敬語を使わない。サラとはサラが生まれた時からの付き合いで、身内に近い存在であるからだろう。
 ヴェルナーがコーヒーの注文を店主のコルネリエに伝えようとカウンターに向えば、既にコルネリエはアイスコーヒーを用意していた。
「注文を取ってくる意味、あるんですか?」
 問い掛けると、黒のカラーコンタクトレンズを着けたコルネリエはくすりと笑った。
「アイスコーヒーです」
 アイスコーヒーの入ったグラスを、サラの前に置く。ヴェルナーは体を反転させ、カウンターに戻った。
 客のいないカウンター席ではいつの間にか、コルネリエが自分で作ったハムとレタスのサンドイッチをかじっていた。
「コルネリエ。仕入れ伝票が狂うので、食べるならレジ打って金払ってください」
 声をかけると、先端が軽く巻かれた、胸までかかる茶髪が揺れた。振り返ったコルネリエと目が合う。
「面倒。やって」
「自分でやってくださいよ」
 文句を言っても無駄だと分かっているので、普段はコルネリエがいるカウンターへ入り、レジスターに取りついて打ち始めた。
「そんなに食べてばっかりいて、太りますよ。三十半ばにもなれば代謝が落ちてくるんですから」
「余計なお世話」
「そういえば、開店前に言いそびれたんですけど、髪色明るくなりましたね。若く見える」
「あ、気付いた? どう。似合ってる?」
「似合ってますよ」
 歳の事に触られた直後、コルネリエはサンドイッチの残りを強引に口へ詰め込んだが、一言付け加えると、彼女は途端に顔を綻ばせた。コルネリエもまた、ヴェルナーとサラと同じように古くからの付き合いであるから、少し失礼な事を言ったぐらいでは本気で怒ったりしない。
 数字を打ち込んで弾くと、レジスターが開いた。コルネリエはコーヒーの豆が並んだ棚を指差し、隅に置かれた財布から千円札を抜き取るように言う。言われた通り千円札を抜き取り、レジスターに入れた。お釣りとしてディスプレイに表示された金額をコルネリエの財布に戻して、レジスターの引き出しを閉める。吐き出されたレシートはちぎってゴミ箱へ放った。
「それにしても、髪色変えて褒めてくれるのはヴェルナーだけ、か……。ヴェルナー、年上に興味ない?」
「生まれた時から一緒にいる人を、恋愛対象にするなんて、できるわけないでしょう」
「だよねぇ、あんたが中学になるくらいまで一緒にお風呂入ってたもんね。十三で気兼ねなく入れた相手は無理か」
「その話はもう忘れてください」
「私もヴェルナー以外に選択肢があればこんなことは言わない。けどねヴェルナー、私も切羽詰まってるの。父さんに後継ぎがどうだのせっつかれてるの。ここに来るのは常連のじいさんばっかだし、このまま私に相手が見つからなかったら、結婚して一緒にこの店続けようよ」
「店を続けるのは賛成です。でも後継ぎは他で作ってください」
 ヴェルナーはサンドイッチの載っていた皿を掴み、奥の調理室に引っ込んだ。洗い場のスポンジを手に取ってその上に軽く洗剤を振り、皿へ擦り付ける。洗い場は一般の家庭のものと大差がない。普段は大がかりな洗浄用の機械がなくてもさばける。忙しくなる時間帯はシンクに水をためてそこへ皿を浸からせるだけ。手が空いた時にまとめて洗うようにしている。
 丁寧に皿を洗ったあと、乾燥機に入れ、十五分乾燥のボタンを押す。それからまた店内へ戻った。水曜日の午前十時の店内には、相変わらずサラしかいない。そのサラは、カウンター席で突っ伏しているコルネリエの近くに、席を移していた。
「コルネリエ、もっとヴェルナーに構って欲しいって」
「十一も年下のガキに振られるとか……。もう立ち直れない」
 皿洗いで濡れた手を、エプロンで拭いた。コルネリエは顔を上げた。
「想像してみてよ。三十五の、独身の女が、独り寂しく夜ごはんを食べてるところ」
「まだ言ってるんですか。三十五でも独身でも、人生楽しんでる人はいますよ。結婚だけが全てじゃないです」
「夜ごはん」
「分かりました。付き合いますよ」
 あまりにしつこいので、ヴェルナーは折れた。
 それに口ではこう言っていても、選択肢がないから自分に言っているのであって、本当に好きだから言っているわけではない。ヴェルナーから見てコルネリエは実の姉よりも姉らしい存在で、彼女にとってもそれは同じだろう。
「じゃあサラも一緒に……」
 サラはアイスコーヒーの代金をカウンターに置き、「今日は予定がある」と断った。愛想のない顔。他ではどうだか知らないが、自分の前では、それが普通だ。

 喫茶店の二階が、コルネリエの自宅になっている。夜九時までの喫茶店の営業時間が終わったあと、ヴェルナーはコルネリエが喫茶店の調理場で作ったカレー、二皿ぶんを持たされ、狭い階段を上った。
 フローリングの上に雑誌や空き缶が転がっている部屋に着くなり、コルネリエは化粧入れからコットンタイプの化粧落としを引っ張り出して顔を拭った。異性として意識している相手の前で拭うわけはない。昔の自分はからかわれていちいち顔を赤くしていたから、そういった反応を求めていたのだろうか。今はもうああいった言葉を真に受けたりはしない。
 化粧を落とし終えたコルネリエは、鼻歌を口ずさみながら、小さな二段冷蔵庫の取っ手に指をかけた。奥からビールを引っ張り出す後ろ姿を、部屋の中央に置かれた四脚テーブルの近くに座って眺める。二階へ上がる前、別室で制服を脱いだ彼女が今着ているのは、黒の半袖とジャージ素材のハーフパンツ。
 コルネリエは立ち上がってテーブルにビールの缶を二つ置く。ヴェルナーの正面に座ってそのうちの一本を開け、缶に直接口をつけ、勢いよく流し込んだ。
「いただきます」
 ヴェルナーは軽く頭を下げ、スプーンを使いカレーを口へ運んだ。夜九時を過ぎた夕食は、最初の一口がたまらなくおいしい。この一口を、コルネリエのようにアルコールにするか自分のように食べ物にするかは趣味によるだろうが、それほど酒飲みではない自分にとっては、食べ物のほうがしっくりくる。
 片膝を立てたコルネリエのハーフパンツが大きくめくれ、白く艶のある太腿が覗く。ヴェルナーはカレーに目を落とした。
「コルネリエ、足」
「あ、ごめん」
 ビールを飲み干してから、胡坐に切り替えた。
「そのだらしないところを直せば彼氏できるんじゃないですか。まだ若く見えますし」
「お世辞が上手いね、ヴェルナーは」
 コルネリエは黒のカラーコンタクトレンズをつけた目を下へ向け、零す。
「昼間はからかおうと思ってああ言ったけど、本当はもう、男に関わるのは嫌だな。コンタクト外すの、怖くてしょうがない」
「俺の前では外しても大丈夫ですよ」
「うん、でも、後で外す。あー、ビールおいしい」
 あまり話したがらないが、前にコルネリエは、日本人の男と付き合っていた。コルネリエは、その男と別れた後から、他人と目を合わせるのを異様に怖がるようになり、ヴェルナーが濃いサングラスを買ってくるまで、外に一歩も出なかった。本当に、一歩も。サングラスをかけさせた彼女を無理に引っ張り出し、ROTが経営する眼科へ行って、ROT特有の赤眼を隠せる黒のカラーコンタクトレンズを購入したくらいだ。
 不気味、気色が悪い。自治区外では赤眼であるというだけで蔑まれることもよくあり、多くの人に売れているらしかった。
 カレーを食べ終え、ヴェルナーは残った一缶のビールに手をつけた。
「貰います」
 と断ってから開ける。ビールを飲み干したコルネリエは、ヴェルナーとは反対にカレーをつつき出した。
「今朝、七時ごろにサラのじいさんから電話掛かってきてさ」
「へえ。あのじいさんから?」
「ヴェルナーをよく見ておけ。それだけ言ってすぐ切れた」
「相変わらずよくわからない人ですね。見ておけって、あのことですかね。いつもあの人が言ってる」
「ヴェルナーが主人で、私とサラが下僕って奴? 昔からこの家系の伝統って話だけど……」
「主人なんて言ったって、何をすればいいんでしょうね」
 ビールを口に含んだ。味覚が幼いと自覚しているヴェルナーにとっては、独特の苦味が強敵だ。少しずつ飲む。
「ご主人様のご命令とあらば、いかようにも」
「ふざけないでくださいよ。でも不思議ですね。あのじいさんがあれこれ指図したわけでもないのに、コルネリエとこうして一緒に働いてる」
「サラもよく来るしね。うまくいかなかったのは絵里くらいよね」
「今、何やってるんだろう、あいつ」
「東京でたこ焼き屋の店員やってるって聞いたけど? あのじいさんはそれも把握してるみたい。干渉せずに監視だけ。とことんいやらしいジジイよ、あれは」
「本当ですか、それ。接客できるんですか?」
「さあ。あの仏頂面じゃ客が寄って来ないかもしれないわね。素直に自治区で就職すればいいのに」
「あいつはじいさんのこと本当に嫌ってたからなあ……。俺の事も、軽蔑してたし。俺が言ったわけじゃないのに、何であんたのことを私が守ってあげないといけないの? おかしいと思わない? って、もの凄い剣幕で……」
「はは、あいつ、からかい甲斐があったよねえ。そんなにヴェルナーの事が嫌いなら無視すればいいのに、突っかかっていくから。私が、本当は好きなんじゃないのって言ったら怒ったよね。最初は照れ隠しかと思ってからかい続けてたら、庭に置いてあった脚立放り投げてきたもん」
 コルネリエは心底楽しそうに語った。ヴェルナーは溜息を吐くしかなかった。
「よく笑って話せますね……脚立が直撃して、右腕骨折したのに。そのあとすぐ、絵里が家出したのに」
「あれはしょうがないよ。事故みたいなものだから。家出するきっかけを欲しがってた節もあったし」
 コルネリエの睫毛が伏した。



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