12 ◆

 化学繊維の燃える臭いが、鼻をつく。リースからの帰宅途中で、炎を吐き出す家に遭遇した。雲ひとつない月夜に華を添えるように、幾度か大きな爆発があり、その度に、周囲の人たちはどよめいた。事件現場などに群がる野次馬のことを、不謹慎な人たちだと思っていたが、実際に遭遇すると、違った。ましてや、原因が何であるかを知ってしまっている場合には、ただそこに引き付けられてしまう。ようやく消防車が到着したときには、爆発で吹き飛んだ窓から見える家屋の内壁を、舐めるように這っていた炎が見てとれた。恐らく、為す術は、ない。
 このところ自治区では、放火事件が頻発している。家主が外出している間隙を縫った死傷者が出ないものから、深夜、家の出入り口にガソリンを撒き放火、逃げ場を失くして確実に焼き殺すものまで、多種多様だ。
 始まりは、連続火災事件が同化推進派の仕業だと思い込んだ排他主義者の起こした、小火騒ぎからだった。すぐさま、疑いをもたれている同化推進派団体が『我々は本当に火災事故には関与していない。排他主義者が我々を攻撃するために仕組んだ策略だ』とする声明を発表したが、その声明が火に油を注いだ。それからはお互いがお互いの主要な運動家の住所を探っては火を点け、その報復に火を点け、更にその報復に報復をし……収拾がつかなくなった。
 数で劣る同化推進派は、多数で圧縮される恐怖に駆られて過剰な防衛策を取った。少数の過剰な防衛策に多数は怒り、排他主義者は更に数を増していく。ROTに対する差別意識の根強く潜む警察機構は、最初の小火騒ぎや、それに続いた放火事件を受けても、それほど素早くは動かなかった。その結果、全てが後手後手の事後対応に追われ、頻発する各放火事件を解決するための捜査の精度は、日増しに程度が低くなっていった。
 治安というものは、こんなにも単純なきっかけで悪化するものなのだろうか。排他主義者と同化推進派の対立。言葉にすれば原稿用紙一行分にも満たない、その事実は、瞬く間もなく自治区全体に伝播した。
 この実感は、恐らく一般レベルのものだ。あれから、サラの姿は見掛けていない。当然、一般に伝わる情報しか得ていなかった。
 サラには、今までひとつひとつ丁寧に重りをつけ、心底に沈み込ませてきた数々の澱(おり)があった。それが、あの時の自分が放った不用意な一言で感情ごと掻き回され、目に見える部分まで浮き上がってきてしまっただけの話なのだろう。
 電気もつけないままでベッドに腰を落とすと、少したわんだ。どうして、ちゃんとした順序を立てて話し合わなかったのか。後悔しかない。結局、サラがコルネリエに対して抱いた誤解を解くこともできず、友人を喪ったコルネリエの傍にいることもできず、サラとの関係を乱しただけだった。
 ここ数日の恒例となっている、後悔に身をやつしているだけの、無為な時間。
 アパートの外では、深夜だというのに消防車がサイレンをかき鳴らして、現場へ急いでいる。救急車も、それに続く。こんなことで、自治区に蔓延する焦げ臭いにおいの中を、生き残れるのだろうか。親しい友人から軽蔑されたくらいで、落ち込んでいる自分が。二度と取り戻すことのできない場所へ、友人を連れ去られた人を知っているのに、何もできない自分が――。
 横になって、床に頬をつけた。先程とは違う方向から、消防車のサイレンが響いてくる。ここ最近、毎日聞いている音。耳を塞ぎたくなる音だ。コルネリエは、と思った。コルネリエは、無事だろうか。先程の火災現場では、自分と同じ野次馬の一人が、この家の人は排他主義者でも同化推進派でもない、と言っていた。今日は定休日で、コルネリエも一人でリースの二階に居るはずだ。
 コルネリエが友人を喪った時に何もできず、自分が少しくらい痛い目を見たから会いに行くなんて、甘えにも程がある。そう考えようとしたが、上手くいかなかった。一人でいれば意味もないことを考え続けて一日が終わってしまう。コルネリエを見て、安心したい。立ち上がり、洗面台に向かった。手を洗い、歯を磨いて、顔を洗った。帰宅してそのままの格好だったので、それだけすればよかった。
 財布と携帯電話の微かな重みだけを携え夜道を歩く。歩いているうち、遠くで聞こえていた、犬の遠吠えに似た音が段々と近づいてきて、ヴェルナーの横を通り過ぎていった。赤色灯が闇夜と対象的なコントラストをなし、道路の十数メートル先まで照らす。
 コルネリエは、玄関先にある段差に、腰を降ろしていた。半袖シャツにハーフパンツ、スニーカー。寝る前のいつもの格好だ。近づいていくと、立ち上がって迎えてくれた。それだけなのに、嬉しくて仕方がなかった。
「どうしたの? こんな時間に」
「いや、ちょっと、家の周りで放火が多いので、気になって……」
「なんだ、それなら平気だよ。私がこうして見張ってるから」
「もしかして、眠れていないんですか?」
「あんまりね」
 コルネリエは、自分で作ったのか、手もとにあるアイスコーヒーを啜った。
「レジ、打ってくださいよ?」
 まだ何事もなかった頃に何度も注意してきたことを、呟く。寝起きで声がかすれていたので、咳払いした。
「はは。そうだね。打たないとね」
「別におかしくないです」
 当然の事を注意しただけでコルネリエは笑い、ヴェルナーはそれをまた軽く注意した。
「久しぶりのやり取りだから」
 コルネリエは、また少し笑ったあと、笑みを消し、顔を俯けた。
 ここまで分かりやすく強がりを見せている彼女を前にしてもなお、疲れの滲んだ横顔にかける言葉が見当たらない。視線を、足元のコンクリートに落とす。いつもみたいに、当たり障りのない会話をしながら、励ませば丸く収まるのに。
 コルネリエは、玄関に近づくと、扉を開けた。ヴェルナーも後に続く。扉を開けると、外よりも暗い店内が広がっていた。コルネリエは電気を点けに部屋の奥まで行った。途中、スイッチの近くにあった椅子に足をぶつける音がした。少しして、店内から暗がりが駆逐された。 
 コルネリエはカウンターの内側の席に座り、ヴェルナーはその目の前のカウンター席に座った。
「あの……眠れてないのって、いつから、ですか?」
「分かり切ったこと、訊くね」
 きっかけを探ろうとした矢先、硬い声が、返って来た。
「いや、あの……、別に、悪気は」
 ここでも、サラのときのように、信頼を失ってしまうのか。過敏すぎるとは思うものの、今、コルネリエにまで見放されたら、どうにもならない。必死に逡巡したがうまい言葉は思い浮かばなかった。
 思い浮かばないなら……素直に、話そう。
「ごめんなさい、変な風に取られたくないんで、素直に言います。俺……美晴さんに相談しに行ったあと、サラに注意されたんですよ。もう一度相談に行ったら矢内美晴は殺される、って。言われた通り、あれきり相談にはいかなかった。それなのに美晴さんは殺された。事件が起きて、思ったんです。少しでも、自分がそこに関わってしまったんじゃないかって。コルネリエはこれを知ったらどう思うだろうって。だから、なるべくあの話題には触れたくなかったんです。それで、どうにか、遠まわしに元気づけられないかって考えてたんですけど……上手くいかなくて。何も言わないのは、コルネリエのことがどうでもいいわけじゃない。情けない話なんですけど、コルネリエとも上手くいかなくなったらとか考えると……」
「ねえ」
 コルネリエは、こちらの言い訳めいた言葉を遮って、更に硬い声を出した。
「な、何ですか」
「そんなことで、ヴェルナーのこと、嫌うわけないよ。そんなに狭量に見える? 私」
「いや、そういうわけじゃ」
「ヴェルナー。今の私があるのは、ヴェルナーと美晴ちゃんがいたからなんだよ。そんなことで、上手くいくとかいかないとか疑うこと自体が、私に対して失礼」
「失礼、ですか」
「傍にいて、普段どおり接してくれるだけで、すごく、助かってた。最近は、少しずつだけど、眠れるようになってるし。私は、ひねくれてるのかもしれないけど、そういう、無理にされる励ましとか、白々しくて他人行儀に感じる。だから、無理して考えるくらいなら……何も、言わなくていい」
 そう言って、コルネリエは、相好を崩した。
「大体、私が引きこもってた時も、そうだったじゃない。何も気の利いたこと言えないくせに、何回も、何回も、来てくれてさ……」
「え、気の利いたこと、言ってたつもりですよ」
「全然。駄目だよ、あんなの。ヴェルナーって、無口なわけじゃないのに、下手なんだよね、気持ちを伝えるのとか、立ち回りとかが」
「そうでしょうか。自分では分からないです」
「……言ってみなよ、聞いてあげるから」
 コルネリエは、ヴェルナーが幼かった頃によく見せた柔らかい笑顔を、浮かべた。
「ごめんね。下手なことはわかってるのに、誤解を解いてほしいなんて無理言って」
 子供をあやすような、それでいて、個人と捉えたうえで慈しんでくれているような、不思議な笑顔。そう、これは……。想像でしかないが、恐らく、母親のような。不意に、子供の頃、甘ったれて『だっこ』とせがんだ時に、コルネリエが見せた顔が浮かんだ。あの時とも、同じ顔かもしれない。顔が熱くなり、目を逸らす。この人の前では、自分がまだまだ子供であると感じさせられてしまう。
「申し訳ないです。普通だったら、簡単に解けたはずなんですけど。サラを、疑うようなこと言ってしまって……」
 自分では覚えていないが、自分は、母親の妊娠中に父親が仕事中の事故で死に、産まれてからすぐ母親が病気で死に、母親の兄であった伯父、ホルストに引き取られたそうだ。独身のホルストは仕事が忙しく留守がちで、その代わりに世話を頼んでいたのが、コルネリエだった……とホルスト当人から聞いたことがある。コルネリエの両親も、リースの家に不幸があったのだからと、快くコルネリエを世話役につけた、らしい。
「だから、そのことはもういいよ。結局は私のやったことだから。それより、話したいこと、ないの?」
「あ、き、聞いてもらいたい、です」
 コルネリエのほうが辛い立場にある、という考えはもうどこかへ消え去っていた。厚意に甘えて、絵里に会ったこと、サラと関係が悪化したこと、事実だけを、誤解されないように話した。コルネリエは話の区切り区切りで律儀に相槌を打つ。ヴェルナーは、その意思表示に安心して、最後まで話をすることが出来た。
 聞き終えた後、コルネリエは何度か頷いた。
「それは、かなり難しいね。絵里の奴に上手く乗せられたんだよ、ヴェルナーは。いくら態度が柔らかくなってたからって、あいつの言うことなんて、信用したら駄目。軽蔑されてるって言ってたでしょ、自分で」
「はい。それは自覚してます。でも、絵里も、予想外みたいでした。サラがあそこまで怒るのは。何にも構えてないうちに一方的にやられちゃってましたから。その後、しばらくコンクリートの上に転がったままで」
「まさか介抱なんてしてないよね?」
「背負って、玄関までは、運びました。サラに会おうと思って。結局、サラに指示された警備員に追い返されましたけど」
「サラに会うだけなら、背負う必要ないじゃない。何してんの」
「絵里が何を言ったって、結局、サラを怒らせたのは俺です。コルネリエも、サラにしたことに対してそう思ってるんでしょう? 俺だって同じですよ。それにあいつ、サラにやられる前から怪我してて。ロルフにやられたとか」
「ロルフに?」
 ロルフという単語が出た途端、コルネリエは眉根を寄せた。
「そうか、サラと関係を修復したいなら、あのじいさんから、どうにかしないと駄目だ。サラはここのところロルフの指示ばかりこなしてて、精神的なバランスを崩してるのかも」
「どうにか、できるんでしょうか。あの家の門、中からの許可がないと開きませんし、今はサラがそれを許可しないと思います。前に聞いたんですけど、門を無理によじ登ろうとしたら、警報が鳴って、出てきた警備員に麻酔銃ぶちこまれるらしいですよ。どうにもなりません」
「無理か。ほとんど接触できないロルフじゃなく、出てくるサラを捕まえるとか?」
「関係を戻したい本人に頼むんですか? それに、ロルフが、話し合ったくらいで孫の扱い方を改めるかどうか分からないですよ」
「……堂々巡りね。いい案だと思ったんだけど。やっぱり、サラとどうにかして話すしかないのかな」
「すいません。相談してる立場なのに、揚げ足取ったりして」
「いいよ。とにかく今は、相手の動き待ちね。四六時中、サラを捕まえようと家の前に張り付いているわけにもいかないから」
「そうですね。空いた時間を見つけて、サラを捜したいと思います」
「根、詰め過ぎないでね。ヴェルナーはここの戦力なんだから。それに、あんまりやりすぎてもストーカー扱いされるし」
「はい。気をつけます」
 うっすらと笑んだコルネリエを見ると、何も解決していないのに、何かを解決したような気になって、ヴェルナーも少し笑みを浮かべた。
「話を聞いてくれてありがとう、コルネリエ」
「いちいち言わなくていいよ」
 コルネリエの笑顔は、苦笑いに切り替わった。本当の時もあるが、たぶんいまのは、照れたときの応急用の笑顔だろう。この母性と女性との二面性が、まだ彼氏はできると言ったときの根拠の一つだった。ヴェルナーは、目を逸らした。コルネリエのことを姉や母親と思っているはずの自分も、気を抜いていると、危ないかもしれない。
「じゃ、ちょっと早いけど、開店の準備しようか」
「開店?」
 コルネリエは、店内にある時計を見、それからカウンターを出て蛍光灯を消す。つられて目を動かすと、時計の長短針は六時三十五分のあたりを指していた。
「もうこんな時間か……。今日もお願いします」
 ヴェルナーも立ち上がり、その場で頭を軽く下げ、いつもの挨拶をした。
 ヴェルナーは店の内外の掃除と、鶏がらスープの煮込みと灰汁取り、調理道具の点検を行う。コルネリエは食器を整理し、昨夕届いた食材の納品書と、それを基に閉店後ヴェルナーが改訂した在庫表とに食い違いはないか確かめ、準備が出来る料理は下ごしらえを済ませる。コルネリエはいずれの雑事も手際良くこなした。
 コルネリエの様子は開店してからも変わらず、精力的に働いていた。

 そして閉店後、二人でいつも通りの事務をこなしてから、店を後にしてサラの家へ向かった。ここ何回かは楽をしてバスだったが、今回は、歩き。サラはいつもバスを使わず、歩いていたと思う。終業時間から一時間ほどで辿りついたヴェルナーは、門の前に立った。
 サラに、決定的に嫌われた場所だ。
 あの夜の事が思い出され、少し息苦しくなったが、その気持ちには取り合わないようにした。門に設置されたライトを頼りに、庭を覗く。庭の手前側には、なぜだかテントが設営されていた。それも一つや二つではない。数える事の出来る範囲だけでも、七はある。もっと良く見ようと身を乗り出した時、膝裏にスニーカーの底が蹴り当てられ、少しバランスを崩した。
「何してんの?」
 無表情の絵里が、突っ立っていた。機嫌が悪いのか、カラスにつつかれ散乱した残飯を見る目をこちらへ向けている。
「何でいきなり蹴んだよ」
 さほど痛くはなかったので、蹴られたことに対する苛立ちはすぐに忘れることにした。絵里と付き合うには、切り替えの早さと多少の妥協が必要だ。
「理由なんかねえよ。お前も何してたのか答えろ」
「サラを見に来たら、テントが出来てるから見てただけ」
「ああ、あれ? ジジイのバックアップで作られた自警団だよ。ジジイが、金をばらまいて集めたらしい。ジジイの部下が代表、サラが、副代表をやることになってる」
 普通の表情に、戻った。基準が良く分からないが、機嫌は多少持ち直したように見える。
「やけに素直に説明してくれるな」
「まあこの間は、玄関まで運んでもらったし」
 絵里が笑った。少しだけしか含みを感じさせない、笑い方で。
「分かったら、そこ、どけ。家に帰れない」
 何も考えずに退こうとしてから、やめた。
「入るなら、俺も一緒に入れてくれ」
「私は別にどうでもいいけど。警備員が許可しないよ」
 絵里の言う通り、門が開いていくと同時に、気配もなく門の近くに控えていた警備員が姿を現す。
「サラから、あなたのことは何があっても通さないように言われています」
 口調は穏やかだが、腰には拳銃のようなものが差してある。ロルフの部下なら、従わなければ何のためらいもなく抜くだろう。
「お引き取り下さい」
 素直に、一歩下がった。
「絵里!」
 ヴェルナーを無視して先に進んでいた絵里に、声を掛ける。
「何?」
「サラに、一回だけでも会いたい、って言っといて」
「は? 無理だって。お前とサラよりも、私とサラの方が明らかに関係悪いじゃん」
「頼む」
 絵里は、反応しなかった。少しこちらを見つめた後で、また体を家のほうへ向けた。



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