一九一八年七月二十四日
ROT殲滅戦《実行中》

「報告。対戦車地雷の半分の設置が完了したそうです。各々、作業を続行しています」
 辺りを覆い尽くした闇夜と濃霧の中から、師団長直属の部下である親衛隊員の一人が報告の声を発した。
 師団長の命令で、ROT共和国の生命線、フランスとスイスとの物流ラインのど真ん中に、第十一歩兵師団は防衛拠点を構えていた。深夜に大砲を撃ち合い、だいたいのドイツ軍との距離が把握できたのは、昨日の深夜、布陣してすぐのことだった。ティナの場所から見て、第一連隊は正面、第二連隊は左前方、第三連隊は右前方、第四連隊は右後方に布陣している。昨日はお互いに牽制しあって動くタイミングが掴めずにいるうちに、戦線が膠着した。そして今日の深夜にまで至った。この間、ティナが提出した草案を基に、各地で兵士たちが準備を進めているものの、全く時間は足りていなかった。
『ドイツ国内に蔓延する疫病の発生源はROTと断定された。中立宣言をしたにもかかわらず、陰で連合国に与し、生物兵器を使うとは言語道断。愚劣極まりない行いである』
 ドイツ軍の布告理由はこうだ。当然、ROTには生物兵器を散布する技術などは存在しない。
 すぐ隣でティナと同じく馬に跨っているはずの師団長に、話しかけた。
「敵軍の侵攻も停滞していますが、圧倒的不利には変わりありませんね」
「冷静すぎるぞ、お前」
「小康状態のうちから焦っていたら、戦闘になりませんから」
 硬くなっている師団長に、意識して笑いかける。
「頼もしいな。お前が副長に昇格していてよかったよ。前の奴は少し頼りなかったし」
 前の副師団長は、ティナと入れ替わりで第三連隊長に降格したと聞く。親衛隊員に話を聞くと、決して無能ではなかったらしい。申し訳ない気もしたが、上の決めたことだ。従うしかない。
 昨日の深夜。電話連絡があってすぐ。事情を聞いたエヴァルトもクラウスも、果てはエヴァルトの妹までもがついていくと言って聞かなかった。エヴァルトの妹は母に抑えさせて、玄関先までついてきたエヴァルトとクラウスは、鳩尾や股間にしばらく痛みで立ち上がれない程度の蹴りを入れて、退けた。床に伏した二人を相手に、家のことは予定通りエヴァルトに任せる、と改めて宣言した。そしてティナは寝静まったままの市内をヴェルナーと共に駆け、第十一歩兵師団の指揮詰所に戻った。
 互いが手探り状態の砲撃戦だというのに、報告では既に五十名以上が死亡したそうだ。床に崩れ落ちた時のエヴァルトは恨みがましい目で見ていたが、こんな場所に、幼いころからともに生活してきた大切な家族を連れ込む馬鹿がどこに居る。
「報告。我が師団の第三連隊が、ローミン村の奪回のため、進軍を開始しました」
 少し目が慣れてきていて、人の蠢く気配は感じ取れる。どこかと無線のやり取りをしてから再び口を開いた親衛隊員は、虚偽としか思えない報告を、涼しい声でした。驚き、師団長がいると思われる方向を見たあと、すぐに親衛隊員の声がした方へ向き直った。
「待て。どの連隊にも進軍の許可は出していないぞ」
 師団長も把握していない様子で、困惑気味の声を出した。
「後方に展開する第四連隊からの無線連絡です。音がするのでライトで照らした所、第三連隊が移動をしていたと」
 ローミン村は、開戦と同時に陥落した村の一つだ。深夜の急襲に加えて、ドイツ軍の物量作戦に圧殺され、村民が避難する間もなく、駐留軍が足止めする間もなく、駐留軍兵士を含めた七百四十三名との音信が不通になった村。
「すぐに止めさせろ!」
「第四連隊の必死の呼びかけを振り切っての進軍です。こちらからは無線も繋がりません」
「馬鹿な……。副長、なぜ」
 師団長の言葉は、降格させられた副師団長に向けてのものだろう。娘ほども歳下であろう自分が昇格したことを受けての降格人事に、絶望したのではないか……。一瞬、嫌な想像が脳裏をかすめたがすぐに振り払う。それに、自分が一年以上もかけて訓練してきた第三連隊の面々は、そう簡単にやられるような連中ではない。
「師団長。今は理由を想像している暇はありません。一刻も早く、方針の転換を」
「分かってる。俺が第一から第三親衛中隊を連れて制止、場合によっては救援に向かう。それまで副長が指揮を取れ。それぞれの連隊へ繋がる無線兵を残す」
「私が行った方がいいのでは? 敵の伏兵が潜んでいるかもしれません、その場合、私が死んだ方が損害が少ない気がします」
「いや、これは俺が処理する。させてくれ」
「了解しました」
 師団長は、親衛隊員を控えさせている方角へ馬を走らせて行った。
 ティナはその場で目を閉じた。まずいことになった。今まで最大で指揮した兵力は、せいぜい五百だ。突然、十倍の五千、師団単位の指揮を任されても、上手くやれるかは自信がない。ROTは大規模な近代戦をここ何十年か行ったことがなかった。それは師団長も同じだろうが、彼はもう何年もこの師団で長を張っているのだ。正式に配属されたのが五日前の自分などとは、把握している状況も段違いだろう。頼みの綱である第三連隊も独断行動に巻き込まれ、霧も、段々と晴れてきている。本格的な指揮は執りたくないが、霧が晴れて太陽が昇れば、ドイツ軍の進軍が再開されてしまい、執らざるを得ない。
 首が無意識に縦に揺れ、ティナは慌てて目を開けた。四日眠っていないことを忘れて、油断していた。少し目を閉じていた間に、霧は本格的に晴れ、太陽が地平線の向こうから姿を現そうとしていた。徐々に戦場の全貌が露わになっていく。
 少し戦況が動き始める頃か。
「第一連隊長に連絡を取ってください」
「はい」
 無線兵の一人は何やら煩雑な作業をしている。ヴェルナーから降り、手綱を握ったままじっと待った。そうしているだけでも、胸部周辺のみを覆うプレートアーマーの内部が、蒸し暑さを増していく。無線兵は作業を終えると、背負った機械とコードで繋がった無線機を、手渡してきた。
「第一連隊長、第一連隊長、こちら指揮本部。聞こえますか。どうぞ」
「聞こえます。どうぞ」
「敵に動きはありますか?」
「既に、前線では兵士の衝突が再開されていますが、どこも突破はされていないようです。防衛線を堅持しています」
「塹壕設置の進み具合は?」
「それなりに。ですが敵は、大砲と機銃と戦車の支援を受けながら突っ込んできていますね。こちらも設置した大砲と機銃で応戦してはいますが、敵は火炎を吐き出す妙な機械を使って、こちらの塹壕内の兵士を掃討しています」
「それは火炎放射機、と呼ばれるもののようです。近づけないことが肝要です」
 火炎放射機まで持ち出すなら、ドイツ軍は、本格的に戦線の打開を図り始めたと見ていいだろう。ティナは少し考えてから、返答を発した。
「第二連隊、第四連隊を敵の側面へ回らせます。苦しいでしょうが、何とか守り抜いてください。第一連隊が突破されると総崩れになってしまいます」
「了解しました。通信終わり」
 無線を切った。次は物流ラインの西端に展開する、第二連隊。そこへ繋がる無線を背負った兵士に通信の開始を頼んだ。
「第二連隊長、第二連隊長、こちら指揮本部。聞こえますか。どうぞ」
 こちらの言葉を送信した後、酷いノイズが漏れ聞こえだした。
「いえ! もう一度お願いします!」
「第二連隊の現状は!」
 その言葉を受けて吹き込み、通信が切り替わった後で無線機に耳を近づけると、次は悲鳴が耳元で弾けた。
「報告が遅れ、申し訳も立ちません! 一時間ほど前から始まったドイツ軍の圧倒的攻勢の前に、配下の大隊がことごとく敗走! 逃亡兵が続出して戦闘にならず!」
 一語一語区切る度に、激しい呼吸と衣擦れの音が無線を支配する。その間に、第四連隊への通信を担当する無線兵を呼び寄せ、作業を始めさせた。
「最終防衛ラインまで後退してください」
 第三連隊が、敵の懐へ遮二無二突っ込んだことで、ドイツ軍に余剰兵力が生まれ、それが第二連隊の攻撃に加わっているのだろう。第二連隊を責めることはできない。
「既に! しかし敵の戦車部隊がすぐ近くまで!」
「貴方がたが対戦車地雷を敷設した場所、覚えていますよね? そこを通って退避するんですよ!」
「了解! 通信終わり」
 同時に、第四連隊の無線機を手に取る。
「現状報告」
「第三連隊長からの救援要請を受け、進軍中。前線部分は接敵、既に攻撃を開始しています」
 ティナは、頭を抱えてその場に座り込みたくなった。
「第三連隊はローミン村に到達後、警備の兵士を残し隣接するワロー村に進軍途中、包囲された模様。このままでは全滅の可能性もありと、救援要請が入りました」
「勝手な行動は慎みなさい! いいですか、第三連隊は現在、師団直轄兵力で救援する予定となっています。第四連隊は、第一連隊の側面へ。場所はこれから部下に調べさせて伝達させます」
「しかし、このままでは第三連隊は」
 ティナは舌打ちをした。
「口答えするつもりか。これは命令だ。自軍の長が信用できないと?」
「了解。すぐに移動します」
「次に動く際には指揮本部に報告を上げろ。通信終わり!」
 無線兵に無線機を投げつけようとして堪え、手渡した。勝手な行動をした第三連隊を、第四連隊が勝手に助けに動こうとする。最悪の循環だ。こんな初歩的な統制ミスが、軍隊の内部で起こるものなのだろうか。いつも戦場での自分は冷静だと思っているが、さすがに苛立ちが募ってきた。
「第八親衛中隊に、第一連隊の敵がいる辺りの座標を調べさせろ。無線兵は第四連隊へ座標の伝達だ」
「了解」
 信用できるのはやはり精鋭と謳われる第一連隊だけだ、とティナは思った。第一連隊を中心に戦線の再構築を行う必要がある。まず、移動できる大砲台としての性格も備える戦車を、第二連隊には撤退途中で出来るだけ潰してもらう。次に、師団長による第三連隊の救出、あるいは見捨てるかどうかの判断を待つ。そして最後に、壊走した第二連隊が最終防衛ラインまでおびきよせた敵を、第一連隊と第四連隊で強襲する。第四連隊は、接敵していた部隊に側面を見せることにはなるが、そこでのある程度の被害は仕方がない。全軍の四分の一の兵力を占める第三連隊の抜けた穴を埋めることは、並大抵の戦闘行動では不可能だろう。しかしこれは自分の個人的な考えで、最後の段階までには師団長も戻ってくるだろうから、そこでの方針転換が可能な状態で師団長に指揮を明け渡す。
 太陽がまた、位置を上げた。見渡す限りの草原を、朝の陽光は満遍なく照らす。この陽光の下、各地で過酷な戦闘が行われているはずだ。しかしこの戦闘はティナにとって、身に迫る現実感を伴ってはいなかった。これまでは、配下兵力と共にドイツ軍と戦う小競り合いばかり行ってきた。今は、違う。自分が無線で指示しただけで、千単位の兵士の命運が左右される。いかにも信じがたい、事実だった。
「第四連隊から報告」
 待つしかない時間というのは、言うまでもなく長い。ひたすらに戦場を見つめていたティナは、その声を受けてすぐに無線を取った。
「言え」
「第三連隊が降伏。第三連隊の降伏に伴い、近くまで救援に赴いていた親衛隊が壊滅的損害を被りました。更に敵は、第三連隊の降伏を認める素振りを見せたのち、彼らを虐殺。一人の生き残りもいない模様です」
「何故分かる?」
「親衛隊の生き残りが伝えてくれました」
「何?」
「報告。師団長は死亡、第三連隊は全滅。繰り返します、師団長は死亡、第三連隊は全滅」
 す、と背中を誰かに撫ぜられたような感触があった。一瞬、その感触に身を委ね、地面にへたり込みそうになったが、堪えた。
 そんな馬鹿な話があってたまるか。
「確証もなくそのような虚言を吐くな!」
「事実です!」
「虚妄だ」
「事実だ! あんたの命令のせいで死んだんだよ、副長も師団長も! やはり、親衛隊よりも近くにいた我々が救援に向かうべきだったんだ。そもそもあんたが第三連隊長のままでいたなら、副長もあんな行動を取ったりしなかった。通信終わり」
 あんたは副師団長の器じゃない。そう告げた第四連隊長に反論すらできずに通話を打ち切られても、無線を持ったまま、押し黙るほかなかった。
 ティナは懐中時計を、軍服の内ポケットから取り出した。開戦してから、一日と少しを、過ごしただけだ。それだけで、千人以上が死亡した。敗因ははっきりしている。本来ならば、戦線を膠着させたまま、弾薬、兵糧の尽きるまで塹壕に籠って耐えるべき所を、ドイツ軍の得意とする野戦に持ち込まれたからだ。第三連隊の独断専行によって。
「副長……第一連隊から通信が入りました」
 無線兵が、気遣うように目を合わせてきた。
「指揮本部、聞こえますか」
「ああ。聞こえる」
「左側面に展開していた部隊から連絡が入りました。第二連隊が全滅したそうです。どうやら副長の草案通りに対戦車地雷を設置せず、間隔を十分空けていなかったようです。一つの爆発で次々と地雷の誘爆が起き、それに巻き込まれて……」
「そうか」
「前方はもちろんのこと、左側面にも、第二連隊を追っていた部隊が攻撃を始め、右側面にも、第三連隊と戦っていたはずの敵が殺到しています。指示を」
「第三連隊も壊滅して、退却を援護する者がいない。戦場に最後まで残る殿(しんがり)部隊を作って、抵抗させている間に退却しろ。私も残りの親衛中隊すべてを連れて、援護する」
「了解しました。通信終わり」
 ……本当に死んだんですか、師団長。つい四時間ほど前は、布告しすぐに侵攻を始めたドイツ軍に毒づきながら、似合わない口髭をいじっていたのに。
 そして師団長よりも身近な、一年間共に生活してきた部隊の全滅を聞かされても、あっさりしたものだった。今は、師団長が死んだ実感も、第二、第三連隊が全滅した実感も、何処にも、何もかもがない。遠くで鳴る大砲の音だけが、かろうじて戦場に居るという実感を与えてくれる。これが、近代戦ということなのだろうか。師団単位の自分でこれなら、地図の上から戦争を眺める人間には、一体どれほどの実感があると言うのか。
 ティナは、ずっと握りしめていて湿ってしまった手綱を引っ張りつつ、慣れ親しんだ動作でヴェルナーの背へ飛び乗った。同時に、近くの兵士に背負わせていた背嚢(はいのう)を受け取り、両肩紐にそれぞれの腕を通した。いざという時の為、執務室に準備していた背嚢の中には、プレートアーマーの頭部と、いくつかの手榴弾が詰め込まれている。プレートアーマーの頭部は背嚢に入れたままにする予定だ。白兵戦では被っておきたいが、今回は邪魔になる。
「第四連隊担当の無線兵。第四連隊に、退却を通告しろ。退却場所は事前に申し合わせていた場所だ」
 無線兵に指示したあと、場に残っていた第四から第八親衛中隊を合併、一つの大隊として機能するよう、隊列を改めて組み直させた。
「我々はこれより左側面に展開する部隊を攻撃し、第一連隊の退却を援護する。貴重な精鋭部隊だ、一人でも多くの兵士を逃がすことを目的としろ」
 親衛中隊の全員が同時に無言で足を揃え、敬礼した。
 ティナは部隊の行軍速度に合わせて、ヴェルナーを走らせた。
 戦場に近づくたび、日中より涼やかな朝の風に混じって、今まで感じたことのない堪えがたい臭気――死に満ちた腐臭が、鼻を劈(つんざ)くようになった。ティナは右手で手綱を引きながら、左腕の軍服で鼻を覆った。意味がなかったので、すぐに外す。臭いにまで顕れる、十五人の死亡と、二千人以上にも上る戦死者の違い。総兵力が五千の師団のうち、二千以上だ。かつてここまで高い割合の戦死者を出した師団など、ROT中央軍に存在するのだろうか。存在しないだろうな、と自嘲の笑みが零れる。
 間近で、大砲の砲弾が弾けた。飛んできた微細な破片が当たったヴェルナーが悲鳴を上げ、両前足を高く掲げた。振り落とされないよう、鐙に置いた足に力を入れた。親衛隊の隊列を横目で見る。中央の列の五人ほどが消えていた。更に首を後ろへ捻じ曲げると、彼らは砲弾の衝撃を受けてばらばらに四散した肉塊となり果てていた。
 どこからか二度目の砲撃が行われ、それも部隊の近くに着弾した。機銃の掃射音も聞こえてくる。戦車を潰すには火力が足りない、弾丸の雨から身を隠す塹壕もない。弾が外れてくれるのを期待するだけという、指揮官としてあるまじき方策しか取れず、次々に隊員の体が砕け、死体となっていく。しかしそうしているうち、救援部隊の存在に気付いたのか、第一連隊の大砲隊による砲撃が敵陣地を襲うようになった。
 その援護を受けて着実に距離は詰まり、対等な戦闘が可能となった。馬に乗ったまま前線にいれば、自分が指揮官であるとわざわざ敵に宣伝しているようなものだ。後方に下がる。自分の仕事はここまでだ。後は退き際を見極めればいい。
 親衛隊員はさすがに師団直轄兵力だけあり、大戦初期よりは質で劣るだろうドイツ兵を翻弄していた。戦車の砲撃を受けても眼前の部隊へ執拗に攻撃を繰り返し、第一連隊が撤退する時間を稼いでくれた。
 最終的には、移動式大砲台から、轢殺兵器に役割を変更した戦車が突っ込んできて、そこでティナは、退却の命令を発した。
 たった一台の戦車に、部下の命を弄ばれるわけにはいかない。ティナは曲芸に打って出ることにした。
 ヴェルナーを走らせたまま、手綱から両手を離し、鐙にかけた足だけで体を安定させる。その体勢を維持しながら、先程受け取っていた背嚢の肩紐を外し、前に持ってきた。背嚢本体を左手で支えつつ、右手を袋の中に突っ込んで手榴弾を取り出す。目で戦車の速度を測り、馬でも行けると確信を持った所で、足で腹を叩いてヴェルナーに走る速度を上げさせ、戦車に近づいていく。戦車の砲身がこちらに向いていないことを確認した後、右手に持った手榴弾からぶらさがる紐を口にくわえた。歯と舌先で抑え込んで、勢いよく紐を引き抜く。三秒後には爆発する手榴弾の本体だけが手元に残った。それを、後方を走る戦車のキャタピラに向けて放り投げる。口にくわえた紐付きの安全装置は地面に吐き捨てた。
 続けてもう一つを取り出し、それについた紐もまた口でくわえ込んで引き抜く。安全装置を吐き捨てつつ、今度は逆側のキャタピラへ投擲。投擲の反動でバランスを崩して落馬しかけ、空いた右手で慌てて手綱を掴み直す。後ろで二度の爆発音。時間差で左右のキャタピラに噛ませた手榴弾が、戦車の勢いを削いでいた。速度を落とした戦車は自らの砲撃で地面に開けた大穴を乗り越えることができず、はまり込んで停車した。
 全力疾走で苦しい呼吸状態の中、戦車にすぐ近くまで迫られていた兵士らが、指笛を使って大騒ぎした。そう何度もできない曲芸だが、満足してもらえたようだ。背嚢を、背負い直す。
 それからも複数の戦車の追走を受けたが、砲弾によって凹凸の激しくなった平野を敵の戦車は上手く突破できず、途中で諦めさせることが出来た。追走の恐れがなくなってからも走り続けた親衛隊員は、無事、第六騎兵師団の駐屯地に逃げ込むことに成功した。
 撤退が成し遂げられ、広い訓練施設の入り口の地面で、次々に兵士が座り込む。
 ティナは無線兵の一人を捕まえ、第六騎兵師団の救護班をすぐに呼び寄せるよう指示した。
「副長! 俺は手榴弾が羨ましいです! 俺のも口でくわえて舌で抜いてください!」
 一人の兵士が、煤だらけの顔で天を仰ぎ、叫んだ。確か、第八親衛中隊に所属する兵士だ。第一親衛中隊から順に名前を覚えているので、名前は、まだ知らない。知っているのは、いつも笑いの場の中心に居ることくらいだ。
「あんたのは紐より細いだろうが。提案は却下だ、曹長」
 地面にうつ伏せに倒れ込んだり、仰向けになったりしている兵士の一群から、笑いが漏れた。
「いま言ったのは伍長か! 後で殺す」
 部下から生意気な口を利かれた曹長は、そう切り返しつつ、喉を反らしたまま激しい呼吸を繰り返す。
「紐より細いなんて、それは逆に見てみたいですね」
 ティナはヴェルナーから降りて、近くに立っていた兵士に手綱を持たせた。曹長に近づきながら笑顔を零す。
「だから、紐じゃないですって」
 ティナの言葉に反応した曹長は、突然立ち上がってベルトに手を掛けた。彼が左手だけでベルトを緩めてズボンを下ろそうとすると、横から、近くにいた別の兵士がその手を掴んだ。
「やめとけ。鼻で笑われるだけだ」
 手を掴んだ兵士に言われ、曹長は笑った。曹長はまた地面に座り直し、左手を突いて天を仰いだ。
 曹長の右腕は、吹き飛んでいた。退却前に失ったらしい右腕の付け根には、止血用の包帯が巻かれているが、どう見ても血は止まっていない。重い医療用具を運んでいた衛生兵は隊列に遅れて殺され、対処のしようがなかった。第六騎兵師団の医療班も、間に合わないだろう。
 曹長の左腕はやがて力なく曲がり、彼を仰向けに倒れ込ませた。ティナはすぐそばに腰を下ろし、残ったほうの左手を強く握った。曹長の顔が見る見るうちに蒼白になっていく。歯をかち合せながら涙を流し、「寒い、寒い、寒い、寒い」と繰り返し呻く様子を、ただじっと見つめる。
「死にたく、ないなあ……」
 最後にぽつりと洩れたその声の余韻が、朝の澄んだ空気と溶け合う。
 それからしばらく経ってから、ティナは曹長の両瞼を静かに下ろしてやった。


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