一九一八年七月二十二日
ROT殲滅戦まであと《一日》

 師団長の付き添いとして中央軍総司令部にやってきたが、二十歳の若造が第四方面軍の陸戦指揮官に会うことは許されなかった。そのため、面会控室の壁に張ってあるROT全土、ドイツ西南部が示された地図を見ながら、ドイツが攻めてくるとしたらどこだろう、と考えていた。国境の村々の名前をなぞってはロッテンゲンに持っていき、なぞってはロッテンゲンに持っていく。しかしもし敵がROTから軍需物資を収奪することを目的とするなら、狙うのはロッテンゲンの孤立かもしれない、と思い付き、指を下ろす。腕を組んで、地図をじっと見つめた。
「待たせたな」
 右手の人差し指で二の腕をとんとん叩いていると、師団長がいつの間にか隣に立っていた。
「何で地図と睨み合いしてんだ?」
「あ、いえ、深い意味は。ドイツ軍の動きが活発化しているということで、どのルートを使って攻め寄せるんだろうと考えていまして」
「で、どうだ? 予想はまとまったか?」
「全然、駄目です。まあ、こういうのは中央軍の参謀さんが考えることですよね」
「その参謀さんも、頼りにならねぇな」
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「どいつもこいつも楽観視してたよ。俺の忠告なんか聞きもしねぇ。緊急時の指揮系統の混乱に備えたマニュアル作成だけで手一杯だと。どうせそんなマニュアル、戦争が始まったらケツ拭く以外に使い道ねぇだろうが。各師団の迎撃地点を明確に決めておくだけでも違うはずだ」
 師団長は、自分と近しい考え方の人間だ。まだ副師団長となって一週間と経っていないが、少し砕けた話し方をしてくれるので、馴染み易かった。これまでもそうだったが、自分は近しい上司には恵まれているな、と再認識した。強いて難点を挙げるとすれば、蓄えた自慢の口髭が、細面に致命的に似合っていないところくらいだ。
「まあ、こうなったらうちの師団だけでやれるだけのことはやるけどな。あと二週間も我慢すれば、いくらドイツでもここへ関わる余裕はなくなる。それまで耐えきれば俺らの勝ちだ。副長には少し無理をさせることになるかもしれないが、よろしく頼む」
「はい。微力ながら、手伝わせて頂きます」
 下肢を失くして還って来た、父の遺体。過去の小競り合いで命を落とした、上司や同僚や部下の遺体。抵抗して殺された、ハイエル村の民間人の遺体。自分の発した命令で死んだ、ハイエル村の駐留軍兵士の遺体。間近で見たすべての戦死者を、決して忘れてはいない。ドイツなどにこの国を制圧させてたまるものか。歩き始めた師団長に従い、ティナは中央軍総司令部を後にした。
 師団長直轄兵力である親衛隊員の訓練所では、指示された通りの訓練をこなしている兵士の大群があった。猛暑の中、汗を滴らせながら、疑似山林から出てくる兵士たち。各々の顔には迷彩柄のフェイスペイントが為されているが、汗のせいでほとんどが落ちてしまっていた。一群のもとに向かい、気をつける点を言って回ってから、指揮詰所に戻った。ここ五日で、親衛隊員には、大抵名前を覚えて貰えた。こちらも少しずつ彼らの名前を覚える事が出来ている。
 指揮詰所内の執務室に戻りすぐに、上がってきていた数々の調査報告書に目を通した。戦時には第十一師団影響下となる村々の軍団長に、それぞれの兵力、装備、迎撃する際の態勢を報告して貰った書類だ。読み終えた後は、それを集約したファイルに綴じている。今日上がってきたものも統合して判断すれば、ハイエル村のような、兵士五十人、単発式ライフル五十丁、軍馬五十頭、軍刀五十本、大砲二門が国境沿いの基本的な備えのようだった。もしドイツ兵が、連射式ライフル十丁、戦車二台、戦闘機一機で来襲すれば、村民全滅となりかねない。
 第十一歩兵師団の平時の分担は、第六騎兵師団、第十二歩兵師団と共に、スイスとフランス国境の警備。戦争が始まった際には、第十三歩兵師団と第三から第五の騎兵師団を加えて、第四方面軍所属になる。職務も、スイスとフランスとの物流ラインを守ることに変わる。その際にはドイツと国境を接する村々も影響下に置くことになっており、今はその対策を練っている最中だ。
 川辺にある村々には、ドイツ軍の襲来が分かった時点で、住民をロッテンゲンへ向け避難させるよう伝達してある。そして残った兵士が大砲を使い、退路以外の全ての橋を落とす。戦車の通行を阻害するためだ。川を渡って制圧しようと仕掛けてくる兵士は、地の利を生かし、村の建物からの狙撃で潰す。ドイツが侵攻を開始した場合、時間稼ぎ程度なら、それで十分対応可能なはずだ。その間に中央軍が準備を整え、出動する。難しいのは陸続きにある村々で、そちらは師団長の判断に任せている。
 防衛対策では全てが後手に回ってしまっているが、眼前のドイツだけを相手に耐えればいいというのは唯一の救いだった。北西に位置するフランスとの物流ラインを死守しておけば、連合軍の勝利へ情勢が傾いている現在、ROTへの援助が始まる可能性がある。永世中立国を宣言している南西のスイスとは、交易が盛んで、同じ中立の立場の国として、友好状態にあると言っても差支えはない。いざという時に支援を要請しても、黙殺されるということもないはずだ。たが、物流ラインが敵の手に落ちた場合は違う。支援しようのないROTの窮状は無視されることになるだろう。その意味でも、自分が所属する第四方面軍の役割は重要になってくる。
 防衛陣地の構築場所、塹壕の設置場所、対地機銃の設置場所、対空高射砲の設置場所、地質調査の結果を基にした対戦車地雷の敷設場所、連隊や大隊の割り振り、物資の輸送ルートを分断された場合の対応。戦闘準備においての草案をまとめ始めたら、すぐに日が暮れてしまった。執務室のドアが激しく叩かれ我に返り、書類への書き込みを止めた。
 ペンを放り出して扉を開くと、そこにはエヴァルトがいた。
「死んでるのかと思いました」
 エヴァルトが少しほっとした様子で呟いた。
「誰が」
「ティナ様ですよ。三日前から家に帰って来ないじゃないですか」
「ああ、ごめん。連絡くらい入れればよかったか。今、仕事が山積みでね」
 ほら、と執務室の中央に据えられた横長の机を指し示した。そこには地図や書類ファイルが山となって置かれていて、エヴァルトは顔を顰めた。
「絶対、寝てませんよね」
「鋭い」
「一旦、帰ってきてください。夜食用意したんで」
「うーん……そうだね。一回、寝るか。効率落ちてきたし。少し待ってて」
 机に戻り、先程まで書いていた書類の文章をある程度まとめ、自身のサインを入れて手に取った。執務室の電気を消してから、エヴァルトのもとに戻る。
 戦闘準備についての草案を書き連ねた書類の束を、師団長の側近に渡して、ティナはひとつ、伸びをした。
「帰ろっか」
 第十一師団の指揮詰所から列車までは、歩いてすぐだ。街灯を頼りに、エヴァルトと肩を並べて歩く。
「ティナ様、正直言って、ドイツに勝てますか?」
「いきなりその質問? もう家まで考えたくないんだけどなぁ」
「真面目に答えてください」
「勝てるかどうか、じゃなくて、勝つんだよ。エヴァルト、家の事は任せるからね」
 エヴァルトなら、いざという時にも混乱に巻き込まれることはないだろう。適切な判断で家人の安全を守ってくれるはずだ。頼りがいはクラウスよりもずっとある。
「嫌です」
 しかしエヴァルトは、ティナの指示を断った。聞き間違いかと思い、隣の大男を見上げた。クラウスと同様、エヴァルトも滅多に反論はしない。
「開戦後はティナ様に付くつもりでいますよ。俺もクラウスも」
「何で?」
「家の事は俺が関わらなくても平気です。父もいますし」
「二人近くにいるくらいで、生死に変わりなんかないよ。運が悪ければ三人同時に死ぬ」
「無理を言っているのは分かってます。考えておいてください」
 列車を使い、エヴァルトに付き添われて帰った家では、廊下に、縦長の箱に載せられた黒電話が設置されていた。ティナのいない間に、置かれたようだ。その廊下を過ぎると、ティナの母親が居間の六人掛けテーブルに座っていた。クラウスとエヴァルトの妹も、向かい合わせで机に突っ伏して眠っている。他の人たちはもう、それぞれ割り当てられた部屋に戻ったのだろう。
「おかえりなさい」
「ただいま。疲れたー」
 家に帰ってきた安心感からか、急に眠くなってきたが、堪えて、母の正面に座る。
 夜食は、ジャガイモとニンジンのスープと、小麦色をしたパンがふたつ。そして薄皮まで剥かれたオレンジが六切れ。
「副師団長になった気分はどう?」
「えー、そんなに変わんないよ。仕事量がとんでもないことになっただけ」
「体調を崩さないようなものを毎日作っているんだから、たまには帰ってきなさい。軍の食堂よりは美味しいはずよ」
「うん。でも、あと二週間だから。うちの師団の試算だと、あと二週間耐えきれば、ドイツはこの国に関わる余裕がなくなる」
「二週間、か……」
「お母さんの方こそ大丈夫なの? 今、ヨーロッパ中で妙な疫病が流行ってるじゃない。あれで何百万人もやられてるとか聞くよ?」
「ちゃんと気を付けてる」
「ならいいけど」
 そこで会話が途絶え、ティナは黙々とパンを咀嚼し、スープを飲んだ。
 オレンジに手を伸ばしかけた所で、ティナの隣の席で眠っていたエヴァルトの妹が、体をびくりと震わせた。彼女は顔を上げた。少しの間ぼうっとしていたが、ティナが隣に居ることに気づくやいなや、椅子から飛び降り、上目遣いでティナを見つめた。膝の上に乗せてくれという、無言の圧力。ティナは抗う術もなく、彼女を抱きあげ、背中越しにきつく抱き締めた。頭の上に、顎を乗せる。子供の頭独特の、例えがたい香りがする。
「ティナ様、いつも思うのですが、こいつを甘やかし過ぎでは?」
「あら、エヴァルトくん。妬いてるの?」
 母がからかうように言った。
「妬きません。クラウスじゃないんですから」
「ふふ。そうですか」
「あーいい匂い。子供の頭ってなーんかいい匂いするんだよねぇ」
 そう言いながら、エヴァルトの妹のお腹の辺りをくすぐると、彼女は楽しげな悲鳴を上げつつ身をよじり、ティナの手から逃れようとした。やり過ぎて強烈な頭突きを顎にくらったことがあるので、途中でやめた。
「私、子供は絶対一人は欲しいな。そのうち、いい人が見つかったらさっさと結婚してさ。まあ、可能性低いからクラウスでもいいけど」
「本当ですか!」
 言った途端、寝ていたはずのクラウスが飛び起きた。
「今、聞きました? 聞きましたよね?」
 クラウスは、エヴァルトと母に確認を取っている。ティナは横から訂正した。
「いや、クラウスでもいいとは言ったけど、クラウスがいいとは言ってないよ」
「なんだ……」
 そう言うと、クラウスは再び机に突っ伏した。寝惚けていたのだろうか。
「まだまだ子供ね、クラウスくんも」
「もし子供が生まれたら、何て名前付けるんですか? もう決めてあるんでしょう?」
 エヴァルトが、大して興味もなさそうに訊いた。
「うん。名前は、男だったらヴェルナーで、女だったらサラかコルネリエ。勇敢そうならサラで、聡明そうならコルネリエね」
「女の場合はともかく、ヴェルナーって……馬の名前じゃないですか」
「この世で一番愛しくなる予定の人間に、名前を付けるんだよ? ヴェルナー以外にないでしょ」
「でも、馬は」
 エヴァルトが首を傾げた所で、廊下の電話が鳴った。ティナはエヴァルトの妹を抱きかかえていたので、エヴァルトが取りに行った。ようやく電話線の通る場所に住めるようになったんだなあ、などとぼんやり感慨に耽っていると、エヴァルトが血相を変えて居間に戻ってきた。
「緊急連絡のようです」
 エヴァルトは自らの妹をティナの膝から抱え上げ、促した。
「わかった」
 嫌な予感がする。この時期の緊急連絡など、想像できる内容はそう多くない。
「代わりました。ティナ・リース第十一歩兵……」
「リース中佐ですか! よかった、無事のようですね。本日七月二十三日午前零時零分、ドイツが、我が国への宣戦を布告すると同時に領内への侵攻を開始しました。ドイツ軍の多方面平行作戦により国境の村は次々と陥落しています。至急、十一歩兵師団指揮詰所へ」


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