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 寝惚け眼のままオーブントースターで焼いたせいで、ものの見事にパンの表面が焦げていた。バターナイフで焦げ目を地道に削り、たっぷりとすくったマーガリンを塗ってから口に運ぶ。苦味が勝った。牛乳で流し込んで、次の一口を齧る。音だけはいい。どうにか焦げたパンを片づけた後はしばらく三脚机に突っ伏していたが、ふと良い単語を思い付いて顔を上げた。無意識に書棚を見てノートを探してしまい、溜息をついた。ひとまず浮かんだ単語のメモを未送信メールとして残しておこうと携帯電話を取り出した。
 しばらく関心を払う余裕がなく放っておいた携帯電話は、いつのまにか電源が落ちていたので、コンセントに差しっ放しだった充電器を手繰り寄せて端子を接続した。電源を入れると爽やかな起動画面のあと、ICカードの読み込み画面があり、昔のリハーサルの際に撮った写真が待受けで二日ぶりの起動を出迎えてくれた。メールが四件と、不在着信が九件。着信の方はどの欄にも『坂上沙希』とあった。私は単語のメモを手際良く終わらせ、履歴から電話番号を呼び出し発信ボタンを押した。
「あ、沙希、いま平気?」
 呼び出し音が数度鳴った後で、沙希が出た。
「ちゃんと一回目で出てよ。持ってても意味ないじゃん、出なきゃ」
「わーかってるよ。うるせぇな」
 笑みが自然に零れる。片膝を立てて布団に仰向けになった。
「あれだけしつこくかけたってことは数合わせか? 毎回断ってんだから諦めろよ」
「今日は趣向を変えて陸高と丸高の卒業生の五対五なんだよー。連絡つくのアンタだけなの。今回は本当にお願い。お願いお願いお願ーい」
「嫌」
「陸高側、ギターやってる人もくるらしいよ。インディーズだけど、そこそこ有名な。アンタもインディーズでやってるなら気が合うかもね。来て損しないって」
「へぇ」
「あれ? 珍しく食い付いた。食べてカラオケするくらいだけだからいいでしょ、決まりね。場所は口で言うの面倒だから地図撮って送る。夜七時集合」
 沙希は言いたい事だけ言って電話を切った。
 高校時代からの友人である沙希とは、バンドでの交友関係が中心になった今でも唯一行き来がある。高校の時は男子とばかり話が合い、なんとなく女子の中で敬遠されていたから、貴重な同性の友人だ。彼氏がいないときは適当にメンバーを集めて騒ぐのが趣味で、今はその時期。私は一度も沙希の彼氏探しに協力した事はないが今日は事情が違った。気分転換をしたいというのもあったし、何よりの理由は、陸高出身、インディーズでギターをやっている男。朝八時から夕方五時までのシフトを片付けた私は笑みを堪えながら、待ち合わせの店に入った。
 場所は駅前の小ぎれいな居酒屋。沙希の姿を探し出すと、その場には既に八人の男女がいた。
「久しぶり、まーちゃん」
「その呼び方、やめろ」
 今では私の事を呼び捨てにする沙希が、昔のあだ名で呼んだ。私は眉根を寄せた。下の名前は愛(まな)。漢字で書くのはどこか気恥ずかしいが、それを隠すためだけに別の名前を考えるのも馬鹿らしいのでインディーズで販売しているCDの作詞者の欄には本名で書いている。ライブ中、観客から「まなちゃーん」と冷やかされることもある。
「まーちゃん、早く上がりなよ」
 わざとらしく、沙希が呼ぶ。陸高側の見知らぬ男が笑った。男は見た目が九割という持論のある沙希が狙っていそうな顔立ち。
「バンドやってるって聞いたから気合入ったカッコしてんのかと思ったけど、落ち着いた雰囲気だね」
「あー、まぁ、バンドやるときの格好にはあんまり興味ないから」
 言いながら靴を脱ぎ、座敷に上がった。一番手前に座り、残った一人の到着を待つことにする。その間にも沙希を中心に席は盛り上がった。
 たまに飛んで来る当たり障りのない質問にも適当に答えながら、付き合いで頼んだリキュールの入ったコップに口をつけず握ったまま、妙に優しかった昨日の与田を思い出したりしながらぼうっとしていると、席替えで隣に座った男が話しかけてきた。
「沢崎サンがやってるジャンルはなに? やっぱポップス?」
「ん……ジャンルは意識したことないけど、たぶん、ロック」
「へええ、すげぇ、カッコいいね。バンドではなに担当? ギター? ベース?」
「一応、ボーカルと作詞」
 今度は向かいに座っている男が訊いてきたので答えた。酔いのまわり始めた席のあちこちから感嘆の声が上がった。私に最初に話しかけてきた男といつの間にか一対一で話せる席を確保していた沙希を一瞥して目が合うと、口角が上がった。今まで断ってきたくせに結構乗り気じゃん、とでも言いたげだ。
「ロックとかってあれでしょ、適当にそれっぽいこと言っとけばいい音楽でしょ? トレーントレーン走ってゆーけ! でしょ?」
 最初に訊いてきた男が赤い顔を近づけながら言った。酒くさい。右手で男の顎に手を添えて軽く押し、顔を遠ざけた。
「バカ、お前酔いすぎだよ」
 向かいの男がすかさずフォローに入った。
「バンドの名前教えてくれっかな。今度見に行くから」
 向かいにいた男がテーブルを回り込み、酒くさい男と私の間に割り込んだ。私は苦笑いを零した。
「見に来る程のバンドじゃないよ」
「いいよ、それでも。いまチケット持ってる?」
 食い下がった男に対して、私は「あー、なんていうか……」と口ごもってしまった。ライブを見に来てもらったりすればそのまま帰すわけにもいかず、相手にしなければならないだろう。なんとなく、その場面を与田に見られたくないような気がした。私は居酒屋の内装を無意味に見つめ、この問いから逃れるための理由を探した。
「遅ぇよ。早くしろ」
 そこで陸高側の男が一人、大仰に手招きした。
「悪い」
 ひとつだけあった空席、つまり私の目の前に座り、男が答えた。私は頬が緩むのを止められずに、その男が座った所で話しかけた。
「木戸。久しぶり!」
 普段無口で何を考えているのかよくわからない男が、驚いたように目を見開いた。

 木戸を見つけて向かいにいた男から逃れる事が出来た私は、しばらく彼と顔見知り程度のふりをして話をした後、体調不良を理由に一番最初に席を外した。「早いよ」と沙希に引き留められたが、謝りつつリキュールの代金を渡し、店外に出た。
 少し歩くと、背後から声がかけられた。
「お前、なんでいんの」
 足を止め、声の主である木戸の方を向く。
「友達に誘われて。普段は断ってるんだけど、陸高出身のギターが来るって言うからさ。思い当たるのお前くらいだし」
 私は笑った。
「それにこんな席でバンドメンバーと会うなんてかなり確率低いじゃん。木戸がどんな反応するか楽しみで」
 あの木戸が目を見開いた所を見れただけでも満足だった。物静かな木戸は、人懐っこく表情のころころ変わる及川とは対照的に思えるのだが、不思議なことに二人は息がぴったり合い、私生活でも仲が良いらしい。
「そうか」
 木戸はぽつりと呟くと、居酒屋の扉に手をかけ、店内に戻る素振りを見せた後で振り返った。
「与田か?」
 淡い光が店内から洩れて木戸の横顔を照らしている。木戸は特に表情も変えずに言ったので、私は意味を測りかねて問い返した。
「は?」
「おととい。死にそうなツラしてたから」
「な……んで与田が出てくんだよ、そこで」
 最初の一語でつっかえた。木戸が笑う。
「沢崎」
「な、何」
 右肩にかけたバッグの取っ手を、思わず握りしめた。
「及川は俺がフォローしとくから。気を付けて帰れよ」
 私は木戸が店に戻るのを見届けてから、気を取り直して歩き始めた。少しだけ息を吐く。木戸はよく観察している。今こうしてのんびりと家路につく事が出来るのは、どう考えても与田のおかげだ。思い起こすまでもなく、今朝の目覚めは穏やかだった。一昨日にはあれだけ苦しかったのに、普通にバイトをこなして、飲み会に参加して、淡々と日常をこなすことができている。これが与田のおかげでなくて何だろう。言葉に詰まったのは変に勘繰られたくなかったからだが、冗談で与田との関係を揶揄されただけでも受け答えに戸惑ってしまいそうだからというのもあった。
 途中、アパートへ近づくにつれ暗くなっていく街路に一軒だけあるコンビニへ入り、新しいノートを買った。部屋に戻ってノートを開き、一番初めの行に『作詞 沢崎愛』と書いた。もう、前のノートのことをうじうじ考えていても仕方ない。
 与田や木戸の気遣いに応えるためにも。ここから新曲、絞り出してやる。



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