10 ◆◆

 湯船に浸かっていると、ぺたぺたと水が吸いつく音がした。振り返れば、元気よく走り続ける小さな男の子と、それを咎めながら追いかける母親らしき女の姿が見えた。転ばないかな、とコルネリエが心配したのは女の人の方だ。男の子はそのまま露天風呂に繋がる扉を開け、外へ出て行った。
 女湯へ入ることを許されるのは、五、六歳くらいまでだろうか。今の男の子もそのうち成長して、こちらへは入れなくなる。ヴェルナーは、五歳かその前後で、銭湯の女湯へ入るのを嫌がり始めた。からかったことを思い出し、コルネリエは微笑した。
「何を笑っているの?」
 隣でぼうっとしていた美晴が、こちらを見て不思議そうな顔をした。
「ああ、ごめん。気持ち悪いよね、一人で。ちょっとさあ、さっきの男の子見てたら、小さい頃のヴェルナーを思い出しちゃって」
「いいわね、コルネリエは。結婚していないのに、子育てを体験できたみたいで」
「勘弁してよ。今じゃいい思い出だけど、初めて赤ん坊のヴェルナーを見てるように言われたのは小学生の頃だったよ。煩わしくてしょうがなかった」
「そのお陰で、大人になってから助けてもらえたわけでしょ? 貴重な体験に違いないわ。本当に、私はもう無理かもしれない……。気付いたらこんな年」
「まだ四十三でしょ? いけるいける!」
「残念だけど、貴方の言葉は真に受けないようにしてるの」
「ひどい」
「それに他人事みたいに言ってる貴方も、今年で三十一じゃない」
 美晴は満足したように、微笑みを零した。
 同じ女でも、その自然と優しさの滲む笑みには見惚れてしまう。自分の年齢について擁護する気を削がれ、コルネリエは湯船を出た。
「折角だし外も見てみようよ」
 露天風呂は、雪化粧した山間(やまあい)を見下ろすようにして作られていた。しっかりとした作りの板で、風呂全体がぐるりと囲われてはいる。しかし無粋な人工物の遮りも問題にならないくらいの絶景だった。音もなく振り続ける雪が、風に揺られ、たゆたいながら舞いこんでくる。太陽の光もないのに、積もった雪はきらきらと眩(まばゆ)く見えて、パンフレットに載っていた写真より、もっと、ずっと綺麗だ。
 タオルを胸の辺りに抱えたまま、思わず感嘆の声を漏らして突っ立っていると、美晴はコルネリエの横を通って、さっさと風呂に入ってしまった。
「立った方がよく見えるよ?」
「寒い。ここからでも見える。コルネリエも早く湯船に浸かりなさい」
「はいはい」
 吹きつける風が冷たいのは確かだった。黒い石造りの足場を歩き、美晴のすぐ隣に腰を落とす。先程走り回っていた男の子と母親らしき人も、同じお湯に入っていた。仲良く寄り添って景色を眺めている。
 この二人も含めて、完璧な風景だ。わけもなく、そう思った。

 脱衣場のカゴに入れておいたバスタオルで体を拭き、下着をつけた。その上から部屋のクローゼットに引っ掛かっていた簡素な浴衣を羽織り、脱衣場に備え付けのドライヤーで髪を乾かす。それから体重を計って、お互いに言い合った。五センチほど身長が高いはずの美晴のほうが、五キロも少ない。コルネリエは「美晴ちゃんが痩せすぎなだけだよ」と負け惜しみを吐く羽目になった。
 体重が重い方のおごり。そう約束をしていたので、女湯を出てすぐにあった自動販売機で、ミネラルウォーターとサイダーを買った。貴重品を脱衣場に置きっ放しにしないのは鉄則だが、二人ともにすっかり気が抜けていた。美晴も腕時計と財布を身につけている。ミネラルウォーターのペットボトルを美晴に手渡し、サイダーのキャップを開けた。一口飲むと炭酸独特の弾ける感触が広がり、風呂上がりの乾いた口内に沁みた。
「あー」
 一息つくと、美晴が笑った。
「おばさんくさいわよ、今の」
「若い奴らから見れば、とっくにおばさんだよ」
 美晴の言葉を投げやりに流す。
「この後、どうする? 部屋に戻る?」
「えっと……あれ、やってみない?」
 美晴が指差した方向には、修学旅行の学生向けだろうか、ゲームコーナーがあった。あんなに綺麗な露天風呂があれば、ゲームコーナーなんて必要ないのに。少し、不思議な気がした。でも美晴は、乗り気だった。友人としても弁護士一筋というような印象を抱く人だから、あまりこういうゲームに縁がないのかもしれない。断る理由もないので、一緒にゲームコーナーまで歩いた。
 学生時代に見たことがある、古い格闘ゲーム。定番のエアホッケーに、シューティング型の対戦ゲーム。スロットなどはなく、機械も古そうだが、種類は一通りそろっていた。自分たち以外に、ゲームをしようという人影は見当たらない。
「どれで遊ぶ?」
「朝、見掛けて、千円札崩しておいたのよね。エアホッケーからやりましょう」
 美晴はそう言うと、百円玉を数枚取り出した。子供じみた笑みも、この人なら似合う。
 円盤を相手のゴールに突っ込んだ方がポイント先取。遊んだことのない美晴に、簡単にゲームの説明をした。
 美晴は腕まくりをしてから百円玉を入れた。
 相手が待ちかまえているゴールを直接狙うより、相手の視線を左右に振らせるために、壁を使って円盤を打ちこむ方が有利だ。初めからその手を使ってゴールを決めると、美晴は納得したように何度か頷いた。そして彼女もそのやり方で打ってきた。打ち返す、美晴も打ち返す、また打ち返す。単純な作業をしている間に、少しずつ楽しくなってきた。相手のゴールに円盤を突っ込むためだけに、一生懸命腕を動かす。
「あ、今、手で止めた!」
 指を差して反則行為を咎めている間に、ゴールを決められた。十対八。こちらの、負け。下から平らな円盤を浮かせていた空気が、音もなく出なくなった。
「ずるいって最後の」
「私、ルール知らないから。……次は、あれを。協力して、ゾンビを撃つゲームみたいよ」
 美晴はコルネリエの不満に取り合わず、嬉しそうに言った。

「意外と、楽しかったわね」
 部屋へと戻るあいだ、ゲームの感想を言い合った。
「美晴ちゃん、ホッケー以外、みんな下手なんだもん」
「コルネリエが上手いのよ」
「高校生の頃、少しやってたからね」
「でも、本当に、楽しかった。あんまり、こういう場所に一緒に来るような友達がいなかったから、嬉しい。しかもこんな、若い友達と来られるなんて」
「若くないって」
 コルネリエは、照れ隠しに、笑った。十以上も歳の離れている自分に、敬語を使わないよう命じる人だ。すっかり歳の差なんて気にならなくなっていた。
「あ」
 ふと、腕時計を確認した美晴が、呟いた。
「明けましておめでとう。今年もよろしく」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 笑顔で言われ、こちらも笑顔で返した。
「部屋に戻ったら、部屋風呂で、もうひと汗だね。その後は、飲みまくる」
 美晴が今までになく楽しそうなことが、コルネリエにとっても楽しく、こんなにも気の合う人はもう二度と見つからないだろうと、改めて思った。



***



 美晴が、死んだ。ついこの間会ったばかりなのに。
 信じられないことに、悲しいと形容できる気持ちが湧きあがってこなかった。ただ、夕方のニュース番組を垂れ流すテレビを見つめていた。
 それから、サラの祖父、ロルフから電話が掛かってくるまで、何をするでもなく、普段通りの日常を送った。
 
 美晴が死んだことを知った、次の日の朝。友人の死が様々なメディアで勝手な憶測のもとに祭り上げられている事を知り苛立っていると、ロルフから電話がかかってきた。
「ふざけないでよ!」
 電話口で勝手な理屈を並び立てるサラの祖父に対し、コルネリエは怒鳴った。
「あんた、散々孫娘を良いように使ってきて、私まで利用するっていうの? もう年だからって大目に見てたけど、最近のあんたは目に余る」
 ロルフはこちらの気持ちも知らずに、今回の事は全てサラの責任で起こったことだ。憎むならサラを憎んでくれ、というような内容の電話を掛けてきた。
 確かに……確かに、美晴が危ない状況にあることを知っていて黙っていたのは許せない。許せないが、それはサラのせいではない。そうするように仕向けたロルフの責任だ。事実だけを聞いてサラのせいだと当たり散らすほど、若くはない。
「七十四の老人をあんた呼ばわりか。相変わらずだな。コルネリエ」
「放っておいて。私は怒りのぶつけどころなんて求めてない!」
「それならば、構わない。私が直接懲罰を与えることにする。そうだな……奴のくだらない判断ミスで人が死んだんだ。地下牢に閉じ込めて、どう足掻いても逃れられない苦痛を与えるのが良いか。そうすればもう、ミスをするなんて人間的なことはできなくなるだろう」
 ロルフは淡々と言った。
「待って」
 コルネリエは通話を断ち切られまいと、咄嗟に声を挟んだ。
「あんたに任せるくらいなら私がやる」
「ふむ」
 考える素振りが白々しい。結局は、ロルフに乗せられている。このジジイだけは、いくつになっても侮れない。
「そうしろ。もし少しでも明るい表情で帰ってきたら、私が罰を与えることにするよ」
 頭の中で必死に美晴の死を整理していた中で掛かってきた電話は、一方的に切れた。力を込めて、受話器を壁に向かって叩きつけた。
 抑えが利かなくなった。電話機をコードごと引っ張って床に叩きつけ、二段しかない冷蔵庫をベッドに向かって倒し、オーブントースターを鏡台にぶつけ、テーブルを窓に向かって投げつけた。
 窓ガラスの割れる音で我に返り、乱れた髪を撫でつけた。

「なにいつも通りみたいな顔して、入ってきてんの?」
 本気と受け取ってもらえる最小の力はどの程度か、加減が分からず、思い切り頬を叩いてしまった。突然の痛みに顔を顰めたサラは、よろめいた体を立て直すと、こうされるのが当然、というような雰囲気でただ、突っ立っている。少しでも明るい表情で帰させたらいけない。もう一発くらい行こうかと思っていたが、その顔を見ていたら苦しくなってきて、用意していた言葉を吐き出した。サラが幼い頃から成長を見てきているのだ。好きこのんであざなど作らせたくない。
「見殺しにしたんだってね。美晴ちゃんのこと」
 こんなことを言わされるなんて。コルネリエは、ロルフに対する怒りを抑えられず、右手を強く握った。
「他人の命よりも、自分の保身が最優先だったってわけ?」
 言うと、サラは顔を俯けた。何かをぶつぶつと呟いている。
「答えてよ! 本当に美晴は、サラのせいで死んだの? 誰が、自治区の区長を殺して喜んでるの?」
 しかしサラはもう、顔を上げなかった。俯いている人間に罵声を浴びせかけるのは、いつだって簡単だ。それから、ロルフに対する苛立ちを、サラへ言っているように変換して、一通りサラを責め立てた。
「二度とこの喫茶店に入ってこないで。入ってきたのを見たら……何をするか分からないから」
 この言葉にだけ、サラは反応して顔を上げた。見ている方が悲しくなってくるような目をしていた。ロルフは、こんな子供に、一体何をさせているのだろう。 
 サラを調理室から叩き出してからしばらく突っ立っていたが、ようやく体が動き、コルネリエはカウンター席に戻った。
 そして、ロルフへの怒りと称して言いたい放題にサラのことを責め、少しだけすっきりしている自分がいることに気づいて、自己嫌悪しか湧き上がってこなくなってきた。ロルフはきっかけに過ぎない。結局は自分が、サラを責め立てたのだ。
「コルネリエ、あんた今、サラのこと引っ叩いたろ」
 サラは帰ったようで、姿は見えない。常連客の黒沢が、カウンター席でいつものカレーを頬張っていた。もうすぐ食べ終わるらしく、スプーンと皿がぶつかる甲高い音を響かせながら、黙々とルーの部分をかき集めている。
「何、言ってるんですか。引っ叩いてなんてないですよ」
「音が聞こえた。それに、見殺しにしたなんて物騒な言葉もな」
 黒沢は、集めたルーを残ったご飯の近くに寄せ、一緒くたにして食べた。 
「そ、れは……」
「隠さなくても良いぞ。ここのカレーは、その程度のごたごたで食いに来るのを辞めるほど、替えの利く味じゃない」
「……叩きました」
「あんたの友人だったのか。矢内弁護士ってのは」
「はい」
 黒沢は最後の一口を咀嚼しつつ、言葉を繋ぐ。
 そう、友人だった。年は十一も離れていたが、敬語を使わせなかった彼女。生気のない目をしているくせに、唇の曲げ方が魅力的で、静かな笑顔を見ているだけで安心させてくれた彼女。
「世間様向けの番組じゃ、いつも挨拶をしてくれるいい人だっただの、いつも俯いていて暗かっただの、加害者と男女間のもつれがあったのかもしれないだの、勝手に言われてる。ガイシャに口無しだ」
「はい」
「元、内縁の妻ってのはあんただろ……」
「はい」
「つらいな」
「はい」
 気付けば、それしか、言えなくなっていた。
 綺麗に平らげたカレーの皿が、カウンターに置かれた。
「見る余裕ねえだろうから言っとくが、今、店ん中には俺しかいねえ。誰か来たら知らせてやっから、ちょっと裏行ってこいよ」
 黒沢はそう言うと、ポケットからいつもの三百五十円を取り出し、皿の隣に置いた。
 裏へ行く間もなく、俯いた。涙もこみ上げてきた。悔しい。まただ。あの男、あの男にまた、人生を狂わされる。それをけしかけた存在もいるということは、ロルフの言葉からも聞いて取れた。
 皆殺しにしてやりたい。美晴殺しに関係した連中を、全員。
 昨日から、何かが変だと思っていた。
「私は、悲しくなんかないんだよ。悔しいんだよ」
 黒沢は、黙っている。
「絶対殺してやる。あの野郎。一番惨たらしい方法で」
「……そいつを決めるのは裁判所の仕事だ。同情の余地のない逆恨みで二人も殺してりゃ、無期以上は確定してる」
「そんなのっ! そんなの、分かってますよ。でもこの手で殺してやらないと、気が済まないじゃないですか! 生きたままナイフで滅多刺しにされるって、どんな気持ちだと思いますか? 考えなくたって分かる。絶対、絶対、痛いに決まってますよ。なんで、あんな慰謝料を取るために、弁護士に相談なんかしたんでしょうね。馬鹿ですよね。私が黙って消えてれば、美晴ちゃんと関わらないで済んだのに。美晴ちゃんは、依頼人とも上手く付き合って、無事に退職して、老後の生活を楽しめたかもしれないのに!」
 目の前にいる人には、何の関係もないのに、言葉に熱がこもっていくのを止められない。涙が頬を伝って落ちていく。続けて、何かを喚き散らしたい衝動が沸き立つ感覚がしたが、それは、言葉にすることが出来なかった。諦めて、下を向いたまま、涙を拭いた。
 鼻をすすったり、瞬きをしたりするだけで、時間が過ぎた。
 しばらくの間そうしていたが、席を立つ気配がして、顔を上げた。席を立った黒沢は振り向きもせず、一直線に出口に向かっていく。
 意外な行動に引きずられるように、慌てて声を掛けた。声が少し涙声になって、恥ずかしかった。
「あっ……と、すいません、変なこと言って。少し、混乱して……。あ、その、また、の来店をお待ち……」
 しかし黒沢は、出て行った後すぐに戻ってきた。
「表の札を閉まってることにしてきただけだ」
「あ、そう、でしたか」
 あのまま出ていかれたら、不安で仕方がなくなっていたかもしれない。意識せずとも、安堵の言葉が、漏れた。
「いつもあんたにはうまいカレー食わせて貰ってるから、話し相手がほしいんなら、少しくらい、居てやるよ。で? 犯人を殺してやりたいってとこまで聞いたか?」
「意地、悪いですね、黒沢さん……」
「まあな」
「……カレー、おかわりしますか? お金は、要りません」
「じゃあ、貰おうか?」
 食べ残しの全くないお皿を持って、調理室に入った。カレーは作り置きしておいても平気だから、少し加熱しただけでよそうことが出来る。そこに、炊いてあるご飯を添えればすぐ、完成だ。
 黒沢は、覚えている限りでは五十半ばくらい。白髪の多い短髪で筋肉質で、夏には健康的に焼けた肌に半袖のワイシャツが似合い、冬にはよれよれのコートが似合う人だ。開店したころに、ふらっと立ち寄ってカレーを食べていった。所作がどことなく人目をはばかっているような印象がして、初めの会計の時から印象に残っていた。それから何度もカウンター席へ足を運んでくれているうちに、自然に打ち解けていった。客に順列をつけるのは気が引けるが、彼は一番の常連と公言しても差し支えないだろう。
 そのせいだ。余計な事を喋ってしまったのは。
「どうぞ」
「ありがとう」
 大きな口に、カレーが運ばれていく。手持無沙汰になったコルネリエは、カウンターの内側の席に座り、店内を見回した。別に普段と変わらない風景だ。なんとなく黒沢に視線を戻すと、彼は苦しそうにむせ始めた。何か持病の発作でも起きたのかと思い、慌てて立ち上がった。しかし彼は、右手で胸を叩きながら、左手でコップを傾ける動作をしている。コルネリエは呆れながらも調理室に急いで戻り、コップに水を注いで、またカウンターに戻って黒沢の前に置いた。黒沢はコップを引っ掴むと水を飲み下し、大きな息を吐いた。
「あー……。死ぬかと思った」
「いい年して何やってるんですか、もう。一瞬、心配したじゃないですか」
「あんたが沈んでるから、気を紛らわせてやろうとしただけだ」
「わざとには見えませんでしたよ」
「うるせぇなぁ、そういうことにしといてくれよ」
 黒沢は苦笑を浮かべて、食事を再開した。
 今ので、少しだけ気が紛れたのは確かだった。溜息を吐いて、カウンターに頬杖をついた。それから、ヴェルナーが店に来るまで、黒沢がカレーを食べる様子を、ただじっと眺めていた。



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