プロローグ ◇
一九一八年七月二十四日
第一次世界大戦末期

「このまま騎兵を突撃させても何の戦果も挙げられません。今ならばまだ間に合います。民を各軍で護衛し撤退する案を上奏してください!」
 胸部を覆うプレートアーマーをまとった赤眼の女は、日に焼けた精悍な顔を歪めて訴え出たが、食ってかかられた上官は鬱陶しげに首を横に振った。
「いったいどこへ撤退するというのだ」
「数百万を数えると言われるユダヤの民ですら各地を流浪しているのですよ? どこへなりともゆけるでしょう! 今は大戦中です、見咎められる心配はありませんっ!」
「馬鹿な事を言うな。謂れなき罪を着せられた我らが、どうして父祖伝来の地を棄て逃げなければならん。何より我らは一度たりとて下等種に敗れた事などない。これまでも、これからも」
「その過剰な自信はどこから湧いてくるのですか! せめて馬を移動目的に使い兵力の集中運用を。偵察によれば敵は鉄道を使って兵力を迅速に移送し連合国とも渡り合ってきたと……」
 上官は持っていた軍刀の柄で女の横面を打ち据えた。老獪さを滲ませた鋭い眼光も、透き通る赤だ。
「くどい。貴様が過大評価している敵は、今や連合国に押し込まれているではないか。第二陣がライフルを掻い潜り、窮乏している敵軍の補給ラインを断つ。そこからはこれまで通り、下等種を蹂躙するのみだ」
「馬鹿の一つ覚えか……」
 痛みと屈辱とを歯を食いしばって堪え、わざと上官に聞こえるように吐き捨てた。
 歳は二十に達したばかりながら、飛び抜けた才覚を発揮して重用されている女は、昨日の戦闘で瞬く間に壊滅した第十一歩兵師団の副師団長であり、そのわずかな生き残りの内の一人だった。
 一方、上官である老兵は第十一歩兵師団から第十三歩兵師団、第三騎兵師団から第六騎兵師団までを統括する第四方面軍の陸戦司令官だ。今大戦初期に主要国が開発した塹壕などの新戦術を採用せず、百年以上前から変わらない旧戦術で侵略軍に対抗する。彼の振りかざす精神論に乗せられ、緒戦で何人の僚友が命を落としたことか。
「貴様は第一陣だ。六騎に入って、緒戦で死亡した部隊長の代わりに第一大隊の指揮を執れ。既に六騎と第一大隊には伝達してある」
 第二陣を到達させるための捨て駒になれ。そう言い放った上官を睨みつけた。
 ……もう一度生きて帰ることができたら、真っ先にお前を殺してやるよ。女は上官から目を切り、黙って兵舎を後にした。だが、その願いが叶う事などないと、女は確信していた。
 決定事項だ。自分は二十年生きて、今日、死ぬ。
 小鳥がさえずるのんびりとした朝の街路を歩きながら、愛馬を残してきた近くの厩舎まで戻った。軍に入隊してから連れ添ってきた強靭な体躯の愛馬、ヴェルナーは、一番手前の区画に繋いでおいた。女は彼の名前を呼びながら近づき、頭を撫でた。嬉しそうに額を寄せてた彼に自分からも頬を寄せる。触れ合う皮膚は、温かい。
 そして女はヴェルナーから離れ、近くに置いていた頭部用のプレートアーマーを被った。この暑苦しく籠った空気を吸うのも今日が最後だ。
「死にたく、ないなあ……」
 ぽつりと呟いた女の声は、遠くで鳴る砲撃の音に掻き消された。




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