8

 ファンヒーターが温めた部屋の中、お互い無言でCDを重ね続けて行く。数百枚あるCDを淡々と。だがそれは、居心地の悪い沈黙ではなかった。少なくとも私にとっては。CDは二十枚を重ねて一つの区切りとして、CDの山が十を数える頃になると、与田が大きく体を伸ばした。つられて欠伸が出そうになり、口を手で押さえた。
「こっちは一応、終わった。どこにしまえばいい?」
「ありがと。しまってくれるなら、そこの押し入れに」
 私は欠伸で浮かんだ涙を指で拭き、それから押し入れを指差した。与田がCDを抱えて立ち上がった。続いて私も最後に残ったCDを重ね、端の山から一つずつ抱えて押し入れまで運んだ。先輩のライブを見に行く二年も前、高校では軽音部に入ろうと決めた辺りから、服やバッグや菓子などに金を使わず、こつこつと中古CDショップを回って買い集めてきたらこうなってしまった。引越しやこういった片付けの際は厄介この上ない量だけれど、それでも、私にとっては十五歳からの人生を彩ってくれた物。大切にしているCDたちだ。裸足のまま押し入れの襖を蹴っ飛ばそうとして、堪えた。それをあのクソ野郎は。
「中身、全部無事でよかったな」
 数十枚を顎で支えて運んだ与田は、それらを均等に分散させて押し入れの奥の方に押した後、私のほうへ振り返った。私は痒くもない頬を掻き、「そうだね」とだけ返した。
 それから何往復かしてCDの片付けを終えた私は、布団の上に腰を下ろした。
「助かったよ」
 ジャケットを脱ぎかけていた与田に礼を言った。与田は軽く頷いたあとでジャケットを放って、机を挟んだ向こう側の畳の上に直接座った。与田のすぐ左隣には書棚が二つ並んでいる。
「で? こうなった原因は?」
 あぐらをかいた与田が真っ直ぐにこちらの目を見た。
「別に、大したことじゃないんだけど。やっぱり、聞かないほうがいいかも」
 机に肘をついて手で顎を支えた与田から、目を逸らす。
「そういうのいいから、さっさと言えって。誰かにこの状況を見て欲しくて部屋に上げたんだろ?」
「い……言いにくい、こと、だから。どう説明すればいいのかわかんない」
 動揺し、たじろいでいるのが自分でも分かった。元々、部屋に上げた時から聞いて貰うつもりではいた。つもりではいたが、いざ与田を前にしてしまうと、うまく伝えられる自信が湧いて来ない。どう言えばいいのだろう。遊びで手を出されかけた。犯されかけた。レイプされそうになった……。どれもあまり口にはしたくない。
「先輩と何かあったんだろ?」
 鋭い質問に、逸らしていた目をもう一度合わせてしまう。
「ホントにあったのかよ」
 簡単な鎌かけに引っ掛かった私は、みたび目を逸らし、溜息を吐いた。
 言うなら、ここしかない。一人で抱え込んでいてもまた、苦しくなるだけだ。
「与田、覚えてる? この間、先輩に送ってもらった日」
「覚えてる」
「信じてもらえないかもしれないけど、あの後、私、先輩に、その場の雰囲気だけで犯されかけたんだよ。頭突きかましたらやめたけど」
 煙草の押し付けられた跡の残る壁を見ながら、頭の中で記憶を再生してしまう。煙草臭い吐息。先輩の綺麗な手が、私の手首を掴んで離さなかった。気色が悪い。
「そういうこと……」
 与田は驚くでもなく、疑うでもなく、あくまで冷静に、むしろ納得したように声を漏らした。その対応に勇気づけられ、上手く口が回り始めた。
「うん。で、そのとき、混乱してたから、服を先輩の車んなかに置き忘れて。それを一昨日、先輩が届けに来た」
 信用ねえな、と言いながら、普通に。いつも通りに。
「あの馬鹿、調子乗って変な事言い出すから、ケンカんなって、思いっきりそこの三脚机ぶつけちゃって、怖くなって、逃げて、家に帰ってきたら、こうなってて」
 今まで頑張って歌詞などを書き貯めてきたノートが灰になっていて。
「そんで、その次の日に……昨日、与田が、バンドやめろとか言い出すから。参っちゃって」
 一息に言いきった私は、そこでやっと、壁から与田へと向き直ることができた。
 与田は口を開きかけた。彼が言葉を発するまでのわずかな時間なのに、先程までの居心地のいい沈黙とは正反対だった。大して気になってもいない髪の乱れを撫で付けた。ファンヒーターが部屋を暖める音だけが響く。
「それ、警察に言ったか? あいつ、メジャーデビューが再会議で決まったとか言ってたけど。潰せる。強姦未遂の話が出たら」
 ぽつりと呟いた声が、温風が吐き出される音に重なった。
「あいつ、女のコネ使ったらしいよ。再会議が開かれたのは、そいつの……彼女の、おかげなんだって。そんな切り札があるのに……彼女がいるのに、私、雰囲気で、手、出されかけたんだよ。そんなやつ信じちゃってさ、馬鹿みたいだよね」
「だから早く警察に……」
「警察に言うつもりはない。もうあいつと関わるのは嫌。逆恨み買いたくないし。時間の無駄」
「なんでだよ。言った方がいいって! ケリつけないといつまで経っても苦しいままだ」
 与田が心配してくれていることに嬉しさを覚えながらも、首を振った。
「あんまりさぁ、いじめないでくんない? いくら私だって人並みに怖さは感じる。あいつから、メジャーっていう大事な"おもちゃ"を取り上げたらって考えると……ね」
 他人の想いが詰まったノートを平然と焼き捨てられる未発達の心の持ち主が、マイクという"おもちゃ"を握って遊んでいる。とても大切にしているおもちゃを突然、取り上げられた子供は地団駄を踏んで泣き喚き、叫ぶだろう。それを体格だけは一人前のあいつに置き換えれば、やはり恐怖は感じてしまう。
「けど、言わないと沢崎が傷を負って終わりじゃねえか。あいつにも、それなりの傷は負わせないと釣り合わない」
「与田は。他人事だからそんな風に言えるんだよ」
 与田の言い回しから、怖いと思っている自分がただの臆病者のように感じられ、苛立ち紛れに言葉をぶつけてしまった。与田はようやく黙り込んだが、言ってからすぐに後悔した。溜息が零れる。この部分では絶対に譲れないのも確かだったが、話を聞いてもらっておいてその態度はないんじゃないのか、と自分で自分を問い詰めたくなった。
 一旦落ち着こう。空になった深底の皿と片手鍋を持って立ち上がり、台所に向かった。水道にそれらを置いて、隅にあるやかんに水を汲み、点火したガスコンロの上に置く。水道近くの三段チェストにしまってあるインスタントティーの小袋を二つ摘まみ、器具の支えで立てかけられたまな板の、手前の辺りへ放った。
「紅茶、飲む?」
「飲む」
 その声を受け、二枚の皿と片手鍋をそれぞれ水で濯いでからスポンジで洗う。乾燥機がないため、ふきんでしっかり拭いたあと、皿を元あった場所にしまい、反対に黄色と緑の無地のプラスチックコップを二つ掴んだ。片手鍋は一旦、二つあるコンロの右側によけた。コップを置くと流し台の端に手をついて、下を向いた。鈍色のステンレスに、無数の水滴が付着している。そこでも思い出してしまう。あの綺麗な人差し指にはめられていた、鈍く光るリング。舌打ちした。疲れた、と小さく小さく呟いてもみる。それからは、流し台に手をついたまま目をつぶって、やかんを炙る炎の音をじっと聞いた。沸騰の予兆の掠れた音が聞こえ始めたところで、顔を上げる。コンロのスイッチを回して止めた。インスタントティーの小袋の先についている紐だけコップの外へ出し、そこへお湯を注ぐ。
 味が沁み出す適当な時間を見計らって小袋の紐を掴んで引き上げ、そのままゴミ箱へ放り投げた。水滴が床に飛び散ったが気にせず、コップを両手に居間へ戻る。携帯電話をいじっていた与田が顔を上げ、それをポケットに戻した。三脚机にコップを置くと、与田は黄色を取った。私は緑のコップに口をつける。沸騰する前に止めたから、ちょうどいい温度だ。小さな三脚机に向かい合った私と与田は、少しのあいだ黙って紅茶をすすった。
「結構本読むんだな。書棚、二つもあんのに空きが少ない」
 隣にある書棚の方へ首を曲げた与田はそう言って、紅茶をまたすすった。書棚には音楽関連のものもあるが、様々な分野の新書や小説などが多い。
「柄じゃないか」
 私は軽く笑った。
「まぁでも、語彙の引き出しは多いから、どっちかっていうと納得」
「いつもダメ出しばっかするのに?」
「もっといいものが出来るって思ってるから追い込むんだよ。実際、追い込むといいのが上がってくる」
「趣味わる……」
 今度は与田が笑った。趣味は悪いが、言いたいことも言えずに慣れ合いになるよりは、いいものが作れる。与田と組んでいてよかったと感じる事の方が圧倒的に多い。
「かもな」
 与田は書棚を眺めるのをやめ、紅茶の残りを飲み干した。
「もう警察の事はいいや。どうしようが沢崎の自由だし。で、この間の歌詞なんだけど」
「ごめん、まだ」
「や、謝らなくていい。今回は事情が事情だから。俺が事務所の人に説明しておく。沢崎が精神的に参ってて、とかなんとか適当に。先輩の事は出さないから」
「ありがとう。そうしてくれると助かる」
「この間の修正途中の歌詞のデータは残ってるか?」
「パソコンだけじゃなくて、ノートも燃やされちゃったから、残ってない。ごめん」
「だぁから、謝んなよ。ないなら俺の手元にある紙からデータ起こして送るから。明日あたり、パソコンのメールで。あ、携帯は壊されてないんだよな?」
「うん。大丈夫」
 私が答えると、与田は軽く頷いてから立ち上がり、脱いでいたジャケットを着直した。
「じゃ、長居してもあれだし、そろそろ帰るわ」
「あ、うん。わかった。おかゆ、わざわざありがとう」
 壁掛け時計は、いつの間にか四時十分を指していた。少し名残惜しさを感じながらも、玄関に向かって歩き出した与田の後ろをついていった。片手鍋をコンロの上から持ち上げた与田は、その流れで玄関に降りて靴を履いた。
「与田」
 私は木製の扉に手をかけた与田に声をかけた。
「今日も、昨日も、ほんとに、ありがとう。真剣に聞いてくれて嬉しかった」
「先輩がまた何かしてきたら、言えよ」
 振り返り、目を合わせて言った与田が、なんだか頼もしく見えた。
「カッコつけんな」
 私は赤くなった顔を隠すように背を向け、居間へ戻った。後ろで与田が軽く笑い、そのあと、玄関が閉まる音が聞こえた。その音がすると再び玄関を振り向き、与田のいたその場所をしばらく黙って見つめていた。




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