一九一八年七月十九日
ROT殲滅戦まであと《四日》

 まだ太陽が昇っていない中での、家財道具一式の運び出しがようやく終わった。母やクラウスやエヴァルトの家族には、中央軍から借り受けたトラックに乗ってもらった。ティナは運転手に慎重な運転を念押しして、送り出した。
 四百八十一名の村民を救った功績が認められて、第十一歩兵師団第三連隊長から、副師団長への昇進が決まった。ドイツに技術力で後れをとるROT共和国において、今回の勝利が久しぶりの明るい話題だったため、そのことが多いに加味されたことは言うまでもない。ただの小競り合いで十五人もの駐留軍兵士の命を落とさせてしまったことは、完全に無視された。
 同時に借家への転居も決まり、今はその作業中だった。今回の転居は、副師団長になり、連隊長時代は兼任していた地方軍派遣指揮官の職を解かれたことと、新聞記事などで有名になってしまい、ドイツ軍に暗殺される危険性が一時的に高まったことが理由だ。上層部からの命令で、警護の行き届きやすいロッテンゲン――ROT共和国首都に、家族や下僕を引き連れ引っ越すこととなった。
 これでまた敵が増えたな、とティナは密かに溜息を吐いた。もちろん、自分自身の能力でも、金星はあげてきた。今の地位に居ても、おかしくはないと自負はしている。そう、男で、ある程度の年齢に達した将軍ならば。しかし実際には、ティナは女で、まだ二十歳でしかなかった。女性兵士としては異例中の異例の、中央軍第三連隊長にまで出世。ここまで来れたのは、ドイツ軍との小競り合いで執れる限りの指揮を執り連戦連勝、獅子奮迅の活躍をしたが生涯唯一の敗戦で死亡した、ティナの父親のおかげだ。
 病弱な母を気遣っていた父は、子は一人しか産ませられないと考えていたらしい。だが、生まれてきたのは女だった。母以外の女と関係を持つのが嫌だった父は、男の跡継ぎが生まれなかったことから、ティナを跡継ぎとすることを決めた。ティナは徹底的に軍事知識を叩き込まれた。変動する世界情勢の読み方から、戦術の王道、王道を踏まえたうえでの奇策。幼いころから、徹底的に、だ。そのおかげで、士官学校を十五歳で卒業した少尉時代から、同期生よりずっと早く、戦場全体の動きを把握できた。父親を尊敬していた元同僚からも目を掛けられているティナは、戦果をあげるたび、上へ上へと引き上げられていった。
 そのぶん妬みや蔑みも一身に受けてきて、友人と呼べるような存在は一人もいなかった。僅かに存在する女性兵士からは妬まれ、目も合わせてもらえない。男の兵士の多くは、男尊女卑の風潮をそのまま受け継ぎ、少しでも失策を犯そうものなら、ティナの全人格を否定するべく責め立ててくる。ただ、有り難いことに、一番長く接してきた第三連隊の部下には、そういった傾向は少なかった。ある程度は、信頼されていたということだろう。
「ティナ様! ヴェルナーはご自分で受け取りにいらしてください!」
 トラックを見送ったあともぼうっとしていると、クラウスが、家の裏手の厩舎(きゅうしゃ)から声を張り上げた。
 家の裏手には、興奮気味の馬を必死になだめるクラウスと、乗馬している姿が歴戦の将軍のごとく様になっているエヴァルトがいた。家財道具一式を載せ、母と、クラウスの家族、エヴァルトの家族を乗せたトラックには、この三人が入り込む余裕はどうしてもなかったため、馬で移動となった。ヴェルナーの名前を呼びながら近づき、額を寄せてきた彼に頬をくっつけた。いつもの挨拶。入隊から連れ添ってきた、可愛い馬だ。
「ティナ様は馬には好かれるけど、人間の男には好かれませんよね」
 その様子を見つめていたエヴァルトが呟く。この家での最後の食事中に、不注意からスープをぶちまけて、それを彼に掃除させたため、機嫌が悪い。下僕と言っても、幼いころから共同生活をしているようなものだ。家事や護衛は仕事だとしても、自分で零したスープぐらい自分で拭けと思うのも無理はない。
「クラウスがいるじゃん。クラウスが。この間だって、額にキスしても嫌がられなかったし。ね?」
 からかうようにクラウスを見遣る。クラウスは、望んだとおりの反応を見せ、顔全体を真っ赤にした。
「あんまりからかわないでやってください。あいつは本当にティナ様の事が好きなんですから」
 エヴァルトが溜息まじりに、ティナのことをたしなめた。クラウスには聞こえない声量で。
「クラウスはまだ十四だよ? こんな年上、本気で好きなわけないでしょ。気のせい気のせい」
 手綱を引いてヴェルナーを厩舎から出し、鞍に足を掛けてよじ登る。横目で見たクラウスもようやく馬の興奮を収め、乗ることに成功したようだった。ロッテンゲンへ着いたら、クラウスには乗馬の特訓を課さないと駄目だ。
「じゃあ、表に出てライナルトたちを待とうか」
 副師団長に任命された際、ライナルト、そして南街道沿いの駐留軍を掻き集めて加勢した副官の活躍も報告しておいた。中央軍の中に、もっと味方が、しかも優秀な味方がいると楽だなという打算が半分、彼らとは友人としても付き合えそうだという打算が半分。打算しかない報告だった。どこに配属されるかまでは口を挟むことができなかったが、強く推挙しておいたので、中央軍のある程度の場所に配属されるのは間違いなかった。結果的に、ライナルトと、ライナルトの副官は、第五騎兵師団に配属されることとなった。彼らの場合はまだ転居の準備はできていないらしいが、とりあえず今日は部隊の行う訓練に参加しなければならないということで、途中まで一緒に行くことになっている。
「早く地方まで路線を伸ばして欲しいな。疲れてしょうがない」
 ライナルトは、副官にそう愚痴りながらティナの家の前に現れた。虫の声しか聞こえない夜明け前には、声が良く響く。ティナたちの存在に気付くと、ライナルトは馬を静かに歩かせながら近づいてきた。
「五日ぶりですね」
 こちらから、声を掛ける。
「はい。リース連隊……リース副師団長」
「これからは五騎に入るんですから、その呼び方だと紛らわしいですよ。私の階級は中佐です」
「この度はお引き立て頂きありがとうございました。光栄の極みです」
 ライナルトの副官、確か、ルーファスが、黒の長髪を風になびかせながら、恭しく頭を下げた。
「貴方が南街道沿いの兵士を集めてきてくれなかったら、勝てませんでしたからね」
「リース中佐、こいつは外面は良いですが、女にだらしない男なのでお気をつけください」
「ライナルト、俺の趣味はなぁ、童顔で背が低くて目がくりくりしてて、守ってあげたくなる女の子だ」
 ライナルトが横から口を挟むと、ルーファスは口を尖らせた。ルーファスは、三十手前あたりのライナルトと対等な口をきくのだから歳は近いようだが、とてもそうは見えない、若づくりの男だ。
「ルーファス副官、貴方の性格がなんとなく掴めた気がします」
「あ、これは、違うんですよ……。ライナルト、お前、誘導しやがって」
「そちらのお二人は?」
 ルーファスに取り合わず、ライナルトが訊いた。
「ああ、家事とか護衛とかをやってくれている二人です。すらっとしてるのがクラウスで、ごついのがエヴァルト。覚えやすいですよ」
 紹介された二人は、軽く頭を下げた。ライナルトとルーファスも丁寧に頭を下げる。
「しかし、リース中佐。貴方もこの五日で有名になりましたね。ハイエルでも連日貴方の話題で持ち切りでした」
「今回の局地戦のせいで、上がドイツ軍を侮りがちになるのではないかと不安になります」
「そうですね。まあでも、指揮を執る姿は、常に相手を見下しているような雰囲気があって、妖艶でしたよ。記者が取り上げたくなるのも分かる」
「貴方まで、暢気なことを」
「はは。いいじゃないですか、素直に喜んでおけば」
 ティナは溜息を吐いた。
「そんなことよりも。ハイエル村に、撤退要請は来たんでしょうか」
 訊ねると、ライナルトは途端に表情を曇らせた。
「あの後、ハイエル村の住民には、なるべく早く都市部に避難するように通達がありました。ですが、駐留軍は最後まで残るよう要請もあったので、部下たちのことが心配です」
「大丈夫だって。お前は心配しすぎ。あの惨敗があったんだ。国境を狙ってくるとしても別の場所を襲うだろ」
「そう、思いたいですね」
「あの、早くしないと列車の時間が」
 クラウスが懐中時計を見つめながら、申し訳なさそうに呟いた。
「ああ、ごめんごめん。さあ、行きましょうか。ロッテンゲン行きの鉄道が出てる駅は、ここから五時間ほどですよ」
 ティナはヴェルナーの腹を足の内側で蹴り、走らせ始めた。
 中央軍への街路を知っているのはティナだけなので、自然とティナが先導することになる。他の四頭がついて来られるような速度に調整しつつ、なるべく細い路地を走るようにした。それでも朝になってくると、どう足掻いても人の往来は排しきれず、速度を落とさなければならない。速度を落としたぶん顔も見られるようになり、新聞報道の成果か、すぐに人が集まってきてしまう。
「鬱陶しい」
 馬上でそう呟くと、ティナの右隣で馬を歩かせるライナルトが苦笑した。
「聞こえますよ。この人気が続けば、何かの役に立つかもしれないですし、そう悲嘆に暮れる事はないと思いますけどね」
 その声には答えなかった。群衆が発する様々な言葉から耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、馬を静かに進めて行く。
 朝の通勤時間帯を過ぎて街路も空き始めた所で、再び速度を上げた。ハイエル村に向かった時のように、無心でヴェルナーと駆けたい。このまま四人を置き去りにして走ってしまおうか。この間の戦勝から心中に鬱積していく一方の塵芥に毒され、そんなことを半ば本気で思ったが、わがままは言えない。四頭がついて来れる程度、人と接触しない程度で、軽く流すようにして走っては休憩し、走っては休憩した。
 途中で、予定通り鉄道に乗り換えた。軍事力は劣っているROTでも、中心地周辺には鉄道が敷設されている。軍事目的を度外視した建設計画のせいで戦闘には使い勝手が悪いだろうが、一応は馬も運べる輸送車両がついているものも出ているので、報告の際に毎回利用していた。平常通り運行されれば、一時間ほどでロッテンゲンの郊外に着くはずだ。
 仮眠を取るつもりがすっかり寝入ってしまい、起きてすぐ目の前に広がったのは馬が並ぶ輸送車両内部だった。気付くと自分は、土嚢を担ぐような扱いで、エヴァルトの右肩に担がれて運ばれていた。恥ずかしい体勢をさせられているということに加え、ヴェルナーの姿も輸送車両の中に見つけ、ばしばしとエヴァルトの背中を叩いて下ろさせた。ヴェルナーのそばに駆け寄り、母の体調不良を心配する時と同じように「大丈夫?」「どこか痛い所ない?」「どこか痛かったらちゃんと言うんだよ」などと優しい言葉をいくつも投げかける。馬はストレスを抱えやすい生き物で、輸送に耐えられないこともあるそうだ。そのことが頭にあったうえでの行動だったが、ヴェルナーを連れて降りると、ライナルトとルーファスは笑い出しそうになるのを必死で我慢しているように、口元を震わせていた。鉄道員に馬の引換券を渡しているエヴァルトとクラウスは、いつものことだから平静だ。
「何ですか? 馬を大切にするのは軍人の基本だと思いますよ」
 傍から見ていたら可笑しかったかも、という自覚もあったので、照れ隠しで言った。
「はい。もちろん。分かってます」
 そう答えたルーファスは笑いを噛み殺し切れていなかった。
 郊外とはいえ、さすがに首都だ。今まで暮らしていた町よりもずっと人通りは多い。露店の雑貨屋で、庇のついた編み込みの帽子を買い、目深に被る。露店は人混みに埋没していて、クラウスが指をささなければ気付かなかった。いちいち騒がれないように一つ買っておけばどうですか、と。よく気が回る子だ。
 地図を片手に新しい家を探した。郊外は、平屋で庭なしの多い中心街に比べて割合ゆったりとしたスペースの、綺麗な二、三階建ての新築家屋が多い。その中で一際目を引く家が、どうやら自分たちの新居らしい。
「これ、みたいだね」
 いつに建てられたものなのか見当もつかない、薄汚れた灰の木造家屋。クラウスらの家族も含めれば総勢十三人にもなる大所帯で住むには狭すぎると、一目で分かる。
「酷いボロ家ですね」
 エヴァルトが、その場に居る全員が抱いたであろう感想を代弁した。
「ま、一時的な住まいだし、我慢するしかないね。こんな便利な所に家を用意してもらっただけでもありがたいでしょ」
 住居を用意した将校の、妬みのなせる技、かもしれない。だが疑っても詮無いことだ。野宿しろと言われているわけではないのだから。ヴェルナーから降り、手綱を引いて家に近づく。
「少し寄って行きませんか? 訓練の開始は午後二時からでしょう? 上がれる場所があるのか分かりませんけど」
「もしよろしければ、お言葉に甘えたいです。腹がさっきから鳴りっぱなしで」
 ルーファスが自分の馬から降りながら言った。他の三人もそれぞれ続いた。
 玄関先には既に警衛が二人立っていて、ティナは「よろしくお願いします」と頭を下げた。
 家に入ると、外観の期待を裏切らない黴臭さだった。顔を顰め、四部屋ぶんの扉が確認できる廊下を抜け、居間に入る。
「おかえり」
 ティナの母、クラウスの母、父、兄、祖母、エヴァルトの父、母、妹、祖母、祖父。それぞれが同じ挨拶をまとまりなく言ったので、最後にエヴァルトの妹が言うまで、何を言われているのか聞き取りにくかった。クラウスの兄や父、エヴァルトの父や妹は座る場所がなく突っ立っている。こんなボロ家に詰め込まれて文句のひとつも言いたくなるだろうに、みんな笑顔だ。こちらに気付くと、床に座ってトマトスープを掻き込んでいたエヴァルトの妹が、スープの皿を置いた。
「昇進が正式に決まったお祝いだよ」
 エヴァルトの妹は嬉しそうに近づいて来て、ティナの手を引く。ティナは、遠慮がちに居間の入口に立っているライナルトとルーファスを呼んでから、その手に引かれるまま、居間の中央に据えられたテーブルに近づいた。
「うわ、おいしそう」
 鳥胸肉やトマトの身が漂い、朱色が鮮やかに映えるトマトスープに、馬鹿みたいに堅い保存用のものではなく、近場で調達したと思しき柔らかそうなパン。ハムやレタスなどをオリーブオイルや塩で和えたサラダ、スライスされて皿に盛られたイチジクの実。特別豪華な料理、ではないが、ここのところジャガイモしか口に入れていなかったティナにはこれだけで充分だった。テーブルの上に並べられた料理の数々を見て、自然に口内は唾液で満たされ始めた。
「えーっと、お客さんがいます。第五騎兵師団に配属されることになったライナルトさんと、ルーファスさんです。席、空けて貰っていい? ごめんね」
 その声を受け、席に座っているのはティナの母とクラウスの祖母とエヴァルトの祖父母だけになった。ライナルトとルーファスが、席を立った家族らに礼を言いながら席に着いた。
「おいしそうな料理が並んでますねえ」
「ありがとうございます、そう言っていただけると作った甲斐があります。よそうので少し待ってくださいね」
 ティナの母が、ルーファスに対し薄く微笑んだ。
「あ、私がよそおうか?」
「やめてください。新居の床まで汚すつもりですか」
 気遣って言ったつもりだったが、隣に居たエヴァルトに制された。小姑め。
 ティナの母は、積み上げられていた取り皿に手際良くサラダとイチジクを載せ、深皿にスープをよそい、スプーンとフォークを彼らの前にそれぞれ置いた。
「さ、どうぞ。量は多く作ったので、遠慮せずに」
「あ、はい、じゃあ、頂きます」
 ルーファスは早速手を付けたが、ライナルトは黙ったまま、こちらをちらりと見遣った。どうぞ、と口を動かす。
「お母さん、私も食べる」
「はい」
 既によそっていたものを、テーブルの隅、ライナルトの席のすぐ近くに置いた。隣に立つと、ライナルトは小さく「申し訳ないです」と言った。こちらも小さく「そんなに気にしないでください、普段からこんな感じなので」と返す。
「うまいっすね」
「おいしいです」
 ルーファスとライナルトの言葉を聞きながら、スプーンでトマトの身をすくい、口の中に放り込む。
「あー、ホントにおいしー……」
「おいしいなぁ」
「さすがの腕前ですね」
 ティナに続き、クラウスやエヴァルトも、口々に絶賛する。
「トマトがこんなに甘く感じるなんて。ジャガイモに味覚が浸食されてるのかも」
 立ったまま、手を伸ばして小麦パンを手に取った。一口かじり、今度はサラダ。いちいち言うのも面倒なほど、どれもこれもおいしい。
「すごく幸せそうな顔して、食べますね」
 隣に座っているライナルトが、苦笑でない、単純な笑顔でこちらを見上げていた。
「美味しい物を不味そうに食べる方が難しいですよ」
 笑顔で、応じた。
 ライナルトはこちらから目を逸らして、レタスにフォークを突き刺した。


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