一九一八年七月二十四日
ROT殲滅戦《テナン川以南、制圧準備中》

 四日ぶりに取る睡眠は、素晴らしいものだった。夢を見ることもなく心地良い眠りに全身で浸っていたのに、それはたった二時間で終わりを告げた。後頭部を平手で殴られ、強制的に目を開けさせられた。
「痛っ」
 開ききらない目で後ろを振り向く。そこは男の腹だった。座ったまま男の顔を探したティナは、目を見開いた。
「エヴァルト!」
 家に残してきたはずの彼の登場に目をしばたかせていると、そのすぐ横にはクラウスの姿もあった。
「あと一時間半くらいで出動らしいですよ。早く準備をしてください」
 エヴァルトが急かすが、状況が呑みこめないティナは、口を開けたままエヴァルトを見つめるしかない。
「ティナ様が囮部隊の部隊長に任命されたと、ライナルトさんから電話があったんです。ライナルトさん、とても心配してましたよ。彼は部隊を離れられないようなので、ティナ様が無茶をしないよう、代わりに目付役に来ました」
「ライナルトさんから……? あ、お、お母さんは! みんなは今も家にいるの? 早く逃げないと敵軍が……」
「父に、スイス国境へ逃げるよう伝えておきました。店が始まってすぐ、家財すべてを放出して中古車を買ったので、スイス目指して逃げている最中だと思いますよ」
「そう……。やっぱりエヴァルトは、手際がいいね」
 ティナはひとつ、息を吐いて立ち上がった。エヴァルトの温かく大きな右手を両手で包み、胸の辺りに顔を寄せ、「ありがとう」と囁いた。
「あとはティナ様が生きて帰るだけ、です」
 横に控えていたクラウスが、言う。
「また会いましょうよ、お母様に」
 エヴァルトの手を離したティナは、首を横に振った。
「無理だよ。ライナルトさんから電話があったなら、分かるでしょう? 初日からこんなにも苦しい作戦を強いられている時点で、ドイツ軍には敵わない」
「そ……れなら、降伏まで生き抜けばいいんですよ。ティナ様が死ぬわけないですよ。ROTの中で、最高の軍人なんだから!」
「ありがとう。でもそれは買い被り。一度の戦闘で何千人がぶつかりあう戦いでは、前線に出続ける限り、死ぬ確率はゼロにはならない」
「でも」
「分かったの。本腰を入れたドイツ軍の前では、私みたいな小娘なんて、居てもいなくても同じ。上官にも言われたよ。悔しいけど、その通りだと思うな。囮部隊の部隊長が似合ってる」
「でもティナ様は!」
 ……本当に、この子は、可愛いなあ。
 ティナは既に泣きそうなクラウスを見て、微笑んだ。 
「分かった。降伏するまでは絶対に、何が何でも死なないって、約束する」
「本当、ですか?」
 ティナは自分の肩ほどまでしか身長のないクラウスを抱きしめた。髪から、汗と土埃が混じり合った臭いがする。
「囮役を素直にやるかどうか迷ってたんだけど、やめるよ。馬鹿らしい作戦で死にたくないしね。だからクラウスとエヴァルトはさっさと、馬でもなんでも使ってスイス国境に行って。二ヶ月後くらいに、探しに行くからさ。国境の村の分かりやすい所で、待ってて」
「約束してくれるなら……」
 肩に顔を埋めたクラウスは、涙声で呟く。髪を撫で、抱き締める腕に力を込めた。クラウスはこれで言うことを聞くだろう、とティナは思った。
 それを見ていたエヴァルトが、溜息を吐いた。
「クラウス、簡単に騙されるな。ティナ様は、軍服を着ている間は平気で嘘をつく」
 エヴァルトが、クラウスとティナの抱擁を引き剥がした。やはり厄介なのはエヴァルトだ。
「降伏するまで死なないどころか、今回の戦闘で死ぬつもりでしょう」
「何で?」
「目で分かる」
 ティナは笑った。
「目? エヴァルトが、軍人としての私の何を知ってるの?」
「冗談です。目でなんて分かりませんし、軍人としてのティナ様の事なんて知りませんよ。ですが、ライナルトさんが言ってました。誰かが止めなければティナ様は確実に死ぬとね」
 何故そんな余計な真似を。ここにいないライナルトをなじりたくなった。
「本当ですか」
「……そうね。死ぬつもりかもしれない」
「やめてください」
「別にROTの未来のために死ぬとか、大それたことを言うつもりはないよ。だけど私は、父さんの娘なの。ドイツ軍に体をばらばらにされた父さんのね。他のどこの国に降伏してもいい。だけどドイツにだけは、思い通りにさせるわけにはいかないんだよ」
 端に置いていた椅子を抱え、指揮詰所に戻ろうと歩き出すと、エヴァルトが手首を掴んできた。椅子を掴んでいることができないほど全力を込めて握られた。椅子が床に落ち、大きな音を立てた。
「痛いよ。離して」
 エヴァルトを睨む。エヴァルトも、目を逸らさない。
「ティナ。俺は、ティナの下僕だから。ティナが喜ぶなら、俺も喜ぶ、ティナが悲しむなら、俺も悲しむ、ティナが怒るなら、俺も怒る。顔には出さないようにしたけど、そう決めて生きてきた。下僕の俺には、そのくらいしかできなかった。ティナが落ち込んでいても、気安く声を掛けることもできない。下僕は、家族でも、部下でもない。ただの下僕だ。それが嫌で嫌で仕方なかった。けど、ティナが、幼い頃から、俺にとっての尊敬の対象であり続けたから。俺は、いつも、下僕であることに誇りを持てた」
 途中で、エヴァルトが丁寧語で喋っていないことに気付き、ティナは目を見開いた。エヴァルトが丁寧語を捨てたのは、当然だが、初めてのことだ。記憶の残っている幼いころから、分別を大事にする彼の両親に徹底的に仕込まれていた丁寧な言葉遣い。それを今ここで、捨てた。初めて知る、彼の、本当の、喋り方。
 隣でまた落ち着きをなくし始めただろうクラウスを安心させるため、何か適当な返答を言って笑おうとしたが、上手く笑えなかった。今はエヴァルトとしか向き合えない。ティナはただただ、エヴァルトの“肉声”に射竦められてしまっている。
「だから、ティナが戦場に行くなら、俺も行く」
 丁寧語は、ただ単に年上だから使われているだけだと思っていた。家族として接してきたのは自分だけで、エヴァルトは、家族でも部下でもない立場と思っていたことも、知らなかった。いつ何を話しかけても無愛想なエヴァルトが、ティナが零したスープの後始末をさせられて悪態をついていたエヴァルトが、そんな覚悟を決めていたなんて、知らなかった。
 何より、知っていると思い込んでいたエヴァルトのことを、何も知らない自分が恥ずかしかった。
「俺もクラウスも、下僕だから仕方なくここへ来たわけじゃない。ティナが好きで、少しでも役に立ちたくて、来たんだ。除け者になんかされてたまるか」
 掴まれたままの手首が、じわじわと熱を帯びて行く。そこからタチの悪い毒が広がったかのように、体のそこここから、汗が滲み出る様な感覚がした。
 丁寧語をやめ、家族でなく、一人の他人、十八の男に戻っているエヴァルト。一対一の人間として、言われている。
 ティナにとって、エヴァルト個人をここまで強烈に意識したのは初めてだった。そのうえ、あまりにも真っ正直な好意の表現を耳朶に叩き込まれ……家族に向けるはずのない感情が、泡立った。姑が嫁をいびるような、粘着質な注意を日に何度も向けてくる相手に対して、こんな気持ちが沸き上がってくるのは、何かがおかしい。分かってはいる、分かってはいるが……。敬語を突然やめるのは、卑怯だろう。慌てるに決まっている。誰かにそう訴えたくなった。
 悟られる前にまた椅子を抱え上げ、背を向ける。
「妹にも、頼まれたんだよ。お姉ちゃんを連れて帰ってきて、って。ここで断られたら妹にも会わす顔がない。連れて行かないならこの場で殺してくれ」
 いちいち格好つけるな、馬鹿。殺すわけないでしょ。解毒剤代わりに、頭の中だけでそう貶してみるが、広がっていく毒は止まらない。
「……あーもう、分かった。分かったよ。連れてく。厩舎にヴェルナーを置かせて貰ってるから、先に行って出しといて」
 もう今の精神状態では何を言ってもエヴァルトに言い負かされてしまう気がした。エヴァルトには一刻も早く丁寧語を、適切な距離を、取り戻してもらわなければ。
「つ、ついていっていいんですか?」
「二度は言わない」
「やった、ありがとうございます!」
 嬉しそうに言ったクラウスに対して、エヴァルトは何も言わなかった。
 エヴァルトにまた何か言われて心音が乱される前に、ティナは指揮詰所の扉を、足で押し開けた。
 指揮詰所に入ってきたティナを一瞥した副師団長が、一度目を切ったあと、驚いたように再びこちらを見た。
「体調でも崩したのか? 顔が真っ赤だが……」
「だ、大丈夫です。それよりもあの、私の個人的な部下がここへ駆けつけてくれたんですが、装備に余裕、ありますか?」
「ああ、それならあるぞ。先に第一大隊の集合場所に行っていてくれ。すぐに届けさせる。何人だ?」
「二人です。あと、出来れば、偵察用の双眼鏡。それに、今回の敵として予想される指揮官の写真もあれば」
「奴の写真か。分かった、双眼鏡も写真も、届けさせよう」
 指揮詰所の時計では、既に出陣の一時間十五分前になっていた。椅子をもとあった位置に戻し、エヴァルトは意地の悪い姑、エヴァルトは意地の悪い姑、と唱えながら兵舎の入口に向かった。
 幸いなことに、ティナが見上げさえしなければ、エヴァルトの顎までしか視界に入ってこない。
「ヴェルナー、受け取ってきましたよ。近くに転がってた背嚢とプレートアーマーも」
 そして、兵舎の入口にクラウスとともに待機していたエヴァルトは、敬語に戻っていた。
「ありがとう」
 手綱を受け取り、気持ちを落ち着かせる。今はこんなことに囚われている場合じゃない。
 第一大隊の集合場所はすぐ近くだった。ティナの姿を認めた隊員が、三々五々集まり始め、全員揃った所で一糸乱れぬ敬礼を受けた。こちらも、敬礼を返す。副大隊長に挨拶したときに確認したが、現在の第一大隊は、第十一歩兵師団の救援に赴いてくれたという元第一大隊員の生き残りと、第五大隊からの補充兵で成り立っている。前方に立つ兵士は薄汚れて目も虚ろ、後方に立つ兵士は何処にも汚れのない服に生気のみなぎる顔をしていた。
「第一大隊の皆さん。お聞きの通り、我々は、陸戦司令官より囮として全滅しろという命令を受けました」
 ここが勝負どころだ。大きな声で、全体に聞こえるように話しかける。
「正直に言います。私はこんな作戦は無意味だと思っています」
 たった一言で、場に、緊張が走ったのが分かった。
 ティナは黙って反論を待つ。
 誰も声を上げないのを見るや、すかさず、副大隊長が一歩前に出た。
「我々の役割は、午後四時より開始する作戦において、第一陣として敵軍の注意を引き付け、水門を閉じるまでの時間を稼ぐことだと、第四方面軍陸戦司令官を経由して指示を受けております。命を賭して同胞を助けること、それが無意味だとおっしゃられるのですか?」
「はっきり言いましょう。無意味に犠牲者を増やす作戦への参加は中止します。陸戦司令官の命令は無視してください」
 淡々と返すと、副大隊長はぽかんと口を開けた。元々、会話などなかった場が、更に別次元の静まりを見せた。
 ティナは髪の毛先を口元に持ってきて、小さく笑った。
 笑った直後、副大隊長の目付きが変わり、こちらを軽蔑するものになった。ティナよりも背丈の低い副大隊長は、睨みつけるようにしてティナを見上げた。
「無礼を承知で申し上げます。いくら高名なリース将軍といえども、陸戦司令官の命令を無視するわけにはいかないかと」
 ティナは笑みを絶やさず答える。
「今、第一大隊の部隊長は誰ですか?」
「リース将軍です」
「戦場では現場の裁量権と言うものも認められるとは思いませんか?」
「程度によります」
「程度とは?」
「少なくとも、今回は裁量権をはるかに逸脱した越権行為です。囮を中止すれば、それを知らずに敵陣の前に躍り出、水門を閉める部隊はどうなるのです。全滅することになるのでは」
「作戦を決行しても、第一大隊は全滅します。水門の部隊が全滅するのと、どう違いがありますか?」
「決行した場合、第一大隊が全滅しても、第二陣が我らの仇を取ってくれます。決行せぬ場合は、無意味に水門の部隊が全滅するだけです」
「あなたは、第二陣を生かすために死にたいのですか?」
 延々と続く質問に、副大隊長はついに声を荒げた。
「いい加減にしてください! 何を仰りたいのですか! 兵力が足りないことを勘付かれればテナン川を突破され、三十万以上の民間人が戦争に巻き込まれます! どういった意図がおありなのか、考えをお聞かせください」
「第一大隊に、テナン川周辺の民の、国外脱出を誘導させたいのです」
 ティナは笑みを消し、小さな声で呟いた。
「私は第十一歩兵師団の生き残りです。我が師団は、ドイツ軍の圧倒的な攻勢の前に、この世のものとは思えぬ生き地獄を味わいました。砲撃に四肢が吹き飛ばされ、機関銃の掃射で、瞬きするたびに死んでいく兵卒を目の当たりにしました。……断言します。陸戦司令官の作戦は失敗する」
「……それは、歩兵と騎兵では、違うはずです。やってみないことには、分かりません」
「ドイツは、人柱を探しています。国対国の戦いでは圧倒的優勢で戦争を運びながら、連合国の物量に屈し敗戦した責任を押し付ける事が出来る相手を。十一歩兵の情報網に拠れば、ドイツ議会の極右集団は、既にユダヤ人に照準を合わせていると聞きます。そして彼らは、我々ROTに対しても、昨今流行している疫病の発生源と根も葉もない罪を被せてきた。ドイツは人数の少ない我々に対しては同化など面倒な政策はとらず、全滅政策を取るつもりかもしれません。実際に、投降しようとした兵士はことごとく殺され、ドイツ軍との戦いの後に捕らえられた市民や兵士は、生存の確認が為されていません。一人もです。敵中に取り残され、逃げ遅れた市民も数多くいる中、一人もですよ?」
「しかし、いくら民を助けるためとはいえ、軍令を無視すれば重罪、下手をすれば死罪もあり得ます」
 陸戦司令官との口論の後から考えていた。敵に殺されて死ぬのも、味方に殺されて死ぬのも、変わらない。このままいけば、軍令違反を指弾する側も根絶やしにされる。
 水門の部隊と、第二陣を見殺しにすることと天秤にかけても、巻き添えになる可能性のある民の脱出を優先させることが最善だと感じた。軍属が戦場で死ぬことと民が虐殺される事は別物だ。
「心配しないでください。出陣前には無線を飛ばします。ティナ・リース第一大隊長は、陸戦司令官の命令を無視し敵前逃亡、民の国外脱出を優先。隊員たちは立場の弱さを利用され恫喝された模様、と」
 副大隊長は、その言葉に、身を固まらせた。
「勿論、戦闘には参加しますよ。陸戦司令官の性格なら、水門の部隊が全滅しても次の部隊、次の部隊と差し向けるでしょう。そして予定通り水が勢いを失くした所で、第二陣が突撃する。私は、その攻撃を囮に、下流から渡河し、敵の横腹を突くつもりでいます。そうすることで、ロッテンゲン郊外の民が逃げるまでの時間を稼ぐんです。どうでしょうか?」
「それは、なんと申し上げてよいか……」
「ドイツは本当に全滅政策をとるかもしれませんよ。ユダヤ人は、今大戦で疲弊したヨーロッパの国々の代わりに、世界を引っ張っていくであろうアメリカにも数多く住み、重要な地位を占めています。ですがROTは、他の国にはほとんど住民がいません。私は、ROT民族が全滅になるような事態は避けたい。国から逃れたROTを作っておいて、もしもの時は彼らに望みを託したいのです」
 副大隊長が押し黙った。ティナはそれから、部隊全体に向けて大声を出した。
「私のこの計画に賛同して頂ける方は、私について来てください。賛同して頂けない方は、申し訳ありませんが、途中まで来て頂き、そこで部隊と別れて帰陣してください。以上です」


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